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  • 「まちこの香箱(かおりばこ)」
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森鴎外「文づかひ」 3

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

                 *

王都ドレスデンの中央でエルベ川を横切る鉄橋の上から望むと、城通りに跨っている王宮の窓が、今夜はことさら光り輝いている。

私も数に洩れず、今日の舞踏会に招かれたので、アウグスツスの大通りに余って列をなした馬車の間をすり抜け、いま玄関に横づけにした一両から下りた貴婦人が、毛皮の肩掛けを随身に渡して車の中にしまわせ、美しく結い上げた金髪とまぶしいほど白い襟足を露わにして、車の扉を開けた剣を帯びている警備の者を振り返りもせずに入ったあとで、その乗っていた車はまだ動かず、次に待っている車もまだ寄せない間合いをはかり、槍を持って左右に並んでいる熊毛の軍帽の近衛兵の前を過ぎ、赤い敷物を一直線に敷いている大理石の階段を上った。

階段の両側のところどころには、黄羅紗に緑と白の縁を取った制服を着て、濃紫の袴をはいた男が、うなじをかがめて瞬きもせずに立っている。

昔はここに立つ人がおのおの手燭を持ったものだが、今は廊下や階段にガス灯を用いることになって、その習慣はなくなった。

階上の広間からは、古風な吊り燭台のろうそくの火が遠く光の波を漲らせ、数知れない勲章、肩章、女性の衣装の飾りなどを射て、先祖代々の肖像画の間に挟まれた大鏡に照り返されているのは、言葉にすれば平凡になってしまう。

式武官が突く金色の房がついた杖が、パルケットという寄木細工の床に触れてとうとうと鳴り響くと、ビロード張りの扉が一斉に音もなくさっと開いて、広間の中央に一筋の道が自然と開かれ、今夜の六百人という客が、皆「く」の字型に体を曲げ、背の中ほどまでも開けて見せている貴婦人のうなじ、金糸の縫い模様のある軍人の襟、またブロンドの高い髷などの間を王族の一行がお通りになる。

先頭には昔ながらの巻き毛の大きなかつらをかぶった舎人が二人、続いて両陛下、ザクセン・マイニンゲンの皇太子夫妻、ワイマール、ショオンベルヒの両公子、これに主な女官数人がしたがっている。

ザクセン王宮の女官は醜いという世間の噂は本当で、いずれも顔立ちがよくないうえに、人生の春まですでに過ぎた者が多く、中には老いて皺が寄り、肋骨が一本一本と数えられる胸を、式なので隠せもせずに出しているのなどを額越しに見ているうちに、心待ちしたその人は来ずに、一行はもう終わろうとしている。

そのとき、まだ若い女官が一人、男のようにゆったりと歩いてくるのを、そうかそうでないかと仰ぎ見ると、これこそイイダ姫だった。

王族が広間の上座にご到着になって、国々の公使やその夫人などがこれを囲むと、予めステージ上に控えている狙撃連隊の楽人が打ち鳴らす太鼓とともに、ポロネーズという舞踏が始まった。

これはただ各々が右手に相手の女性の指をつまんで、この部屋を一周するのだ。

列の先頭は、軍装をした国王が紅衣のマイニンゲン夫人を引き寄せ、続いて黄絹の裾の長いドレスを召した王妃に並んだのはマイニンゲンの公子だった。

わずか五十組ばかりの列が一周し終えたとき、王妃は冠の印がついた椅子に掛けて、公使の夫人たちを側にお寄せになったので、国王は向かいの座敷にあるトランプ遊びをする机のほうへお移りになった。

このとき本当の舞踏が始まって、大勢の客が立ち混めている中央の狭いところを、たいそう巧みに回り歩くのを見ると、多くは少壮士官が女官たちを相手にしているのだ。

メエルハイムの姿がないのはどうしてかと思ったが、なるほど近衛以外の士官はおおかた招かれないのだったと気づいた。

ところで、イイダ姫の踊る様子はどうかと、芝居でひいきの俳優を見る心地でじっと見ていると、胸に本物の薔薇の花を枝のまま着けているほかに、飾りといえるものは一つもない水色絹のドレスの裾が、狭い空間をすり抜けながら撓まない輪を描いて、ダイヤモンドの露を散りばめた他の貴人の重そうな服を圧倒していた。

