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中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 10

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   その十

世には愚かな論者がいて言う。

男女同権ということは、文明開化と称せられている西洋でさえ行われていない。

その理由は、西洋では男子には参政権があって国会の議員ともなり、その議員を選ぶ選挙権があるが、女子にはこの権利がない。

これは男女同権でない証拠である。

英国の離婚法がいうには、およそ夫たる者はその妻と結婚式を行ったのち、他人と姦通することがあれば、これによってその妻を離縁する願書を裁判所に提出することができる。

妻たる者は、ただその夫が他の女と姦通しただけでは、これによって離縁の願書を裁判所に提出することができない。

しかし、もしその夫が、法律上の婚姻を禁じる近親者と姦通したり、姦通した女を本妻と並べて養ったり、他の女を強姦したり、獣畜と交わることがあるときは、離縁の願書を提出することができるなどとあって、男女同権でない証拠は数多くあるので、わが国のようにまだ文明でない国柄では行われがたく、また行っては害があるものであるなど云々のあげつらいである。

これは大いに僻んだ説で、西洋は文明だとは他の未開の国と比べていうことで、これを最上の文明ということはできない。

ゆえに、西洋文明諸国でも、道理のないこと、醜悪なことは数多く行われ、あの道徳ということなどに至っては、ほとんどわが国にも劣る行いが多いほどなので、西洋で行われている事物はことごとくよいとして用いることはできない。

また、ことごとく害があるとして捨てることはできない。

いわば、他人の長所を採り入れ、自分の短所を補って、わが国の文明を進めることこそ、愛国志士の国を思う務めだろう。

ゆえに、この同権ということも、文明があのような英仏諸国でもまだまったく行われないことで、フォーセット夫人などという女の学者が世に現れて、いたくその誤りを正そうと努めているのだろう。

また、近頃は女の学識ある人々が会合して、婦人参政権の獲得を議院に建言するほどの勢いとなっているのである。

だから、西洋諸国でも遠からず、この真の道理が勝利して同権の地位に至ることは、今から鏡に映して見るように明らかだ。

思うに、西洋の国々でも昔から強い者が弱い者を従え、自分の支配下に抑え付ける風俗は今でもなお存在し、富んだ者は貧しい者を苦しめ、貴い者は卑しい者を虐げ、強い国は弱い国々を攻め滅ぼすなど、道理に悖った行いが数多くあるので、男が腕力の強さに任せて弱い女を虐げ、苦しめてきた遺風は今でもなお存在し、同権の道理がまだまったく行われないのかもしれない。

これは文明の欠点で、西洋がまだ文明の最上に達しない証拠ともいえる。

ところが、わが国の改新を期し、文明を望む人が、その欠点を証拠として、わが国でも同権を行うことの不利を説こうとするのは、またどういう意図であろうか。

たいそう拙く愚かな限りというばかりだ。

試しに論者の言葉に従って、何事も西洋の人がすることは疑わずに、これを行うことと定めようか。

論者はこの点については異論もあるまい。

西洋では、一夫一婦である。

論者はこれを守りなさるのだろう。

西洋では、女は男に助けられて乗車の昇降をしている。

論者はこれも学びなさるのだろう。

西洋では、女は男に先立って家や部屋を出入りする。

論者はこれにも異論をなさるまい。

西洋では、女が男に門や戸を開閉させ、あるいは饗宴に同席して飲食を先にするなどということがある。

論者はこれにも異議を唱えなさるまい。

西洋では、室内や汽車の中に人が数多くいて、男は着席することができなくても、女はその席を占めて座ることができ、また煙草を吸うのに女の許可を得なければ吸うことができないなど、いろいろな特権がある。

論者はこれも謹んで守りなさるだろう。

今わが国の男で、女に対して上のような礼儀を尽くす者がいるなら、人はこれを指してどれほど笑い評するだろうか。

それでも、論者が西洋でしているだけのことは何事でもするほうがよいという志で、これを甘んじて行いなさるということなら、私も喜んでその説に従い、参政権もしくは法律のことだけは他日に譲って、しばらく不同権の位置に甘んじつつも、この西洋と同様の男の優待を受けるばかりだ。

わが親愛なる姉妹はどのように考え思いなさるか。

(おわり)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 9

   その九

世の中のことには反動という力があり、あまりに人を強く圧しつければ、人もまた強く自分をはね上げるものである。

また、人を無下(むげ)に言いののしると、人もまた自分に向かってひどく言いののしるものと知っているだろう。

だから、わが国で女が口はしたなく言いののしり、あるいは男に向かって優しくないふるまいをするというのも、おおかたはその性質がそうさせるのではない。

その無知がするわけでもない。

まったく男が無理やりに抑えつけた反動によって、このような性質に逆らった挙動をするに至ったものである。

なかには、女で生まれつき気が荒く、言葉が巧みで、夫が温順なのに乗じて、尻の下に敷くという悪いふるまいの人もなくはないが、それは百人中の一、二人で、その少ない者をもって議論の根拠とすることはできないだろう。

