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  • 「まちこの香箱(かおりばこ)」
    に、これまで書いてきた誤訳御免の「現代語訳」カテゴリーをこちらに移動しました。 以後、明治期の文語体小説・評論の現代語訳は、こちらで不定期更新しています。 試験やレポートのために訪問された方は、ご自分で原文や研究書・論文を確かめてくださいね^^
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泉鏡花「竜潭譚」 10

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   千呪陀羅尼(せんじゅだらに)

毒があると疑うので、ものも食べず、薬もどうして飲むだろうか。

美しい顔をしていても、優しいことを言っても、偽りの姉には、私は言葉もかけないつもりだ。

眼に触れて見えるものといえば、猛り狂い、罵り叫んで荒れていたが、ついには声も出ず、体も動かず、自分と他人を区別できず、死ぬような心地になっていたのを、うつらうつらと担き上げられて高い石段を上り、大きな門を入って、赤土がきれいに掃かれた一筋の長い道の、左右には石燈籠とざくろの小さい木が同じくらいの距離で代わる代わる続いているのを行き、香の薫りが染みついた太い円柱のきわで、寺の本堂に据えられた。

と思う耳の傍で竹を割る響きが聞こえ、数人の僧たちが一斉に声を揃え、高らかに誦する声が、耳が聞こえなくなるほど喧しくて堪えられない。

禿頭を並べている役に立たない法師たちが、どうかすると、拳を上げて一人の頭を打とうとしたが、一幅の青い光がサッと窓を射て、水晶の念珠が瞳をかすめ、ハッと胸を打ったので、ひるんでうずくまったとき、若い僧が円柱をいざり出ながらひざまづいて、サラサラと金襴のとばりを絞ると、華やかで美しい御厨子の中に尊い像が拝まれた。

読経の声が一段と高まったとたんに、激しい雷が天地に鳴った。

端厳として趣深いお顔、雲の袖、霞の袴、ちらちらと瓔珞(ようやく)をお掛けになった玉のような胸に、しなやかな手を添えて、しっかりと幼子を抱いていらっしゃるが、仰いでいると瞳が動き、微笑まれると思ったとき、優しい手の先が肩にかかって、姉上がお念じになった。

滝がこの堂にかかるかと思うほど、折しも雨が降りしきった。

渦巻いて寄せる風の音が、遠くの方から呻ってきて、ドッと寺中に打ち当たる。

本堂が青光りして、激しい雷が堂の上空を転がっていくのにひどく驚きながら、今は姉上を頼まずにおられようか、ああと膝に這い上がって、しっかりとその胸を抱いたが、これを振り捨てようとはなさらないで、温かい腕が私の背中で組み合わされた。

そうすると気も心も弱々しくなっていく。

ものははっきりと見え、耳鳴りが止んで、恐ろしい風雨の中で陀羅尼を唱える聖の声がさわやかに聞き取られた。

惨めで心細く、何となく恐ろしいので、身の置き所がなくなった。

体が消えてしまえばよいと、両手で肩にすがりながら顔でその胸を押し分けると、襟元を開かれながら、乳の下に私の頭を押し入れ、両袖を重ねて深く私の背中を覆ってくださった。

御仏がその幼子を抱いていらっしゃるのも、これなのだという嬉しさで、落ち着き、清々しい心地で、胸中が平穏になった。

やがて陀羅尼も終わった。

雷の音も遠ざかる。

私の背中をしっかりと抱いていらっしゃる姉上の腕もゆるんだので、そっとその懐から顔を出して、怖々とその顔を見上げた。

美しさは、以前と変わらないが、ひどくやつれていらっしゃった。

雨風はなお激しく、表を窺うことさえできない。

静まるのを待つと、一晩中荒れ通しだった。

家に帰れそうにもないので、姉上は夜通しで祈願なさった。

その夜の風雨で、車山の山中、俗に九ツ谺といった谷が、明け方にきこりが発見したのだが、たちまち淵になったという。

里の者、町の人が皆こぞって見にいく。

後日、私も姉上とともに来て見た。

その日、空はうららかで、空の色も水の色も青く澄み、そよ風がゆっくりとさざ波を立てる淵の上には、塵一つ浮かんでおらず、翼の広い白い鳥が青緑色の水面をゆったりと横切って舞った。

凄まじい嵐だったものだ。

この谷は元、薬研(やげん)のような細長い舟形をしていたという。

幾株とない常緑樹が根こそぎになり、谷間に吹き倒されたので、山腹の土が落ちて溜まり、底を流れる谷川を堰き止めると、自然の堤防となって凄まじい水を湛えた。

一たびここが決壊すれば、城の端の町は水底の都となるだろうと、人々が恐れ迷って、懸命に土を盛り、石を伏せて、堅固な堤防を築いたのが、ちょうど今の関屋少将夫人である姉上が十七のときなので、年が経ち、双葉だった常盤木ももう丈が伸びた。

草が生え、苔むして、昔からこうだったろうと思い紛うばかりである。

「ああ、小石を投げるな。美しい人の夢を驚かすだろう」

と、活発な友人のいたずらを叱り留めた。

若く清らかな顔をした海軍少尉候補生は、夕暮れに黒みを帯びた青色を湛えている淵に臨んで粛然とした。

(おわり)