時が移るにつれて、ろうそくの火は次第に煙に冒されて暗くなり、溶けたろうが長くしたたって、床の上にはちぎれた薄絹、落ちた花びらがある。

前座敷のビュッフェに通う足がようやく頻繁になったおり、私の前を通り過ぎるようにして、小首を傾けた顔をこちらに振り向け、半ば開いた舞扇にあごのあたりを乗せて、

「私をもう見忘れてしまわれましたか?」

と言うのはイイダ姫だ。

「どうして忘れましょう」

と答えつつ、二、三歩近づいていくと、

「あちらの陶器の間はご覧になりましたか? 東洋産の花瓶に知らない草木鳥獣などを染めつけたものを、私に解釈する方はあなた以外にいらっしゃいません、さあ」

と言って伴っていった。

ここは四方の壁に造り付けた白石の棚に、代々の王が美術に関心があって収集なさった国々の大花瓶を、数える指の暇がないほど並べているが、乳のように白いもの、瑠璃のように碧いもの、または蜀の錦の極彩色をしたものなどが、陰になっている壁から浮き出て美しい。

だが、この王宮に慣れた客人たちは、今夜これに関心を寄せるはずもないので、前座敷を行き交う人がときどき見えるだけで、足を留める者はほとんどなかった。

淡い緋色の地に同色の濃い唐草模様を織り出した長椅子に、姫は水色絹のドレスの上品な大襞が、舞踏の後ながら少しも崩れないのを、体をひねって横向きに折って腰かけ、斜めに中の棚の花瓶を扇の先で指して、私に語りはじめた。

「もう昨年のこととなりました。思いがけずあなたを手紙の使者にして、お礼を申しあげる機会も得られなかったので、私のことをどう思っていらっしゃったでしょう。でも、私を苦悩の境地から救い出してくださったあなたを、心の中では片時も忘れておりません」

「近頃、日本の風俗を書いた本を一、二冊買わせて読んだところ、お国では親が結ぶ縁があって、本当の愛を知らない夫婦が多いと、こちらの旅人が卑しむように記したものがありましたが、これはまだよくも考えない言葉で、同じことはこのヨーロッパにもなくはないでしょうか。婚約するまでの交際が長く、お互いに心の底まで知り合う意義は、否とも諾とも言えることにあるのでしょうに、貴族の間では早くから目上の人に決められた男女が、気が合わなくても断る方法がないので、日々顔を合わせて嫌な気持ちがどこまでも募ったとき、相手に添わせる習慣です。まったく不合理な世の中だわ」

「メエルハイムはあなたの友人です。悪いといえば弁護もなさるでしょう。いいえ、私にしても、あの真っ直ぐな気持ちを知り、容貌のよさを見る目がないわけではないけれど、何年も交際したすえ、胸に埋み火ほどの温まりも生じません。嫌うと増すのはあちらの親切ばかりで、両親が許した交際の手前、腕を貸されることもありましたが、二人だけになったときは、家でも庭でもどうしようもなく憂鬱に思われて、何気なく溜息をつかれても、頭が熱くなるほど我慢できなくなりました。なぜとお尋ねにならないで。それを誰が知るでしょう。恋をするのは恋するからこそ恋するのだと聞きますが、嫌うのもまたそうなのでしょう」

「あるとき、父の機嫌がよいのを見計らって、この苦しさを言い出そうとしましたが、私の様子を見て半分も言わせません。『世に貴族として生まれた者には、身分卑しい者のようにわがままな行動は、思いも寄らないことだよ。血統を守る権利の犠牲は、人間としての権利なのだ。私も老いたが、人の情を忘れてしまったなどとは、決して思わないでくれ。向かいの壁に掛けている私の母君の肖像を見てごらん。心もあの顔のように厳しく、私に浮気めいた心を起こさせなさらず、人生の楽しみは失ってしまったが、数百年の間、卑しい血の一滴混ぜたことがない家の名誉は救ったよ』と、いつもの軍人風の言葉つきが荒々しいのとは違う優しさに、前々からああ言おう、こう答えようと考えた計略は、胸にたたんだままでめぐらすこともできず、ただ気持ちばかり弱くなってしまいました」

「もとより父に向かっては返す言葉を知らない母に、この気持ちを打ち明けてどうなるでしょうか。でも、貴族の子に生まれたといっても、私も人間です。忌々しい門閥や血統が、迷信の土くれと見破ったうえは、私の胸の中に投げ入れられるところはありません。卑しい恋に身をやつせば、姫君の恥ともなるでしょうが、この習慣の外に出ようとするのを誰が支えてくれるでしょう。カトリックの国には尼になる人がいるといいますが、ここプロテスタントのザクセンではそれもなりません。そうよ、あのローマ・カトリックの寺院と同じく、礼を知って情を知らない宮中が私の墓穴なのよ」

