中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 8
その八
「己の欲せざることは人に施すことなかれ」とは、中国の聖人、孔子の教えである。
「己の欲することを人に施せ」とは、西洋のキリスト教の宗旨で、仁恕(じんじょ)の心によって人と交わることを教えとすることは、東西ともに符節を合わせたかのようだ。
仁恕とは、人を憐れみ、おもいやる心である。
人というものは、男女に限らず、終日この心を持っていなければ、鳥や獣に近いものである。
だから、男が忌み嫌うことは、女のほうでも好み欲しているものでなく、女が好み欲していることは、男もまた忌み嫌わないだろうという道理で、その好悪は等しいだろうから、男のほうで忌み嫌うことを無理に女に施そうとするのは、ひどく心ないことで、人の道を知らないものではないか。
今ここで男に向かって、あなたはあなたの権利を何と思っているかと問えば、必ず答えて言うだろう。
私が権利を尊重することは、金銀珠玉のようだと。
それでは、隣家の主人がその権利を重んじるのはどうかと問うなら、それは私と同様にその権利を重んじていると答えるに違いない。
権利というものは、これほど自分には貴重なものではないか。
また、他人がその権利を重んじることも推して知るべきことではないか。
ところが、女の権利に限っては貴重でなく、いや、女が自分でも尊重しないとして、これを顧みないのは、そもそもどういうことだろうか。
かりにこれらの心ない男たちを女の地位に置いたなら、どのような気持ちで男に対するだろうか。
実にその程度のことが定めがたい人々であるというばかりだ。
思うに、わが国の女は古来の慣習によって、すでに権利のあることを知らず、男のなすまま、言うままに従って、その酷使に耐える状態なので、私がこう筆をちびらせ、口を酸っぱくして論じても、それほど感覚も動かさない女もあるいはいるだろうとはいえ、男がそれによって、女には権利を与えるべきでないという口実にしなければならない道理はないのだ。
今ここに、人の所有の田地を横領してきた者がある。
横領してきたのは長年で、いつから始まったのか、その所有主も知らずに年が経った。
思うに、横領されてきた頃は、その所有主が幼く弱かったために、常に強い者に取られてきたことだろう。
ところが、その田地の吟味が世に明らかになって、所有主のものである証拠も現れた。
この場合、横領してきた者に良心があるなら、自ら恥じて、これを返そうとするはずである。
ところが、その者が強情で恥を知らず、横領した田地を返さなければ、世の人はこれを何と言うだろう。
わが国における男の女に対する態度は、またこのとおりである。
だから、たとえ女が古い習慣に蔽われて、すでに権利があることを知らなくても、男のほうでこれを知ったなら、速やかにこれを返し与えなければならないのは、理の当然である。
それなのに、男が女の知らないことを幸いとして、これを奪っているのなら、その無恥もまた甚だしいではないか。
そのうえ、男は常に言う、「女には学識がない」と。
かりにこの言葉に従うなら、男の学識は今日では女にまさったものだろうか。
それならば、男は女に先立って、同権の理も知ることができるはずだ。
女の境遇をおもいやることができるはずだ。
すでにその理を知り得た以上は、一日の猶予もなく、その理のままに決行すべきはずなのに、こうもぐずぐずしているのは、そもそもどのようなつもりなのだろう。
思うに、男子には仁恕という美徳がないのだろうか。
自分に仁恕の美徳がないのに、人に柔順の婦徳ばかりを求めるのは、甚だしく苛酷なものである。
しかし、男たちがここに至って、自らを卑下して、自分たちには学識がなく、同権の理も考えることができないと逃げ口上を言うのなら、私もまたそれらの思慮がなく、性根のない男たちに向かって述べるべきこともないだろう。
(つづく)
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