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  • 「まちこの香箱(かおりばこ)」
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森鴎外「うたかたの記」 3

   下

変わりやすい空で雨が止み、学校の庭の木立の揺れるのだけが、曇った窓ガラスを通して見える。

少女の話を聞く間、巨勢の胸では、さまざまな感情が戦っていた。

あるときは昔別れた妹に会った兄の気持ちになり、あるときは廃園で倒れたヴィーナスの像に、独り悩んでいる彫刻家の気持ちになり、あるときはまた妖婦に心を動かされ、罪を犯すまいと戒めている修行僧の気持ちにもなったが、聞き終わったときは、胸が騒ぎ、体が震えて、思わず少女の前に跪こうとした。

少女は急に立って、

「この部屋の暑いこと。もう校門も閉められる頃でしょうけど、雨も上がりました。あなたとなら、恐ろしいこともありません。一緒にスタルンベルヒへいらっしゃいませんか?」

と傍の帽子を取ってかぶった。

その様子は巨勢が同行することをまったく疑わないようだ。

巨勢はただ母に引かれる幼児のようについて行った。

門の前で馬車を拾って走らせると、ほどなく停車場に着いた。

今日は日曜だが、天気が悪かったからだろうか、近郷から帰る人も少なく、ここはたいそう静かだ。

新聞の号外を売る女性がいる。

買って見ると、国王がベルヒの城に移って、容体が穏やかなので、侍医グッデンも護衛を緩めさせたとある。

汽車の中には、湖畔で避暑をする人の、買い物で首府に出た帰りらしいものが多い。

王の噂で持ちきりだ。

「まだホーエンシュヴァンガウの城におられたときと違って、お心が落ち着いたようだ。ベルヒに移られる途中、ゼースハウプトで水を求めて飲みなさったが、近くにいた漁師らを見て、優しくうなずくなどしなさった」

と訛った言葉で語るのは、買い物籠を手に提げた老女だった。

汽車で走ること一時間、スタルンベルヒに着いたのは夕方の五時だ。

徒歩で行ってやっと一日ほどのところだが、もうアルプスの近さをただ何となく感じて、この曇りがちの空模様でも、胸を開いて息ができる。

汽車があちこちと迂回してきた丘陵の急に開けたところに、広々と見えるのは湖水だ。

停車場は西南の隅にあって、東岸の林や漁村は夕霧に包まれて微かに見えるが、山に近い南の方は果てしなく見渡せる。

少女に案内されて、巨勢が右手の石段を登ってみると、ここはバヴァリアの庭というホテルの前で、屋根のない場所に石のテーブル、椅子などを並べているが、今日は雨の後なので、しんとして人気も少ない。

黒い上着に白の前掛けをしたウエイターが、何か呟きながらも、テーブルに倒しかけた椅子を起こして拭いている。

ふと見ると片側の軒にそって、蔦蔓をからませた棚があり、その下の円卓を囲んでいるグループ客がいる。

彼らはこのホテルに泊まっている人々に違いない。

男女が混じった中に、先日の夜、カフェ・ミネルヴァで見た人がいたので、巨勢は行って話しかけようとしたが、少女が押しとどめて、

「あそこにいるのは、あなたがお近づきになるような人々じゃありません。私は若い男性と二人で来たけれど、恥ずべきはあちらであって、こちらじゃないわ。彼は私を知っているから、ご覧なさい、いつまでも座っていられないで隠れるはずよ」

とだけ言ったが、果たして、その美術学生は立ってホテルに入った。

少女がウエイターを呼び寄せて、座敷船はまだ出航するかと聞くと、ウエイターは飛び行く雲を指さして、この不安定な空模様では、もう出ないだろうと言う。

ならば、馬車でレオニに行きたいとことづけた。

馬車が来たので二人は乗った。

停車場の傍から東の岸辺を走らせた。

このとき、アルプス下ろしがさっと吹いてきて、湖水の方に霧が立ち込め、いま出てきたあたりを振り返って見ると、次第に鼠色になって、家の棟、木の頂だけがひときわ黒く見えた。

御者が振り返って、「雨だ。幌で覆いましょうか」と聞く。

「いいえ」と答えた少女は巨勢に向かって、

「心地いい遠足だわ。昔、私が命を失おうとしたのも、命拾いをしたのも、この湖の中です。だから、お近づきになりたいと思ったあなたに、本心を打ち明けてお聞かせするのもここでと思って、こうしてお誘いしました。カフェ・ロリアンで恥ずかしい目にあったとき、救ってくださったあなたとまた会いたいという思いを支えにして、何年経ったことでしょう。先日の夜、ミネルヴァであなたのお話を聞いたときの嬉しかったこと。日頃、木の端などのようにつまらなく思っている美術学生の仲間になっているので、人を馬鹿にして不敵な振る舞いをしましたが、はしたないとご覧になったでしょうか。でも、人生はそう長くありません。嬉しいと思う一瞬に口を大きく開けて笑わないと、後でくやしく思う日もあるでしょう」

こう言いながら、かぶった帽子を脱ぎ捨て、こちらへ振り向いた顔は、白い大理石に熱い血が躍るようで、風に吹かれる金髪は、首を振って長くいなないている駿馬のたてがみのようだった。