とにかく、世の中のすべての女の情を考えると、初めから夫をののしり辱しめ、尻の下に敷いて嬶(かかあ)天下の権威を振り回そうと欲している者はない。

男の言行が道理に背き、道を誤って、我儘勝手に権柄を振り回したために、激昂させられて、あの反動の力を出したものなのである。

これをものに譬えれば、男は風で、女は水である。

風が和やかなら、水もまた穏やかである。

波が荒れて舟を覆すのは、風の罪といえよう。

そうはいっても、女は水だから風の吹くままに従うのが本来の性質だというのではない。

ただ、この段の根拠としただけだ。

ゆえに、前段でも述べたように、男が女を圧しつけることの道理のなさを知って、やさしく情のある世となったなら、風は和らぎ、波は穏やかで、謡曲「高砂」にいう四海波静かで枝も鳴らさず、尉と姥の年齢まで睦まじく世を送る者ばかりになるだろう。

世の男という人々は戒めあって、あの反動の力を恐れなさい。

前述のような道理によって、男は従来手に握っている権柄を打ち捨て、女に対して同等の礼をもってし、そのすべての権利を返し与えるに至るなら、女はあの反動や激昂の不徳を離れ、男や夫を敬愛し、男女が互いにその権利を保護し、男は女の権利を重んじ、女は男の権利を重んじて、互いに侵しあって侮り、狎れあって犯すこともない。

心は余裕があり、言葉は和らぎ、命令は改まって相談となり、相談は熟して一家の和睦となり、論争や言い争いは後を絶って、台所のすりこ木、すり鉢は依然としてその場所にあり、ランプ、コップも普通の粗相のほかは壊れることがなくなるだろう。

このようになると、一家の内は常に喜ばしく楽しみあい、人間の最上の幸福を得ることは疑いようがない。

実に喜ばしく、めでたい限りではないか。

ところが、今の世の男たちは世の風俗や習慣に蔽われて、このような楽しい境遇が世にあることに気もつかず、ただ自分の権力を押し広めて、その道理がなく、情がない場合において快楽を求め、幸福を得ようと欲しているのは、大きな誤りではないだろうか。

そのうえ、自分は頑なに昔からの風俗や今の習慣に馴染んだままで、深くも考え定めずに、世に少し同権、同等の交際をしている男女がいるのを見ては、これを悪しざまに評し、そしり、辱しめる者があることなどは、ことに嘆くべきことではないだろうか。

ああ、世の男たちよ、あなたたちは口を開けば、改新と言い、改革と言うではないか。

どうしてこの同権の一点においては、旧習を慕っているのか。

低俗な考えかたの連中の言うままに従っているのか。

わが親愛なる姉よ、妹よ、旧弊を改め、習慣を破って、あの心ない男たちの迷いの夢を打ち破りなさい。

(つづく)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 8

   その八

「己の欲せざることは人に施すことなかれ」とは、中国の聖人、孔子の教えである。

「己の欲することを人に施せ」とは、西洋のキリスト教の宗旨で、仁恕(じんじょ)の心によって人と交わることを教えとすることは、東西ともに符節を合わせたかのようだ。

仁恕とは、人を憐れみ、おもいやる心である。

人というものは、男女に限らず、終日この心を持っていなければ、鳥や獣に近いものである。

だから、男が忌み嫌うことは、女のほうでも好み欲しているものでなく、女が好み欲していることは、男もまた忌み嫌わないだろうという道理で、その好悪は等しいだろうから、男のほうで忌み嫌うことを無理に女に施そうとするのは、ひどく心ないことで、人の道を知らないものではないか。

今ここで男に向かって、あなたはあなたの権利を何と思っているかと問えば、必ず答えて言うだろう。

私が権利を尊重することは、金銀珠玉のようだと。

それでは、隣家の主人がその権利を重んじるのはどうかと問うなら、それは私と同様にその権利を重んじていると答えるに違いない。

権利というものは、これほど自分には貴重なものではないか。

また、他人がその権利を重んじることも推して知るべきことではないか。

ところが、女の権利に限っては貴重でなく、いや、女が自分でも尊重しないとして、これを顧みないのは、そもそもどういうことだろうか。

かりにこれらの心ない男たちを女の地位に置いたなら、どのような気持ちで男に対するだろうか。

実にその程度のことが定めがたい人々であるというばかりだ。

思うに、わが国の女は古来の慣習によって、すでに権利のあることを知らず、男のなすまま、言うままに従って、その酷使に耐える状態なので、私がこう筆をちびらせ、口を酸っぱくして論じても、それほど感覚も動かさない女もあるいはいるだろうとはいえ、男がそれによって、女には権利を与えるべきでないという口実にしなければならない道理はないのだ。