「わが家もこの国で聞こえた一族なので、いま勢力のある国務大臣ファブリイス伯とは、姻戚関係を重ねています。今回のことも表から願い出れば、さぞ簡単だろうと思いましたが、それが叶わないのは、父君のお心が動かしがたいからだけではありません。私は生まれつきの性分として、人とともに嘆き、人ともに笑い、愛憎二つの目で長く見られることを嫌うので、このような望みをあの人に伝え、この人に言い継がれて、あるときは諌められ、あるときは勧められるような煩わしさを我慢できません。ましてメエルハイムのように思慮が浅い人に、イイダ姫が嫌って避けようとしているなどと、自分一人だけに関わることのように思われるのは口惜しいでしょう。私からの願い出と人に知られず、宮仕えする手立てがあればと思い悩んでいるとき、この国を少しの間の宿として、私たちを路傍の岩や木などのように見ることもできるあなたが、心の底にゆるぎない誠意をお持ちだと知って、以前から私を愛おしんでくださっているファブリイス夫人への手紙を、ひそかにお頼みいたしました」

「けれでも、この一件のことは、ファブリイス夫人も心に秘めて、一族にさえお知らせにならず、女官の欠員があるので、しばらくの務めにといって呼び寄せ、陛下のご希望を無視できないといって、やっと留められました」

「世の中の波に漂わされて、泳ぐ術を知らないメエルハイムのような男は、私を忘れようとして白髪を生やすこともないでしょう。ただ痛ましいのは、あなたがお泊りになった夜、私のピアノの手を止めた少年です。私が発った後も、夜な夜なともづなを私の窓の下に繋いで寝ていたのが、ある朝、羊小屋の扉が開かないのに気づいて、人々が岸辺に行ってみると、波が空っぽの舟を打って、残っていたのは枯れ草の上にある一本の笛だけだったと聞きました」

語り終わったとき、夜十二時の時計がはっきりと鳴って、もう舞踏全体が終わりとなり、王妃がお休みになる時間なので、イイダ姫は慌しく席を起って、こちらへ差し伸ばした右手の指に私の唇が触れたとき、隅の観兵の間に設けている夜食に急ぐ客人が、群がってここを過ぎた。

姫の姿はその間に混じり、次第に遠ざかっていって、ときどき人の肩の隙間に見える。

今日の晴れ着の水色だけが名残だった。

(おわり)

森鴎外「文づかひ」 2

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

                 *

私たちがまだ温もらないベッドを降りて、窓の下の小机で向き合い、煙草を燻らしていると、先の笛の音がまた窓の外に起こって、途絶えたり続いたりし、鶯のひなが試し鳴きをするようだ。

メエルハイムは咳払いして語りだした。

「十年ばかり前のことだろう。ここから遠くないブリヨーゼンという村に哀れな孤児がいた。六つ七つのとき流行の病で両親とも亡くなったが、みつくちでたいそう醜かったので、心配する者がなく、ほとんど飢える寸前だったが、ある日パンの乾燥したのはあるかと、この城へもらいに来た。その頃、イイダ嬢は十歳ほどだったが、可哀相に思って食べ物を与えた。おもちゃの笛があったのを与えて、『これを吹いてみて』と言うが、みつくちなのでくわえられない。イイダ嬢は、『あの見苦しい口を治してあげて』とむずかって止まない。母である夫人が聞いて、幼い者が心優しく言うのだからと、医師に縫合させなさった」

「そのときから、あの少年は城に留まって、羊飼いとなったが、いただいたおもちゃの笛を離さず、後には自ら木を削って笛を作り、ひたすら吹く稽古をするうち、誰も教える者はないが、自然にああいう音色を出すようになった」

「一昨年の夏、私が休暇をいただいてここに来ていた頃、城の一族が遠乗りしようと出かけたが、イイダ嬢の白馬がとりわけ速く、私だけがついていったおり、狭い道の曲がり角で、枯れ草をうずたかく積んだ荷車にあった。馬は怯えて跳びあがり、姫は辛うじて鞍に堪えている。私が助けに行こうとするのを待たず、傍の草の山の裏で、あっと叫ぶ声がすると聞く間に、羊飼いの少年が飛ぶように駆け寄り、姫の馬のくつわをしっかりと握って押し鎮めた。この少年が牧場の暇さえあれば、見え隠れに自分のあとを慕って追うのを、姫はこのときから知って、人をやって物を与えたりはなさったが、どういうわけか目通りを許されず、少年も姫がたまたま会っても、言葉をおかけにならないので、自分を嫌っていらっしゃると知り、果ては自ら避けるようになったが、今も遠くから見守ることを忘れず、好んで姫が住んでいる部屋の窓の下に小舟を繋いで、夜も枯れ草の中で眠っている」

