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森鴎外「そめちがへ」

森鴎外「そめちがへ」(初出:『新小説』1897年8月)の現代語訳です。

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

                 *

時節は五月雨がまだ思い切り悪く、昨夕から間断なく降り、窓の格子の下に四肢を踏み伸ばした猫が、おっくうがって起とうともしない。

夜更けて酔わされた酒で、明け方近くからぐっすり眠り、朝食と昼食を一緒に済ませた兼吉(かねきち)が浴衣を脱ぎ捨てて引っ掛ける着物は、紺に雨絣の入った明石縮で、唐繻子の丸帯をうるさそうに締め終わり、どこか険のある顔の眉をしかめて、四分球のかんざしで結び髪の頭をやけに掻き、

「それもこれも私のいつもの暢気で、気が付かずにいたからのこと。人を恨むには当たりません」

と、長火鉢の前で煙草を吸っている女将に暇乞いして帰ろうとする。

柳橋の北側では名うての待合である朝倉の戸口を開けて、つっと入ってきたのは、四十近いでっぷりとした男で、白の縞上布の単衣の襟を寛げて、

「寄り道したおかげで、この悪い道を歩かせられたから、暑さもひとしおだ。悪いといえば、兼吉つぁんの顔色の悪さは、ひととおりのことではなさそうだ。今から帰るでもあるまい。嫌でも俺に付き合って飲みなおしてはどうだ」

という遠慮ない勧めに、女将が指図して案内させるのは二階の六畳である。

三谷(さんや)さんならばと返事を待つまでもなく、お万に声をかけ、しばらくは差し向かいで、聞けば気が塞ぐのも無理はない。

「夕べは、ご存知の親方を呼びにやったのに、つまらない行きがかりの末にもつれて、『なに、人を馬鹿にして。そんな平凡な言い訳を聞く私だとお思いか。帰るなら、お帰り』と心強くも帰らせたけれど、一座では口もろくに利かないあの食わせ者のお徳めが、途中で待ち受けて連れて行ったのを、今朝聞いた悔しさったら。親方の意気地なしは、今始まったものではないけれど、私の気にもなってみてください。未練ではございません。ただ腹が立ってなりません。親方の帰った後では、いつもの柳連の二人が来ていたから、つけ景気で面白そうに騒げるだけ騒ぎ、毒と知りながら、ビールに酒を混ぜてのぐい飲み。いまだに頭痛がしてなりません」

とのことである。

兼吉がこう話すうちに、半熟卵に焼塩を添えて女が運んできた皿が、いくらか気分を治して癇癪を和らげる仲介となり、失せた血色が目の縁に戻る頃、お万の客は軽い調子で、

「未練がないとは、さすがは兼吉つぁんだ。よく言った。相手が相手だから、お前に実がないとは、この三谷が誰にも言わせない。そういうときの一番の薬は、何でもしたいことをして遊ぶに限る。あれならという人はいないか。俺には差し当たり心当たりはないが、中屋の松つぁんなどはどうだろう」

と言えば、兼吉は寂しく「ほほ」と笑い、

「あんまり未練がなさ過ぎるか知れませんけれど、腹にあるだけ言ってしまいたいのは私の癖。中屋とまで言われては黙ってはいられません。松つぁんならぬ弟の清(せい)さん、浮気なようだけれど、あの人なら一日でも遊んでみたいと前から思っていました」

「なるほど、そうありそうなことではあるが、弟の方には、しかもお前の友達の小花(こはな)という古い情人(いろ)がいるではないか。頼まれもしないのに俺から言い出し、今さら理屈を言うではないが、噂に聞けば、小花と清二は、双方ともに子ども半分、まだ清二が商用で荻江の家へ行き始めた頃、いつとはなくできた仲だとやら。そのうえ、松つぁんよりはさばけているようでも、あの生真面目さ加減では覚束ない。どうやら冗談らしくもないお前の返事が、俺の腹には落ちかねる。お前は本当に清さんを呼ばせる気か」