今ここに、人の所有の田地を横領してきた者がある。

横領してきたのは長年で、いつから始まったのか、その所有主も知らずに年が経った。

思うに、横領されてきた頃は、その所有主が幼く弱かったために、常に強い者に取られてきたことだろう。

ところが、その田地の吟味が世に明らかになって、所有主のものである証拠も現れた。

この場合、横領してきた者に良心があるなら、自ら恥じて、これを返そうとするはずである。

ところが、その者が強情で恥を知らず、横領した田地を返さなければ、世の人はこれを何と言うだろう。

わが国における男の女に対する態度は、またこのとおりである。

だから、たとえ女が古い習慣に蔽われて、すでに権利があることを知らなくても、男のほうでこれを知ったなら、速やかにこれを返し与えなければならないのは、理の当然である。

それなのに、男が女の知らないことを幸いとして、これを奪っているのなら、その無恥もまた甚だしいではないか。

そのうえ、男は常に言う、「女には学識がない」と。

かりにこの言葉に従うなら、男の学識は今日では女にまさったものだろうか。

それならば、男は女に先立って、同権の理も知ることができるはずだ。

女の境遇をおもいやることができるはずだ。

すでにその理を知り得た以上は、一日の猶予もなく、その理のままに決行すべきはずなのに、こうもぐずぐずしているのは、そもそもどのようなつもりなのだろう。

思うに、男子には仁恕という美徳がないのだろうか。

自分に仁恕の美徳がないのに、人に柔順の婦徳ばかりを求めるのは、甚だしく苛酷なものである。

しかし、男たちがここに至って、自らを卑下して、自分たちには学識がなく、同権の理も考えることができないと逃げ口上を言うのなら、私もまたそれらの思慮がなく、性根のない男たちに向かって述べるべきこともないだろう。

(つづく)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 7

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   その七

社会が開けゆき、人知が進む程度に従って、男女の交際もうるわしく行われるもので、今の世の下等社会、すなわち裏長屋の八つぁんとか熊さんとかいう人々の境遇について、その夫婦の間の礼儀を欠き、作法がないのを見て、男女同権を許したなら、どのような騒がしい世となるだろうと心配するのは、ちょうど川の下流が濁っているのを見て、この川の水は汲んではならないと定めるのと等しいもので、あまりにあさはかで思慮のないあげつらいといえる。