聞き終わって眠りに就く頃は、東の窓のガラスがもう薄暗くなって、笛の音も絶えていたが、この夜、イイダ姫が夢に現れた。

その乗っている馬が見る見る黒くなるのを、怪しく思ってよく見ると、人の顔でみつくちだ。

だが、夢の中では、姫がこれに乗っているのが普通のことのように思われて、しばらくまた眺めていると、姫と思ったのはスフィンクスの首で、瞳のない目を半ば開いている。

馬と見たのは、前足をおとなしく並べている獅子だ。

そうして、このスフィンクスの頭の上には、オウムが止まって、私の顔を見て笑う様子がたいそう憎らしい。

翌朝起きて、窓を押し開けると、朝日の光が向こう岸の林を染め、そよ風はムルデの川面に細かい波紋を描き、水に近い草原には一群れの羊がいる。

萌黄色のキッテルという上っ張りが短く、黒い脛を出している、背がきわめて低い少年が、ぼさぼさの赤毛を振り乱して、手に持った鞭をおもしろそうに鳴らした。

この日は朝のコーヒーを部屋で飲み、昼頃、大隊長とグリンマというところの狩猟愛好家の会堂に行って、演習をご覧にいらっしゃった国王の宴に与れるはずなので、正服を着て待っていると、主人の伯爵が馬車を貸して石段の上まで見送ってくれた。

私は外国士官ということで、将官、佐官だけが集まる今日の会に招かれたが、メエルハイムは城に残った。

田舎ながら、会堂は思いのほかに美しく、食卓の器は王宮から運んできたといって、純銀の皿、マイセンの陶器などがある。

この国の焼き物は、東洋のものを手本にしたというが、染め出した草花などの色は、我が国などのものに似ても似つかない。

だが、ドレスデンの王宮には、陶器の間というものがあって、中国、日本の花瓶の類がおおかた備わっているというのだ。

国王陛下には、いま初めて謁見する。

優しい容貌の白髪の老人で、ダンテの『神曲』を独訳なさったというヨハン王の子孫だからだろうか、応対がたいそう巧みで、

「我がザクセンに日本の公使が置かれるおりは、いまのよしみで、あなたが来るのを待とう」

などと親しくおっしゃる。

我が国では、古いよしみがある人だからといって、公使が選ばれるような例はなく、こういう任に当たるには、別に履歴がなくては不可能なことをご存じないのだろう。

ここに集まった将校百三十余人の中で、騎兵の服を着ている老将官の、きわめて魁偉な容貌の人が、国務大臣ファブリイス伯だった。

夕暮れに城に帰ると、少女たちの笑いさざめく声が、石の門の外まで聞こえる。

車を停めるところへ、早くもなついた末の姫が走ってきて、

「姉君たちがクロケットの遊びをなさるから、あなたも仲間に入りませんか?」

と私に勧めた。

大隊長が、

「姫君の機嫌を損ねたもうな。私一個人にとっては、服を着替えて休むほうがいい」

と言うのを後ろに聞いてついて行くと、ピラミッドの下の庭園で姫たちはもう遊びの最中だ。

芝生のところどころに鉄の弓を伏せて差し込み、靴の先で押さえている五色の玉を、小槌を振って横向きに打ち、あの弓の下を潜らせると、上手な者は百に一つも失わないが、下手な者は誤って足など打ったと言って慌てふためく。

私も正服に帯びた剣を解いてこれに混じり、打っても打っても、球があらぬほうへばかり飛ぶのが残念だ。

姫たちが声をあわせて笑うところへ、イイダ姫がメエルハイムの肘に指先を掛けて帰ったが、打ち解けていると思う様子も見えない。

メエルハイムは私に向かって、

「どうだ、今日の宴は面白かったか」

と問いかけて答えを待たず、

「私も仲間に入れてください」

と皆のほうへ歩み寄った。

姫たちが顔を見合わせて笑い、

「遊びにはもう飽きたわ。姉君とご一緒にどちらへいらっしゃったの?」

と尋ねると、

「見晴らしのいい岩角のあたりまで行きましたが、このピラミッドには及びません。小林君は明日、私の隊とともにムッチェンのほうへお発ちになるから、君たちの中で一人、塔の頂上へ案内し、粉挽き車の向こうに汽車の煙が見えるところをお見せになりませんか」

と言った。

口が早い末の姫もまだ何とも答えない間に、

「私が」

と言ったのは、思いもかけないイイダ姫だ。

口数が少ない人の習慣で、突然出した言葉とともに、顔をさっと赤らめたが、もう先に立って誘うので、私はいぶかりながらもついて行った。

あとには姫たちがメエルハイムの周りに集まって、

「夕食までにおもしろい話を一つ聞かせてください」

と迫っていた。

この塔は庭園に向いたほうに窪んだ階段を作り、その頂上を平らにしているので、階段を上り下りする人も、頂上に立っている人も、下からはっきりと見えるので、イイダ姫が平然と自ら案内すると言ったのも、深く怪しむに足りない。

