七
思い出したところで今更どうなるものか、忘れてしまえ、諦めてしまえ、と思案は決めながら、去年の盆には揃いの浴衣を拵え、二人一緒に蔵前の閻魔堂へ参詣したことなどが思うともなく胸に浮かび、盆に入っては仕事に出る気力もなく、
「お前さん、それではなりません」
としきりに忠告する女房の言葉も耳にうるさく、
「ええ、何も言うな。黙っていろ」
と言って横になるのを、
「黙っていては暮らしがたちません。体が悪いなら薬を飲めばよし、お医者にかかるのも仕方がないけれど、お前さんの病はそれではなしに、気さえ持ち直せばどこに悪いところがありましょう。少しは正気になって励んでください」
と言う。
「いつでも同じ事では耳にたこができて、気の薬にはならん。酒でも買ってきてくれ。気紛らしに飲んでみよう」
と言うと、
「お前さん、そのお酒が買えるほどなら、嫌とお言いなさるのを無理に仕事に出てくださいとは頼みません。私の内職だって、朝から夜にかけて十五銭が関の山。親子三人、重湯も満足には飲めないなかで、酒を買えとは、よくよくお前さん、無茶を言う人になりなさった。お盆だというのに、昨日だって太吉には白玉一つこしらえもせず、お精霊様のお棚飾りもこしらえないから、お灯明一つでご先祖様へお詫びを申しているのも、誰の仕業だとお思いなさる。お前さんが道楽を尽くして、お力のような奴めに釣られたから起こったこと。言っては悪いけれど、お前さんは親不孝、子不孝。少しはあの子の将来も思って真人間になってください。お酒を飲んで気を晴らすのは一時、真から改心してくださらなければ心もとなく思われます」
と女房が嘆いても返事はなく、ときおり大きな吐息をつき、身動きもせずに仰向いて寝ている心根が情けない。
こんなに落ちぶれても、お力のことが忘れられないか。
十年連れ添って子までもうけた私にぎりぎりの苦労をさせて、子にはぼろを着させ、家は六畳一間のこんな犬小屋。
世間一帯から馬鹿にされて除け者にされて、春秋の彼岸が来れば、隣近所にぼた餅、団子と配り歩くなかを、「源七の家へはやらないほうがよい。お返しが気の毒だ」といって、親切かしらないが、十軒長屋の一軒は除け者。
男は外出がちだから、少しも気がかりではなかろうが、女心にはやるせないほど切なく悲しく、自然と肩身が狭まって、朝夕の挨拶も人の目の色を窺うような情けない思いもする。
それを思わずに自分の情婦のことばかりを想いつづけ、つれない女の心の底がそれほどまでに恋しいか。
昼も夢に見て独り言をいうのが情けない。女房も子も忘れ果てて、お力一人に命もやる気か。
浅ましい、口惜しい、情けない人と思うが、やはり言葉には出せずに、恨みの涙を目に浮かべている。
ものを言わなければ、狭い家の中もなんとなく寂しげで、暮れゆく空がぼんやりと薄暗くなっていくのに、裏長屋はまして薄暗く、明かりをつけて蚊遣りをいぶし、お初が心細く戸の外を眺めると、いそいそと帰ってくる太吉郎の姿が見える。
何やら大袋を両手に抱えて、
「母さん、母さん、これ貰ってきた」
と、にっこりとして駆け込むので、見ると新開の日の出屋のカステラである。
「おや、こんないいお菓子を誰に貰ってきた。よくお礼を言ったか」
と聞くと、
「ああ、よくお辞儀をしてもらってきた。これは菊の井の鬼姉さんがくれたの」
と言う。
お初は顔色を変えて、
「図太い奴めが。これほど惨めな境遇に投げ込んで、まだいじめ方が足りないと思うのか。この子を遣いに父さんの心を動かしに寄越す。何と言って寄越した」
と言う。
「表通りの賑やかなところで遊んでいたら、どこかのおじさんと一緒に来て、菓子を買ってやるから一緒においでといって、おいらは要らないと言ったけれど、抱いていって買ってくれた。食べては悪いかい」
と、さすがに母の気持ちをはかりかね、顔を覗き込んでためっているので、
「ああ、年がいかないからって、何というわけのわからない子だ。あの姉さんは鬼ではないか。父さんを怠け者にした鬼ではないか。お前の着物がなくなったのも、お前の家がなくなったのも、みんなあの鬼めがしたこと。食らいついても飽き足りない悪魔に、お菓子をもらった、食べてもいいかと聞くだけでも情けない。汚いむさいこんな菓子、家へ置くのも腹が立つ。捨ててしまいな、捨てておしまい。お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎め」
と罵りながら、袋をつかんで裏の空き地へ放り投げると、紙が破れて転がり出た菓子は、竹の荒垣を越えて溝の中にも落ち込んだらしい。
源七がむくりと起きて、
「お初」
と一声大きく言うと、
「何かご用かよ」
と目だけを動かし、振り向こうともしない横顔を睨んで、