川の下流が濁っていても、上流が澄んでいるなら、その澄んだ水を汲めばよい。

また、その濁った部分も時が経てば澄んだ水となるだろうから、澄むのを待って汲んだとして何の問題があるだろうか。

そのうえ、人の力でこれを澄むようにし得る方法も、多くあるのではないか。

思うに、わが国の下等社会、すなわち裏長屋の実状を探ってみると、その夫という者の礼儀作法のなさは驚くばかりで、衣食住が整わないのは言うまでもない。

平生のふるまいが無作法であるのは、ほとんど中等以上の人々が夢にも思い至らないほどのものなのである。

それは親しく行ってご覧になるまでもない。

一晩、寄席というものに行って、落語家の舌が動くにつれて語り出される滑稽な噺をお聞きになれば、明らかに悟れるものがあるだろう。

戸主である夫が、このように礼儀を欠き、無作法なありさまで、その妻や子である者がどうして礼法を守り、その夫であり、親である人に敬い仕えるだろうか。

だからこそ、ときどきは井戸端で会議を開き、あるいは長屋の中を隣近所の噂をして歩き、またはすりこ木とすり鉢の立ち回りもするに至るのだろう。

それを杞憂する男たちが、罪を女のはしたなさだけに帰して、戸主である男の罪を言わないのは、そもそも不公平な裁判というべきではないか。

思うに、世の中のことは、その極めて低い者によって弊害を述べるときは、道理として善良なものはないのだ。

火は人間に必要なものであるが、世の中が広く、人間が多い中には、この火のために火傷をする人がおり、衣服を焦がす人がいる。

家を焼き、家財を焼き、人を焼き殺すなどの災害は大きな問題といえる。

しかし、人間はその災害の多さを見て火を廃そうとは言わない。

思うに、火が人生に必要で、その災害は人の不用心か、その器の不完全によることを知っているからだ。

男女同権の道理もこのようなもので、今日のわが国の状況で考えれば、ある部分においては利益が少なく、弊害の多いところもあるだろう。

あるいは、まったく弊害だけを見る部分もあるだろうか。

しかし、ただその弊害だけを見て、男女同権が天理に悖り、人道に背くものと定めることはできないだろう。

考えてごらんなさい。

女が権利を振るって弊害があるのは、一部分ではないか。

今の男の権利が盛んであるために表れている弊害は、社会全体に関わっているものなのである。

今、この全体の弊害を除こうとするにあたって、わずかに一部分の弊害を避け、躊躇してもよいのだろうか。

果断の心に富んだ男たちにしては、似合わしくない説といえる。

今の世の論者という男たちが欲し望んでいる国会というものは、果たして完全無欠のものなのか。

立憲政体というものが、この上もない極限の制度なのか。

思うに、これにしても古い政治と比べればやや善良だといえるまでのことで、文明開化の極点から眺めれば、たいそう低く下ったものであろう。

だから、男女同権も今日のわが国で行い始めたなら、ある家では夫婦喧嘩も起こるだろう。

急に離縁を願う女も出てくるだろう。

喧嘩のためにランプ、コップも多く壊れるだろう。

里帰りの往復に車代もかさむだろう。

甚だしくは夫を裁判に訴え、あるいは夫を殺すほどの騒動も一時は起こるだろうか。

しかし、世の中が一般にこのようになるはずはない。

次第に権利が均衡を得るに至ったなら、男女が親しみあい、夫婦が愛しあう真情はいよいよ深く、本物の愛情を得るに至るだろう。

私は今、世の自由を愛し、民権を重んじる諸君に問うてみたい。

君たちは社会の改良を欲している。

人間の進歩を企図している。

それなのに、どうしてこの男女同権の説に限っては、守旧で頑固な党に結集しているのかと。

(つづく)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 6

   その六

ここに男女同等論に対して一つの強い反対論があって、わが国の今日の状況では男のほうに大きな口実を与えることがある。

その議論で言うには、男女を同等、同権とすることは、男にも異論はない。

しかし、わが国の今日の状況では行われがたい。

また、無理に行っては大いに風俗を害し、人間の快楽を減ずることが多い。

それはなぜかといえば、今ここで男女を同等とし、夫婦を同権とすると、一家の中に文句や言い争いが絶えないだろう。

今、もし夫である男が妻である女に向かって、このことをこうせよ、あのことをこうせよと命じたとき、妻である女がしたくないことか気の進まないときならば、容易には命令に従わない。

このとき、男は苛々して責め立てるだろう。

女が却ってこれに口答えすると、ついに世に言う犬も喰わない夫婦喧嘩となって、すりこ木とすり鉢の立ち回りを始め、終わりには三行半の離縁に至るだろう。

今日の世でまだ同権論が行わないときでさえ、この状態である。

まして公に男女は同等だ、夫婦は同権だということに定まったなら、嬶(かかあ)大明神、山の神、尼将軍、嬶天下などの権威は照り輝いて、近寄れないほどのさまとなり、朝から夕方まで議論が絶える間もなく、ランプ、コップの類は毎日壊れて、家に完全な器物はなくなるだろう。

このような状態では一家の間が和睦することがなく、人間の快楽はないものとなるだろう。

ゆえに、男女同権ということが行われたら、一家の幸福を失い、社会に争いを作るものである、云々とある。

この反対論は、なるほどちょっと聞くと、道理があるもののように聞こえる。

しかし、詳細に聞き、深く考えると、あさはかで取るには足らない論である。

では、その理由を述べて、世の頑なに杞憂を抱く男たちを安心させよう。

およそ夫婦喧嘩というものは、犬さえも喰わないというはしたないふるまいで、醜い行いであることは、世の人々も自ら知るところなので、誰も好んでする者はないだろうが、世間にはまま、このはしたないふるまいをして隣近所に厄介をかけ、世の物笑いとなることが多くある。

嘆かわしいこと限りない。

ところが、従来わが国の習慣では、この夫婦喧嘩をすべて女の罪とし、女の嫉妬や口はしたないことから起こったものばかりのように言いなしてきたのは、たいそう不公平な裁定で、いたく不服なことである。

だからこそ、男の論者はひたすらこれを女の罪とし、男女同権の説が世に行われたなら、この喧嘩の絶えない世になるはずだと杞憂するのだろう。

しかし、よく虚心に気を落ち着けて考えてみると、この夫婦喧嘩というものはまったく女だけの罪ではない。

多くは男から起こるものである。

たとえば、女の嫉妬から争いを起こすにせよ、男の行いが正しくて嫉むべきことがないときは、いかに頑固な女も争うことはできないだろう。

遊び続けの朝帰りによる言い争いのやかましさは、決して珍しくないのを見て知りなさい。

あるいはまた、貧しさから起こった争いも、女の倹約のなさもあるだろうが、男が怠けて働かないことも多く、または、賭け事に負けて女の衣服まで売らせるなどの悪事から起こったものも少なくないのである。

あるいは、女が性悪で口はしたなく言いののしって、男にいちいち口答えしたことから起こった争いもあるだろうが、これもその言ったことの可否を裁定した後でなければ、その善悪は定められがたい。

男が無理なことを言ったときも、女は押し黙って答えられないのが女の道だということは、いつの世のどのような人が定めたのだろう。

まったく道理のない道ではないか。

だから、夫婦喧嘩ということは、女だけを責めることはできない。

男がもし男女同権の道理を知り、身を慎み、礼を正しくして、女に対する道を尽くしたなら、心やさしく、かよわい女の身で、どうして猛々しく言いののしって争いを求めようか。

