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樋口一葉「裏紫」

樋口一葉「裏紫」(初出:『新文壇』明治29年2月、未完)の現代語訳です。

   

夕暮れの店先に、郵便脚夫が女文字の手紙を一通投げ込んで行った。

炬燵の間のランプの陰で読んで、くるくると帯の間に巻き納めると、立居が気になって心配なことはひととおりではない。

自ずと様子に表れて、お人好しの旦那殿が、「どうかしたか」とお聞きになるので、

「いえ、格別のことでもございませんでしょうけど、仲町の姉が何か心配事があるので、こちらから行けばいいのだけれど、やかましやの夫が暇といっては毛筋ほどもくれないうるささで、夜分でも帰りはこちらから送らせるから、旦那殿にお願いしてちょっと来てくれないだろうか。待っている、という手紙でございます。また、継娘と揉め事でも起こりましたのか。気が小さい人なので何事も口には出せず、うんと胸を痛めるのがあの人の性分。困りものでございます」

とわざと高笑いをして聞かせると、

「はてさて、気の毒な」

と太い眉を寄せて、

「お前にすれば、たった一人のきょうだい。善悪を聞き分けねばならない役を、笑い事にしてはおかれまい。何事の相談か、行って様子を見たらよかろう。女は気が小さいもの。待つとなっては、一時も十年のように思われるだろうに。お前の怠りをわしのせいに取られて、恨まれても徳が行かないことだ。夜は格別の用もない。早く行って聞いてやればよかろう」

と可愛い妻の姉のことなので、優しい許しが願わずに出ると、飛び立つほど嬉しいのをこちらはわざと顔にも出さない。

「では、行きましょうか」

と不承不承にタンスへ手をかけると、

「不実なことを言わずに早く行ってやれ。向こうはどれほど待っているか知れないぞ」

と知らぬことなので、仏のように情け深い旦那殿が急き立てると、良心の呵責か、自ずと顔がほてって、胸では動悸の波が高くなった。

糸織の小袖を重ねて、縮緬の羽織にお高祖頭巾、背の高い人なので、夜風を防ぐ角袖外套がよく似合う。

「では、行ってきます」

と店口に駒下駄を直させながら、

「太吉、太吉」

と小僧の背中を人差し指の先で突いて、

「お舟を漕ぐ真似に精を出して、店の物をちょろまかされないようにしておくれ。私の帰りが遅いようなら、構わずに戸を下ろして、行火にあたるなら、いつまでも床の中へ入れておいてはならないよ」

「さんは台所の火の元に気をつけて、旦那のお枕元には、いつものとおりお湯沸かしにお煙草盆を忘れないようにして、ご不自由させますな。なるだけ早く帰るけれど」

と硝子戸に手をかけると、旦那殿が声をかけて、

「車を呼んでやらないか、どうせ歩いては行かれないまいに」

と甘ったるい言葉を口にする。

「なんの、商人の女房が店から車を乗り出すのは、栄耀の沙汰でございます。そこらの角から適当に値切って乗ってまいりましょう。これでも勘定は知っていますから」

と可愛らしい声で笑うと、

「世帯じみたことを」

と旦那殿は恐悦顔になる。

見ないようにして妻は表へ出たが、大空を見上げてほっと息をつくとき、曇ったような表情にいよいよ暮が深くなった。

どこの姉様からお手紙が来ようか、真っ赤な嘘を、と我が家が振り返られる。

何事もご存じなくて、快いお顔をして暇をくださるもったいなさ。

あのような毒のない、疑いといってはつゆほどもお持ちにならない心の美しい人を、よくもよくも舌先三寸に騙して、心のままの不義放埓。

これがまあ、人の女房の所業だろうか。

何という悪者の、人でなしの、法も道理も無茶苦茶の犬畜生のような心だろう。

このような悪戯の畜生を、ご存じないこととはいえ、天にも地にもないかのように可愛がってくださって、私のことといえば、ご自分の身をないものにして言葉を立てさせてくださるお気持ち。

ありがたい、嬉しい、恐ろしい、あまりのもったいなさに涙がこぼれる。

あのような夫を持つ身の何が不足で、剣の刃渡りをするような危ない企みをするのやら。

可哀そうに、あの人のよい仲町の姉さんまでを引き合いにして、三方四方を嘘で固めて、この足はまあどこへ向く。

思えば私は、悪党、人でなし、悪戯者の不義者の、まあ何という心得違い、と辻に立って歩くこともできない。

横町の角を二つ曲がって、今は我が家の軒は見えないのを振り返っては、熱い涙がはらはらとこぼれた。

夫の名は小松原東二郎、西洋小間物の店は名ばかりで、ありあまる財産を蔵の中に寝かせ、今の世の中の勘定さえ知らないお人好しで、恋女房のお律の機敏さは、奥も表も平手に揉んで、美しい目尻で夫の立つ腹も和らげれば、可愛らしい口元からお客様への世辞も出る。

「年も根っから行きなさらないのに、お利口なお内儀さま」と人が見るほど褒められ者の、この人自身の裏道の行い。

人は知るまいと自らをごまかしても、優しい夫の心配りがあいにく纏いつく気がして、お律は路傍に立ちすくんだままである。

行くまいか、行くまいか、いっそ思い切って行くまいか。

今日までの罪は、今日までの罪。

今から私さえ気持ちを改めれば、あの方にしてもそれほど未練はおっしゃらないだろうし、お互いに清いお付き合いをして、人が知らないうちに汚れを濯いでしまったなら、今から後のあの方のため、私のためになるだろう。

なまじっか恋い焦がれて付き纏っても、晴れて添われる仲ではない。

可愛い人に不義の名を着せて、少しでもそれが世間に知れたらどうしよう。

私はともかく、あの方はこれからのご出世前。一生を暗闇にさせて、それで私は満足に思われるだろうか。

ああ、嫌なこと、恐ろしい。

何と思って私は逢いに出てきたのか。

たとえお手紙が千通来ようと、行きさえしなければ、お互い傷にはならないだろうに。

もう思い切って帰りましょう、帰りましょう、帰りましょう。

ええ、もう私は思い切った、と路上で向きを変えて駒下駄を返すと、あいにく夜風の寒さが身に染みて、夢のような考えは、またもやふっと吹き破られる。

ええ、私はそのような心弱いことに引かれてなろうか。

最初、あの家に嫁入りするときから、東二郎殿を夫と決めて行ったのではないのだから。

形は行っても心は決してやるまいと決めていたのに、今更になって何の義理張り。

悪人でも、悪戯でも構いはしない。

お気に入らないなら、お捨てなさい。捨てられれば、かえって本望。

あのような愚物様を夫に奉って、吉岡さんを袖にするような考えを、なぜしばらくでも持ったのだろう。

私の命がある限り、逢い通しましょう、切れますまい。

夫を持とうと、奥様がおできになろうと、この約束は破るまいと言っていたのに、誰がどのように優しかろうと、ありがたいことを言ってくれようと、私の夫は吉岡さんの他にはないのだから。

もう何事も思いますまい、思いますまい、と頭巾の上から耳を押さえ、急ぎ足に五六歩駆け出すと、胸の動悸はいつしか止んで、心静かに気が冴えて、色のない唇には冷ややかな笑みさえ浮かんだ。