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。黙っていればいいことにして、悪口雑言とは何だ。知った人なら菓子くらい子どもにくれるのに不思議もなく、貰ったところで何が悪い。馬鹿野郎呼ばわりは太吉にかこつけて俺への当てこすり。子に向かって父親を讒訴(ざんそ)する女房かたぎを誰が教えた。お力が鬼なら、お前は魔王。商売人が客をだますのは知れたことだが、妻たる身がふて腐れをいって済むと思うか。土方をしようが荷車を引こうが、亭主には亭主の権限がある。気に入らん奴を家には置かん。どこへでも出ていけ、出ていけ、面白くもない女郎(めろう)め」
と叱りつけられて、
「それはお前さん無理だ、邪推が過ぎます。どうしてお前さんに当てつけよう。この子があんまり聞き分けがないのと、お力のやり方の憎らしさに思いあまって言ったことを口実にして、出ていけとまでは惨うございます。家のためを思えばこそ、気に入らないことを言いもする。家を出るくらいなら、こんな貧乏所帯の苦労を辛抱してはおりません」
と泣くと、
「貧乏所帯に飽きがきたなら、勝手にどこへでも行ってもらおう。お前がいなくても乞食にもなるまいし、太吉が育てられないことはない。明けても暮れても俺の悪口かお力への妬み、つくづく聞き飽きてもう嫌になった。きさまが出ないなら、どっちみち同じこと。惜しくもない九尺二間、俺が太吉を連れて出よう。そうなれば十分にがなり立てるのに都合もよかろう。さあ、きさまが行くか、俺が出ようか」
と烈しく言われて、
「お前さんは、そんなら本当に私を離縁する気かい」
「知れたことよ」
といつもの源七ではなかった。
お初は口惜しく悲しく情けなく、口も利けないほど込み上げる涙を飲み込んで、
「これは私が悪うございました。堪忍をしてください。お力が親切で太吉を思ってくれたものを捨ててしまったのは重々悪うございました。堪忍をしてください。なるほど、お力を鬼と言ったからは私は魔王でございましょう。もう言いません、もう言いません。決してお力のことについて、今後とやかく言いませんし、陰で噂もしませんから、離縁だけは堪忍してください。改めて言うまでもないけれど、私には親もなく、兄弟もなく、借家の管理人のおじさんを仲人なり里親なりに立てて嫁に来たのだから、離縁された後の行き場所だってありません。どうぞ堪忍して置いてください。私は憎かろうと、この子に免じて置いてください。謝ります」
と手をついて泣いたが、
「いや、どうしても置かれん」
と言った後は無言で壁に向かって、お初の言葉は耳に入らないようで、これほど邪険な人ではなかったものを、と女房はあきれて、女に魂を奪われるとこれほどまでも浅ましくなるものか、女房を嘆かせたうえ、ついには可愛い子まで飢え死にさせるかも知れない人、今詫びたからといって甲斐はない、と覚悟した。
「太吉、太吉」
と傍へ呼んで、
「お前は父さんの傍と母さんとどちらがいい。言ってみろ」
と聞かれ、
「おいらはお父さんは嫌い。何にも買ってくれないもの」
と正直に答えると、
「そんなら、母さんの行くところへどこへでも一緒に行く気かい」
「ああ、行くとも」
と何とも思わない様子に、
「お前さん、お聞きか。太吉は私につくと言っております。男の子だからお前さんも欲しかろけれど、この子はお前さんの元には置けません。どこまでも私が貰って連れていきます。ようございますか、貰います」
と言うと、
「勝手にしろ。子も何も要らん。連れて行きたければ、どこへでも連れて行け。家も道具も何も要らん。どうとでもしろ」
と寝転んだまま、振り向こうともしないので、
「なに、家も道具もないくせに勝手にしろもないもの。これから身一つになって、したいままの道楽なり何なりお尽くしなさい。もういくらこの子を欲しいと言っても、返すことはございません。返しません」
と念を押して、押入れを探って何やら小さな風呂敷包みを取り出した。
「これはこの子の寝間着の袷、腹がけと三尺帯だけ貰っていきます。お酒のうえでの言葉でもないから、醒めて考え直すこともありますまいが、よく考えてみてください。たとえどのような貧苦のなかでも、二人揃って育てる子は長者の暮らしと申します。別れれば片親、何につけても不憫なのはこの子とお思いになりませんか。ああ、根性の腐った人には子の可愛さもわかりますまい。もうお別れ申します」
風呂敷包みを下げて表へ出ると、
「早くいけ、行け」
と言って、呼び戻してはくれなかった。
(つづく)
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