中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 6
その六
ここに男女同等論に対して一つの強い反対論があって、わが国の今日の状況では男のほうに大きな口実を与えることがある。
その議論で言うには、男女を同等、同権とすることは、男にも異論はない。
しかし、わが国の今日の状況では行われがたい。
また、無理に行っては大いに風俗を害し、人間の快楽を減ずることが多い。
それはなぜかといえば、今ここで男女を同等とし、夫婦を同権とすると、一家の中に文句や言い争いが絶えないだろう。
今、もし夫である男が妻である女に向かって、このことをこうせよ、あのことをこうせよと命じたとき、妻である女がしたくないことか気の進まないときならば、容易には命令に従わない。
このとき、男は苛々して責め立てるだろう。
女が却ってこれに口答えすると、ついに世に言う犬も喰わない夫婦喧嘩となって、すりこ木とすり鉢の立ち回りを始め、終わりには三行半の離縁に至るだろう。
今日の世でまだ同権論が行わないときでさえ、この状態である。
まして公に男女は同等だ、夫婦は同権だということに定まったなら、嬶(かかあ)大明神、山の神、尼将軍、嬶天下などの権威は照り輝いて、近寄れないほどのさまとなり、朝から夕方まで議論が絶える間もなく、ランプ、コップの類は毎日壊れて、家に完全な器物はなくなるだろう。
このような状態では一家の間が和睦することがなく、人間の快楽はないものとなるだろう。
ゆえに、男女同権ということが行われたら、一家の幸福を失い、社会に争いを作るものである、云々とある。
この反対論は、なるほどちょっと聞くと、道理があるもののように聞こえる。
しかし、詳細に聞き、深く考えると、あさはかで取るには足らない論である。
では、その理由を述べて、世の頑なに杞憂を抱く男たちを安心させよう。
およそ夫婦喧嘩というものは、犬さえも喰わないというはしたないふるまいで、醜い行いであることは、世の人々も自ら知るところなので、誰も好んでする者はないだろうが、世間にはまま、このはしたないふるまいをして隣近所に厄介をかけ、世の物笑いとなることが多くある。
嘆かわしいこと限りない。
ところが、従来わが国の習慣では、この夫婦喧嘩をすべて女の罪とし、女の嫉妬や口はしたないことから起こったものばかりのように言いなしてきたのは、たいそう不公平な裁定で、いたく不服なことである。
だからこそ、男の論者はひたすらこれを女の罪とし、男女同権の説が世に行われたなら、この喧嘩の絶えない世になるはずだと杞憂するのだろう。
しかし、よく虚心に気を落ち着けて考えてみると、この夫婦喧嘩というものはまったく女だけの罪ではない。
多くは男から起こるものである。
たとえば、女の嫉妬から争いを起こすにせよ、男の行いが正しくて嫉むべきことがないときは、いかに頑固な女も争うことはできないだろう。
遊び続けの朝帰りによる言い争いのやかましさは、決して珍しくないのを見て知りなさい。
あるいはまた、貧しさから起こった争いも、女の倹約のなさもあるだろうが、男が怠けて働かないことも多く、または、賭け事に負けて女の衣服まで売らせるなどの悪事から起こったものも少なくないのである。
あるいは、女が性悪で口はしたなく言いののしって、男にいちいち口答えしたことから起こった争いもあるだろうが、これもその言ったことの可否を裁定した後でなければ、その善悪は定められがたい。
男が無理なことを言ったときも、女は押し黙って答えられないのが女の道だということは、いつの世のどのような人が定めたのだろう。
まったく道理のない道ではないか。
だから、夫婦喧嘩ということは、女だけを責めることはできない。
男がもし男女同権の道理を知り、身を慎み、礼を正しくして、女に対する道を尽くしたなら、心やさしく、かよわい女の身で、どうして猛々しく言いののしって争いを求めようか。
世の女は、このようなやさしく情のある男ばかりの世となったなら、礼を正しくし、言葉をうやうやしくして、女の美徳を尽くすことは疑うべくもないだろう。
世の頑なに僻んだ男たちよ、ひどく杞憂をしなさるな。
(つづく)
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