泉鏡花「竜潭譚」 10
以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。
千呪陀羅尼(せんじゅだらに)
毒があると疑うので、ものも食べず、薬もどうして飲むだろうか。
美しい顔をしていても、優しいことを言っても、偽りの姉には、私は言葉もかけないつもりだ。
眼に触れて見えるものといえば、猛り狂い、罵り叫んで荒れていたが、ついには声も出ず、体も動かず、自分と他人を区別できず、死ぬような心地になっていたのを、うつらうつらと担き上げられて高い石段を上り、大きな門を入って、赤土がきれいに掃かれた一筋の長い道の、左右には石燈籠とざくろの小さい木が同じくらいの距離で代わる代わる続いているのを行き、香の薫りが染みついた太い円柱のきわで、寺の本堂に据えられた。
と思う耳の傍で竹を割る響きが聞こえ、数人の僧たちが一斉に声を揃え、高らかに誦する声が、耳が聞こえなくなるほど喧しくて堪えられない。
禿頭を並べている役に立たない法師たちが、どうかすると、拳を上げて一人の頭を打とうとしたが、一幅の青い光がサッと窓を射て、水晶の念珠が瞳をかすめ、ハッと胸を打ったので、ひるんでうずくまったとき、若い僧が円柱をいざり出ながらひざまづいて、サラサラと金襴のとばりを絞ると、華やかで美しい御厨子の中に尊い像が拝まれた。
読経の声が一段と高まったとたんに、激しい雷が天地に鳴った。
端厳として趣深いお顔、雲の袖、霞の袴、ちらちらと瓔珞(ようやく)をお掛けになった玉のような胸に、しなやかな手を添えて、しっかりと幼子を抱いていらっしゃるが、仰いでいると瞳が動き、微笑まれると思ったとき、優しい手の先が肩にかかって、姉上がお念じになった。
滝がこの堂にかかるかと思うほど、折しも雨が降りしきった。
渦巻いて寄せる風の音が、遠くの方から呻ってきて、ドッと寺中に打ち当たる。
本堂が青光りして、激しい雷が堂の上空を転がっていくのにひどく驚きながら、今は姉上を頼まずにおられようか、ああと膝に這い上がって、しっかりとその胸を抱いたが、これを振り捨てようとはなさらないで、温かい腕が私の背中で組み合わされた。
そうすると気も心も弱々しくなっていく。
ものははっきりと見え、耳鳴りが止んで、恐ろしい風雨の中で陀羅尼を唱える聖の声がさわやかに聞き取られた。
惨めで心細く、何となく恐ろしいので、身の置き所がなくなった。
体が消えてしまえばよいと、両手で肩にすがりながら顔でその胸を押し分けると、襟元を開かれながら、乳の下に私の頭を押し入れ、両袖を重ねて深く私の背中を覆ってくださった。
御仏がその幼子を抱いていらっしゃるのも、これなのだという嬉しさで、落ち着き、清々しい心地で、胸中が平穏になった。
やがて陀羅尼も終わった。
雷の音も遠ざかる。
私の背中をしっかりと抱いていらっしゃる姉上の腕もゆるんだので、そっとその懐から顔を出して、怖々とその顔を見上げた。
美しさは、以前と変わらないが、ひどくやつれていらっしゃった。
雨風はなお激しく、表を窺うことさえできない。
静まるのを待つと、一晩中荒れ通しだった。
家に帰れそうにもないので、姉上は夜通しで祈願なさった。
その夜の風雨で、車山の山中、俗に九ツ谺といった谷が、明け方にきこりが発見したのだが、たちまち淵になったという。
里の者、町の人が皆こぞって見にいく。
後日、私も姉上とともに来て見た。
その日、空はうららかで、空の色も水の色も青く澄み、そよ風がゆっくりとさざ波を立てる淵の上には、塵一つ浮かんでおらず、翼の広い白い鳥が青緑色の水面をゆったりと横切って舞った。
凄まじい嵐だったものだ。
この谷は元、薬研(やげん)のような細長い舟形をしていたという。
幾株とない常緑樹が根こそぎになり、谷間に吹き倒されたので、山腹の土が落ちて溜まり、底を流れる谷川を堰き止めると、自然の堤防となって凄まじい水を湛えた。
一たびここが決壊すれば、城の端の町は水底の都となるだろうと、人々が恐れ迷って、懸命に土を盛り、石を伏せて、堅固な堤防を築いたのが、ちょうど今の関屋少将夫人である姉上が十七のときなので、年が経ち、双葉だった常盤木ももう丈が伸びた。
草が生え、苔むして、昔からこうだったろうと思い紛うばかりである。
「ああ、小石を投げるな。美しい人の夢を驚かすだろう」
と、活発な友人のいたずらを叱り留めた。
若く清らかな顔をした海軍少尉候補生は、夕暮れに黒みを帯びた青色を湛えている淵に臨んで粛然とした。
(おわり)
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