「はい、本当に呼んでいただく気でございます。小花さんに済まないとは私にもよくわかっておりますが、清さんならと思うのも疾うからで、そうなる日には小花さんにはこうと決めているのも疾うから。お徳さんなぞのようにケチなことは私はしない。私の心を打ち明けたうえで、清さんは何とお言いか知らないけれど、嫌というならそれまでのこと。万に一つも聞いてもらえたら、それから先は清さんの心次第。『お前の親切にほだされて、一旦こうはなったが、それでは小花に義理が立たない。これきり思い切れ』と言うなら、思い切って小花さんに立派に謝るだけのこと。清さんに限って小花さんから私に心移りするというはずはないけれど、そうなれば私は命も何もいりません」

「それじゃ、命がけと言うのだね。すごい話になってきた。俺なんぞの目じゃあ、色の浅黒い痩せっぽちの小花より、女ははるか兼ちゃんが上だ。清公はたしか二十五で、お前より一つ二つ下。かわがられて夢中になった日には、小花には気の毒だが、呼ぶだけは俺が呼ぶ。あとは兼吉つぁんの腕次第だ」

と、座を外していた女を呼んで使いのことを頼むと、銚子を持って出ていく廊下ですれ違いざま、

「兼吉姐さんが。ああ、下で聞いてよ」

と入ってくるのはお万である。

髪は文金島田、単衣は鼠がかった藍色に大名縞という拵えで、よく稼ぐとは嘘か本当か。

肉づきのよい体ながら、どちらかといえば面長のほうであるのに、杯を洗う器の上にうつむいて、「どっちが丸いかしら」などというのはどういうつもりか。

「荻江の文子さんが来て、小竹も梅子もうちで遊んでいました」

と言うので、

「それなら呼べ」

と座は急に賑やかになった。

三谷が梅子に、

「かわいそうに。風邪をひいている」

と言うと、お万が引き取って、

「この子の寝相といったらございません。それにいくらねんねでも、さっきも文子さんが遊びに来ると、鼻をかもうかしらと相談して」

と笑う。

三谷が、

「色気がないうちが妙、字を分解すると少女だ」

と言えば、兼吉が、

「そこのところは受け合われません。竹ちゃんが岡惚れ帳を拵えれば、『いいえ、あら、嫌』なんてったって話すわ、梅ちゃんも人真似をして、ためになるお客の上には大の字、気に入ったお客の上には上の字が、いくつも重ねて付けてある」

と言う。

三谷が、

「俺の名には上の字が十ばかりあるはず」

とからかえば、

「たくさん付いていますとも」

と笑うのは痩せぎすの小竹、

「あら、大の字のほうだわ」

と正直に言うのはえくぼの梅子、

「上の字なんぞ付けては、お万姐さんに悪いわねえ」

とはチビの文子はなかなかませている。

下から来た女に、

「堀田原の使いは」

と聞くと、

「まだ」

と言うので、追いかけてまた人をやり、あの雨樋の音に負けないようにと、三谷の得意な一中節が始まって、日が暮れるのも気づかなかった。

そもそも堀田原の中屋というのは、ここらではよく知れ渡った呉服屋で、今でこそ帝国意匠会社などという大仰なものもできたが、凝った好みといえば、この中屋と決まっていた。

二番息子の清二郎へ、朝倉から雨を衝いての迎えに、

「お客は」

と尋ねると、

「三谷さんに兼吉さんがお出でです」

とばかりでよくは分からず、呼びにやった車が来ないうち、再度の使いと忙しいので、

「ともかく、すぐに」

と荻江まで人力車で乗りつけ、女主人のお幾婆さんに「何だろう」と相談しても、ここでも分からず、

「そんな噂はなかったけれど、兼吉さんが廃業するので、配り物の浴衣のあつらえでもあるのかしらん」

と言うだけである。

「家の娘、お浅の小花さんが待っておいでだから、帰りにはお寄りでしょうね」

と言うのを後ろに聞いて、朝倉に着いたのは点燈する頃であった。

こちらは一中節を二段まで聞かせされ、夕飯もそのまま済ませたところで、本人の兼吉だけでなく、待つ人が来ないのは落ち着かないものである。

文子が畳の上に置いた団扇を団扇で打ち、下のが上のに着いて上がるのを不思議なことででもあるように、飽きずに繰り返していれば、梅子は枝豆の甘皮を酸漿のように拵え、口のところを指先でつまみ、額に当ててはパチパチと鳴らしている。