姫がとんとんと走るように塔の上り口に行って、こちらを振り返ったので、私も急いで追いつき、石段を先に立って踏みはじめた。

一足遅れて上ってくる姫が息が迫って苦しそうなので、何度も休んで、ようやく上に着いてみると、ここは思いのほかに広く、周囲に低い鉄の手すりを作り、中央に大きな切石を一つ据えている。

いまや私は下界を離れたこの塔の頂上で、昨日ラーゲヴィッツの丘の上からはるかに初対面したときから、不思議に心を引かれて、卑しい物好きでもなく、好色な気持ちでもないが、夢に見、現に思う少女と差し向かいになった。

ここから望めるザクセン平野の景色がどんなに美しくても、茂った林もあれば、深い淵もあるだろうと思われる、この少女の心には敵わないだろう。

険しく高い石段を上ってきて、紅潮した顔の色がまだ褪せないのに、まぶしいほどの夕日の光に照らされて、苦しい胸を鎮めるためだろうか、この頂上の中央にある切石に軽く腰かけ、あのものを言う瞳を厳しく私の顔に注いだときは、普段は見映えしなかった姫だが、先に珍しい空想の曲を奏でたときにもまして美しいのに、どういうわけか、墓の上に刻まれた石像に似ていると思われた。

姫は言葉せわしく、

「あなたのお心を知ってのお願いがあるのです。こう言うと、昨日初めて会って言葉もまだ交わさないのに、どうしてと怪しまれるでしょう。でも、私は軽々しく迷っているのではありません。あなたは演習が済んでドレスデンにいらっしゃれば、王宮にも招かれ、国務大臣のお館にも迎えられるでしょう」

と言いかけ、服の間から封をした手紙を取り出して私に渡し、

「これを人知れず、大臣の夫人に届けてください。人知れず」

と頼んだ。

大臣の夫人はこの姫の伯母にあたり、姉君までその家に嫁いでいらっしゃるというのに、初めて会った外国人の助けを借りるまでもないことだろうし、またこの城の人に知られまいということならば、秘かに郵便にしてもよいだろうに、こう用心して稀有な行動をなさるのをみると、この姫は気が狂っているのではないだろうかと思われた。

だが、それはほんのしばらくのことだった。

姫の目はよくものを言うだけでなく、人の言わないこともよく聞いていたのだろう。

言い訳のように言葉を継いで、

「ファブリイス伯爵夫人が私の伯母なのは、聞いていらっしゃるでしょう。私の姉もあちらにいますが、彼女にも知られないのを願って、あなたの助けをお借りしたいと思っているのです。ここの人への気遣いだけならば、郵便もあるでしょうが、それさえ一人で外出することが稀な身では、難しいことを思いやってください」

と言うので、なるほど事情があることなのだろうと思って承諾した。

入日は城門に近い木立から虹のように洩れているが、川には霧が立ち込めて、おぼろげになる頃に塔を下りると、姫たちはメエルハイムの話を聞き終わって私たちを待ち受け、連れ立って新たに灯火を輝かせている食堂に入った。

今夜はイイダ姫が昨日と変わって、楽しそうにもてなすので、メエルハイムの顔にも喜びの色が見えていた。

明朝、ムッチェンのほうに向かってここを発った。

秋の演習はそれから五日ほどで終わり、私の隊はドレスデンに帰ったので、私はゼー・ストラーゼにある館を訪ねて、先にフォン・ビュロオ伯の娘イイダ姫に誓ったことを果たそうとしたが、もとより現地の習慣では、冬になって交際の時節が来ないうちに、このような貴族に会うことは容易ではなく、隊付きの士官などの通常の訪問というのは、玄関の傍の一部屋に案内されて、名簿に記入することなので、思うばかりで果たせなかった。

その年も隊務が忙しいうちに暮れて、エルベ川上流の雪解けで、蓮の葉のような氷塊が緑の波に漂うとき、王宮の新年は華々しく、足元が危ないロウ磨きの寄木細工の床を踏み、国王の御前に近く進んで、正服が麗しい立ち姿を拝見した。

それから二、三日が過ぎて、国務大臣フォン・ファブリイス伯の夜会に招かれ、オーストリア、バヴァリア、北アメリカなどの公使の挨拶が終わって、人々が氷菓子に匙を下ろす暇を覗い、伯爵夫人の傍に歩み寄り、事情を手短に述べて、首尾よくイイダ姫の手紙を渡した。

