そう老人が言ったように、お通は今にいたる一年間、幽閉されたこの一軒家にいて、涙に、口に、またなりふりに、心中のその苦痛を語ったことは絶えてなく、身なりを整え、正しく慎む様子には、ほとんど測り知れないものがあったのである。
しかし、ひとたび大盤石が根底から覆ると、小石が転がるようなものではない。
三昼夜、麻畑の中に潜伏して、ひとたび彼女に逢うため、一粒の飯さえ口にせず、却ってワラジムシの餌食となっている意中の人の困窮には、泰山といえども動かずにはおかないほど、お通は動転したのである。
「そんなに解っているのなら、ちょっとの間、大目に見ておくれ」
と前後も忘れて手足をばたつかせるが、伝内はいささかも手をゆるめず、
「はて、きき分けのねえ、どういうものだね」
お通は涙にむせいりながら、
「ええ、きき分けがなくってもいいよ、お放し、放しなってば、放しなよう」
「どうしてもきかなけりゃ、うぬ、ふん縛って、動かさねえぞ」
と伝内は大声で叱りつけた。
実に、近藤は執着の果て、女に自分への節操を尽くさせるか、終生空閨を守らせ、自分は一分もその傍におらずに、なおよく節操を保たせるのでなければ、自分に貞であるとはいえないとした。
初めからお通が自分を嫌っているのは、蛇や蠍よりもはなはだしいのを知りながら、まるで彼女に取り憑いたかのように、行動すべてに付きまとって、ついにお通と謙三郎とのすでに成立した恋を破り、自分はその生贄を得ていたにもかかわらず、従兄妹同士の恋愛がいかに強いかを知ってから、嫉妬のあまり、肉欲を抑え、婚姻当初の夜から同衾しないだけでなく、一度も来て妻を見たことがない。
その一軒家での幽閉の番人として、この老人を選んだのである。
お通はやむなく死力を出して、瞬時伝内と争ったが、風にも堪えないかよわい女の、つらさに痩せた体で、どうして力強い腕に敵うことができるだろう。
たやすく奥に引っ立てられて、そのままそこに押し据えられた。
たとえどのような手段でも、とうていこの老人を自分に忠実にさせることはできないとお通は判断した。
激昂の反動はいたく彼女を落胆させて、お通は張りもなくくず折れつつ、吐息をついて、悲しげに、
「じいや、世話を焼かすねえ。堪忍しておくれ、よう、じいや」
と身を持て余すかのように、ひじを枕に寝倒れた身体は、綿のように疲れてぐったりとしている。
伝内はこの一言を聞くと同時に、窪んだ両眼に涙を浮かべ、その場を少し退いて腕を組み、拳を握って何も言わない。
鐘音が遠く、夜は更けた。
あたりが静寂に包まれたとき、門の戸をかすかに叩いて、
「通ちゃん、通ちゃん」
と二声呼ぶ。
お通はその声を聞くやいなや、弾かれたように飛び起きて、しっかりと片膝を立てていたが、伝内の眼に遮られて、答えることができなかった。
戸外では言葉が途絶え、中を窺う気配であったが、
「通ちゃん、これだけしても、逢わせないから、仕方がないと諦めるが・・・」
息も絶えそうに途絶え途絶え、隙間を洩れて聞こえると、お通は居ずまいを整えて、畳に両手をつきつつ、行儀正しく聞いていた背中が震え、髪が揺らいだ。
「実はね、叔母さんが、言うから、仕方がないように、言っていたけれど、逢いたくって。実はね、私が」
と言いかけたとき、犬が二、三頭高く吠えて、謙三郎を囲んだのだろうか、シッ、シッと追うのが聞こえた。
さらに低まった声音が、風のない夜半に弱々しく、
「実はね、叔母さんに無理を言って、逢わねばならないようにしてもらいたかった。だからね、私にどんなことがあろうとも、叔母さんが気にかけないように」
という折しも、すさまじく大戸にぶつかる音がした。
「あ、痛」
と謙三郎が叫んだのは、足を咬まれたか、手を引っ掻かれたか、犬の毒牙にかかったのではないか。
あとは途切れて言葉がないので、お通は生きた心地もせず、思わず立って駆け出したが、肩肘を厳めしく構えた伝内を一目見て、蒼くなって立ちすくんだ。
これを見、あれを聞いていた伝内は、どうしたのか、つっと身を起して土間に下り立ち、早くも掛金に手をかけた。
「ええ、た、た、たまらないねえ、一か八かだ、逢わせてやれ」
とがたりと大戸を引き開けたとたん、犬がいて、さっと退いた。
駆け寄るお通を伝内は身をもって謙三郎から隔てつつ、謙三郎がよろめきながら中に入ろうと焦るのを遮り、
「うむや、そう易々とは入れねえだ。旦那様の言いつけで三原伝内が番するうちは、敷居も跨がすこっちゃねえ。どうしても入るなら、俺を殺せ。さあ、すっぱりと抉らっしゃい。ええ、何をぐずぐず、もうお前様方のように思い詰めりゃ、これ、人一人殺されねえこたあないはずだ。俺、はあ、自分で腹ぁ突いちゃあ、旦那様に済まねえだ。済まねえだから、死なねえだ、死なねえうちは邪魔するだ。この邪魔者を殺さっしゃい、七十になるじじいだ、殺し惜しくもねえでないか、さあ、やらっしゃい。ええ! 埒があかぬ」
と両手で襟を押し開けて、のけぞりざま喉仏を示したのを、謙三郎は瞬きもせず、しばらく見詰めていたが、銃剣が閃き、闇を切って、
「失敬!」
という声もろとも、喉に白刃を刺された瞬間、伝内ははたと倒れた。
同時に中に入ろうとした謙三郎は、敷居につまずき、土間に両手をつきざまにうつ伏せになって起き上がりもしない。
お通はまるで狂気のように謙三郎に取りすがって、
「謙さん、謙さん、私ゃ、私ゃ、顔が見たかった!」
と肩に手をかけ、膝に抱いた折から、靴音、軍刀がすれあう響き。
五、六名がどやどやと入ってきて、意識もない謙三郎をお通の手から奪いとり、有無を言わせず引っ立てると、ああ、とばかりにはね起きたまま、茫然として立っているお通が、歯を食いしばり、瞳を据えて、よろよろと倒れかかった。
その肩を支え、腕をつかんで、
「うぬ、どうするか、見ろ、ふとい奴だ」
これは婚姻の当夜以来、お通がまだ一度も聞いたことがなかった、怒りを鬱積させた夫の声であった。
(つづく)
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