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  • 「まちこの香箱(かおりばこ)」
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樋口一葉「わかれ道」 3

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

十二月三十日の夜、吉は坂上の得意先へ注文品の納期が遅れたのを詫びに行った。

帰りは、懐手の早足で、裏に板を打ち付けた草履下駄の先にある物を面白そうに蹴り返し、ころころと転げると右に左に追いかけては大溝の中に蹴落として、一人で高笑いしている。

それを聞く者はなく、天上の月はいかにも白々と明るく照らしているが、寒さを知らない体なので、ただ心地よく爽やかだ。

帰りには例の窓を叩こうと思いながら横町を曲がると、いきなり誰かが後ろから追いすがり、両手で吉に目隠しをして忍び笑いをするので、

「誰だ、誰だ」

と指をなでて、

「なんだ、お京さんか。小指の曲がり方でわかる。おどかしても駄目だよ」

と顔を振りのけると、

「憎らしい。当てられてしまった」

と笑い出す。

お京は防寒のお高祖頭巾を目深にかぶり、表裏の模様が異なる風通織の羽織を着て、いつになく贅沢な身なりをしている。

吉三は見上げ見下ろして、

「お前、どこへ行きなすったの。今日明日は忙しくて、おまんまを食べる間もないだろうと言ったではないか。どこへお客様に歩いていたの」

と疑いの目を向けた。

「繰り上げのご年始さ」

と素知らぬ顔をすると、

「嘘を言ってるぜ。三十日の年始を受ける家はないやな。親類へでも行きなすったか」

と聞くので、

「とんでもない親類へ行くような身になったのさ。私は明日あの裏長屋を引っ越すよ。あんまり出し抜けだから、さぞお前、驚くだろうね。私も少し不意なので、まだ本当とも思われない。ともかく喜んでおくれ。悪いことではないから」

と言う。

「本当か、本当か」

と吉はあきれて、

「嘘ではないか、冗談ではないか。そんなことを言っておどかしてくれなくてもいい。俺はお前がいなくなったら、少しも面白いことはなくなってしまうんだから、そんな嫌な冗談はよしておくれ。ええ、つまらないことを言う人だ」

と頭を振る。

「嘘ではないよ。いつかお前が言ったとおり、上等の運が馬車に乗って迎えに来たという騒ぎだから、あそこの裏長屋にはいられない。吉ちゃん、そのうちに絹の揃えを拵えてあげるよ」

「嫌だ。俺はそんなものは貰いたくない。お前、そのいい運というのは、つまらないところへ行こうというのではないか。一昨日、うちの半次さんがそう言っていた。仕立屋のお京さんは八百屋横町で按摩をしている伯父さんの口入れで、どこかのお屋敷へご奉公に出るのだそうだ、なに、小間使いという歳ではなし、奥様付きの女中やお抱えの縫物師のわけはない、三つ輪髷に結って房の下がった被布を着るお妾さんに違いない、どうしてあの顔で仕立屋が通せるものかと、こんなことを言っていた。俺はそんなことはないと思うから、聞き違いだろうと言って大喧嘩をやったんだが、お前、もしやそこへ行くのではないか。そのお屋敷へ行くんだろう」

「なにも私だって行きたいことはないけれど、行かなければならないのさ。吉ちゃん、お前にも、もう会えなくなるねえ」

と淡々と言うが、しおれて聞こえるので、

「どんな出世になるのか知らないが、そこへ行くのは止したらいいだろう。なにもお前、女ひとりの暮らしが針仕事で通せないこともなかろう。あれほどの腕前を持っていながら、なぜそんなつまらないことを考え始めたのか。あんまり情けないではないか」