そこへ下から、

「清さんがお出でですよ」

という知らせとともに、階段を上ってくる清二郎の姿は、細上布の単衣、ほっそりと上品な男振りで、絣の山藍に引き立って見える色の白さで、

「お急ぎらしい御用は何」

とかしこまる。

「まず一杯」と杯を差した三谷が、七分の酔いを帯びた顔に笑いを浮かべ、

「ご苦労を願ったのは、私の用というのでもなく、例の商用というのでもない。ここにいる兼吉さんから、委細の話はじきにあるはず。一口で申せば何でもないこと。ただもう清さん恋しや、ほうやれほ、というようなわけだ」

と何だかわかりにくい言い草に、兼吉が気の毒がり、

「一中節ももうたくさん。かわいそうに、私だってまだ気が狂うには間があります。なにね、清さん、つまらないことなのよ。そりゃあそうと、清さん、今夜は別に用がないなら、ゆっくり遊んでおいでなさいな」

と、さすがに極まり悪そうなところへ、かねての手はずで女が来て、

「ちょっとこちらへ」

と案内するのは、同じ二階の四畳半で、金網を張った行燈が薄暗く、蚊の少ない土地で蚊帳は吊らないが、布団一つに枕二つがある。

「こりゃ、場所が違いましょう」

と清二郎が出ようとするのを留めるのは兼吉で、胸だけがしきりに騒がれ、夕べから飲んだ酒が急に頭に上る心地がする。

せっかくここまで縒りを掛けながら、日頃の願いの縁の糸が、結ばれようか切れようか、死ぬか生きるか、決まるのは今の束の間と思案するのもまた束の間、心は炎、言葉は氷というありさまである。

「ほほほ、出し抜けだから肝をお潰しだろうね。話せばじきにわかることだから、まあ、ちょっと座ってください」

と言って、枕元の煙草盆を間に置いて二人は座った。

「姐さんがそうおっしゃるからは、きっと訳がございましょうが、お迎えのときからこの部屋へ来るまで、何だかわからないことだらけで、夢を見るような気がしてなりません。いったいこれはどうした次第です」

と言いながら、取り出したのは古代木綿の煙草入れで、静かに一服吸い付けるのをじっと見つめて、募るのは恋である。

「おや、清さんの煙管も伊勢新なのねえ。ええ、これは」

と言いかけたが、これは小花とお揃いとは言いかねてか、口ごもるのが愛らしい。

「ほんと、私のいい気なことねえ。清さんに話をするってぼんやりしていてさ。話というのも本当は大袈裟なくらい」

と兼吉が言い出すのを聞くと、

「この雨の日の退屈紛れに、三谷さんが『兼ちゃんも、誰か呼んで遊べ』と言ったので、『呼ぶ人がない』と言ったら、『松つぁんではどうだ』とのこと。私がつい『松つぁんより清さんがいい』と言ったのが発端で、『小花さんという人がある清さんの名を指したのが、いかにも図々しい』、『どうでも清さんと寝かせて困らせてやる』と言い張って、とうとうここにお前さんをつれてきて済みませんが、ただ少しの間、横にだけなっていてくださればいい」