世の女は、このようなやさしく情のある男ばかりの世となったなら、礼を正しくし、言葉をうやうやしくして、女の美徳を尽くすことは疑うべくもないだろう。

世の頑なに僻んだ男たちよ、ひどく杞憂をしなさるな。

(つづく)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 5

   その五

スペンサーによれば、男女の間はlove、すなわち愛憐の二字をもって尊いものとする。

恋というのも情というのも、すべてこの愛憐の二字にほかならないものである。

だから、男女の間は愛しみあい、憐れみあって、辛いことも楽しいことも共にしてこそ、真の恋とも情ともいうらしい。

昔から恋路をたどり、情の世界に遊ぶ者の境遇を見てみなさい。

ある男女は虎の棲む原野で手を取ってさまよい歩き、ある男女は鯨が寄る浦で抱き合って溺れるなど、哀れで傷ましいふるまいが多かった。

これらの男女は困難に出合って辛いだろうが、その愛憐の情が深く、その間に大きな楽しみがあることは、世の情を知らない男たちが夢にも想像しがたいことである。

困難の間でさえ、男女の愛憐の情が深ければ、楽しみが大きいものである。

まして通常の世にあって愛憐の情が深いなら、どれほど楽しみが大きいだろう。

外目に見るだけで羨ましい心地がするのである。

ところが、今の世には(わけてもわが国には)男に一種のcoercion、すなわち権柄というものを占有させて、このありがたく楽しい愛憐の情を打ち破り、叩き砕くことを企てている恐ろしい悪魔が威張り、力を揮っているのである。

思うに、この権柄というものは、同権の権の字とは大きな違いがあるもので、道理にもよらず、情愛にもかかわりなく、ただ我儘勝手にふるまおうとするたいそう悪く拙い威力で、文明を慕い、自由を愛する人に対しては、大いに恥じ慎むべき行いである。

だから、権柄というものは、心から服従するかしないかを問わず、納得するかしないかを顧みない。

命じる人が意のままにしようとし、自らの命令を無理無法にも遂行しようとするときに必要な道具なので、あの男女が互いに愛し憐れんで、苦楽をともにするやさしい情とは正反対で、常にこのやさしくありがたい愛憐の情を打ち消そうと企てている恐ろしい悪魔、怨敵なのだ。

そもそも、世の思慮のある人が社会の事物を改めて、良さの上にも良さを競い、衣服から家財道具に至るまで美しい意匠を極めたいと思い、詩人、歌人、そのほか歌舞伎、浄瑠璃などの作者などが心を用いて書くのも、たいてい男女の間を親しく睦まじくさせる愛憐の情から起こったものだが、あの権柄という恐ろしい悪魔がひとたび来て威を振るうと、急にその効用がなくなってしまうのは、悲しく嘆かわしい限りではないか。

思うに、愛憐の情というものは、人間の最良の感覚から生じたもので、天然の美徳ともいえる。

これに対して、権柄というものは、人間の最悪の欲心から根が生え出たものなので、それが悪徳であることは言わずとも明らかだろう。

言葉を換えていえば、愛憐の心は情があることから生じ、権柄の欲は情がないことから生じるものである。

また、愛は人をおもいやるもと、中国の儒者が尊ぶ仁の道で、権は自分勝手をするもと、いわゆる不仁の行いである。

だから、愛があれば権はなく、権があれば愛がなく、権と愛とは両立し得るものではないのだ。

ところが、わが国の習慣として、これほど不法、不徳な権柄が揮われ、男はみだりにこの権柄を振り回して縦横無尽に威を揮い、女はその恐ろしい権柄の下で恐縮して、ひたすら男の怒りに遭わないことだけに努め、恋も情も打ち捨て、悪魔の指令のままに従っている状態は、哀れともはかないとも言いようがないのだ。

これはただ女ばかりが不幸であるだけでなく、男にも人間のいちばんの幸福である男女の愛憐の楽しみを打ち消して、ともに面白くない境遇に陥っているものといえる。

実に愚かの極みではないか。

ああ、わが国の男たちが、ここに気づいたなら、自らの手に持って振り回している権柄をなげうって、本当の情愛を楽しむことに努めよ。

また、女たちは知恵を揮い、力を尽くして、あの悪魔を払い除くことに努めてほしいものだ。

(つづく)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 4

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   その四

女の精神力が男より劣っていると言うことにより、女の権利は男より小さいものだと唱える僻んだ説も、前に述べた議論で打ち潰されて跡形がなくなっただろう。

それでは、心が僻み、強情な男たちは、何を再び口実として、私の議論に敵対しようとしているか。

思うに、財産について説を作り、無理に勝ちを貪ろうとすることがあるはずだ。

さて、それでは財産について、いささか思うところを申し述べたい。

財産というものは、家、土蔵、衣服、道具などのほか、所有の田地、貨幣、公債証書から、炬燵の上に眠っている飼い猫、かまどの下の灰までも含んだ言葉だろう。

この財産について、僻み論者が言うには、「わが国の女は財産を所有する者がはなはだ少ない。およそ一家をなせば、必ず男がその戸主となり、家、土蔵からかまどの下の灰に至るまで、わが物として自由にする権利がある。妻はただその男のために養われて、男の指図に背かず、家事を治め、共寝する役目を尽くすだけだ。早くいえば、その戸主の男の雇い人も同様である。その他、妾や囲い者は言うまでもない。芸者、娼妓に至るまで、男の憐れみを受けて生活するものだから、世の財産権というものは男にあって、このことから考えると、男は十分な権利を有するもので、女は奴隷に異ならない」と。