泉鏡花「竜潭譚」 9

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   ふるさと

老夫は私を助けて舟から出した。

またその背中を向けている。

「泣くでねえ、泣くでねえ。もうじきに坊っさまの家じゃ」と慰めた。

悲しいのはそれではないが、言っても仕方がなくてただ泣いていた。

次第に体の疲れを感じて、手も足も綿のように軽く引っかけるように肩に担がれ、顔を垂れて運ばれた。

見覚えのある板塀のあたりに来て、日がやや暮れかかるとき、老夫は私を抱き下ろして、溝の縁に立たせ、ほくほく微笑みながら、慇懃に会釈した。

「おとなにしさっりゃりませ。はい」

と言い捨ててどこへ行くのだろう。

別れは彼にも惜しかったが、後を追える力もなくて見送るだけだった。

目指す方角もなく、歩くともなく足を動かすが、頭はふらふらとして足が重たくてうまく進めない。

前に行くのも、後ろに帰るのも、みな前から面識がある者だが、誰も取り合おうとはせずに行き来している。

それにしても、まだ何かありそうに私の顔を見ながら行くのが、冷ややかに嘲るように憎らしそうなのは腹立たしい。

おもしろくない町だとばかりに、足は思わず向き直って、とぼとぼとまた山のある方に歩き出した。

けたたましい足音がして、わしづかみに襟をつかむ者がいる。

驚いて振り返ると、わが家の後見をしている奈四郎という逞しい叔父が、凄まじい表情で、

「つままれ者め、どこをほっつく」

と喚きざまに引っ立てた。

また庭に引き出して水を浴びせられるかと、泣き叫んで身を振りよじるが、押さえた手をゆるめず、

「しっかりしろ、やい」

と目もくらむほどに背中を叩き、宙に吊るしながら、走って家に帰った。

立ち騒ぐ召使いたちを叱りながらも、細引き縄を持って来させ、しっかりと両手を結わえきれず、奥まった三畳の暗い一間に引っ立てていき、そのまま柱に縛りつけた。

近く寄れ、食い裂いてやると思うばかりで、

「歯がみして睨んでいる。眼の色が怪しくなった。吊り上がった目尻は憑き物の仕業よ」

と言って、寄ってたかって口ぐちに罵るのが無念だった。

表の方がざわめいて、どこかに行っていた姉上がお帰りになったらしく、襖をいくつかバタバタといわせて、もうここにいらっしゃった。

叔父は部屋の外で遮り迎えて、

「ま、やっと取り返したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走っていて、隙があると駆け出すじゃ。魔どのがそれ、しょっぴくでの」

と戒めている。

言うことがよく私の思いを捉えていた、そうだ、隙さえあれば、どうしてここに留まっていよう。

「あ」

とだけ応えて、姉上が転がり入り、しっかりと取り付きなさった。

無言で、さめざめと泣いていらっしゃる。

お情けが手にこもって、抱かれた私の胸は絞られるようだった。

姉上の膝に寝ている間に、医師が来て脈を窺ったりなどした。

叔父は医師とともにあちらに去った。

「ちさや、どうぞ気をたしかに持っておくれ。もう姉さんはどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだろう、私だよ」

とため息をつきながら、じっと私の顔を見守っていらっしゃる。

涙の跡がしたたるほどだ。

その心を安んじようと、無理に顔をつくってニコッと笑って見せた。

「おお、薄気味が悪いねえ」

と傍にいた奈四郎の妻である人がつぶやいて身震いした。

やがてまた人々が私を取り巻いて、あったことなどを責めるように聞いた。

詳しく語って疑いを解こうと思うが、幼い言葉で順序正しく語れようか。

根掘り葉掘り問うのに、いちいち説明しようにも、私はあまりに疲れていた。

うつろな気持ちで何を言ったろう。

ようやく縛るのは許されたが、なお気が狂った者として私を扱った。

言うことは信じられず、することはみな人の疑いを増すのをどうすればよいだろう。

じっと閉じ込められて庭にも出さず、日が過ぎた。

血色が悪くなって痩せもしたと、姉上が気遣いなさって、後見の叔父夫婦にはせっぱ詰って隠しながら、そっと夕暮れに人目を忍び、表の景色を見せてくださったが、門のあたりにいた子どもたちが、私の姿を見ると一斉に、

「あれ、さらわれ者の、気違いの、狐憑きを見よや」

と言いながら、砂利、小砂利をつかんで投げつけるのは、普段親しかった友だちである。

姉上は袖で私をかばいながら、顔を赤くして逃げ戻られた。

人目のないところに私を引き据えたとたんに、押さえつけ、お打ちになった。

悲しくなって泣き出すと、慌ただしく背中をさすって、

「堪忍しておくれよ、よ、こんな可哀相なものを」

と言いかけて、

「私あ、もう気でも違いたいよ」

としみじみとお訴えになった。

いつもの私と変わらないのを、どうしてそう誤解するのか。

この世でただ一人の懐かしい姉上まで、私の顔をみるたびに、

「気をたしかに、心を鎮めよ」

と涙ながらに言われるので、さてはどういうわけか、気が狂ったのではないかと、自分自身を危ぶむように、そのたびになっていき、果ては本当にもの狂おしくもなっていくのである。

