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泉鏡花「愛と婚姻」

泉鏡花の評論「愛と婚姻」(初出:『太陽』明治28年5月)の現代語訳です。

          *

仲人がまずいう、「めでたい」と。

舅姑がまたいう、「めでたい」と。

親類等が皆いう、「めでたい」と。

知人・友人が皆いう、「めでたい」と。

彼らは嬉しそうに新郎新婦の婚姻を祝う。

果たして婚礼はめでたいか。

小説における男女の登場人物の婚礼は、たいそうめでたい。

なぜならば、彼らは人生の艱難辛苦を、夫婦となる以前にすでにみな経験してしまい、以後は無事、悠々とした間に平和な歳月を送るからである。

けれども、このような例は、ただ一部、一編、一局部の話の種だけに留まる。

その実、一般の婦人が避けるべき、恐るべき人生観は、婚姻以前にあるのではなく、それ以後にあるものなのである。

彼女たちが慈愛深い父母の掌中を出て、その身を尽くす舅姑はどうだろう。

夫はどうだろう。

小姑はどうだろう。

すべての関係者はどうだろう。

また社会はどうだろう。

在来の経験から見るそれらの者は、果たしてどうだろう。

どうして寒心すべきものではないか。

婦人が婚姻によって得るものは、概ねこのとおりである。

そして、男子もまた、先人が「妻がなければ楽しみが少なく、妻ある身には悲しみが多い」と言うとおりである。

けれども、社会は普通の場合において、個人的に対処できるものではない。

親のために、子のために、夫のために、知人・親類のために、使用人のために。

町のために、村のために、家のために、窮さねばならず、泣かねばならず、苦しまねばならず、甚だしい場合には死なねばならず、常に「我」という一人の単純な肉体を超然とさせてはおけず、多くを他人によって左右され、判断され、なおかつ支配されるものである。

ただ、愛のためには、必ずしも「我」という一種勝手次第な観念は起こるものではない。

完全な愛は「無我」のまたの名である。

ゆえに、愛のためならば、他から与えられるものは、難しくても苦しくても、喜んで甘んじて受ける。

元来、不幸といい、困窮といい、艱難辛苦というものはみな、我を我としている我によって、他に――社会に――対することから起こる怨み言ばかりである。

愛によって「無我」となるなら、その苦楽もあろうはずがない。

情死、駆け落ち、勘当など、これらはみな愛の分別である。

すなわち、その人のために喜び、その人のために祝って、これをめでたいと言うのもよい。

ただし、社会のためには嘆かわしいだけである。

婚姻に至っては、儀式上、文字上、別に何ら愛があって存在するのではない。

ただ男女が顔を合わせて、おごそかに盃を巡らすに過ぎない。

人はまだ独身のうちは、愛が自由である。

ことわざに「恋に上下の隔てなし」という。

そのとおり、誰が誰に恋しても、誰がこれを非であるとするだろう。

いったん結婚した婦人は、婦人というものではなく、むしろ妻という一種の女性の人間である。

私たちは彼女を愛することができない。

いや、愛することができないのではない、社会がこれを許さないのである。

愛することをできなくさせるのである。

要するに、社会の婚姻は、愛を束縛し、圧制して、自由を剥奪するために作られた残酷な刑法なのである。

古来、佳人は薄命であるという。

考えてみるに、社会が彼女を薄命にさせるだけである。

婚姻というものさえなかったならば、どれほどの佳人が薄命であろうか。

愛における一切の葛藤、揉め事、失望、自殺、疾病など、あらゆる恐るべき熟語は、みな婚姻があることによって生じる結果ではないか。

妻がなく、夫がなく、一般の男女は皆ただの男女であると仮定しよう。

愛に対する道徳の罪人はどこに出てくるだろうか。

女子は、情のために夫を毒殺する必要がないのだ。

男子は、愛のために密通する必要がないのだ。

いや、ただ必要がないだけでなく、このような不快な文字は、これを愛の字典の何ページに求めても、決して見出せなくなることは必至である。

けれども、このようなことは社会に秩序があって敢えて許さない。

ああ、ああ、結婚を以って愛の大成したものとするのは、大いなる誤りではないか。

世の人が結婚を欲することなく、愛を欲するならば、私たちは手の届かない月を愛することができ、月は私たちを愛することができ、誰が誰を愛しても妨げはなく、害はなく、またもつれもない。

