森鴎外「うたかたの記」 3
下
変わりやすい空で雨が止み、学校の庭の木立の揺れるのだけが、曇った窓ガラスを通して見える。
少女の話を聞く間、巨勢の胸では、さまざまな感情が戦っていた。
あるときは昔別れた妹に会った兄の気持ちになり、あるときは廃園で倒れたヴィーナスの像に、独り悩んでいる彫刻家の気持ちになり、あるときはまた妖婦に心を動かされ、罪を犯すまいと戒めている修行僧の気持ちにもなったが、聞き終わったときは、胸が騒ぎ、体が震えて、思わず少女の前に跪こうとした。
少女は急に立って、
「この部屋の暑いこと。もう校門も閉められる頃でしょうけど、雨も上がりました。あなたとなら、恐ろしいこともありません。一緒にスタルンベルヒへいらっしゃいませんか?」
と傍の帽子を取ってかぶった。
その様子は巨勢が同行することをまったく疑わないようだ。
巨勢はただ母に引かれる幼児のようについて行った。
門の前で馬車を拾って走らせると、ほどなく停車場に着いた。
今日は日曜だが、天気が悪かったからだろうか、近郷から帰る人も少なく、ここはたいそう静かだ。
新聞の号外を売る女性がいる。
買って見ると、国王がベルヒの城に移って、容体が穏やかなので、侍医グッデンも護衛を緩めさせたとある。
汽車の中には、湖畔で避暑をする人の、買い物で首府に出た帰りらしいものが多い。
王の噂で持ちきりだ。
「まだホーエンシュヴァンガウの城におられたときと違って、お心が落ち着いたようだ。ベルヒに移られる途中、ゼースハウプトで水を求めて飲みなさったが、近くにいた漁師らを見て、優しくうなずくなどしなさった」
と訛った言葉で語るのは、買い物籠を手に提げた老女だった。
汽車で走ること一時間、スタルンベルヒに着いたのは夕方の五時だ。
徒歩で行ってやっと一日ほどのところだが、もうアルプスの近さをただ何となく感じて、この曇りがちの空模様でも、胸を開いて息ができる。
汽車があちこちと迂回してきた丘陵の急に開けたところに、広々と見えるのは湖水だ。
停車場は西南の隅にあって、東岸の林や漁村は夕霧に包まれて微かに見えるが、山に近い南の方は果てしなく見渡せる。
少女に案内されて、巨勢が右手の石段を登ってみると、ここはバヴァリアの庭というホテルの前で、屋根のない場所に石のテーブル、椅子などを並べているが、今日は雨の後なので、しんとして人気も少ない。
黒い上着に白の前掛けをしたウエイターが、何か呟きながらも、テーブルに倒しかけた椅子を起こして拭いている。
ふと見ると片側の軒にそって、蔦蔓をからませた棚があり、その下の円卓を囲んでいるグループ客がいる。
彼らはこのホテルに泊まっている人々に違いない。
男女が混じった中に、先日の夜、カフェ・ミネルヴァで見た人がいたので、巨勢は行って話しかけようとしたが、少女が押しとどめて、
「あそこにいるのは、あなたがお近づきになるような人々じゃありません。私は若い男性と二人で来たけれど、恥ずべきはあちらであって、こちらじゃないわ。彼は私を知っているから、ご覧なさい、いつまでも座っていられないで隠れるはずよ」
とだけ言ったが、果たして、その美術学生は立ってホテルに入った。
少女がウエイターを呼び寄せて、座敷船はまだ出航するかと聞くと、ウエイターは飛び行く雲を指さして、この不安定な空模様では、もう出ないだろうと言う。
ならば、馬車でレオニに行きたいとことづけた。
馬車が来たので二人は乗った。
停車場の傍から東の岸辺を走らせた。
このとき、アルプス下ろしがさっと吹いてきて、湖水の方に霧が立ち込め、いま出てきたあたりを振り返って見ると、次第に鼠色になって、家の棟、木の頂だけがひときわ黒く見えた。