ああ、それにしても男というものは、どうしてこうも我儘勝手に言いののしって恥じることがないのか。

思うに、男は昔からの慣習に目を蔽われ、自分勝手に心を奪われて、今の世の状態や平易な道理に気づかないまま、こうも世情に疎く、道理のない説も憚りなく論じ出せるものなのだろう。

それでは、私が思うところを掲げて、男たちの心の迷いの夢を驚かそう。

そもそも、男に財産権があって、女にその権利がなかったことは、その昔の封建時代に甚だしかった。

封建時代には大名というものがあって、その扶持をもらって生活をした家来の侍たちは、元来、軍役に出るために奉公した者なので、女では間に合わず、一家の戸主は必ず男と定めてあったために、戸主が死んだときは、その家督はまた必ず男でなければ相続することができなかった。

もし不幸にも男の跡継ぎがないうちに、戸主が死ぬことなどがあると、慌ただしく養子を取って、戸主が死ぬ前に届けておくのである。

あるいは、まだ養子が定まらない間に戸主の男が死亡することがあっても、その死を隠して、まず養子の願いを出したほどのものであった。

だから、この場合には家にどれほどの美人がいても、どれほどの才女がいても、家督相続の役に立たなかったのは、今の世の人もよく記憶していることである。

したがって、百姓、町人などにも自然とその傾向があって、奥向きは女将軍、山の神などと称えられるほどの者でも、家に伝わる屋号や暖簾に頼り、あるいは幼少の男児を戸主に立て、その暖簾や名前の陰にいて万事を取り扱う状況だった。

だから、財産権が男にあって女になかったのは、封建時代一般の状況で、その制度は破れてもその慣習は残存して、今の世に至っても自ずから財産権が男に多く、女に少ないことになったのである。

ところが、世の心が僻んだ男の論者が、このような由来から生じた悪い習慣であることも悟らず、ただ世の様子を瞥見し、何の思慮もなく財産権の多少を論じ、男に財産権が多く、女に少ないのは、まさしく天理や自然がそうさせたもののように言い、無理に男を女の上に置こうとするのは、返す返すも道理を知らない申し分なのだ。

そのうえ、今の世では女で戸主となり得ることは、華族、士族、平民を問わず、一般に許されたことなので、数万町の田畑を所有する女もおり、数千円の公債証書を所蔵する女もいる。

その他、家、土蔵、衣服、諸道具の類まで多く蓄えて、豊かに暮らしている女戸主が多くおり、堂々たる男もその下で支配されている者が少なくないのではないか。

今からのち数十年を経れば、社会の状態がどれほど変化し、女の財産家を数多く出すかもわからない。

もしここに至って、女が財産に富み、男にまさることがあるなら、男の権利ははるかに女の下に置いてもよいか。

思うに、男はこれを承諾しまい。

だから、財産所有の多少によって男女の生まれつきの権利を定めるのは、拙く愚かなものなのである。

妾、芸娼妓などが、男の憐れみを乞うて生活をするという議論に対しては、私はまた大いに説がある。

他日、稿を改めて明らかに論じよう。

(つづく)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 3

   その三

女の精神力が男に劣らない例証は、前に掲げて、これを明らかにした。

心の僻んだ男たちも口を噤んで、再びこの点を論争し得ないだろう。

しかし、なお強情な男たちは、執念深く説を作って言うらしい。

「昔から女のすぐれた者がなくはないが、男のすぐれた者の多さに比べれば、比較にならないほど少ない。これが女の男に劣る例証である」と。

ああ、この説を作る男は、どうしてこうも古今の世情に通じないこと甚だしいのか。

考えてみなさい。

昔から東洋の習慣として男には教育法が整備され、学問の道から武芸の術までそれぞれに師を選び、場を設けて教授してきた。

だから、男は思慮がなくて自らを棄てる者か、学ぶことを嫌って自らを損なう者か、あるいは貧しく卑しくて学ぶ暇のない人を除いて、ほとんど教えを受けない者はない。

かりに教えを受けなくても、男は世の中に奔走して広く人と交わるので、女が居間の中に閉じこもって人交わりもできないようにされるのとでは、その知識の進みにも大きな差異がなければならないわけであろう。

だから、昔から男のすぐれた者が女よりも多い理由は、教えると教えないとの違い、また世に交わることの広さと狭さとによるもので、自然に得た精神力に差異があるものではないのだ。

そのうえ、教育というものは、その方法が適切でなければ効果や利益がないもので、利益のない教育は骨折り損のくたびれ儲けとなり、女の精神力も自然に得ただけを尽くさず、そのまま宝の持ち腐れとなって朽ち果てることが数知れない。