と、吉は自らの清廉と比べて、

「お止しよ、お止しよ。断っておしまいな」

と言う。

「困ったね」

とお京は立ち止まって、

「それでも、吉ちゃん、私は洗い張りに飽きがきて、もうお妾でも何でもいい、どうせこんなつまらないづくめだから、いっそ、腐れ縮緬を着て生きていこうと思うのさ」

思い切ったことを思わず言って、

「ほほ」

と笑ったが、

「ともかく家へ行こうよ。吉ちゃん、少しお急ぎ」

と言われ、

「なんだか俺は少しも面白いとは思えない。お前、まあ先にお行きよ」

と後について、地上に長く延びた影法師を心細げに踏んでいく。

いつしか傘屋の路地を入って、例の窓の下に立つと、

「ここを毎夜訪れてくれたけれど、明日の晩はもう、お前の声も聞けない。世の中って嫌なものだね」

とため息をつくので、

「それはお前の自業自得だ」

と不満らしく吉三が言った。

お京は家に入るとすぐランプに火を点して、火鉢を掻き起こし、

「吉ちゃんや、おあたりよ」

と声をかけたが、

「俺は嫌だ」

と柱際に立っている。

「それでも、お前、寒いだろう。風邪を引くといけない」

と注意すると、

「引いてもいいやね。構わずにおいておくれ」

と下を向いている。

「お前はどうかおしか、なんだかおかしな様子だね。私の言うことが何か癇にでも障ったの。それならそうと言ってくれたらいい。黙ってそんな顔をしていられると、気になって仕方がない」

と言うと、

「気になんぞかけなくてもいいよ。俺も傘屋の吉三だ、女のお世話にはならない」

と、寄りかかった柱に背をこすっている。

「ああ、つまらない、面白くない。俺は本当に何というのだろう。いろいろな人がちょっといい顔を見せて、すぐにつまらないことになってしまうんだ。傘屋の先代のお婆さんもいい人だったし、紺屋のお絹さんという縮れっ毛の人も可愛がってくれたんだけれど、お婆さんは中風で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くのを嫌がって、裏の井戸へ飛び込んでしまった。お前は人情なしで俺を捨てていくし、もう何もかもつまらない。なんだ、傘屋の油引きになんぞ、百人前の仕事をしたからって褒美の一つも出るではなし、朝から晩まで一寸法師の言われ続けで、それだからといって、一生たってもこの背が伸びようかい。待てば甘露というけれど、俺なんぞには毎日嫌なことばかり降ってきやがる。一昨日、半次の奴と大喧嘩をやって、お京さんだけは人の妾に出るような、はらわたの腐ったのではないと威張ったのに、五日と経たずに兜を脱がなければならないんだろう。そんな嘘っつきの、ごまかしの、欲の深いお前さんを姉さん同様に思っていたのが口惜しい。もう、お京さん、お前には会わないよ。どうしてもお前には会わないよ。長々お世話さま。ここからお礼を申します。人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。もう誰のことも当てにするものか。さようなら」

そう言って立ち上がり、沓脱の草履下駄に足を引っ掛けると、

「ああ、吉ちゃん。それはお前、勘違いだ。なにも私がここを離れるからって、お前を見捨てたりしない。私は本当に姉弟のように思っているんだもの。そんな愛想づかしはひどいだろう」

と、後ろから羽交い絞めに抱き止めて、

「気の早い子だね」

とお京が諭す。

「そんなら、お妾に行くのを止めにしなさるか」

と振り返られて、

「誰も願って行くところではないけれど、私はどうしてもこうと決心しているんだから、それはせっかくだけれど、聞かれないよ」

と言う。

吉は涙目で見つめて言った。

「お京さん、お願いだから、肩の手を離しておくんなさい」

(おわり)

樋口一葉「わかれ道」 2

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

今は亡くなった傘屋の先代に、太っ腹のお松という一代で財をなした女相撲のような老婆がいた。

寺参りの帰りに角兵衛の子どもを拾ってきたのは、六年前の冬のことだ。

「いいよ、親方がやかましく言ってきたら、そのときのこと。可哀想に足が痛くて歩けないと言うと、仲間の意地悪が置き去りにして捨てていったという。そんなところへ帰るに当たるものか。少しもおっかないことはないから、私の家にいなさい。皆も心配することはない。なんの、この子ぐらいの者の二人や三人、台所へ飯台を並べておまんまを食べさせるのに文句がいるものか。年季奉公の証文を取った奴でも、行方をくらます者もいれば、持ち逃げするケチな奴もいる。心がけ次第のものだわな。いわば、馬には乗ってみよ、さ。役に立つか立たないか、置いてみなけりゃ知れはせん。お前、新網へ帰るのが嫌なら、この家を死に場と決めて、勉強をしなけりゃあならないよ。しっかりやっておくれ」