御者が振り返って、「雨だ。幌で覆いましょうか」と聞く。
「いいえ」と答えた少女は巨勢に向かって、
「心地いい遠足だわ。昔、私が命を失おうとしたのも、命拾いをしたのも、この湖の中です。だから、お近づきになりたいと思ったあなたに、本心を打ち明けてお聞かせするのもここでと思って、こうしてお誘いしました。カフェ・ロリアンで恥ずかしい目にあったとき、救ってくださったあなたとまた会いたいという思いを支えにして、何年経ったことでしょう。先日の夜、ミネルヴァであなたのお話を聞いたときの嬉しかったこと。日頃、木の端などのようにつまらなく思っている美術学生の仲間になっているので、人を馬鹿にして不敵な振る舞いをしましたが、はしたないとご覧になったでしょうか。でも、人生はそう長くありません。嬉しいと思う一瞬に口を大きく開けて笑わないと、後でくやしく思う日もあるでしょう」
こう言いながら、かぶった帽子を脱ぎ捨て、こちらへ振り向いた顔は、白い大理石に熱い血が躍るようで、風に吹かれる金髪は、首を振って長くいなないている駿馬のたてがみのようだった。
「今日よ、今日よ。昨日があっても何をするの。明日も、あさっても空しい名だけ、虚しい声だけよ」
このとき、二つ三つ大きい雨粒が車上の二人の服を打ったが、瞬く間に激しくなって、湖上からの横しぶきが荒々しくかかって、紅潮した少女の片頬に打ちつけるのをそっと覗く巨勢の心は、ただ茫然となっていくばかりのようだ。
少女は伸び上がって、
「御者さん、心づけはあげるわ。速く走って。鞭を当てて、もう一度」
と叫んで、右手に巨勢のうなじを抱き、自分はうなじを反らせて空を仰ぎ見た。
巨勢は綿のように柔らかい少女の肩に自分の頭をあずけ、ただ夢心地でその姿を見ていたが、あの凱旋門上の女神バヴァリアがまた胸に浮かんだ。
国王が住んでいるというベルヒ城の下に来た頃は、雨がいよいよ激しくなって、湖水の方を見渡すと、吹き寄せる一陣の風が濃淡の縦縞を織り出して、濃いところでは雨が白く、淡いところでは風が黒い。
御者が車を停めて、
「ちょっとの間です。あまりに濡れてお客さんも風邪を引かれましょう。それに古びてはいても、この車をひどく濡らすと、主人の怒りをかいます」
と言って、手早く幌で覆い、また鞭を当てて急いだ。
雨はなお間断なく降って、雷が恐ろしく鳴り始めた。
道は林の間に入って、この国の夏の日はまだ高い頃なのに、木の下の道は薄暗くなった。
夏の日に蒸されていた草木の雨に潤った香りが車の中に吹き込むのを、喉の渇いた人が水を飲むように、二人は吸った。
雷鳴の絶え間に、恐ろしい天気に怯えているとも見えないナイチンゲールが、玉のように美しい声を振りたてて何度となく鳴いたのは、寂しい道を独り行く人が、わざと歌うようなものだろうか。
このときマリイは両手を巨勢のうなじに組んで、体重を持たせかけていたが、木陰を洩れる稲妻に照らされた顔を見合わせて微笑んだ。
ああ、二人は我を忘れ、乗っている馬車を忘れ、馬車の外の世界も忘れていただろう。
林を出て坂道を下っていくと、風が群雲を払い去って、雨もまた止んだ。
湖の上の霧は、重ねた布を一枚、二枚と剥ぐように、わずかの間に晴れて、西岸の人家も手に取るように見える。
ただ、あちこちの木陰を過ぎるたびに、梢に残る露が風に払われて落ちるのを見るだけだ。
レオニで馬車を降りた。
左に高く聳えているのは、所謂ロットマンの岡で、「湖上第一勝」と書かれた石碑が建っているところだ。