たとえば、怪しい糸が十重二十重に自分を取り巻く心地がした。

徐々に暗い中に奥深く落ち込んでいく思いがする。

それを刈り払い、逃れ出ようとしても、その術はなく、すること、なすこと、人が見て必ず眉をひそめ、嘲り、笑い、卑しめ、罵り、または悲しんで心配したりするので、気が立ち、心が激し、ただ焦れに焦れて、すべてのもの皆が私を腹立たせる。

悔しく腹立たしいまま、周囲はことごとく敵だと思われる。

町も、家も、木も、鳥籠も、またそれが何だというのだ。

姉も本当の姉なのか、前には一度私を見てその弟を忘れたことがある。

塵一つとして私の眼に入るものは、すべて何かが化したもので、恐ろしい怪しい神が私を悩まそうとして現したものだろう。

だから、姉が私の快復を祈る言葉も、私に気を狂わせるように、わざとそう言うのだろうと、一度思っては堪らない。

力があるなら思うままにどうにかしたい、しよう、近づけば食い裂いてくれよう、蹴飛ばしてやろう、掻きむしろう、隙があれば飛び出して、九ツ谺と教えた貴い美しいあの人のもとに逃げ去ろうと、胸が湧き立つときがあると、再び暗室に縛られた。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 8

   渡し船

夢かまぼろしかも区別がつかないで、心を鎮めてじっと見ると、片手は私に腕枕をなさった元のまま、柔らかに力なげに布団の上に垂れていらっしゃる。

片手を胸に当てて、たいそう白くたおやかな五本の指を開いて、黄金の目貫がキラキラと美しい、鞘の塗りが輝いている小さい守り刀をしっかりと持つともなく、乳のあたりに落として据えている。

鼻の高い顔が仰向いて、唇はものを言うように、閉じた眼は微笑むように、さらさらとした髪が枕に乱れかかっている。

それも違わないのに、胸に剣さえお乗せになっているので、亡き母上のそのときの様子と違うようには見えないのだ。

これは、この方も亡くなられたのだと思う不吉さから、早く取り除けようと胸の守り刀に手をかけて引くと、切羽がゆるんで、青い光が眼を射た瞬間に、どういうはずみでか血がさっと迸った。

目の前が真っ暗になった。

ひたひたと流れにじむのを、しまったと思って両手の拳でしっかりと押さえたが、血は止まらず、タプタプと音がするばかりで、ぽたぽたと流れつたう血の紅色が着物を染めた。

美しい人はひっそりとして、石像のように静かな鳩尾の下から、やがて半身が血で浸し尽くされた。

押さえた私の手には血の色は付かないで、灯に透かす指の中が紅なのは、人の血が染まった色ではない。

怪しんで撫でてみた掌は、その血には濡れもせず、気がついてよく見ると、押しやった夜着が露わになり、生糸の絹織物を透けて見える、その肌にまとっていらっしゃる紅の色であった。

今となっては無我夢中で、声高に「母上、母上」と呼んだが、叫んだが、揺り動かし、押し動かしたが、甲斐はなくて、ただ泣き続けて、いつの間にか寝たらしい。

顔が温かく、胸を押される気がして眼が覚めた。

空は青く晴れて、日差しがまぶしく、木も草もてらてらと光って暑いほどである。

私はもう夕べ見た顔の赤い老夫に背負われて、ある山路を行くのであった。

後ろからはあの美しい人がついて来られた。

さては頼んでいらっしゃったように、家にお送りになるのだろうと推し量るだけで、私の胸中はすべて見透かすほどに知っていらっしゃるようなので、別れが惜しいのも、ことの怪しさも、口に出して言うのは無益である。

教えるべきことであれば、あちらから先に口に出されるであろう。

家に帰らなければならない私の運ならば、無理に留まりたいと願ったところでどうしようもない、留まれる理由があれば、とおとなしく、ものも言わずに行く。

断崖の左右に聳えて、しずくの音がするところがあった。

雑草が高い小道があった。

常緑樹の中を行くところもあった。

聞き知らない鳥が歌った。

褐色の獣がいて、ときおり叢に躍り入った。

踏み分ける道というほどでもなかったが、昨年の落ち葉が道を埋め、人が多く通るところとも見えなかった。

老夫は一丁の斧を腰にしていた。

例によって、のしのしと歩きながら、茨などが生い茂って着物の袖を遮るのに遭えば、ズカズカと切り払って、美しい人をお通しする。

そのため山路の困難はなく、高い塗下駄が見え隠れし、長い裾を捌きながらいらっしゃった。

こうして大沼の岸に臨んだ。

水は広々として藍色を湛え、まぶしい日差しもこの森には差さず、水面を渡る風は寒く、サッと音を立てている。

老夫はここに来て、そっと私を下ろした。

走り寄ると、女は手を取って、立ちながら肩をお抱きになる。

着物の袖が左右から長く私の肩に掛かった。

蘆の間の小舟のともづなを解いて、老夫は私を抱えて乗せた。

一緒でなければと、しばらくむずかったが、めまいがするからとお乗りにならず、さようならとおっしゃる間に棹を立てた。

舟は出た。

ワッと泣いて立ち上がったが、よろめいて尻餅をついた。

舟というものには初めて乗った。

水を切るたびに目くるめき、後ろにいらっしゃると思う人が大きな環に回って、行く手の汀にいらっしゃった。

どうやって渡し越しなさるのだろうと思うと、もう左手の汀が見えた。

見る見るうちに右手の汀に回って、やがて元の後ろに立っていらっしゃる。

箕(み)の形をした大きな沼は、汀の蘆と松の木と立て札と、その傍の美しい人と一緒に緩やかな環を描いて回転し、初めはゆっくりと回ったが、だんだん急になり、速くなり、くるくるくると次第に細かく回り続ける。

