森鴎外「文づかひ」 3
以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。
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王都ドレスデンの中央でエルベ川を横切る鉄橋の上から望むと、城通りに跨っている王宮の窓が、今夜はことさら光り輝いている。
私も数に洩れず、今日の舞踏会に招かれたので、アウグスツスの大通りに余って列をなした馬車の間をすり抜け、いま玄関に横づけにした一両から下りた貴婦人が、毛皮の肩掛けを随身に渡して車の中にしまわせ、美しく結い上げた金髪とまぶしいほど白い襟足を露わにして、車の扉を開けた剣を帯びている警備の者を振り返りもせずに入ったあとで、その乗っていた車はまだ動かず、次に待っている車もまだ寄せない間合いをはかり、槍を持って左右に並んでいる熊毛の軍帽の近衛兵の前を過ぎ、赤い敷物を一直線に敷いている大理石の階段を上った。
階段の両側のところどころには、黄羅紗に緑と白の縁を取った制服を着て、濃紫の袴をはいた男が、うなじをかがめて瞬きもせずに立っている。
昔はここに立つ人がおのおの手燭を持ったものだが、今は廊下や階段にガス灯を用いることになって、その習慣はなくなった。
階上の広間からは、古風な吊り燭台のろうそくの火が遠く光の波を漲らせ、数知れない勲章、肩章、女性の衣装の飾りなどを射て、先祖代々の肖像画の間に挟まれた大鏡に照り返されているのは、言葉にすれば平凡になってしまう。
式武官が突く金色の房がついた杖が、パルケットという寄木細工の床に触れてとうとうと鳴り響くと、ビロード張りの扉が一斉に音もなくさっと開いて、広間の中央に一筋の道が自然と開かれ、今夜の六百人という客が、皆「く」の字型に体を曲げ、背の中ほどまでも開けて見せている貴婦人のうなじ、金糸の縫い模様のある軍人の襟、またブロンドの高い髷などの間を王族の一行がお通りになる。
先頭には昔ながらの巻き毛の大きなかつらをかぶった舎人が二人、続いて両陛下、ザクセン・マイニンゲンの皇太子夫妻、ワイマール、ショオンベルヒの両公子、これに主な女官数人がしたがっている。
ザクセン王宮の女官は醜いという世間の噂は本当で、いずれも顔立ちがよくないうえに、人生の春まですでに過ぎた者が多く、中には老いて皺が寄り、肋骨が一本一本と数えられる胸を、式なので隠せもせずに出しているのなどを額越しに見ているうちに、心待ちしたその人は来ずに、一行はもう終わろうとしている。
そのとき、まだ若い女官が一人、男のようにゆったりと歩いてくるのを、そうかそうでないかと仰ぎ見ると、これこそイイダ姫だった。
王族が広間の上座にご到着になって、国々の公使やその夫人などがこれを囲むと、予めステージ上に控えている狙撃連隊の楽人が打ち鳴らす太鼓とともに、ポロネーズという舞踏が始まった。
これはただ各々が右手に相手の女性の指をつまんで、この部屋を一周するのだ。
列の先頭は、軍装をした国王が紅衣のマイニンゲン夫人を引き寄せ、続いて黄絹の裾の長いドレスを召した王妃に並んだのはマイニンゲンの公子だった。
わずか五十組ばかりの列が一周し終えたとき、王妃は冠の印がついた椅子に掛けて、公使の夫人たちを側にお寄せになったので、国王は向かいの座敷にあるトランプ遊びをする机のほうへお移りになった。
このとき本当の舞踏が始まって、大勢の客が立ち混めている中央の狭いところを、たいそう巧みに回り歩くのを見ると、多くは少壮士官が女官たちを相手にしているのだ。
メエルハイムの姿がないのはどうしてかと思ったが、なるほど近衛以外の士官はおおかた招かれないのだったと気づいた。
ところで、イイダ姫の踊る様子はどうかと、芝居でひいきの俳優を見る心地でじっと見ていると、胸に本物の薔薇の花を枝のまま着けているほかに、飾りといえるものは一つもない水色絹のドレスの裾が、狭い空間をすり抜けながら撓まない輪を描いて、ダイヤモンドの露を散りばめた他の貴人の重そうな服を圧倒していた。
時が移るにつれて、ろうそくの火は次第に煙に冒されて暗くなり、溶けたろうが長くしたたって、床の上にはちぎれた薄絹、落ちた花びらがある。
前座敷のビュッフェに通う足がようやく頻繁になったおり、私の前を通り過ぎるようにして、小首を傾けた顔をこちらに振り向け、半ば開いた舞扇にあごのあたりを乗せて、
「私をもう見忘れてしまわれましたか?」
と言うのはイイダ姫だ。
「どうして忘れましょう」
と答えつつ、二、三歩近づいていくと、
「あちらの陶器の間はご覧になりましたか? 東洋産の花瓶に知らない草木鳥獣などを染めつけたものを、私に解釈する方はあなた以外にいらっしゃいません、さあ」
と言って伴っていった。
ここは四方の壁に造り付けた白石の棚に、代々の王が美術に関心があって収集なさった国々の大花瓶を、数える指の暇がないほど並べているが、乳のように白いもの、瑠璃のように碧いもの、または蜀の錦の極彩色をしたものなどが、陰になっている壁から浮き出て美しい。
だが、この王宮に慣れた客人たちは、今夜これに関心を寄せるはずもないので、前座敷を行き交う人がときどき見えるだけで、足を留める者はほとんどなかった。
淡い緋色の地に同色の濃い唐草模様を織り出した長椅子に、姫は水色絹のドレスの上品な大襞が、舞踏の後ながら少しも崩れないのを、体をひねって横向きに折って腰かけ、斜めに中の棚の花瓶を扇の先で指して、私に語りはじめた。