匈奴が昭君(前漢の元帝の宮女)を愛しても、どうして昭君が馬に乗る怨みがあろうか。

愁いに沈んで胡国に嫁いだのは、匈奴が婚姻を強いたからに外ならない。

そのうえ、婚姻によって愛を得ようと欲するのは、どうして水中の月を捉えようとする猿猴の愚と大いに異なることがあろうか。

あるいは、婚姻を以って相互の愛を形あるものとして確かめる証拠としようか。

その愛が薄弱であることは論じるに足りない。

遠慮なく直言すれば、婚姻は愛を拷問して、我に従わせようとする卑怯な手段であるだけだ。

そのとおりではあるが、これはただ婚姻の裏面をいうもので、その表面に至っては、私たちは国家をつくるべき分子である。

親に対する孝道である。

家に対する責任である。

友人に対する礼儀である。

親族に対する交誼である。

総括すれば、社会に対する義務である。

しかも、我には少しも有益なところはない。

婚姻はどうしてその人のために喜べようか、祝えようか、めでたかろうか。

それでも、仲人はいう、「めでたい」と。

舅姑はいう、「めでたい」と。

親類はいう、「めでたい」と。

友人はいう、「めでたい」と。

いったいどういう意味か。

他ならない、社会のために祝うのである。

古来、わが国の婚礼は、愛のためにせずに、社会のためにする。

儒教の国では、子孫がなければならないと命じているからである。

かりに、それが愛によって起こる婚姻であったとして、舅姑はどうだろうか。

小姑はどうだろうか。

すべての関係者はどうだろうか。

そもそも社会はどうだろうか。

そうして、社会に対する義務のために、やむを得ず結婚をする。

舅姑は依然として舅姑であり、関係者は皆依然として彼らを困らせる。

親が子どもに教えるのに愛をもってせず、みだりに恭謙、貞淑、温柔だけを問題とするのはなぜか。

すでに言った、愛は「無我」であると。

「我」を持たない誰が人倫を乱すだろう。

しかも、婚姻を人生の大礼であるとして、家を出ては帰ることがないように教える。

婦人が甘んじてこの命令を請け、嫁に行く衷心は、憐れむにあまりある。

感謝せよ、新郎新婦に感謝せよ、彼らは社会に対する義務のために懊悩し、不快な多くの係累に束縛されようとする。

なぜならば、社会は人によって作られるもので、人は結婚によって作られるものだからである。

ここにおいて、仲人はいう、「めでたい」と。

舅姑はいう、「めでたい」と。

親類や友人は皆またいう、「めでたい」と。

そうだ、新郎新婦はやむを得ず社会のために婚姻する。

社会一般の人にとっては、めでたかろう、嬉しかろう、愉快だろう。

これをめでたいと祝うよりは、むしろ慇懃に新郎新婦に向かって謝してよい。

新郎新婦そのものには、何のめでたいことがあろうか。

彼らが雷同してめでたいと言うのは、社会のためにめでたいだけである。

再言する。

私たち人類がそれによって生きるべき愛というものは、決して婚姻によって得られるべきものではないことを。

人は死を痛絶なこととするが、国家のためには喜んで死ぬではないか。

婚姻もまたそうである。

社会のために身を犠牲にして、誰もが、めでたく、式三献せざるを得ないのである。

清水紫琴「一青年異様の述懐」 3

それでは、この一個の肉塊としての僕が、今や何を考え、また一意専心に何を企てつつあるかを自白しよう。

僕の友人は、僕がまだ恋をしていると気づく前から、早くも彼女に気があるものと察して、僕のために揃って彼女の経歴を説明し、目下の境遇を語り、彼女はとうてい誰とも結婚するはずがない人だと言った。