一月中旬に入って、昇進任命などを受ける士官とともに、奥のお目見えを許され、正服を着て王宮に参り、人々と輪状に一部屋に立って臨御を待っていると、背が曲がりよろけている式武官に案内されて王妃がお出ましになり、式武官に名を言わせて、一人ひとりに言葉をかけ、手袋を外した右手の甲にキスをおさせになる。

王妃は黒髪で背が低く、褐色のご衣装があまり見映えしない代わりに、声音はたいそう優しく、

「あなたはフランス戦で功があった、あの方の一族ですか」

などと親しくおっしゃるので、いずれも嬉しく思うに違いない。

したがって来た式の女官は、奥の入口の敷居の上まで出て、右手に畳んだ扇を持ったままで直立している。

その姿は非常に気高く、鴨居と柱を枠にしている一枚の画のようだった。

私は思わずその画を見たが、この女官はイイダ姫だった。

ここにはそもそも、どうして。

(つづく)

森鴎外「文づかひ」 1

森鴎外「文づかひ」(初出:『新著百種』明治24年1月)の現代語訳です。

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

                 *

ある皇族が催された星が岡茶寮でのドイツ会で、洋行帰りの将校が順を追って自分の体験を語ったときのことであったが、今夜は君の話を聞けるはずだ、殿下も待ちかねていらっしゃるからと促され、まだ大尉になって間もないと見える小林という少壮士官が、口にくわえた煙草を取って火鉢の中へ灰を振り落として語り始めた。

私がザクセン軍に配されて、秋の演習に行ったおり、ラーゲヴィッツ村の周辺で、対抗戦はすでに終わって仮想敵を攻めるべき日となった。

小高い丘の上に、まばらに兵を配置して敵に見立て、地形の起伏、木立、田舎家などを巧みに盾に取って、四方から攻め寄せる様子が珍しい壮観だったので、近郷の住民がここかしこに群れをなし、中に混じった少女たちの黒いビロードの胸当てが晴れの場らしく、小皿を伏せたような縁の狭い笠に草花を挿しているのも面白いと、携えた双眼鏡で忙しくあちらこちらを見回すと、向かいの岡にいる一群が際立って奥ゆかしく感じられた。

九月初めの秋の空は、今日に限ってこの地方に稀な藍色になり、空気が透きとおっているので、残すところなく鮮やかに見えるこの一群の中央に、馬車を一両留めさせて、若い貴婦人が何人か乗っているから、さまざまな服の色が互いに映えて、花や錦が集まっているように華やかで、立っている人の腰帯、座っている人の帽子の紐などを風がひらひらと吹きなびかせている。

その傍で馬に乗っている白髪の老人は、角ボタンで留めた緑の狩猟服に、薄い褐色の帽子をかぶっているだけだが、何となく由緒がありそうに見える。

少し下がって白馬を控えている少女に、私の視線はしばらく留まった。

鋼鉄色の乗馬服を裾長に着て、白い薄絹を巻いている黒い帽子をかぶった姿勢は気高く、いま向こうの森陰から、群れをなして出てきた騎兵や歩兵の勇ましさを見ようとして人々が騒いでも、振り返らない様子は心憎い。

「異なる方角に心を留めているものだな」

と言って軽く私の肩を叩いた長い八字髭が明るい色の少壮士官は、同じ大隊の本部に配属されている中尉で、男爵フォン・メエルハイムという人だ。

「あそこにいるのは私の知り合いのデウベン城の主・ビュロオ伯の一族だ。本部の今夜の宿はあの城に決まったから、君も彼らと交際する機会があるだろう」

と言い終わったとき、騎兵や歩兵が徐々にこちらの左翼に迫るのを見て、メエルハイムは駆け去った。

この人と私がつきあい始めて、まだそれほど長くもないが、善い性格と思われた。

攻め寄せる軍勢が丘の下まで進んで、今日の演習が終わり、例の審判も終わったので、私はメエルハイムとともに大隊長の後ろについて今夜の宿へ急いだが、中高に造った舗装した道が美しく、切り株が残った麦畑の間をうねって、ときどき水音が耳に入るのは、木立の向こうを流れるムルデ川に近づいているのだろう。