「今日よ、今日よ。昨日があっても何をするの。明日も、あさっても空しい名だけ、虚しい声だけよ」

このとき、二つ三つ大きい雨粒が車上の二人の服を打ったが、瞬く間に激しくなって、湖上からの横しぶきが荒々しくかかって、紅潮した少女の片頬に打ちつけるのをそっと覗く巨勢の心は、ただ茫然となっていくばかりのようだ。

少女は伸び上がって、

「御者さん、心づけはあげるわ。速く走って。鞭を当てて、もう一度」

と叫んで、右手に巨勢のうなじを抱き、自分はうなじを反らせて空を仰ぎ見た。

巨勢は綿のように柔らかい少女の肩に自分の頭をあずけ、ただ夢心地でその姿を見ていたが、あの凱旋門上の女神バヴァリアがまた胸に浮かんだ。

国王が住んでいるというベルヒ城の下に来た頃は、雨がいよいよ激しくなって、湖水の方を見渡すと、吹き寄せる一陣の風が濃淡の縦縞を織り出して、濃いところでは雨が白く、淡いところでは風が黒い。

御者が車を停めて、

「ちょっとの間です。あまりに濡れてお客さんも風邪を引かれましょう。それに古びてはいても、この車をひどく濡らすと、主人の怒りをかいます」

と言って、手早く幌で覆い、また鞭を当てて急いだ。

雨はなお間断なく降って、雷が恐ろしく鳴り始めた。

道は林の間に入って、この国の夏の日はまだ高い頃なのに、木の下の道は薄暗くなった。

夏の日に蒸されていた草木の雨に潤った香りが車の中に吹き込むのを、喉の渇いた人が水を飲むように、二人は吸った。

雷鳴の絶え間に、恐ろしい天気に怯えているとも見えないナイチンゲールが、玉のように美しい声を振りたてて何度となく鳴いたのは、寂しい道を独り行く人が、わざと歌うようなものだろうか。

このときマリイは両手を巨勢のうなじに組んで、体重を持たせかけていたが、木陰を洩れる稲妻に照らされた顔を見合わせて微笑んだ。

ああ、二人は我を忘れ、乗っている馬車を忘れ、馬車の外の世界も忘れていただろう。

林を出て坂道を下っていくと、風が群雲を払い去って、雨もまた止んだ。

湖の上の霧は、重ねた布を一枚、二枚と剥ぐように、わずかの間に晴れて、西岸の人家も手に取るように見える。

ただ、あちこちの木陰を過ぎるたびに、梢に残る露が風に払われて落ちるのを見るだけだ。

レオニで馬車を降りた。

左に高く聳えているのは、所謂ロットマンの岡で、「湖上第一勝」と書かれた石碑が建っているところだ。

右に音楽家レオニが開いたという、湖水を臨む酒屋がある。

巨勢の腕に両手をからめて、すがるようにして歩いた少女は、この店の前に来て岡の方を振り返った。

「私が雇われたイギリス人が住んでいたのは、この半腹の家でした。老いたハンスル夫妻の漁師小屋も、もう百八十メートルほどです。あなたをそこへお連れしようと思ってきたのに、胸騒ぎがして仕方ないから、この店で休憩したいわ」

巨勢は同意して、店に入って夕食を注文すると、「七時でないと整いません。まだ三十分お待ちいただかないと無理です」と言う。

ここは夏の間だけ客のあるところで、給仕人もその年ごとに雇うので、マリイを知る者もなかった。

少女は急に立って、桟橋に繋いだ舟を指さした。

「舟の漕ぎかたは知っていらっしゃる?」

「ドレスデンにいたとき、公園のカロラ池で漕いだことがある。うまいというほどではないが、あなた一人をお乗せするほどのことはできるでしょう」

「庭の椅子は濡れているわ。それでも屋根の下は暑すぎます。しばらく乗せて漕いでください」

巨勢は脱いだ夏外套を少女に着せて小舟に乗せ、自分は櫂を取って漕ぎ出した。

雨は止んだが、空はまだ雲っているので、もう岸の向こうは暮れてきていた。

先の風に揺られた名残か、櫂を叩くような波がまだあった。

岸に沿ってベルヒの方へ漕ぎ戻すうちに、レオニの村落を外れるあたりに来た。

岸辺の木立が絶えたところに、砂地の道が次第に低くなって、波打ち際に長椅子を置いているのが見える。

葦の茂みに舟が触れて、さわさわと音がしているとき、岸辺に人の足音がして、木の間から現れた姿がある。

身長は百八十センチに近く、黒い外套を着て、手にすぼめた蝙蝠傘を持っている。

左手に少し下がって随っているのは、鬚も髪も雪のような老人だった。

前の人はうつむいて歩いてきたので、つばの広い帽子に顔が隠れて見えなかったが、いま木の間を出て湖水の方に向かい、しばらく立ち止まって、片手に脱いだ帽子を持って顔を上げたのを見ると、長い黒髪を後ろに流して広い額を出し、顔色は灰のように蒼いのに、窪んだ目の光は人を射るようだった。