彼女が結婚をする人であるかどうかは、もとより僕が彼女を恋するのに差支えのないことなので、僕はこのために別に失意もしない。

けれども、その結婚をしないといった原因は、彼女がかつて廉潔でない男子にその性情を損なわれ、それから男子一般について、まったく絶望したためであるといったことを聞き、僕はいっそうこの一身を彼女のために捧げようと決意したのである。

けれども、これまで恋には経験がないので、どうすれば彼女が身辺にまとっている漠然とした愁いの雲を払うことができるのか。

また、どうすれば彼女の胸を塞いでいる憂いを開く鍵となれるだろうか。

これらのことについて、僕は実に、小さな子どもが宇宙の大問題に関して問いを発せられたよりも、なおかつ困難に思うのである。

まず試しに、彼女に対して、あらゆる力を尽くす親友にしてほしいと言い送ろうか。

いや、彼女は容易に男子を信用しないだろうから、僕がまだ彼女に知られる前から、このようなことを言い送ったとすれば、かえって彼女の憂いを増やす種となるかもしれない。

それならば、僕はむしろ自分の親友の中で最も性情が優しい人を選び、そして彼女を慰める友人とさせようか。

いや、これも頼りない。

たとえその性質がどのように優しくても、彼女を熱愛しない者では、とうてい彼女の心を和らげることはできないだろう。

ああ、僕は彼女に高潔な愛情を持つ点では、おそらく僕に及ぶ者はないだろうと自分でも信じるが、ただ僕が元来武骨者で、その方法を知らないことに苦しむのである。

僕の数日来の懊悩や煩悶は、つまり、このことにほかならない。

なお一言すれば、僕は彼女を失望の中から救って、多望で円満な人とさせなければ、とうてい安心することができないのである。

この点から思えば、僕はむしろ、僕の恋愛が彼女に対して成就するかどうかを問わない。

誰であろうと、僕よりも数段優れた人が出てきて、僕のように彼女を愛してくれ、そして彼女を恋愛を感じる幸福な人とさせることができるなら、僕は自分というこの肉塊が、彼女の前で無益な供え物となって、いたずらに滅び去ることがあっても、少しも遺憾とは思わないのである。

むしろ、彼女のために、これを願うことが至当であるのを信じるのである。

(おわり)

清水紫琴「一青年異様の述懐」 2

僕が最初に彼女と友人宅で出会ったときは、わずかに一、二語を交わしただけだ。

別段、親密に談話をしたというのではなかったが、彼女の非凡な資質はどことなく顕れ、僕はまずこれに対して尊敬の念が起こった。

そして、平素いろいろな関係から、女性を土芥視し、もしくは悪魔視していた僕は、彼女の前でたいそう小さい者となったような心地がし、処女のように謹んでうずくまっていた。

このときから、僕は実に一般女性に対する考えもまた大いに変わり、それまでの僕の考えは大いに間違ったものであったことを悟ったが、それにしても、彼女の資質は少し異様なように思われ、いっそう深くこれを探究したいという思いが起こった。

このようなわけで、用事に託して友人に頼み、なお一、二回彼女に接見した。

その間、一言を交え、一語を加えるに及んで、最初の探究の念はもちろん、僕の本質さえ、まったくどこかへ消え失せて、かえって僕のすべての心を彼女の前に捧げるものとなったのである。