大隊長は四十三、四歳と思われる人で、髪はまだ深い褐色を失っていないが、その赤い顔を見ると、もう額の皺が目立っている。

質朴なので言葉は少ないが、二言三言目には、「私一個人にとっては」と断る癖がある。

急にメエルハイムのほうへ向いて、

「君の婚約者が待っているだろう」

と言った。

「お許しください、少佐。私にはまだ婚約者というものはおりません」

「そうなのか。私の言葉を悪く取らないでくれ。イイダ嬢を、私一個人にとってはそう思っていたのだ」

こう二人が話す間に、道はデウベン城の前に出た。

庭園を囲んでいる低い鉄柵を左右に結んだ砂の道が一直線に伸び、その終点に古びた石の門がある。

入ってみると、白槿の花が咲き乱れている奥に、白亜に塗った瓦葺の高い建物がある。

その南のほうに高い石の塔があるのは、エジプトのピラミッドに倣って造ったとわかる。

今夜の宿泊を知って出迎えた、揃いの制服を着た使用人に案内されて、白い石段を上っていくとき、庭園の木立を洩れる夕日が朱のように赤く、石段の両側にうずくまっている人首獅身のスフィンクスを照らした。

初めて入るドイツ貴族の城の様子はどうだろう。

先に遠く望んだ馬上の美人はどんな人なのだろうか。

これらもみな解けきれない謎だろう。

四方の壁と丸天井には鬼神や竜蛇がさまざまな形を描き、トルーヘという長櫃のようなものをところどころに据え、柱には獣の首の彫刻、古代の盾、刀槍などを掛けつらねた部屋をいくつか過ぎて、上階に案内された。

ビュロオ伯は、普段着と思われるたいそう寛いだ黒の上着に着替えて、伯爵夫人とともにここにおり、かねて知った仲なので大隊長と快さそうに握手し、私も引き合わせて、胸の底から出るような声で自ら名乗り、メエルハイムには、

「よくぞお越しになった」

と軽く会釈した。

夫人は伯爵より老いて見えるほど動作が重いが、心の優しさが目の色に出ている。

メエルハイムを傍に呼んで、何やらしばらく囁いているので、伯爵が、

「今日はさぞ疲れただろう。退出して休みなさい」

と使用人に部屋へ案内させた。

私とメエルハイムは、一つ部屋で東向きだ。

ムルデ川の波は窓の真下の礎を洗って、向かいの岸の草むらは緑がまだ褪せていない。

その後ろの柏の林に夕靄がかかっている。

流れは右手のほうで折れ、こちらの陸が膝頭のように出ているところに田舎家が二、三軒あって、真っ黒な粉挽き車の輪が中空に聳え、左手のほうには水に臨んで突き出している高い建物の一部屋がある。

このバルコニーのようなところの窓が、見ているうちに開いて、少女の頭が三つ四つ、折り重なってこちらを覗いたが、白馬に乗っていた人はいなかった。

軍服を脱いで手洗い鉢の傍へ寄ろうとしたメエルハイムは、

「あそこは若い女性たちの居間だ。悪いが、その窓の戸を早く閉めてくれ」

と私に頼んだ。

日が暮れて食堂に招かれ、メエルハイムとともに行くおり、

「この家には若い姫たちが多いことだな」

と尋ねた。

「もとは六人いたが、一人は私の友人のファブリイス伯に嫁ぎ、残っているのは五人だ」

「ファブリイスとは国務大臣の家ではないか」

「そうだ。大臣の夫人はここの主人の姉で、私の友人というのは大臣の長男だ」

食卓に就いてみると、五人の姫たちは皆、思い思いに装っており、いずれも美しいが、上の一人が上着もスカートも黒を着ている様子を珍しいと見ると、これが先ほど白馬に乗っていた人なのだった。