舟では、巨勢の外套を背中に掛け、うずくまっていたマリイが、これも岸にいる人を見ていたが、このとき急に驚いたように、「彼は王よ」と叫んで立ち上がった。

背中の外套は落ちている。

帽子は先に脱いだまま酒屋に置いて出てきたので、乱れた金髪は白い夏服の肩に柔らかくかかっている。

岸に立っているのは、まさに侍医グッデンを引きつれて、散歩に出ている国王だった。

妖しい幻の形を見るように、王は恍惚として少女の姿を見ていたが、急に一声「マリイ」と叫び、持っている傘を投げ捨てて、岸の浅瀬を渡ってきた。

少女は「あっ」と叫びながら、そのまま気を失って、巨勢の助けようとする手がまだ届かないうちに倒れたが、傾く舟が一揺れすると同時に、うつ伏せになって水に落ちた。

湖水はこのあたりで次第に深くなって、傾斜は緩やかだったので、舟が停まっていたあたりも、水深は百五十センチ足らずだろう。

しかし、岸辺の砂はだんだん粘土混じりの泥となっているので、王の足は深く入り込んで、不自由に足掻いている。

その隙に随っていた老人は、これも傘を投げ捨てて追いすがり、老いても力は衰えていなかったのか、水を蹴って二歩三歩と、王の襟首をしっかりと握って引き戻そうとする。

王は引っ張られまいとするので、外套が上着とともに老人の手に残った。

老人はこれを払い捨てて、なおも王を引き寄せようとするが、王は振り返って組みつき、両者は互いに声さえ立てず、しばらく揉み合った。

これはただ一瞬のことだった。

巨勢は少女が落ちるとき、辛うじてスカートをつかんだが、少女が葦の間に隠れた杭で胸を強く打って沈もうとするのをようやく引き揚げ、水際の二人が争うのを後にして、もと来た方へ漕ぎ返した。

巨勢はただ何としても少女の命を助けようと思うだけで、他のことを考える暇がなかったのである。

レオニの酒屋の前に来たが、ここへは寄らず、ここから百八十メートルほどだと聞いた漁師夫妻の小屋を目指して漕いでいくと、日はもう暮れて、岸には柏や榛の木などの枝が繁茂しあって広がり、水は入り江の形をして、葦に混じった水草に白い花が咲いているのが、夕闇に微かに見えた。

舟には乱れた髪が泥水にまみれたうえに、藻屑がかかって倒れている少女の姿がある、誰が哀れと思わないだろう。

折しも漕いでくる舟に驚いてか、葦の間を離れて岸の方へ高く飛んでいく蛍がいる。

ああ、これは少女の魂が抜け出たものではないか。

しばらくして、今まで木陰に隠れていた小屋の灯が見えた。

近寄って、

「ハンスルさんの家はここですか」

と尋ねると、傾いた軒端の小窓が開いて、白髪の老女が舟を覗いた。

「今年も水の神が生贄を求めたのだね。主人はベルヒ城へ昨日から召集されて、まだ帰りません。手当てしてみようと思いなさるなら、こちらへ」

と落ち着いた声で言って、窓の戸を閉めようとしたので、巨勢は声を荒げて、

「水に落ちたのはマリイです、あなたのマリイです」

と言う。

老女は聞き終わる前に、窓の戸を開け放ったままで桟橋の畔に駆け出て、泣きながら巨勢を助けて、少女を抱き入れた。

入ってみると、半ばを板敷にした一間しかない。

火をともしたばかりらしい小さなランプが、かまどの上で微かに燃えている。

四方の壁に描いた粗末なキリスト一代記の彩色画は、煤に包まれてぼうっとしている。

藁で火を焚くなどして介抱したが、少女は蘇らない。

巨勢は老女と遺体の傍で、消えて跡形のない水の泡の可哀相な一生を、夜通し嘆き明かした。

時は西暦一八八六年六月十三日の夕方七時、バヴァリア王ルードウィヒ二世は、湖水に溺れて崩御したが、年老いた侍医グッデンはこれを救おうとして、ともに命を落とし、顔に王の爪痕を留めて死んだという恐ろしい報せに、翌十四日の首府ミュンヘンの騒動は尋常ではない。

街の角々には、黒く縁取った張り紙に、この訃報を書いたものがあって、その下には人だかりができた。

新聞の号外で、王の遺体を発見したときの様子に、さまざまな憶測をつけて売るのを、人々が争って買った。

点呼に応じる兵卒が正服を着て、黒い毛を植えたバヴァリア兵の兜をかぶっているさま、警察官が乗馬や駆け足で行き違っているさまなど、雑踏もいいようがない。

長く国民に顔をお見せにならなかった国王だが、やはり痛ましく思って憂いを帯びた顔も街には見える。

美術学校でもこの騒ぎに紛れて、新たに入った巨勢の行方が知れないのを心配する者はなかったが、エキステル一人は友の身を気遣っていた。

六月十五日の朝、王の棺がベルヒ城から真夜中にミュンヘンに移されたのを迎えて帰った美術学校の学生が、カフェ・ミネルヴァに引き揚げたとき、エキステルがもしやと思って、巨勢のアトリエに入ってみると、彼はこの三日ほどで相貌が変わって、著しく痩せたようで、ローレライの画の下で跪いていたのだった。

国王の尋常でない死の噂に蔽われて、レオニに近い漁師ハンスルの娘が一人、同じときに溺れたということは、問う人もないままだった。

(おわり)