女は、私の顔から一尺ほど隔たっている近くの松の木にすがっていらっしゃるようだ。

しばらくして、眼の前で美しく気品がある顔が、にっこりとあでやかに微笑みなさったが、そのあとは見えなかった。

蘆が私の身の丈よりも高く繁る汀に、舟はトンと突き当たった。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 7

   九ツ谺(こだま)

やがて添い寝なさると、先ほど水をお浴びになったからか、私の肌はときおりゾッとしたが、無心にしっかりと取りすがり申し上げた。

「次を、次を」と言うと、子ども向けの物語を二つ三つお聞かせになった。

やがて、

「一ツ谺。坊や、二ツ谺と言えるかい」

「二ツ谺」

「三ツ谺。四ツ谺と言ってごらん」

「四ツ谺」

「五ツ谺。そのあとは」

「六ツ谺」

「そうそう、七ツ谺」

「八ツ谺」

「九ツ谺 ―― ここはね、九ツ谺というところなの。さあ、もうおとなしく寝るんです」

背中に手をかけて引き寄せ、玉のようなその乳房を含ませなさった。

露わになった白い首筋、肩のあたりに鬢の後れ毛がはらはらと乱れている様子は、私の姉上とはたいそう違った。

乳を飲もうというのを姉上はお許しにならない。

懐を探るといつもお叱りになるのだ。

母上が亡くなられてから三年が経った。

乳の味は忘れなかったが、いま口に含められたのは、それには似ていなかった。

垂玉の乳房はただ淡雪のようで、含むと舌で消えて触れるものがなく、涼しい唾だけがあふれ出ている。

軽く背中をさすられ、私が夢心地になったとき、屋根の棟、天井の上と思われるが、凄まじい音がしてしばらく鳴り止まない。

ここにつむじ風が吹くと柱が動くと恐ろしくなり、震えて取りつくのを抱きしめながら、

「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍しておくれよ。いけません」

と厳しくおっしゃると、やがて静まった。

「怖くはないよ。ネズミだもの」

という声はさりげないが、私はなおその響きの中に何かが叫んだ声がしたのが耳に残って震えた。

美しい人は半ば乗り出しなさって、ある蒔絵物の手箱の中から、一振りの守り刀を取り出しながら、鞘ごと手元に引き寄せて、雄々しい声で、

「何が来ても、もう怖くはない。安心してお寝よ」

とおっしゃる様子を頼もしく思い、その胸にぴったりと自分の顔をつけていると、ふと眼を覚ました。

行燈は暗く、床柱が黒くつややかに光るあたりに、薄い紫色が籠って、香の薫りが残っている。

枕を外して顔を上げた。

顔に顔を寄せて、ゆるく閉じていらっしゃる眼のまつ毛が数えられるほど、すやすやと寝入っていらっしゃった。

何か言おうと思って気おくれし、しばらくじっと見ていたものの、淋しくて堪らないので、密かにその唇に指先を触れてみた。

指は逸れて唇には届かなかったようだ。

本当によく眠っていらっしゃった。

鼻をつまもう、眼を押そうと、またつくづくと見入った。

ふと、その鼻先をねらって手を触れたが、手は空を泳いで、美しい人は雛のように顔の筋一つゆるみもしなかった。

また、その眼の縁を押したが、水晶の中にあるものの形を取ろうとするようで、私の顔はその後れ毛の端に頬をなでられるほど近くにありながら、どうしても指先はその顔に届かない。

果てはいらいらして、乳の下に顔を伏せて額で強く圧したところ、顔にはただ暖かい霞がまとうようで、のどかにふわふわと触ったが、薄手の和紙一枚も挟めないほど着けた額がツッと下に落ち沈む。

気がつくと、美しい人の胸は、元のように傍に仰向いていて、私の鼻は徒に自分の肌で温もっている。

柔らかい布団に埋もれていたのだ、可笑しい。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 6

   五位鷺

眼の縁が清々しく、涼しい香りが強くして気がつくと、柔らかい布団の上に寝ていた。

少し枕をもたげて見ると、竹を張った縁側の障子を開け放し、庭から続いた向かいの山懐に、緑の草が濡れたように青く生い茂っていた。

その中腹で、風情ある岩角の苔がなめらかなところに、裸ろうそく一本を灯した明かりが涼しく、筧の水がこんこんと湧いて玉と散るあたりにたらいを据え、美しく髪を結った女が一糸まとわぬ姿で、正面に浸っていた。