ほかに何の事情も、何の関係もありはしない。

思うに、これが世にいう恋なのか。

ああ恋だ、ああ恋だ、恋に違いない。

僕は確かに恋をしたのである。

なんと不思議。

偏屈な僕のような者も、ついに恋をする時機に遭遇したのか。

なんと恋だ。

恋だとしても、彼女は実に不可思議な力を有するのである。

ならば、その恋の原因はどのあたりにあったか。

美しい彼女の眉か。

涼しげな彼女の目か。

でなければ、しとやかで優雅な挙止か。

朗らかな声か。

あるいはまた豊かな文才か。

これらのものは、もとより一瞥の価値がなくはない。

けれども、僕は彼女以外の人にもまた、これらのものを見ていた。

それでも、僕は少しも心を動かすことはなかった。

ただ、彼女について異様に感じたものは、彼女が体から放っている霊光であった。

彼女が、人を清くし、人を優しくする。

何とも名づけがたいように感じたときは、すでに僕が恋の人となる始めであった。

今や僕の意識、僕の感情は、ことごとく彼女のことについてだけ働く。

僕はそのほかには、何もわからない。

いま、もし人がいて、白刃を僕の頭の上に加えても、僕はこれを避けることにも気づかないだろうと思う。

ああ、僕は憐れな人となったものだ。

いや、僕という人間はとうに滅んで、今はただ恋愛の分子から成り立っている一個の肉塊が、彼女のために生きて動いているだけだ。

ああ、なんということだ。

(つづく)

清水紫琴「一青年異様の述懐」 1

清水紫琴(つゆ子)の「一青年異様の述懐」(初出:『女学雑誌』第330号、明治25年10月22日)の現代語訳です。

          *

恋愛を知らずに恋愛を描くのは、ほとんど素人が水先案内をするようなものである。

まして、異性の人の恋愛についてはなおさらだ。

しかし、恋愛は、間違えば人命を損なう恐れがあるが、小説は、間違ったからといって人の笑いを招くにとどまると思い、厚かましく描いてしまった。

私はあえて恋愛を説くと言うつもりはない。

ただ、その一端はこうであろうかと、世間に疑問を呈するのみである。

                                  つゆ子記す

僕はどうして彼女のことが、これほどまでに心にかかるのか。

彼女に初めて逢ったのは、たしか数日前のことであった。

その後、僕は彼女のことについて思うほかは何も思わない。

また、彼女に再び逢おうとして、一、二度友人の家へ行ったほかは、何をしてきたかを覚えていないのである。

ただ、ある一人の友人は、僕が二、三日前、学校の窓にもたれて、いつになく沈んだ調子で、何か考えていたのを見たと言った。

また一人は、昨日、途中で僕に出会ったが、僕はただその顔を見ただけで、彼が何かを言ったことに答えずに行き過ぎたと言っていた。

だから、僕はいつものように学校にも行ったものとみえる。

けれども、僕は記憶せず、ただ彼女のことだけを思っている。

僕は実に不思議な人となったものだ。

僕はもともと、父母から受け継いだ資質に加え、自らの修錬によって、物に動じない特性は、確かに備えていた。

この点は、人からも称えられ、また自負もしていたのである。

だから、今日まで、どのような場合、どのような人物に接しても、怖れる、慌てる、驚くなどといったことはなかったのに、彼女に対しては、僕はまったく目が眩み、口は利けず、耳は聞こえず、恍惚として、自他の境界もわからないものとなったのである。

これまで強情な男と言われた僕が、彼女の前では、一人の処女のようになってしまうのである。

彼女の前にいるときは、僕に何かを命じてくれないだろうかと願うだけ。

僕の全身は彼女の前で捧げ物となる。

僕の特性、僕の自負は、ここに至ってまったく雲散霧消する。

これは、そもそもどういう理由なのか。

僕はその原因を知らないのである。

昔のヨーロッパの学者の間で論じられた説に、知識の石(ストーン・オブ・ウィスドム)、または聖哲の石(フィロソファーズ・ストーン)という宝石があって、この宝石は鉛を銀にし、銅を金にし、またよく不老不死の仙薬を作ることができる不思議な力があるといって、ついにその石の探求に生涯をなげうった学者もあったと聞いたことがある。

もしかすると、彼女はこれらの宝石の類ではないか。

僕は深くこれを疑う。

けれども、あの宝石の説は、ただ学説上の妄想や迷信から出たもので、一人もこれを発見した者はなかったというから、今日このようなものがあろうはずはない。

それならば、いよいよ彼女の不思議な力は不可思議だ。

彼女が僕の特性を奪い、僕の本質を変えた事実は、ここ数日、明らかに僕の目に映じている。

僕は実にその原因を説き明かさなければならないのである。

よって、僕はまず彼女と初めて知り合ったときに遡って、それから順を追って考えよう。

(つづく)

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