そう言い含められた日から、吉や、吉やと慈しまれて、一心に励んできた。

今では油引きで大人三人分を一手に引き受け、鼻歌まじりにやってのける腕を見る者は、さすが先代は見る目があったと亡き老婆をほめている。

恩人は二年目に亡くなって、今の主人もお内儀さんも息子の半次も気に食わない者ばかりだが、ここを死に場と決めた以上は、嫌だといっても今さらどこに行けるだろう。

体は癇癪で筋や骨が縮まったのか、人から一寸法師、一寸法師と悪く言われるのも口惜しいのに、

「吉や、てめえは親の命日になまぐさ物を食ったろう。ざまあみろ。回りの回りの小仏」

と子どもの遊び歌を持ち出して、仲間の洟垂れ小僧に仕事の上の仇を返される。

握り拳で撲り倒す勇気はあるが、本当に父母がいつ亡くなって、いつが精進日ともわからない身の上を心細く思っては、干場の傘の陰に隠れ、大地を枕に仰向きに寝て、こぼれる涙を飲み込むのは悲しいことだ。

年中着通しの油光りする紺木綿の筒袖を振って、気性の激しい子だと町内で怖がられる乱暴ぶりも、慰める人のない胸苦しさのあまりのことで、少しでも優しい言葉をかけてくれる人がいれば、しがみついて取り付いて離れがたい思いがする。

仕立屋のお京は、今年の春からこの裏長屋へ越してきたが、物事に機転が利いて、長屋中への付き合いもよく、大家である傘屋の者にはことさら愛想を見せた。

「小僧さんたち、着物にほころびでもできたら、私の家へ持っておいで。傘屋さんは多人数で、お内儀さんが針を持っていらっしゃる暇はないだろう。私はいつでも仕事だし、畳紙(たとう)と首っ引きだから、ほんの一針くらい造作はない。一人住まいの相手なしで、毎日毎夜さびしく暮らしているから、手の空いたときには遊びにも来てください」

「私はこんなあけっぴろげな気性だから、吉ちゃんのような暴れん坊さんが大好き。癇癪が起こったときには、表の米屋の白犬を撲ると思って、私の家の洗い返しの着物をつや出しの小槌で打ちにでも来てください。それなら、お前さんも人に憎まれず、私のほうでも大助かり。本当に両方のためになることだから」

そう冗談まじりに言い、吉三がいつの間にか心安く、お京さん、お京さんと入り浸っているのを、職人たちがからかっては、歳の離れた帯屋長右衛門とお半をもじって、

「帯屋の大将とあべこべだ。桂川の道行の場面では、『お半の背中(せな)に長右衛門』と床浄瑠璃に歌わせて、あの帯の上にちょこなんと乗って出るか。こいつはいい茶番だ」

と笑っている。

「男なら真似てみろ。仕立屋の家へ行って、茶棚の奥の菓子鉢の中に、今日は何がいくつあるかまで知っているのは、たぶん俺しかいないはずだ。質屋の禿げ頭め、お京さんに首ったけで、仕事を頼むの何がどうしたのと小うるさく入り込んでは、前掛けだの半襟だの帯の表の布地だのと贈り物をして、ご機嫌を取ってはいるけれど、ついぞ喜んだ挨拶をされたことはない。まして夜でも夜中でも、傘屋の吉が来たとさえ言えば、寝間着のままで格子戸を開けて、今日は一日遊びに来なかったね、どうかおしか、心配していたんだからと、手を取って引き入れられる者がほかにいようか。お気の毒様なこったが、うどの大木は役に立たない。山椒は小粒で珍重される」