右に音楽家レオニが開いたという、湖水を臨む酒屋がある。
巨勢の腕に両手をからめて、すがるようにして歩いた少女は、この店の前に来て岡の方を振り返った。
「私が雇われたイギリス人が住んでいたのは、この半腹の家でした。老いたハンスル夫妻の漁師小屋も、もう百八十メートルほどです。あなたをそこへお連れしようと思ってきたのに、胸騒ぎがして仕方ないから、この店で休憩したいわ」
巨勢は同意して、店に入って夕食を注文すると、「七時でないと整いません。まだ三十分お待ちいただかないと無理です」と言う。
ここは夏の間だけ客のあるところで、給仕人もその年ごとに雇うので、マリイを知る者もなかった。
少女は急に立って、桟橋に繋いだ舟を指さした。
「舟の漕ぎかたは知っていらっしゃる?」
「ドレスデンにいたとき、公園のカロラ池で漕いだことがある。うまいというほどではないが、あなた一人をお乗せするほどのことはできるでしょう」
「庭の椅子は濡れているわ。それでも屋根の下は暑すぎます。しばらく乗せて漕いでください」
巨勢は脱いだ夏外套を少女に着せて小舟に乗せ、自分は櫂を取って漕ぎ出した。
雨は止んだが、空はまだ雲っているので、もう岸の向こうは暮れてきていた。
先の風に揺られた名残か、櫂を叩くような波がまだあった。
岸に沿ってベルヒの方へ漕ぎ戻すうちに、レオニの村落を外れるあたりに来た。
岸辺の木立が絶えたところに、砂地の道が次第に低くなって、波打ち際に長椅子を置いているのが見える。
葦の茂みに舟が触れて、さわさわと音がしているとき、岸辺に人の足音がして、木の間から現れた姿がある。
身長は百八十センチに近く、黒い外套を着て、手にすぼめた蝙蝠傘を持っている。
左手に少し下がって随っているのは、鬚も髪も雪のような老人だった。
前の人はうつむいて歩いてきたので、つばの広い帽子に顔が隠れて見えなかったが、いま木の間を出て湖水の方に向かい、しばらく立ち止まって、片手に脱いだ帽子を持って顔を上げたのを見ると、長い黒髪を後ろに流して広い額を出し、顔色は灰のように蒼いのに、窪んだ目の光は人を射るようだった。
舟では、巨勢の外套を背中に掛け、うずくまっていたマリイが、これも岸にいる人を見ていたが、このとき急に驚いたように、「彼は王よ」と叫んで立ち上がった。
背中の外套は落ちている。
帽子は先に脱いだまま酒屋に置いて出てきたので、乱れた金髪は白い夏服の肩に柔らかくかかっている。
岸に立っているのは、まさに侍医グッデンを引きつれて、散歩に出ている国王だった。
妖しい幻の形を見るように、王は恍惚として少女の姿を見ていたが、急に一声「マリイ」と叫び、持っている傘を投げ捨てて、岸の浅瀬を渡ってきた。
少女は「あっ」と叫びながら、そのまま気を失って、巨勢の助けようとする手がまだ届かないうちに倒れたが、傾く舟が一揺れすると同時に、うつ伏せになって水に落ちた。
湖水はこのあたりで次第に深くなって、傾斜は緩やかだったので、舟が停まっていたあたりも、水深は百五十センチ足らずだろう。
しかし、岸辺の砂はだんだん粘土混じりの泥となっているので、王の足は深く入り込んで、不自由に足掻いている。
その隙に随っていた老人は、これも傘を投げ捨てて追いすがり、老いても力は衰えていなかったのか、水を蹴って二歩三歩と、王の襟首をしっかりと握って引き戻そうとする。
王は引っ張られまいとするので、外套が上着とともに老人の手に残った。
老人はこれを払い捨てて、なおも王を引き寄せようとするが、王は振り返って組みつき、両者は互いに声さえ立てず、しばらく揉み合った。
これはただ一瞬のことだった。