また、教育によっては、ただ利益がないだけでなく、害をなすことも少なくない。

すなわち、わが国では昔から女の学問の道はたいていその方法を誤り、女社会の知識の発達を妨げるものが多い。

女のすぐれた者が少ない理由ではないだろうか。

このような原因、理由があることも探りたださずに、みだりに女を侮り軽んじ、女を男より劣るものと強弁する僻み論者の小面の醜いことよ。

かりに男のいうように男には女にまさった才知があるとして、男は女より権利が多いものと定めることができるだろうか。

その場合は、男同士の間にも才知の多少深浅の違いがあるはずだ。

その権利はどのように定めるのだろうか。

もし才知によって人間の権利を定めるとすれば、多数の男が各自政府か博士の試験を受け、小学生のように人々に等級を立て、権利の多少を定めなければなるまい。

このような煩わしいことを行い得るだろうか。

ゆえに、あの男たちが思うままに言うように、かりに男を女よりまさったものと定めても、その才知の多少深浅によって権利の程度を定めることはできない。

まして才知も男に先を譲らないものであることは言うまでもない。

今の社会を見てみなさい。

女を乗せて走る人力車夫がおり、芸者の後に従う箱持ちがおり、娼妓の指図に畏まる若者がおり、女の憐れみを乞う役者がいる。

その他、中等以下の生活をする男で、女に頼って世を送る者は数えるいとまがない。

これらをさえ、論者はなお、女が男に劣っている状況だと強弁するのだろうか。

また、この場合に限っては、現に女が男にまさっていることは明らかなので、女を男の上にして、男より幾分か多くの権利を与えて当然だろうか。

いかに心が僻み、強情で、舌が滑らかな男の論者でも、ここに至っては口を噤み、また言葉がなくなるだろう。

わが親愛なる姉よ妹よ、気を強くし、心を確かにして、世の心が僻み、強情な圧制男子の前で同権の道理を唱えなさい。

(つづく)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 2

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   その二

古代には世の道理は明らかでなく、人の道は暗く、人間関係はただ腕力だけに頼っていた。

長い間、知識の働きや道徳による関係ということがなかったので、腕力の強い者は富んで貴く、弱い者は貧しく卑しい状態であった。

思うに、この時代の状態は、人間関係というのは名ばかりで、その実は鳥や獣の関係に等しいものであったろう。

考えてごらんなさい。

鳥や獣というものは、礼節もなく、道徳ということもないものたちなので、ひたすらその強弱だけに頼って関係している。

ゆえに、弱い鳥や獣は常に強い同類のために殴殺され、かみ殺されて無残な死を遂げるので、平生からびくびくと恐れて、その下に服従し、戒めあってその怒りに遭わないことを願っている。

すなわち、鷲や鷹の類が鳥類の中で威を振い、獅子や虎のようなものが獣の中で権力を得たのは、すべてその力の強弱によって区別されたもので、知識がなく、道理を知らない人々が群れ集まる様子と実に似た状態であろう。

だから、今の世でも道理によらずにことをなすことを野蛮な行いといい、道理によらずに戦いをなすことを野蛮な戦というのである。

野蛮とは、知識を用いず、道徳にもよらず、ひたすら力の強さを恃むという意味で、文明人が最も卑しみ嫌う悪い行いである。

このような道理は、今の世では普通の人でもよく知っているものなのに、堂々たる論者がこれを知らず、いや、これを知っても知らない顔をして、女のかよわさを侮り軽んじ、人間の卑賤な部分に置こうとするのは、そもそもどういう意図であろうか。

スペンサーによれば、人を自分の力の下に指揮して、自分の命令のまま違背なく従わせようとする欲心は、野蛮な欲心というものである。

多分に命令といったものは、これに従わなければ腕力を借りて強迫しても服従させる意味を含み、必ず強迫の力を要する道理であるから、不服な者はこれを腕力に訴えるのである。