森鴎外「うたかたの記」 2

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

不思議な少女が去ってから、ほどなく人々は解散した。

帰り道でエキステルに聞くと、

「美術学校でモデルとなる少女の一人で、ハンスル嬢という者だ。ご覧のように奇怪な振る舞いをするので、狂女だともいい、また他のモデルと違って人に肌を見せないので、身体に障害があるのではと言う者もいる。その履歴を知る者がないが、教育があって気性は平凡でなく、汚れた行為はしないから、美術学生の仲間には喜んで友とするものが多い。モデルに適したよい顔なのはご覧のとおりだ」

と答えた。

「僕の画を描くにも理想的だ。アトリエが整った日には、来てほしいと伝えてくれ」

「わかった。だが、十三の花売り娘ではない。ヌードの研究が不安だと思わないか」

「ヌードのモデルはしない人だと君も言ったが」

「そうだったな。だが、男とキスをしたのも、今日初めて見た」

エキステルのこの言葉に、巨勢は赤くなったが、街灯の暗いシラー記念碑のあたりだったので、友には見えなかった。

巨勢のホテルの前で二人は別れた。

一週間ほど後のことだ。

エキステルの周旋で、美術学校のアトリエの一真を巨勢は借りた。

南に廊下があって、北面の壁はガラスの大窓が半ばを占め、隣の間との仕切りには、ただ帆木綿の幌があるだけだ。

六月も半ばなので、旅行に出た学生が多く、隣に人もなく、仕事を妨げる心配がないのを喜んだ。

巨勢はイーゼルの前に立って、いま入ってきた少女にローレライの画を指さして、

「君にお聞かせしたのはこれです。面白そうに笑い遊んでいるときは、そうとも思われないが、ときどき君の面影がこの未完の人物にそっくりなときがある」

少女は高く笑って、

「お忘れにならないで。あなたのローレライの元のモデル、菫売りの子は私だと、先日の夜も告白したのに」

こう言ったが、急に表情を改めて、

「あなたは私を信じていらっしゃらない。確かにそれも無理ないわ。世間の人は皆、私を狂女だと言うから、そう思っていらっしゃるんでしょう」

この声は戯れには聞こえない。

巨勢は半信半疑だったが、堪りかねて少女に言う。

「そんなに長く苦しめないでください。今も僕の額に燃えているのは君の唇だ。とりとめもない戯れだと思うから、強いて忘れようとしたことが何度あったか知れないのに、迷いはまだ晴れない。ああ、君の本当の身の上を、差し支えがなければ聞かせてください」

窓の下にある小机に、行李から出したばかりの古い絵入新聞、使いかけの油絵の具の錫筒、粗末な煙管にまだ巻き煙草の端が残っているのなどを載せたその片端に、巨勢は頬杖をついた。

少女は、前の籐椅子に腰かけて語りだした。

「まず何から申しましょうか。この学校でモデルの鑑札を受けるときも、ハンスルという名で通しましたが、それは私の本名ではありません。父はスタインバハといって、今の国王に可愛がられて、いっとき栄えた画家でした。私が十二のとき、王宮の温室で夜会があって、両親が招かれました。宴たけなわの頃、国王の姿が見えなかったので、人々は驚いて、移植した熱帯草木が繁茂するガラス屋根の下をそこかここかと捜しました。温室の片隅には、タンダルジニスが彫刻したファウストと少女との有名な石像があります。父がそのあたりに来たとき、胸が裂けるような声がして、『助けて、助けて』と叫ぶ者がいました。声を頼りに、黄金の円天井が覆った東屋の戸口に立ち寄ると、周囲に茂った棕櫚の葉にガス灯の光が反射したのが、濃い五色で描いた窓ガラスを洩れて射し込み、薄暗く怪しげな影を作っている中に、一人の女が逃げようとして争っていましたが、引き止めているのは王でした。その女の顔を見たときの父の気持ちはどうだったでしょう。女は私の母でした。父はあまりのことにしばらく躊躇しましたが、『お許しください、陛下』と叫んで、王を押し倒しました。その隙に母は走って逃げましたが、不意を衝かれて倒れた王は、起き上がって父に組み付きました。太って大きく力のある国王に、父がどうして敵うでしょう、組み敷かれて、傍にあった如露でひどく殴られました。このことを知って諌めた内閣の秘書官チイグレルは、ノイシュヴァンスタインの塔に押し込められるはずでしたが、救う人があって助けられました。私がその夜、家にいて両親の帰るのを待っていると、下女が来て父母が帰ったと言います。喜んで出迎えると、父は担がれて帰り、母は私を抱いて泣きました」

少女はしばらく沈黙した。

今朝から曇っていた空は、雨になって、ときどき窓を打つしずくがパラパラと音を立てる。

巨勢が言う。

「王が狂人となって、スタルンベルヒの湖に近いベルヒという城にお移りになったことは、昨日新聞で読んだが、では、その頃からこんなことがあったのか」

少女は言葉を継いだ。

「王が繁華な地を嫌って田舎に住まい、昼寝て夜起きていらっしゃることは、かなり前からのことです。普仏戦争があったとき、カトリック派の国会に打ち勝ってプロシア方についた王の中年の功績は、次第に暴政の噂に覆われて、公に言う者はなくても、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなどを理由なく死刑にしようとなさったのを、その筋で隠しているのは、誰も知らない者はありません。王がお昼寝なさるときは、近習はみな退けられましたが、うわごとにマリイというと、何度もおっしゃっるのを聞いた者もいるそうです。母の名もマリイといいました。望みのない恋は、王の病を進めたのではないでしょうか。母の顔は私に似たところがあって、その美しさは宮中で類なかったと聞いています」