と言う。

「それでは、姐さん、ほんのお茶番なのねえ。三十分もいたらいいのでしょうか」

「ああ、いいどころじゃあなくってよ。だが、皺になるといけないから、この浴衣だけは着なさいよ。私も着替えるから」

と腰紐姿になると、清二郎は羽織を脱ぎながら、

「私ゃ、急いで来たせいか、さっきから喉が渇いてなりません。ラムネがもらえるなら、姐さん、下へそう言ってください」

と言うので、兼吉はすぐに廊下に出て、降り口から頼むのを、あの六畳からお万が見ていた。

二人は一間にこもっていて、ラムネが来たのを兼吉が部屋に入れた。

しばらくして清二郎は、「湯に」といって降りて戻らなかった。

雨が夜のうちに上がったその翌日の夕暮れ、荻江の家の窓の下で風鈴とともに黙ったままの小花は、文子の口から今朝聞いた座敷の様子がいぶかしく、清さんが朝倉の帰りに寄らなかったのを思い合わせて、塞ぎながら湯に行ったが、聞けば胸ばかり騒がれるのは、お万のあの言葉の端々である。

兼吉さんが腰紐だけで廊下に出たのを見たというのは本当か。

清さんに限ってはと思うのは、やっぱり私の欲目。

さっきお化粧しているとき、二階の笑い声を何事かと尋ねると、お浅さんが立ちながらおっしゃったのは、一足先に兼吉さんが来て、うちの文子と遊びに来ていた梅子を二階に連れて行き、踊りをおさらいしてやるとのこととか。

私に対して昨日から何事もないかのように、その気の軽さがいよいよ憎い。

下りて来たらどう言おうか、あちらからはまたどう言うつもりか。

しょせん内気な私には過ぎた相手と、あれこれ思案もまだ決まらないとき、バタバタと階段を下りてきた梅子と文子が息を切らせて、

「小花姐さんに梅子の左甚五郎が見せたくってよ」

「いいえ、文子さんこそ、京人形の役のくせに笑ってばかりいました」

と言う後ろから兼吉も下りて、

「本当に今日の暑いことねえ」

と何気ないが、

「そうねえ」

と言ったきり、うつむいて気が済まない顔である。

文子が急に思い出して、

「そうそう、さっきからラムネが冷やしてあってよ。兼吉姐さんにあげようや」

と、サイフォンの瓶にコップ三つ四つを何心なく持ってきた。

まず兼吉に注いで出すのを小花が傍からじっと見て、

「姐さん、ラムネが好きね」

と声を震わせまいとしてやっと言うと、

「大好きよ」

と無頓着な返事に、

「ええ、悔しい」

と反り返って正体がなくなった。

その夜、座敷を断って寝ていた小花のもとへ、ついぞなかったことに目と鼻の先に住む兼吉の手紙が届いた。

しかも、その長々しさは、一本の巻紙を使いきったかと思うほどである。

痛む頭をもたげた小花が、癇癪を抑えて拾い読みするその文には、

一筆しめし上げ参らせます。

今は何事も隠さず、打ち明けて申し上げますから、憎い兼吉のためとお思いにならず、可愛い清さんのためとお読み分けください。

申すのもお恥ずかしいことながら、お前様というもののある清さんに、年上の身も恥じずに思いをかけ、できないこと、済まないことと堪えれば堪えるほど、夢現の区別もわきまえずに焦がれましたのはどのような因果か。

これは久しい前からのことですが、ご存知のとおりの私の身持ちは、昨日は誰、今日は誰と浮名が立つのを何とも思わず、ついこの頃までも親方と私の仲は知らない人がないくらいで、お前様にも清さんにも覚られることもなく過ぎてきましたが、昨日三谷さんのお座敷で、ふとした冗談に枝葉が咲き、清さんを呼んでください、呼んでやろうと言われたときの嬉しさはどれほどか、これだけはご自分の身と比べてお察しください。

さて、床を延べた部屋に清さんと入ったときの私の心は、ただ夢のようで自分でもこうこうとはっきり分かっておりませんが、かいつまんで申しますと、本当に本当に卑しく、汚らわしく、筆に書きますのも恥ずかしい次第。