ほかの姫たちは日本人が珍しく、伯爵夫人が私の軍服をお褒めになる言葉の尾に付いて、

「黒い地に黒い紐がついているから、ブラウンシュワイヒの士官に似ているわ」

と一人が言えば、桃色の顔をした末の姫が、

「そう似てもいないわ」

とまだあどけなくも軽蔑の色を隠せないで言うと、皆が可笑しさに堪えられずに、赤らめた顔をスープを盛った皿の上に伏せたが、黒い服の姫は睫毛さえ動かさなかった。

しばらくして幼い姫が、先の罪をあがなおうと思ったのか、

「でも、この人の軍服は上も下も黒だから、イイダはお好きでしょう」

と言うのを聞いて、黒い服の姫が振り向いて睨んだ。

この目は常に遠くのほうにばかり彷徨うようだが、ひとたび人の顔に向かっては、言葉にもまして心を表した。

いま睨んださまは、笑みを浮かべて叱ったらしい。

私はこの末の姫の言葉で、先に大隊長がメエルハイムの婚約者だろうと言ったイイダ嬢とは、この人のことだと知った。

そう気づいてみると、メエルハイムの言葉も振る舞いも、この姫を敬愛していると見えなくはない。

さては、この仲はビュロオ伯夫妻も認めていらっしゃるのだろう。

イイダという姫は背が高く痩せていて、五人の若い貴婦人のうち、この姫だけは髪が黒い。

そのよくものを言う目を除いては、ほかの姫たちにまさって美しいと思うところもなく、眉間にはいつも少し皺がある。

顔色が蒼く見えるのは、黒い服のためだろうか。

食事が終わって次の部屋に出ると、ここは小さい座敷のようなところで、軟らかい椅子、ソファなどの脚がきわめて短いものを多く置いている。

ここでコーヒーのもてなしがある。

給仕の男が、小さいグラスに焼酎の類をいくつか注いだものを持ってくる。

主人のほかには誰も取らず、ただ大隊長だけは、

「私一個人にとっては、シャルトリョオズを」

と言って一息に飲んだ。

このとき、私が立った背後の薄暗いほうで、

「一個人、一個人」

と怪しい声で呼ぶものがあるので、驚いて振り向くと、この部屋の隅には大きな針金の鳥籠があって、その中のオウムが、かねて聞いたことがある大隊長の言葉をまねたのだった。

姫たちが、

「まあ、嫌な鳥ね」

とつぶやくと、大隊長自身も声高に笑った。

主人は大隊長と煙草を吸って、狩猟の話をしようと小部屋のほうへ行ったので、私は先ほどからこちらを見つめて、珍しい日本人にもの言いたげな末の姫に向かって、

「この賢い鳥はあなたのですか」

と微笑みながら尋ねた。

「いいえ、誰のとも決まっていないけど、私もかわいいと思っているの。少し前までは鳩をたくさん飼っていたけど、あまり馴れてまつわりつくのをイイダがすごく嫌ったので、みんな人にあげてしまったわ。このオウムだけは、なぜかあの姉君を憎んでいるのがたまたま幸いして、今も飼われているの。そうじゃない?」

とオウムの方に首を差し出して言うと、姉君を憎むという鳥は、曲がった嘴を開いて、

「そうじゃない? そうじゃない?」

と繰り返した。

この隙にメエルハイムはイイダ姫の傍に近寄って、何かを頼んだが、渋って引き受けなかったので、伯爵夫人も言葉を添えられると見えたが、姫はさっと立ってピアノに向かった。

使用人が忙しく燭台を左右に立てると、メエルハイムは、

「どの譜面をお持ちしましょう」

と楽器の傍の小テーブルに歩み寄ろうとしたが、イイダ姫は、

「いいえ、譜面はなくても」

と言っておもむろに下ろす指先が鍵盤に触れると、金石を打つような冴えた響きをたてた。

演奏が複雑になるにつれて、朝霞のような色が、姫の頬のあたりに現れてきた。

ゆるやかに長い水晶の数珠を作るように澄んだ音が続くときは、ムルデ川もしばらく流れを止めるようで、切迫して刀槍が一斉に鳴り響くような鋭い音を立てるときは、昔、旅人を脅かしたこの城の先祖も、百年の夢を破られるだろう。

ああ、この少女の心は、いつも狭い胸の内に閉じ込められて、言葉となって表れる方法がないので、その繊細な指先からほとばしり出るのだろうか。

ただ感じる、弦の声の波がこのデウベン城を漂わせて、人も自分も浮いたり沈んだりして流れていくのを。

曲がまさにたけなわになって、この楽器の内に隠れたさまざまな弦の鬼が、一人ずつ限りない怨みを訴え終わり、いまや一斉に泣き叫ぶようなとき、不思議なことに城外に笛の音が起こって、たどたどしくも姫のピアノに合わせようとする。

夢中になって弾いているイイダ姫は、しばらく気づかずにいたが、あの笛の音がふと耳に入ったらしく、急に演奏を乱して、ピアノも砕けるような音をさせ、席を起った顔はいつもより蒼かった。

姫たちが顔を見合わせて、

「またみつくちが愚かなことをしているわ」

とささやくうちに、外の笛の音は絶えた。

主人の伯爵が小部屋から出て、

「気が変になりそうなイイダの即興は、いつものことで珍しくないが、君はさぞ驚かれただろう」

と私に謝った。

絶えた笛の音が私の耳にはまだ聞こえて、呆然として部屋へ戻ったが、今夜見聞きしたことに心を奪われて眠ることもできない。

床を並べたメエルハイムを見ると、彼もまだ起きていた。

聞きたいことは多くあるが、さすがに憚るところもなくはないので、

「先の怪しい笛の音は誰が吹いたものか知っているのか」

とだけ言うと、男爵はこちらを向いて、

「それについては、ひとくだりの話がある。私も今夜はなぜか眠れないから、起きて話して聞かせよう」

と承諾した。

(つづく)