「父はまもなく病死しました。交際範囲が広く、物惜しみせず、世事にはきわめて疎かったので、家に遺産は少しもありません。それから、ダハハウエル街の北の外れに、裏通りの二階が空いていたのを借りて住みましたが、そこに移ってから母も病みました。こういうときに移ろうものは、人の心の花です。数知れない苦しみが、私の幼い心に早くも世間の人を憎ませました。明くる年の一月、謝肉祭の頃でしたが、家財衣類なども売り尽くして、日々の煮炊きの煙も立てかねるようになったので、貧しい子どもの群れに入って私も菫を売ることを覚えました。母が亡くなる前、三、四日の間を安心して送れたのは、あなたのおかげでした」

「母のなきがらを葬りなどするとき、世話になったのは一階上に住んでいた裁縫師です。哀れな孤児を一人で置いてはおけないと迎えられたのを喜んだことは、今思い出しても口惜しいほどです。裁縫師には娘が二人いて、ひどく物を選り好みして自慢する様子が見えましたが、迎えられてから伺うと、夜に入ってよく客があります。酒などを飲んで笑い罵ったり、歌ったりします。客は外国人が多く、お国の学生なども見えたようでした。ある日、主人が私にも新しい服を着ろと言いましたが、そのとき、その男が私を見て笑った顔が何となく恐ろしく、子ども心にも嬉しいとは思いませんでした。昼を過ぎた頃、四十くらいの知らない人が来て、スタルンベルヒの湖に行こうと言うのを、主人も一緒に勧めました。父が生きていたとき、連れられて行った嬉しさは、まだ忘れていなかったので、しぶしぶ承知したのを『それでこそよい子だ』と皆がほめました。連れの男は、道中ではただ優しく扱って、湖ではバヴァリアという座敷船に乗り、食堂に行って食事をさせました。酒も勧めましたが、それは飲み慣れないものなので、断って飲みませんでした。ゼースハウプトに船が着いたとき、その人はまた小舟を借り、これに乗って遊ぼうと言います。空が暮れていくのに心細くなった私は、もう帰りたいと言いましたが、聞かずに漕ぎ出し、岸辺に添っていくうちに、人気のない葦の間に来ましたが、男は舟をそこに停めました。私はまだ十三歳で、初めは何もわかりませんでしたが、後には男の顔色も変わって恐ろしく、夢中で水に飛び込みました。しばらくして我に返ったときは、湖畔の漁師の家で、貧しげな夫婦に介抱されていました。帰れる家はないと言い張って、一日二日と過ごすうちに質朴な漁師夫婦に馴染んで、不幸な身の上を打ち明けたところ、気の毒がって娘として養ってくれました。ハンスルというのは、この漁師の名です」

「こうして漁師の娘とはなりましたが、か弱い身には舟の櫂をとることもできず、レオニのあたりに裕福なイギリス人が住んでいたのに雇われて、小間使いになりました。カトリックを信じる養父母は、イギリス人に使われるのを嫌がりましたが、私が読書などを覚えたのは、あの家にいた家庭教師のおかげです。女教師は四十数歳の独身でしたが、その家の高慢な娘よりは私を深く愛し、三年ほどの間に多くもない教師の蔵書はすべて読みました。読み誤りはさぞ多かったでしょう。また、文章の種類もまちまちでした。クニッゲの交際法があれば、フンボルトの長生術があります。ゲーテ、シラーの詩抄は半ば暗記して、キョオニヒの通俗文学史をひもとき、またはルーブル、ドレスデンの美術館の写真の画を繰り広げて、テーヌの美術論の訳書を漁りました」

「去年、イギリス人一家が帰国した後は、しかるべき家に奉公したいと思いましたが、身元がよくないので、地元の貴族などには使ってもらえません。この学校のある教師に思いがけず見出されて、モデルを勤めたのが縁になって、ついに鑑札を受けることになりましたが、私を有名なスタインバハの娘と知る人はいません。今は美術家の間に立ち交じって、ただ面白く日々を暮らしています。でも、グスタフ・フラタハは、さすがに嘘は言わなかったわ。美術家ほど世間で行儀の悪い者はないので、独りで立ち交じるには、少しも油断できないの。寄らず、触らずというようにしたいと思って、思いがけずご覧になったような、不思議なくせ者になってしまいました。ときどきは自分自身でも、狂人ではないかと疑うほどです。これにはレオニで読んだ文章も、少し祟っているかと思いますが、もしそうならば世間で博士と呼ばれる人は、そもそもどんな狂人なのでしょう。私を狂人と罵る美術家たちは、自分たちが狂人でないのを悲しむべきなのです。英雄や豪傑、名匠や大家となるには、多少の狂気がなくては適わないことは、ゼネガの論やシェイクスピアの言を俟ちません。ご覧なさい、私の学問の広さを。狂人にして見てみたい人が、狂人でないのを見る、その悲しいこと。狂人にならなくてもよい国王が、狂人になったと聞く、それも悲しいわ。悲しいことばかり多いので、昼は蝉とともに泣き、夜は蛙とともに泣いても、可哀相にと言う人もいません。あなただけは、つれなく侮ってお笑いになることはないと思ったので、心のいくままに語ったのを咎めないでください。ああ、こういうのも狂気かしら」