お前様というものがある清さんに、このような身持ちの私が、素直にあれこれ申しましても願いが叶うはずがないので、何事も三谷さんの酒の上から出た戯れのようにして、一緒にさえ寝たならば、どれだけ実があるといっても、まだ年若い清さん、私はこんなお多福でも、傍にいられて気持ちの悪くなるほどの女でもあるまいし、つい手が触り、足が触るというようなことになれば、そのうえで言いたいことも申そうと存じましたには違いなく、あのような悪い心を持ちましたのを決して決して酒の上などとは申さず、ありていにお聞かせしたうえで、お詫びする覚悟です。

女の性は悪いものと我ながら驚きますのは、おとなしく横になっていた清さんの襟へ私が手をやったことです。

そのときに清さんは身を縮めてブルブルと震えなさいました。

女の肌を知らない人というではなし、おかしなことを申すようですが、いろいろな男と寝たことのある私が、ついぞないことに、はっと思って手を引いたとたん、何とも申しようのない気持ちがし、それまで燃え立つようだった胸が、すぐさま氷を浴びせられたようになり、ふっつりと思い切って、清さんにはその手さえ冗談のふりでごまかし、三谷さんの手前、「湯に」と言わせて返しましたので、清さんは何ともお思いにならず、とんだ暇潰しをしたなどとおっしゃっていることと存じます。

この始末を後で考えますに、私に罰でも当たったのか、お前様の念が通っていたのか、拙い心には何とも理解しがたく、この手紙を差し上げる私の心が、お前様によくわかりますか覚束なく思いますが、先程も申しましたとおり、それはどうでもよろしく、ただお前様が清さんを大事にさえしておあげになれば、私の願いもそのほかにはございません。

返す返すも羨ましいのは、清さんのような人をお持ちになるお前様の身の上で、たとえどのように悲しいつらいと思うことがあっても、その悲しいつらいは、頼みになる清さんのような優しい人を持たない者の悲しさつらさに比べては何でもないと、よくよくご理解なさいますよう。

また、私のことは、このうえ未練がましく申したくはありませんが、今までも不身持ちな女の行く末はどうなるべきか、自分で自分が分かりませんし、どうして私はこうなったやら、どうして私はどうなろうか知れないやら、それはお前様に申しても甲斐ないことといたしまして、ここに一つ申し置きますのは、もし少しでもこの手紙の心がお解りになりますなら、夕べ罪のない清さんを罪に堕とさなかったのは兼吉だ、たとえ兼吉が心から罪に堕すまいと思ってではないにしても、罪に堕すことのできないような、何とも知れない心に兼吉はなることがあったということばかりです。

この後、清さんには指もさすまいと思う私ですから、ついぞ何事もなかったようにお付き合いのほど祈り入り参らせます。 かしこ

なおなお、この手紙をお捨てになりますとも、清さんになり誰になりお見せになさいますとも結構です。

小花様へ  兼吉より

とは、さてさて珍しい一通である。

どこが嬉しくてか、小花は身近に置いて離さない。

中屋の家督を松太郎が継いだとき、得意先が多い清二郎は、本所のあたりに別宅を設けて通勤し、

「何遍言っても、あの女でない女房は生涯持ちません」

という執心に、堅実な親類さえ折り合って、木綿ならぬ小花を嫁に取るのに、取引先である木綿問屋の三谷が媒酌したとか。

兼吉はまた今日まで河岸を変えての芸者家業で、

「寝ていない男は、誰様のほかにない」

と、書けば大不敬の罪にも処せられることを言い、馴染みでない客には肝を潰させることもあるが、芸者というのはこうしたものと贔屓する人に望まれて、今も歌うのは、その昔、荻江節の家元・荻江露友の後家であるお幾が、あの朝倉での思わぬ行き違いを老後のすさびに連ねた一節、三下がりで、

「雨の日を二度の迎いにただ往き返り那加屋好みの濡れ浴衣たしか模様は染め違え(雨の日に二度の迎えで待合に行き、濡れ事もなく帰った清二郎。その中屋好みの入浴後に着る浴衣は、たしかに模様が重ならないように染め出した染め違え)」

(おわり)