筧の水がそのたらいに落ち、溢れに溢れて、地の窪みに流れる音がした。

ろうそくの灯は、吹くともない山下ろしに明るくなり、暗くなりして、ちらちらと眼に映る雪のような肌が白かった。

私が寝返る音に、ふとこちらを振り返り、それとうなずく様子で、片手を縁にかけながら、片足を立ててたらいの外に出したとき、サッと音がして、烏よりは小さい真っ白い鳥がひらひらと舞い下り、美しい人の脛のあたりをかすめた。

そのまま恐れる様子もなく翼を休めていると、女はザブリと水を浴びせざま、にっこりとあでやかに笑って立った。

手早く着物でその胸を覆った。

鳥は驚いてバタバタと飛び去った。

夜の色は極めて暗く、ろうそくを手にした美しい人の姿は冴えて、庭下駄を重く引く音がした。

ゆっくりと縁の端に腰を下ろすと同時に、手をつき反らし、体をねじってこちらを向くと、私の顔を見た。

「気分はなおったかい、坊や」

と言って頭を傾けた。

遠くより近くのほうが優って見える顔には気品があり、眉は鮮やかで、瞳は涼しく、鼻はやや高く、唇は紅色をして、額つき、頬のあたりに洗練された美しさがあった。

これは前から私が気に入っていた雛の面影によく似ているので、貴い人だと思った。

年は姉上より上でいらっしゃる。

知った人ではなかったが、初めて会った人とは思わず、本当に誰だろうとつくづくと見入った。

また微笑みなさって、

「お前、あれはハンミョウといって大変な毒虫なの。もういいね、まるで変わったように美しくなった、あれでは姉さんが見違えるのも無理はないのだもの」

私もそうだろうと思わなくもなかった。

今では確かにそうだと疑わなくなって、おっしゃるままに頷いた。

あたりが珍しいので起きようとする夜着の肩を、長く柔らかにお押さえになった。

「じっとしておいで。具合が悪いのだから、落ち着いて、ね。気を鎮めるのだよ、いいかい」

私は逆らわず、ただ眼で答えた。

「どれ」

と言って立ったおり、のしのしと道端の雑草を踏む音がして、ぼろをまとい、顔の色がたいそう赤い老夫が、縁側の近くに入ってきた。

「はい、これはお子さまがござらっせえたの。可愛いお子じゃ、お前様も嬉しかろ。ははは、どりゃ、またいつものをいただきましょか」

腰を斜めにうつむけて、ぴったりとあの筧に顔を当て、口を押しつけてゴクゴクゴクと立て続けに飲んだのが、フッと息を吹いて空を仰いだ。

「やれやれ、甘いことかな。はい、参ります」

と踵を返すのを、こちらからお呼びになった。

「爺や、ご苦労だが、また来ておくれ。この子を返さなければならないから」

「あい、あい」

と答えて去る。

山風がサッと吹き下ろし、あの白い鳥がまた飛んで下りた。

黒いたらいの縁に乗り、羽づくろいをして静かになった。

「もう、風邪を引かないように寝させてあげよう。どれ、そんなら私も」

と静かに雨戸をお引きになった。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 5

   大沼

「いないって、私あどうしよう、爺や」

「根っからいさっしゃらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、ご心配なこんでござります。お前様、遊びに出しますとき、帯の結び目をトンと叩いてやらっしゃればよいに」

「ああ、いつもはそうして出してやるのだけれど、今日はお前、私に隠れてそっと出ていったろうではないかねえ」

「それははや不注意なこんだ。帯の結び目さえ叩いときゃ、何がそれで姉様なり、おふくろ様なりの魂が入るもんだで、魔めはどうすることもしえないでごす」

「そうねえ」と悲しそうに話しながら、社の前を横切りっていらっしゃった。

走り出たが、もう遅かった。

なぜかというと、私は姉上までを怪しんだからである。

後悔しても遅く、向こうの境内の鳥居のあたりまで追いかけたが、もうその姿は見えなかった。

涙ぐんで佇んでいると、ふと見た銀杏の木が暗い夜空に大きな丸い影をなして茂っている下に、女の後ろ姿があって私の視線を遮った。

あまりによく似ていたので、姉上と呼ぼうとしたが、つまらないものに声をかけて、なまじ私がここにいると知られるのは、愚かなことだからと思って止めた。

しばらくして、その姿がまた隠れ去った。

見えなくなるとなお懐かしく、たとえ恐ろしいものであっても、仮にも私の優しい姉上の姿に化したうえは、私を捕まえて酷いことをするだろうか、先ほどのはそうでなくて、いま幻に見えたのが本当の姉上であったかもしれないのに、どうして言葉をかけなかったかと、泣いたところで甲斐もない。