(つづく)

森鴎外「うたかたの記」 1

森鴎外「うたかたの記」(初出:『柵草紙』明治23年8月)の現代語訳です。

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

数頭の獅子が引いている車の上に、勢いよく突っ立った女神バヴァリアの像は、先王ルードウィヒ一世が、この凱旋門に据えさせたのであるという。

その下からルードウィヒ街を左に折れたところに、トリエント産の大理石で築かれた建物がある。

これがバヴァリアの首府で名高い見どころである美術学校だ。

校長ピロッチイの名は、あちこちに鳴り響いて、ドイツの国々はもちろん、ギリシア、イタリア、デンマークなどからも、ここに集まってくる彫刻家、画家は数知れない。

日課を終えたあとは、学校の向かいにあるカフェ・ミネルヴァという店に入って、コーヒーを飲み、酒を酌み交わすなどして思い思いに戯れる。

今夜もガス燈の光が、半ば開いている窓に映って、店内には笑いさざめく声が聞こえるおり、入口に来かかった二人がいる。

先に立っているのは、褐色の髪が乱れているのを厭わず、幅広いスカーフを斜めに結んでいる様子が、誰の目にもこちらの美術学生と見えるだろう。

立ち止まって、後ろの色の黒い小柄な男に向かい、「ここだ」と言ってドアを開けた。

まず二人の顔を打つのはタバコの煙で、急に店内に入った目には、中にいる人も見分けがたい。

日は暮れていても暑い頃なのに、窓をすべて開け放ちはせず、こんな煙の中にいるのも、習慣となっているのだろう。

「エキステルじゃないか、いつの間に帰ったんだ」

「まだ死なずにいたな」

などと口々に声をかけるのを聞くと、その学生はこのグループで馴染みのある者だろう。

その間、周囲の客は珍しそうに、後ろについて入ってきた男を見つめた。

見つめられた人は、客が無礼なのを嫌ってか、しばらく眉根に皺を寄せていたが、すぐに思い返したのだろうか、微笑みを浮かべて一座を見渡した。

この人は、今着いた汽車でドレスデンから来たので、喫茶店の様子のあちらとこちらの異なることに目を注いだ。

大理石の円卓がいくつかあるが、白いクロスを掛けているのは、夕食が終わった後をまだ片付けないのだろう。

クロスのないテーブルにいる客の前に、陶製のジョッキが置かれている。

ジョッキは円筒形で、燗徳利を四つ五つも合わせた大きさだが、弓なりの取っ手をつけ、金蓋を蝶番でつないで覆っている。

客のいないテーブルにコーヒーカップを置いたのを見ると、すべて逆さまに伏せて、糸底の上に砂糖を何個か盛った小皿を載せているのもおもしろい。

客は身なりも言葉もさまざまだが、髪を梳かず、服も整えないのは一様だ。

しかし、あながち卑しくも見えないのは、やはり芸術世界に遊ぶからであろうか。

なかでも際立って賑やかなのは、中央の大きいテーブルを占めているグループである。

他のテーブルは男の客ばかりなのに、ここには一人少女がいる。

いまエキステルに伴われて来た人と目を合わせ、互いに驚いたようだ。

来た人は、このグループに珍しい客だからだろうか。

また少女の姿は、初めて会った人を感動させるのに十分であろう。

前つばが広く飾りのない帽子を被って、十七、八歳ほどに見える顔は、ヴィーナスの古い彫像を圧倒している。

その振る舞いには自ら気品があって、平凡な人と思われない。

エキステルが隣のテーブルにいる一人の肩を叩いて、何事か語っていたのを呼んで、

「こっちにはおもしろい話一つする人がいないの。この様子ではトランプに逃げ、ビリヤードに走るなんて、嫌な目にあうかもしれないわ。お連れの方と一緒に、こちらへいらっしゃらない?」

と笑顔で勧める、その声の清らかさに、いま来た客は耳を傾けた。

「マリイ様のいらっしゃるところへ誰が行かないものか。君たちも聞け。今日、このミネルヴァの仲間に入れようと思って伴ったのは、巨勢君といって、遠い日本の画家だ」

とエキステルに紹介されて、ついてきた男が近寄って会釈すると、立って名乗るなどするのは外国人だけである。

そうでない者は座ったままで答えるが、侮っているのでもなく、この仲間の癖なのだろう。

エキステルが、

「僕がドレスデンの身内を訪ねていったのは君たちも知っているな。巨勢君にはあっちの美術館で会い、それから親交を結んで、今回、巨勢君がここの美術学校にしばらく足を留めようと旅立たれたとき、僕も一緒に帰路に着いた」

と言うと、人々は巨勢に向かって、はるばるやって来た人と知り合えた喜びを述べ、

「大学ではお国の人もときどき見かけるが、美術学校に来たのは君が初めてだ」

「今日着いたのでは、絵画館や美術会の画堂なども、まだ見ていないだろう。だが、よそで見たところで、南ドイツの画をどう見る?」

「今回、来た君の目的は何だ?」

などと口々に尋ねる。

マリイが押しとどめて、

「ちょっと、ちょっと。そう口を揃えて尋ねられる巨勢さんとやらの迷惑を、あなたたちは考えないの? 聞こうと思うなら、静かにして」

と言うのを、

「さても女主人は厳しいな」

と人々が笑う。

巨勢は、調子こそ外国風だが、拙くはないドイツ語で語りだした。

「僕がミュンヘンに来たのは、これが初めてではない。六年前にここを通ってザクセンに行った。そのときは絵画館にかかった画を見ただけで、学校の人々などと付き合うことはできなかった。それは、故郷を出たときからの目的だったドレスデンの美術館に行こうと気ばかり急がれたからだ。だが、再びここに来て、君たちの集まりに加わることになった、その因縁は、すでに当時結んでいたんだ」