巨勢は少女が落ちるとき、辛うじてスカートをつかんだが、少女が葦の間に隠れた杭で胸を強く打って沈もうとするのをようやく引き揚げ、水際の二人が争うのを後にして、もと来た方へ漕ぎ返した。
巨勢はただ何としても少女の命を助けようと思うだけで、他のことを考える暇がなかったのである。
レオニの酒屋の前に来たが、ここへは寄らず、ここから百八十メートルほどだと聞いた漁師夫妻の小屋を目指して漕いでいくと、日はもう暮れて、岸には柏や榛の木などの枝が繁茂しあって広がり、水は入り江の形をして、葦に混じった水草に白い花が咲いているのが、夕闇に微かに見えた。
舟には乱れた髪が泥水にまみれたうえに、藻屑がかかって倒れている少女の姿がある、誰が哀れと思わないだろう。
折しも漕いでくる舟に驚いてか、葦の間を離れて岸の方へ高く飛んでいく蛍がいる。
ああ、これは少女の魂が抜け出たものではないか。
しばらくして、今まで木陰に隠れていた小屋の灯が見えた。
近寄って、
「ハンスルさんの家はここですか」
と尋ねると、傾いた軒端の小窓が開いて、白髪の老女が舟を覗いた。
「今年も水の神が生贄を求めたのだね。主人はベルヒ城へ昨日から召集されて、まだ帰りません。手当てしてみようと思いなさるなら、こちらへ」
と落ち着いた声で言って、窓の戸を閉めようとしたので、巨勢は声を荒げて、
「水に落ちたのはマリイです、あなたのマリイです」
と言う。
老女は聞き終わる前に、窓の戸を開け放ったままで桟橋の畔に駆け出て、泣きながら巨勢を助けて、少女を抱き入れた。
入ってみると、半ばを板敷にした一間しかない。
火をともしたばかりらしい小さなランプが、かまどの上で微かに燃えている。
四方の壁に描いた粗末なキリスト一代記の彩色画は、煤に包まれてぼうっとしている。
藁で火を焚くなどして介抱したが、少女は蘇らない。
巨勢は老女と遺体の傍で、消えて跡形のない水の泡の可哀相な一生を、夜通し嘆き明かした。
時は西暦一八八六年六月十三日の夕方七時、バヴァリア王ルードウィヒ二世は、湖水に溺れて崩御したが、年老いた侍医グッデンはこれを救おうとして、ともに命を落とし、顔に王の爪痕を留めて死んだという恐ろしい報せに、翌十四日の首府ミュンヘンの騒動は尋常ではない。
街の角々には、黒く縁取った張り紙に、この訃報を書いたものがあって、その下には人だかりができた。
新聞の号外で、王の遺体を発見したときの様子に、さまざまな憶測をつけて売るのを、人々が争って買った。
点呼に応じる兵卒が正服を着て、黒い毛を植えたバヴァリア兵の兜をかぶっているさま、警察官が乗馬や駆け足で行き違っているさまなど、雑踏もいいようがない。
長く国民に顔をお見せにならなかった国王だが、やはり痛ましく思って憂いを帯びた顔も街には見える。
美術学校でもこの騒ぎに紛れて、新たに入った巨勢の行方が知れないのを心配する者はなかったが、エキステル一人は友の身を気遣っていた。
六月十五日の朝、王の棺がベルヒ城から真夜中にミュンヘンに移されたのを迎えて帰った美術学校の学生が、カフェ・ミネルヴァに引き揚げたとき、エキステルがもしやと思って、巨勢のアトリエに入ってみると、彼はこの三日ほどで相貌が変わって、著しく痩せたようで、ローレライの画の下で跪いていたのだった。
国王の尋常でない死の噂に蔽われて、レオニに近い漁師ハンスルの娘が一人、同じときに溺れたということは、問う人もないままだった。
(おわり)
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