ああ、いろいろなものが怪しく見えるのは、すべて自分の眼がどうかした作用なのだろう。

そうでなければ涙でくもったか。

解決法はあった。

向こうの御手洗で洗ってみようと近寄った。

煤けた横長の行燈が一つ上に掛かって、ほととぎすの画と句などが書かれている。

灯をともしているので、水はよく澄み、青い苔むした石鉢の底も見える。

手で掬おうとしてうつむいたとき、思いがけず見た私の顔は、そもそもどうしたのか。

思わず叫んだが、注意して気を鎮め、両眼を拭いながら、水を覗いた。

自分でもないようで、またと見るに堪えないのを、どうしてこれが私だろう、きっと気の迷いだったのだろう、もう一度、もう一度と震えながら見直した。

そこへ肩をつかんで声を震わせ、

「お、お、千里。ええも、お前は」

と姉上がおっしゃるので、すがりつこうと振り返ったところ、私の顔をご覧になったのに、

「あれ!」

と言って一歩後ずさり、

「違ってたよ、坊や」

とだけ言い捨てて、急いで駆け去ってしまわれた。

怪しい神がいろいろなことをして愚弄しているのだと、あまりのことに腹立たしく、地団駄を踏んで泣きながら、懸命に走って追いかけた。

捕まえて何をしようとしたのか、それはわからない。

ただもう悔しかったので、とにかく捕まえたかったのだろう。

坂も下りた、上った。

大路らしい町にも出た。暗い小道もたどった。

野も横切った。

畔も越えた。

後ろも見ずに駆けていた。

どれほどの道だったろう、広々とした水面が闇の中に銀河のように横たわり、黒く恐ろしい森が四方を囲んでいる大沼らしいものが、行く手を塞ぐと思ったとき、蘆の葉が繁った中に私は倒れた。

後のことはわからない。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 4

   逢う魔が時

私が思うところと違わず、堂の前を左に回って少し行った突き当たりに、小さい稲荷の社がある。

青い旗、白い旗が二、三本その前に立ち、後ろはすぐに山裾の雑木が斜めに生えて、社の上を覆っている。

その下の小暗いところに穴のような空き地があるのを、そっと目配せした。

瞳は水がしたたるようで、斜めに私の顔を見て動いたので、明らかにその意味は読みとれた。

そのため、少しもためらわずに、つかつかと社の裏を覗きこむと、鼻を打つほど冷たい風が吹いている。

落ち葉、朽ち葉が堆積して、水っぽい土の臭いがするばかりで、人の気配もせず、襟元が冷くなったのに驚いて振り返ったと思う間に、彼女はもういなくなっていた。

どこに行ったのだろうか。

暗くなった。

身の毛がよだって、思わず、ああと叫んだ。

人の顔が定かでないとき、暗い隅に行ってはならない、黄昏の片隅には、怪しいものがいて人を惑わすと、姉上に教えられたことがある。

私は茫然として眼をみはった。

足が震えて動くことができず、固くなって立ちすくんだ左手に坂がある。

穴のようで、その底からは風が吹き出ていると思う真っ暗闇の坂下から、何かが上ってくるようなので、ここにいると捕まると恐ろしく、あれこれと思慮もないので、社の裏の狭い中に逃げ入った。

眼を塞ぎ、息を殺して潜んでいると、四足のものが歩く気配がして、社の前を横切った。

私は人心地もなく、見られまいとばかりにひたすら手足を縮めた。

それにしても、先ほどの女の美しかった顔、優しかった眼を忘れない。

ここを私に教えたのは、今にして思えば、隠れた子どもの居所ではなく、何か恐ろしいものが私を捕まえようとするのを、ここに潜め、助かるだろうと、導いたのではないかなどと、とりとめのないことを考えた。

しばらくして、小提灯の明かりが坂下から急いで上ってきて、あちらに走っていくのを見た。

ほどなく引き返して、私が潜んでいた社の前に近づいたときは、一人でなく二人三人が連れ立って来た感がある。

ちょうどその立ち止まった折に、別の足音がまた坂を上ってきて、先に来た者と落ち合った。

「おいおい、分からないか」

「不思議だな、なんでもこの辺で見たというものがあるんだが」

と後から言ったのは、わが家で使っている下男の声に似ていたので、もう少しで出ようとしたが、恐ろしいものがそのようにだまして、おびき出すのはないかと、ますます恐ろしくなった。

「もう一度念のためだ、田んぼの方でも回ってみよう。お前も頼む」

「それでは」

と言って、上下にばらばらと分かれていく。

再び静かになったので、そっと身動きして足を伸ばし、板目に手をかけて眼ばかりと思う顔を少し差し出して外の方を窺うと、何事もなかったので、やや落ち着いた。

怪しいものどもが、どうして私を見つけられようか、愚かな、と冷ややかに笑ったところに、思いがけず、誰だろう驚いた声がして、慌てふためいて逃げる者がある。

驚いてまた潜んだ。

「ちさとや、ちさとや」と坂下あたりで、悲しそうに私を呼ぶのは、姉上の声であった。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 3