「もう昨年のこととなりました。思いがけずあなたを手紙の使者にして、お礼を申しあげる機会も得られなかったので、私のことをどう思っていらっしゃったでしょう。でも、私を苦悩の境地から救い出してくださったあなたを、心の中では片時も忘れておりません」
「近頃、日本の風俗を書いた本を一、二冊買わせて読んだところ、お国では親が結ぶ縁があって、本当の愛を知らない夫婦が多いと、こちらの旅人が卑しむように記したものがありましたが、これはまだよくも考えない言葉で、同じことはこのヨーロッパにもなくはないでしょうか。婚約するまでの交際が長く、お互いに心の底まで知り合う意義は、否とも諾とも言えることにあるのでしょうに、貴族の間では早くから目上の人に決められた男女が、気が合わなくても断る方法がないので、日々顔を合わせて嫌な気持ちがどこまでも募ったとき、相手に添わせる習慣です。まったく不合理な世の中だわ」
「メエルハイムはあなたの友人です。悪いといえば弁護もなさるでしょう。いいえ、私にしても、あの真っ直ぐな気持ちを知り、容貌のよさを見る目がないわけではないけれど、何年も交際したすえ、胸に埋み火ほどの温まりも生じません。嫌うと増すのはあちらの親切ばかりで、両親が許した交際の手前、腕を貸されることもありましたが、二人だけになったときは、家でも庭でもどうしようもなく憂鬱に思われて、何気なく溜息をつかれても、頭が熱くなるほど我慢できなくなりました。なぜとお尋ねにならないで。それを誰が知るでしょう。恋をするのは恋するからこそ恋するのだと聞きますが、嫌うのもまたそうなのでしょう」
「あるとき、父の機嫌がよいのを見計らって、この苦しさを言い出そうとしましたが、私の様子を見て半分も言わせません。『世に貴族として生まれた者には、身分卑しい者のようにわがままな行動は、思いも寄らないことだよ。血統を守る権利の犠牲は、人間としての権利なのだ。私も老いたが、人の情を忘れてしまったなどとは、決して思わないでくれ。向かいの壁に掛けている私の母君の肖像を見てごらん。心もあの顔のように厳しく、私に浮気めいた心を起こさせなさらず、人生の楽しみは失ってしまったが、数百年の間、卑しい血の一滴混ぜたことがない家の名誉は救ったよ』と、いつもの軍人風の言葉つきが荒々しいのとは違う優しさに、前々からああ言おう、こう答えようと考えた計略は、胸にたたんだままでめぐらすこともできず、ただ気持ちばかり弱くなってしまいました」
「もとより父に向かっては返す言葉を知らない母に、この気持ちを打ち明けてどうなるでしょうか。でも、貴族の子に生まれたといっても、私も人間です。忌々しい門閥や血統が、迷信の土くれと見破ったうえは、私の胸の中に投げ入れられるところはありません。卑しい恋に身をやつせば、姫君の恥ともなるでしょうが、この習慣の外に出ようとするのを誰が支えてくれるでしょう。カトリックの国には尼になる人がいるといいますが、ここプロテスタントのザクセンではそれもなりません。そうよ、あのローマ・カトリックの寺院と同じく、礼を知って情を知らない宮中が私の墓穴なのよ」
「わが家もこの国で聞こえた一族なので、いま勢力のある国務大臣ファブリイス伯とは、姻戚関係を重ねています。今回のことも表から願い出れば、さぞ簡単だろうと思いましたが、それが叶わないのは、父君のお心が動かしがたいからだけではありません。私は生まれつきの性分として、人とともに嘆き、人ともに笑い、愛憎二つの目で長く見られることを嫌うので、このような望みをあの人に伝え、この人に言い継がれて、あるときは諌められ、あるときは勧められるような煩わしさを我慢できません。ましてメエルハイムのように思慮が浅い人に、イイダ姫が嫌って避けようとしているなどと、自分一人だけに関わることのように思われるのは口惜しいでしょう。私からの願い出と人に知られず、宮仕えする手立てがあればと思い悩んでいるとき、この国を少しの間の宿として、私たちを路傍の岩や木などのように見ることもできるあなたが、心の底にゆるぎない誠意をお持ちだと知って、以前から私を愛おしんでくださっているファブリイス夫人への手紙を、ひそかにお頼みいたしました」
「けれでも、この一件のことは、ファブリイス夫人も心に秘めて、一族にさえお知らせにならず、女官の欠員があるので、しばらくの務めにといって呼び寄せ、陛下のご希望を無視できないといって、やっと留められました」
「世の中の波に漂わされて、泳ぐ術を知らないメエルハイムのような男は、私を忘れようとして白髪を生やすこともないでしょう。ただ痛ましいのは、あなたがお泊りになった夜、私のピアノの手を止めた少年です。私が発った後も、夜な夜なともづなを私の窓の下に繋いで寝ていたのが、ある朝、羊小屋の扉が開かないのに気づいて、人々が岸辺に行ってみると、波が空っぽの舟を打って、残っていたのは枯れ草の上にある一本の笛だけだったと聞きました」
語り終わったとき、夜十二時の時計がはっきりと鳴って、もう舞踏全体が終わりとなり、王妃がお休みになる時間なので、イイダ姫は慌しく席を起って、こちらへ差し伸ばした右手の指に私の唇が触れたとき、隅の観兵の間に設けている夜食に急ぐ客人が、群がってここを過ぎた。
姫の姿はその間に混じり、次第に遠ざかっていって、ときどき人の肩の隙間に見える。
今日の晴れ着の水色だけが名残だった。
(おわり)
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