そう見下して言うと、

「この野郎め」

と背中をひどく撲られ、

「ありがとうございます」

と済ました顔をしている。

背丈さえあれば冗談といっても許されないだろうが、一寸法師の生意気とつまはじきにしては、いいなぶりものにし、煙草休みの話の種にしていた。

(つづく)

樋口一葉「わかれ道」 1

樋口一葉「わかれ道」(初出:『国民之友』明治29年1月付録「藻塩草」)の現代語訳です。

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

「お京さん、いますか」

と窓の外に来て、とんとんと羽目板を叩く音がする。

「誰だい。もう寝てしまったから、明日来ておくれ」

と嘘を言うと、

「寝たっていいやね。起きて開けておくんなさい。傘屋の吉だよ、俺だよ」

と少し声を大きくして言う。

「嫌な子だね。こんな遅くに何を言いに来たのか、またお餅のおねだりか」

と笑って、

「いま開けるよ。ちょっと辛抱おし」

と言いながら、仕立てかけの縫物に針止めをして立つのは、二十歳過ぎの意気な女だ。

多い髪を忙しい折だからと頭に巻き付けただけで、少し長めの八丈紬の前掛けに、ひどく着古したお召縮緬の半纏を着ている。

急ぎ足で沓脱(くつぬぎ)へ下りて格子戸に添った雨戸を開けると、

「お気の毒さま」

と言いながらすっと入るのは、一寸法師とあだ名のある町内の暴れ者で、傘屋の吉という持てあましの小僧だ。

歳は十六だが、ちょっと見たところは十一歳か十二歳のようだ。肩幅が狭く、顔は小さく、目鼻立ちはきりっとして利口そうだが、いかにも背が低いので、人が嘲ってあだ名を付けている。

「ごめんなさい」

と火鉢の傍へづかづかと上がるので、

「お餅を焼くには火が足りないよ。台所の火消壷から消し炭を持ってきて、お前が勝手に焼いてお食べ。私は今夜中にこれを一枚仕上げなければならない。角の質屋の旦那さんの御年始着だから」

と針を手に取った。

吉が

「ふふん。あの禿げ頭には惜しいものだ。仕立て下ろしを俺でも着てやろうか」

と言うので、

「馬鹿をお言いでない。他人の仕立て下ろしを着ると、出世ができないと言うじゃないか。今から伸びることができなくちゃ仕方がない。そんなことはよその家でもしてはいけないよ」

と注意する。

「俺なんぞご出世は願わないんだから、他人の物だろうが何だろうが、着てやるだけ得さ。お前さん、いつかこう言ったね。運が向いてきたら、俺に絹の着物を拵えてくれるって。本当に拵えてくれるかい」

真面目な顔になって聞くと、

「それは拵えてあげられるようなら、おめでたいんだもの、喜んで拵えるがね。私のなりを見ておくれ、こんなありさまで人様の縫物をしている境遇じゃないか。まあ、夢のような約束さ」

と言って笑っている。

「いいよ、それは。できないときに拵えてくれとは言わない。お前さんに運が向いてきたときのことさ。まあ、そんな約束でもして喜ばしておいておくれ。こんな野郎が羽織も着物も絹の揃えを着たところで、面白くもないけれども」

淋しそうな笑顔を見せるので、

「そんなら、吉ちゃん。お前が出世するときには私にもしておくれか。その約束も決めておきたいね」

と微笑んで言う。

「そいつはいけない。俺はどうしても出世なんぞはしないんだから」

「なぜ」

「なぜでもしない。誰かが来て、無理矢理に手を取って引き上げても、俺はここにこうしているのがいいんだ。傘屋の油引きが一番いいんだ。どうせ紺の木綿の筒袖に三尺帯を背負って産まれてきたんだろうから、柿渋を買いに行くとき、代金をちょっとごまかして、吹き矢の一本でも当たりを取るのがいい運さ。お前さんなんぞは元が立派な人だというから、今に上等の運が馬車に乗って迎えに来るのさ。だけれども、お妾になるって意味じゃないぜ。悪く取って怒らないでおくれよ」