ゆえに、これを野蛮な欲心という。

私の目から社会を見れば、東洋諸国の男は野蛮な欲心に富んだ人々である。

いや、野蛮な欲心を縦横無尽に働かせてきた兇暴恐るべき動物であるといっても、それほど過言ではあるまい。

このような恐ろしい動物に支配されてきた女社会の不幸はどうだろう。

この長い間の習慣を辛いとも痛いとも思わないわが同胞姉妹の情けなく思慮のないことよ。

私はこれを思うたびに袖に涙を絞らないことはない。

ああ、わが親愛なる姉妹よ、今またどのようにお考えか。

また、ある論者がいて言うには、「女は男に比べれば、精神力が大いに劣っている。したがって、知識が少ない。ゆえに、同等ではあり得ない」と。

これまた、たいそう愚かなあげつらいで、取るには足らないものである。

思うに、男に学識が多く、女には少ないということは、自然の性質でそうなのではない。

教えると教えないとの違いなのだ。

見てごらんなさい。

わが国でも女で人よりすぐれた者は、神代の昔では申すのも怖れ多いが、天照大神を初めとして、天鈿女命(あめのうずめのみこと)がいる。

人皇の代に及んで、息長足姫(おきながたらしひめ)=神功皇后がおり、衣通姫(そとおりひめ)がいる。

紫式部がおり、和泉式部がおり、清少納言がいる。

その他、やんごとなき上臈から下賤の女に至るまで、歌を詠み、文を綴り、夫を諌め、人を諭すことなど、男にまさった行いのある者は、数えるいとまがない。

また、中国でも、魏の甄后(しんこう)=文帝の皇后は、九歳で女博士の名があり、徐考徳の娘、徐恵は、八歳でよく文章を書いた。

蔡邕(さいいう)の娘、蔡琰(さいえん)は、六歳で夜切れた琴の弦を聞き分けた。

韋逞(いてい)の母、朱氏は、講堂を建て百余人の生徒を教授させた類。

その他、賢媛淑女で学識があった者は数知れない。

詩を作り、文を綴るような者は、歴代何百人の多さであるか知ることができない。

また、あの西洋などに至っても、女王エカテリーナ二世がおり、女王マリア・テレジアがいる。

学術で名を得た者に、メアリー・ソマービルがいる。

経済学で著名な者に、ハリエット・マルチノーがいる。

一般の理論に長じた者に、マダム・ド・スタエルがいる。

もっぱら政治学を修め、世に高名な者に、マダム・ローランドがいる。

有名な詩人に、ウィリアム・ブラッチフォードの娘でメアリー・タイという者がおり、フェリシア・ヘマンスという者がおり、ランドンがおり、エリザベス・ブラウニングがいる。

その他、名のある女が世に出たことは、いちいち指を折るいとまがない。

このように、和漢洋ともに女で知識のある者は盛んに出ているではないか。

これでもなお、論者が強弁して女は精神力が劣るものとするなら、たいそう理由がなく、道理のない愚論ではないだろうか。

(つづく)

中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 1

中島湘煙(しゆん女)の評論「同胞姉妹に告ぐ」(初出:『自由燈』第2~32号、明治17年5月18日~6月22日)の現代語訳です。

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   その一

わが親愛なる姉よ妹よ、どうしてこうも思慮がないのか。

なぜこう精神が麻痺しているのか。

私がこのように無礼にも世の姉妹に向かって発言するなら、人々は怪しみ怒って、これは狂女かも、愚かな婦人らしいと、退けようとするかもしれない。

しかし、私がこのように『自由燈(じゆうのともしび)』の紙上を借りて、世の人々に狂女とも愚かな婦人とも指し笑われることも憚らず、同胞の姉妹に親しく告げようと思うのは、深く理由のあることで、国を思い、世を憂う真心にほかならない。

わが親愛なる姉妹の自由と幸福を進めようと望んでいる精神から出たものなのだ。

では、徐々にその理由を説明していこう。

わが国には昔からいろいろな悪い教育、習慣、風俗があって、文明と自由の国の人に対しては、ひどく恥じ入ることがある。

その悪い風俗の最大のものは、男を尊び、女を卑しむ風俗である。

思うに、この風俗は東洋、アジアの悪弊で、はなはだ理由がなく、道理がないものである。

考えてごらんなさい。

人間の世界は男女からなるもので、男だけで世の中を作ることはできない。

社会に終日女がいなければ、人の道は滅び、国は絶えてしまうだろう。

そのうえ、その精神から四肢五官に至るまで、男女は等しく自然が与えたものを持ち、備わらないところはなく、あの『古事記』の「なりなりてなり余れると、なりなりてなり足らぬところ」のようなものも、あいまって人類社会を作ることから、いわゆる同等同権のものといえる。

それなのに、こうわが国の風俗のように、男を旦那、亭主、ご主人と尊び、女は下女、はしため、お召使いと卑しめられて、まったく同等の待遇を受けないのは、はなはだ遺憾の極みではないか。

ある論者は言う、「男は強い、女は弱い。ゆえに、同等ではあり得ない」と。

そもそも、強い弱いとは何の力を指していうのだろうか。

もし、腕力の強弱によって尊卑貴賎が分かれるというなら、男の仲間にも強弱の差異がいろいろとあることは、相撲の番付で知ることができ、一般の人間はとても相撲取りに勝つことはできない。

横綱の梅ヶ谷や大関の楯山は、正一位、摂政や関白にならなければならず、色の生白い華族方は、新平民の下にでも位置しなければならないはずだ。

世の中にどうしてこのような道理があり得よう。

また、いよいよ腕力の強い者が尊く、弱い者は卑しいとすれば、源平時代の巴御前や鎌倉時代の板額(はんがく)のような勇ましいこと類ない女は、男よりもまさった尊貴の位を持ち、その権力もはるかに諸々の男の上にあるべきはずだが、論者は少しもこれを論じない。

ただ、「男は強い、女は弱い。ゆえに同等ではない、同権ではない」と、とりとめもなく論じ終わるのは、なんと疎かな議論だろう。

ゆえに、ある論者のいう強弱で尊卑貴賎を定めるという論は、道理がなく、取るに足らない愚論なのだ。

(つづく)

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