「大人気ないとケチをつけずに聞いてくれ。謝肉祭が終わる日のことだった。絵画館を出たときは、雪が止んだばかりで、街路樹の枝が一本ずつ薄い氷で包まれているのが、点したばかりの街燈に映っていた。いろいろな変わった衣装を着て、白や黒の仮面をつけた人々が、群れをなして行き来し、ここかしこの窓には毛織物を掛けて見せ物にしていた。カルルの通りのカフェ・ロリアンに入ってみると、思い思いの仮装を競い、中に混じった平服も引き立つ気がする。これは皆、コロッセウム、ヴィクトリアなどという舞踏場が開くのを待っていたんだろう」

こう語るところへ、胸当てのある白いエプロンをかけたウエイトレスが、泡立つビールを揺れこぼれるばかりに注いだ例の大ジョッキを四つ五つずつ、取っ手を寄せて両手に握り、

「新しい樽からと思って遅くなりました。済みません」

と謝って、前のジョッキを飲み干した人々に渡すのを、少女が

「ここへ、ここへ」

と呼び寄せて、まだジョッキを持たない巨勢の前にも置かせる。

巨勢は一口飲んで語り続けた。

「僕も片隅の長椅子に腰掛けて、賑やかな様子を見ていると、入口のドアを開けて入ってきたのは、汚そうな十五くらいのイタリア栗売りで、焼き栗を盛った紙筒を高く積んだ箱を抱え込み、『栗はいかが』と呼ぶ声も勇ましく、後ろについて入ってきたのは、十二、三に見える女の子だった。古びた鷹匠頭巾を深々と被り、凍えて赤くなった両手を差し伸べて、浅い目籠の縁を持っていた。目籠には常盤木の葉を敷き重ねて、その上に季節外れの菫の花束を愛らしく結んだのを載せていた。『菫はいかが』と、うなだれた首をもたげもできずに言った声の清らかさは、今も忘れない。この少年と女の子は、仲間とは見えなかったから、少年が入るのを待って、これを機に女の子が来たのだろうと思われた」

「この二人の様子が異なるのは、すぐ僕の目に留まった。人を人とも思わない実に憎らしげな栗売りと、優しくいじらしげな菫売りが、どちらも大勢の人の間を分けて、フロアの中央を帳場の前あたりまで来た頃、そこで休んでいた大学生らしい男の連れたイギリス種の大型犬が、今まで腹這いでいたのに、体を起こして背中をくぼめ、四肢を伸ばし、栗箱に鼻を突っ込んだ。それを見て、少年が払いのけようとすると、驚いた犬が後ろについて来た女の子に突き当たったので、『ああ』と怯えて手に持った目籠を落とした。茎に錫紙を巻いた美しい菫の花束が、きらきらと光って四方に散らばるのを、いい物を手に入れたと、その犬が踏みにじっては、咥えて引きちぎったりする。床は暖炉の温もりで解けた靴の雪で濡れていたから、周りの人々が笑ったり罵ったりする間に、落ちた花は乱暴に跡形なく泥土にまみれた。栗売りの少年はいち早く逃げ去り、学生らしい男は欠伸をしながら犬を叱り、女の子は呆然と見つめていた。この菫売りが辛抱して泣かないのは、つらさに慣れて涙の泉が枯れていたのか、でなければ驚いて困惑し、一日の生計がこのために駄目になったとまでは思い至らなかったのか。しばらくして、女の子が砕け残った花束を二つ三つ力なげに拾おうとしたとき、帳場にいた女の知らせで、ここの主人が出てきた。赤ら顔で腹を突き出した男は、白い前掛けをしていた。大きい拳を腰にあてて、花売りの子をしばらく睨み、『うちの店では、暖簾師みたいな商売はさせない決まりだ。早く出ていけ』とわめいた。女の子がただ言葉なく出ていくのを、店中の仮面をつけた人々が、一滴の涙もなく見送った」