と、炭火をいじりながら身の上を嘆くので、

「そうさ。馬車の代わりに火の車でも来るんだろう。胸が怒りで燃えることがずいぶんあるからね」

と、お京は物差しを杖に振り返って、吉三の顔をじっと見た。

いつものように台所から炭を持ち出して、

「お前は食いなさらないか」

と聞くと、

「いいえ」

とお京は首を振る。

「じゃあ、俺だけご馳走になろうかな。本当にうちのケチな奴らめ、やかましい小言ばかり言いやがって、人を使う方法も知りやがらない。死んだお婆さんはあんなではなかったけれど、今の奴らときたら一人として話せるのはいない。お京さん、お前はうちの半次さんを好きか。ずいぶん嫌味で、思い上がった奴じゃないか。親方の息子だけれど、俺はあいつだけはどうしても主人とは思えない。機会があるたび、喧嘩をしてやり込めてやるんだが、ずいぶん面白いよ」

と話しながら、金網の上に餅をのせて、

「おお、熱っ」

と指先を吹いた。

「俺はどうも、お前さんのことが他人のように思えないのは、どうしてだろう。お京さん、お前は弟を持ったことはないのか」と聞かれて、「私は一人っ子で兄弟はいないから、弟も妹も持ったことは一度もない」

と言う。

「そうかなあ。それじゃあ、やっぱり何でもないんだろう。どこからか、こう、お前のような人が俺の血のつながった姉さんだとか言って出てきたら、どんなに嬉しいか。首っ玉にかじり付いて俺はそれきり往生しても喜ぶんだが、本当に俺は木の股からでも出てきたのか、ついぞ親類らしい者に会ったこともない。それだから、何度も何度も考えては、俺はもう一生誰にも会うことができないくらいなら、今のうちに死んでしまったほうが気楽だと考えるがね。それでも欲があるから可笑しい、ひょっくり変てこな夢なんかを見てね。普段優しいことの一言でも言ってくれる人が、お袋や親父や姉さんや兄さんのように思われて、もう少し生きていようかしら、もう一年も生きていたら、誰か本当のことを話してくれるかと楽しんでね。面白くもない油引きをやっているが、俺みたいな変な者が世間にいるだろうかねえ。お京さん、お袋も親父も、からっきし当てがないんだよ。親なしで産まれてくる子がいようか、俺はどうしても不思議でならない」

焼きあがった餅を両手で叩きつつ、いつも言うところの心細さを繰り返すので、

「それでも、お前、笹の蔓模様の錦のお守り袋というような証拠はないのかい。何か手掛かりはありそうなものだね」

とお京が言う。

それを打ち消して、

「なに、そんな気の利いたものはありそうにもない。生まれるとすぐに橋のたもとに貸赤子に出されたんだなどと、作業場の奴らが悪口を言うが、もしかするとそうかもしれない。それなら俺は乞食の子だ。お袋も親父も乞食かもしれない。表を通る襤褸(ぼろ)を下げた奴がやっぱり俺の親類一族で、毎朝決まって貰いにくる足と目が悪いあの婆あなんかが、俺にとって何に当たるか知れはしない。話さなくてもお前はたいてい知っているだろうけれど、今の傘屋に奉公する前は、やっぱり俺は角兵衛の獅子をかぶって芸をして歩いていたんだから」

としおれている。

「お京さん、俺が本当に乞食の子なら、お前は今までのように可愛がってはくれないだろうか。振り向いて見てはくれまいね」

と言うので、

「冗談をお言いでない。お前がどんな人の子でどんな身の上か、それは知らないが、どんな境遇だからって嫌がるとか嫌がらないとかいうことはない。いつものお前らしくない情けないことをお言いだけれど、私がお前なら、非人でも乞食でも少しも構いはしない。親がなかろうが兄弟がどうだろうが、自分ひとり出世をしたらよかろう。なぜそんな意気地のないことをお言いだい」

と励ますと、

「俺はどうしても駄目だよ。何にもしようとも思わない」

と下を向いて顔を見せなかった。

(つづく)