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   かくれあそび

先ほど私が泣き出して姉に救いを求めたのを、彼女に知られなかったのは幸いである。

言うことをきかずに一人で出てきたのに、心細くて泣いたと知られては、そうだろうと笑われよう。

優しい姉が懐かしいが、顔を合わせて言い負けるのは悔しいから。

嬉しく喜ばしい思いが胸に満ちては、また急に家に帰ろうとは思わない。

一人境内に佇んでいると、ワッという声や笑う声が、木の陰、井戸の裏、堂の奥、回廊の下からして、五つから八つまでの子が五、六人、前後に走り出た。

これは、隠れ遊びで一人が見つかったものだろう。

二人三人と走ってきて、私がそこに立っているのを見た。

皆、瞳を集めていたが、

「お遊びな、一緒にお遊びな」

と迫って勧めた。

小家が散在するこのあたりに住むのは、乞食というものだという。

風俗が少し異なっている。

子どもたちは、親たちの家に金があってもよい着物を身につけた者がなく、たいてい裸足である。

三味線を弾いてときどきわが家の門に来た者、溝川でドジョウを捕まえる者、マッチや草履などを売りにくる者たちは皆、この子たちの母であり、父であり、祖母などである。

こういう者とは一緒に遊ぶなと、私の友だちは常に忠告した。

ところが、町方の者はといえば、乞食の子どもたちを尊び敬って、少しでも一緒に遊ぶことを願うのか、勉めて親しく優しくするのだ。

普段はこちらから遠ざかったのを、そのときは先ほどのあまりに淋しく、友だちが欲しくて堪らなかった思いがまだなくなっていないのと、恐ろしかった後の楽しみとで、私は拒まずにうなずいた。

子どもたちは、ざわめき喜んでいた。

それからまた隠れ遊びを繰り返そうと、ジャンケンをして探す者を決めると、私がその役に当たった。

顔を覆えと言うままにした。

ひっそりとなって、堂の裏の崖を逆さに落ちる滝の音はドードーと、常緑樹の梢は夕風に鳴り渡る。

かすかに、

「もういいよ、もういいよ」

と呼ぶ声が、こだまに響いた。

眼を開けると、あたりは静まり返り、黄昏の色がまた一際おそってきた。

立ち並んでいる大きな樹が朦朧として、薄暗い中に隠れようとしている。

声がした方をと思うところには誰もいない。

あちこちと探したが、人らしいものはなかった。

また元の境内の中央に立ち、もの淋しく見回した。

山の奥にも響くような凄まじい音がして、堂の扉を閉ざす音がした。

ひっそりとして何も聞こえなくなった。

親しい友だちではない。

いつもは疎ましい子どもたちなので、この機会に私を苦しめようと企んだのだろうか。

隠れたままこっそりと逃げ去ったのでは、探したところで見つからない。

無駄なことだとふと思い浮かぶと、そのまま踵を返した。

それにしても、もし私が見つけるのを待っていたら、いつまでも出てこれまい。

それもまたあり得ることかと、あれこれと思い迷い、徒に立ち尽くしている折しも、どこから来たとも見えず、暗くなった境内の美しく掃いた土が広々と灰色をしたところに、際立って顔の色が白く美しい人が、いつの間にか私の傍にいて、うつむきざまに私を見た。

きわめて背の高い女だったが、その手を懐にして肩を垂れている。

優しい声で、

「こちらへおいで、こちら」

と言って先に立って導いた。

見知った女ではないが、美しい顔が笑みを浮かべている。

よい人だと思ったので怪しまず、隠れた子の居所を教えるものと思ったので、いそいそとついていった。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 2

   鎮守の社

坂は急でなく長くもないが、一つ越えるとまた新たに現れる。

起伏はまるで大波のように続いて、いつ平らになるとも知れなかった。

ひどく疲れたので、一つ下りて上る坂の窪みにしゃがみ、手の空いたままに何か指で土に書き始めた。

「さ」という字もできた。

「く」という字も書いた。

曲がったもの、真っ直ぐなものを、心の趣くままに落書きした。

こうしている間にも、先ほど毒虫が触れたのだろうと思うが、頬のあたりがしきりに痒いので、袖でしょっちゅうこすった。

こすってはまた落書きなどをした中に、難しい字が一つ形よくできたのを姉に見せたいと思うと、急にその顔が見たくなった。

立ち上がって行く手を見ると、左右から小枝が交差し、間も透かさずにつつじが咲いている。

日差しがひとしお赤くなってきたので、手を見ると掌に照り付けた。

一文字に駆け上って、ふと見ると、同じつつじのだらだら下りである。

走り下りて、走り上った。

いつまでこうなのだろう、今度こそという思いに反して、道はまたうねった坂である。

踏み心地は柔らかく、小石一つなくなった。

まだ家には遠いと思うと、姉の顔が懐かしくてたまらず、これ以上堪えられなくなった。

再び駆け上り、また駆け下りたときは、思わず泣いていた。

泣きながらひたすら走ったが、なお家のあるところに至らず、坂もつつじも少しも先ほどと異ならず、日の傾くのが心細い。

肩、背のあたりが寒くなった。

夕日が鮮やかにパッと照り映えて、まぶしいほど美しいつつじの花は、まるで紅の雪が降り積もったかと疑われる。

私は涙声を上げ、あるほどの声を絞って姉を求めた。

一度二度三度して、返答があるかと耳を澄ますと、遥かに滝の音が聞こえた。

ドードーと響くなかに、たいそう高く冴えた声がかすかに、

「もういいよ、もういいよ」

と呼んでいるのが聞こえた。

これは、幼いわが仲間が隠れ遊びというものをする合図であることがわかった。

一声繰り返すと、もう聞こえなくなったが、ようやく落ち着いて、その声がしたほうをたどり、また坂を一つ下りて一つ上り、小高いところに立って見下ろすと、たいして雑作なく、堂の瓦屋根が杉木立の中から見えた。