「僕がコーヒー代の白銅貨を帳場の石板の上に投げ、外套を取って出てみると、花売りの子は一人さめざめと泣いて歩いていくが、呼んでも振り返らない。追いついて、『さあ、いい子だね。菫の代金をあげよう』と言うのを聞いて、初めて僕を仰ぎ見た。その顔の美しさ、濃い藍色の目には、限りない憂いがあって、ひとたび顧みると、断腸の思いがする。財布に七、八マルクあったのを、空になった籠の木の葉の上に置いて与え、驚いて何も言わないうちに立ち去ったが、その顔、その目は、いつまでも目について消えない。ドレスデンに行って、美術館の画を写す許可を得て、ヴィーナス、レダ、マドンナ、ヘレナ、いずれの画に向かっても、不思議なことに、菫売りの顔が霧のように僕と画額との間に立って障碍となった。これでは所詮、仕事の進行は覚束ないとホテルの二階にこもって、長椅子の革カバーに穴をあけようと寝続けた頃もあったが、ある朝、勇気を奮い起こして、僕のあらん限りの力を込めて、この花売りの娘の姿を永遠に伝えようと思い立った。そうはいっても、僕が見た花売りの目には、春の潮を眺める喜びの色はなく、夕暮れの雲を見送る夢見心はなく、イタリアの旧跡の間に立たせて、あたりに白鳩の群れを飛ばすこともふさわしくない。僕の空想は、あの少女をライン川の岸の巌根に座らせて、手に一張のハープを持たせ、嗚咽の声を出させようと決めた。下流には一枚の葉のような小舟を浮かべて、彼方に向かって両手を高く挙げ、顔には限りない愛を見せている。舟の周りには無数の水の精や精霊などの姿が、波間から出て揶揄している。今日、このミュンヘンの街に来て、しばらく美術学校のアトリエを借りようとするのも、行李の中のただこの一枚の画稿、これを君たち師友に批評してもらい、完成させようと願ってのことだ」

巨勢が思わず話しこんで、こう言い終わったときは、黄色人種の細い目も光るほどだった。

「よくも語ったものだ」と言う者が二、三人いた。

エキステルは冷淡に笑って聞いていたが、

「君たちもその画を見に行け。一週間もすれば巨勢君のアトリエは整うはずだ」

と言った。

マリイは話の途中から顔色を変えて、目は巨勢の唇にばかり注いでいたが、手に持ったジョッキまで一度は震えたようだった。

巨勢は初めにこの集まりに入ったとき、すでに少女が自分の菫売りに似ているのに驚いたが、話に夢中になってこちらを見つめている眼差しは、間違いなく彼女だと思われた。

これも例の空想の仕業なのかどうか。

語り終わったとき、少女はしばらく巨勢を見て、

「あなたはその後、再び花売りをご覧になりませんでしたか?」

と聞いた。

巨勢はすぐに答えられる言葉を得ないようだったが、

「いいえ。花売りを見たその夕方の汽車でドレスデンを発ちました。だが、無礼な言葉をお咎めにならないなら、申しあげましょう。僕の菫売りの子にも、僕のローレライの画にも、そのときどきに間違いなく姿をお見せになるのはあなたです」

人々は声高く笑った。

少女は、

「では、画ではない私の姿とあなたとの間にも、その花売りの子が立っているようね。私を誰だとお思いになる?」

立ち上がって、真面目とも遊びとも知れないような声で、

「私はその菫の花売りなの。あなたの心遣いへのお礼はこうよ。」

少女はテーブル越しに伸び上がって、うつむいた巨勢の頭を平手で押さえ、その額にキスをした。

この騒ぎで、少女の前にあった酒はひっくり返ってスカートを濡らし、テーブルの上にこぼれた酒は、蛇のように這って人々の前に流れようとした。

巨勢は熱い掌を両耳の上に感じ、驚く間もなく、またこのあと熱い唇が額に触れた。

「僕の友人に目を回させるなよ」

とエキステルが声をかけた。

人々は半ば椅子から立って、

「ひどい遊びだな」

と一人が言えば、

「僕らが継子扱いなのはくやしい」

と他の一人が言って笑うのを、他のテーブルからも、みな興味ありそうに見ていた。

少女の傍に座っていた一人は、

「僕もお相手くださいますか」

と言って、右手を差し伸べて少女の腰を抱いた。

少女は、

「ほんとにまあ、礼儀知らずな継子たちね。あなたたちにふさわしいキスの仕方があるわ」

と叫び、腕を振りほどいて突っ立ち、美しい目からは稲妻が出たと思うほど、しばらく一座を睨んだ。

巨勢はただ呆れに呆れて見ていたが、このときの少女の姿は、菫の花売りにも似ず、ローレライにも似ず、まるで凱旋門上のバヴァリアのように思われた。

少女は、誰かが飲み干したコーヒーカップに添えられていたコップを取って、中の水を口に含んだと見ると、すぐに一噴きした。

「継子よ、継子よ、あなたたちの誰が美術の継子ではないというの? フィレンツェ派が学ぶのは、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチの幽霊。オランダ派が学ぶのはルーベンス、ファン・ダイクの幽霊。我がドイツのアルブレヒト・ドューラーを学んだって、アルブレヒト・ドューラーが幽霊でないのは稀でしょう。会堂にかかった習作が二つ三つ、いい値段で売れた暁には、僕らは七星、僕らは十傑、僕らは十二使徒と自分勝手に見立てて自慢する。こんな選り屑にミネルヴァの唇がどうして触れるの? 私の冷たいキスで満足しなさい」

と叫んだ。

噴きかけた霧の下のこの演説は、巨勢には何とも理解できなかったが、現代絵画を批判した風刺だろうとだけは推測して、その顔を仰ぎ見ると、女神バヴァリアに似ていると思った威厳は少しも崩れず、言い終わってテーブルの上に置いていた手袋が酒に濡れたのを取って、大股に歩いて出ていこうとする。

みな興ざめのした表情をして、

「狂人」

と一人が言えば、

「近いうちに仕返ししてやるからな」

と他の一人が言うのを、戸口で振り返って、

「恨みに思うようなことかしら? 月の光で透かして見てみなさいよ。額に血の跡は残してないわ。吹きかけたのは水だから」

(つづく)