こうして私は踏み迷った紅の雪の中から逃れた。

背後にはつつじの花が飛び飛びに咲き、青い草がまばらに生え、やがて堂の裏に達したときは一株も赤い花はなく、黄昏の色が境内の御手洗のあたりを塗りこめていた。

柵で囲んだ井戸が一つと銀杏の古い木があり、その後ろに人家の土塀がある。

こちらは裏木戸の空き地で、向かいに小さい稲荷の堂がある。

石の鳥居がある。

木の鳥居がある。

この木の鳥居の左の柱には割れ目があって、太い鉄の輪がはまっているのさえ、確かに覚えている。

ここからはもう家に近いと思うと、先ほどの恐ろしさはまったく忘れてしまった。

ただひたすら、夕日が照り付けているつつじの花が、私の身の丈よりも高いところ、前後左右を咲き埋めている赤い色の赤さの中に、緑、紅、紫、青白の光を羽色に帯びた毒虫がキラキラと飛んでいる広い景色だけが、画のように小さい胸に描かれた。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 1

泉鏡花「竜潭譚」(初出:『文芸倶楽部』明治29年11月)の現代語訳です。

   つつじが丘

午後である。

木はまばらで、長く緩やかな坂には木陰もない。

寺の門、植木屋の庭、花屋などが坂下を挟んで、町の入口にはなっているが、上るにつれて畑ばかりになった。

番小屋のようなものが小高いところに見える。

谷には菜の花が残っていた。

道の左右には、紅色のつつじの花が、見渡すほうも見返すほうも、今を盛りと咲いていた。

歩くにつれて汗が少し出た。

空はよく晴れて一点の雲もなく、風は暖かく野の上を吹いている。

一人では行くなと、優しい姉上が言っていたのをきかずに、隠れて来た。

おもしろい眺めだ。

山の上のほうから一束の薪を担いだ男が下りて来た。

眉が太く、眼が細い男が、鉢巻をした額のあたりに汗をかいて、のしのしと目の前に近づきながら、細い道を片側によけて私を通したが、振り返って、

「危ないぞ、危ないぞ」

と言い捨てて、目尻に皺を寄せてさっさと行き過ぎた。

振り返ると、もう下り坂にいて、その肩は躑躅の花に隠れ、髪を結った頭だけが出ていたが、やがて山陰に見えなくなった。

草深い小道の遠くの小川が流れる谷間の畦道を、菅笠をかぶった女が、裸足で鋤を肩にし、小さい女の子の手を引いてあちらに行く後ろ姿があったが、それも杉の木立に入った。

行く方もつつじである。

来た方もつつじである。

山土の色も赤く見えた。

あまりの美しさに恐ろしくなって、家路につこうと思ったとき、私がいた一株のつつじの中から、羽音をあげて虫が飛び立ち、頬をかすめたのが、あちらに飛んで、およそ五、六尺隔てたところにあった小石の脇に止まった。

羽を震わせる様子も見えた。

手をあげて走りかかると、パッとまた飛び上がって、同じく五、六尺ほどの距離のところに止まった。

そのまま小石を拾い上げて狙い打ちにした。

石はそれた。

虫はクルリと一回りして、また元のようにしている。

追いかけると、すばやくまた逃げた。

逃げても遠くには行かず、いつも同じくらいの距離をとっては、キラキラとささやかな羽ばたきをして、鷹揚にその二本の細いヒゲを上下に輪を作るように押し動かすのが、いかにも憎らしいようであった。

私は足踏みしていらだった。

虫のいた跡を踏みにじって、

「ちくしょう、ちくしょう」

とつぶやくとすぐ、躍りかかってバンと打ったが、拳は徒に土で汚れた。

虫は一足先に場所を替え、悠々と羽づくろいしている。

憎しみを込めて凝視していると、虫は動かなくなった。

よくよく見ると、羽蟻の形をして、それよりもやや大きい体は五彩の色を帯び、青みがかった輝きを放っている。

その美しさは言いようがない。

色彩と光沢がある虫は毒があると、姉上が教えたのをふと思い出したので、そのまますごすごと引き返したが、足元に先ほどの石が二つに砕けて落ちているのを見ると、急に心が動き、拾い上げて取って返し、真剣に毒虫を狙った。

今度はしくじらず、したたかに打って殺した。

喜んで走り寄り、石を合わせて虫を押し潰した。

蹴飛ばした石は、つつじの中をくぐって小砂利を巻き込み、バラバラと谷深く落ちていく音がした。

袂の塵を払って空を仰ぐと、日差しはやや斜めになっている。

ぽかぽかと顔が暑い日向で唇が乾き、眼の縁から頬のあたりがむず痒くて堪らなかった。

気がつくと、もと来た方ではあるまいと思う坂道の異なるほうに、私はいつしか下りかけていた。

丘を一つ越えたのだろう。

戻る道はまた先ほどと同じ上りになった。

見渡せば、見回せば、赤土の道幅は狭く、うねうねと果てしないのに、両側に続くつつじの花が遠くのほうでは前後を塞ぎ、日差しが赤く咲き続ける真っ青な空の下に、佇んでいるのは私だけだ。

(つづく)