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中島湘煙「同胞姉妹に告ぐ」 5

   その五

スペンサーによれば、男女の間はlove、すなわち愛憐の二字をもって尊いものとする。

恋というのも情というのも、すべてこの愛憐の二字にほかならないものである。

だから、男女の間は愛しみあい、憐れみあって、辛いことも楽しいことも共にしてこそ、真の恋とも情ともいうらしい。

昔から恋路をたどり、情の世界に遊ぶ者の境遇を見てみなさい。

ある男女は虎の棲む原野で手を取ってさまよい歩き、ある男女は鯨が寄る浦で抱き合って溺れるなど、哀れで傷ましいふるまいが多かった。

これらの男女は困難に出合って辛いだろうが、その愛憐の情が深く、その間に大きな楽しみがあることは、世の情を知らない男たちが夢にも想像しがたいことである。

困難の間でさえ、男女の愛憐の情が深ければ、楽しみが大きいものである。

まして通常の世にあって愛憐の情が深いなら、どれほど楽しみが大きいだろう。

外目に見るだけで羨ましい心地がするのである。

ところが、今の世には(わけてもわが国には)男に一種のcoercion、すなわち権柄というものを占有させて、このありがたく楽しい愛憐の情を打ち破り、叩き砕くことを企てている恐ろしい悪魔が威張り、力を揮っているのである。

思うに、この権柄というものは、同権の権の字とは大きな違いがあるもので、道理にもよらず、情愛にもかかわりなく、ただ我儘勝手にふるまおうとするたいそう悪く拙い威力で、文明を慕い、自由を愛する人に対しては、大いに恥じ慎むべき行いである。

だから、権柄というものは、心から服従するかしないかを問わず、納得するかしないかを顧みない。

命じる人が意のままにしようとし、自らの命令を無理無法にも遂行しようとするときに必要な道具なので、あの男女が互いに愛し憐れんで、苦楽をともにするやさしい情とは正反対で、常にこのやさしくありがたい愛憐の情を打ち消そうと企てている恐ろしい悪魔、怨敵なのだ。

そもそも、世の思慮のある人が社会の事物を改めて、良さの上にも良さを競い、衣服から家財道具に至るまで美しい意匠を極めたいと思い、詩人、歌人、そのほか歌舞伎、浄瑠璃などの作者などが心を用いて書くのも、たいてい男女の間を親しく睦まじくさせる愛憐の情から起こったものだが、あの権柄という恐ろしい悪魔がひとたび来て威を振るうと、急にその効用がなくなってしまうのは、悲しく嘆かわしい限りではないか。

思うに、愛憐の情というものは、人間の最良の感覚から生じたもので、天然の美徳ともいえる。

これに対して、権柄というものは、人間の最悪の欲心から根が生え出たものなので、それが悪徳であることは言わずとも明らかだろう。

言葉を換えていえば、愛憐の心は情があることから生じ、権柄の欲は情がないことから生じるものである。

また、愛は人をおもいやるもと、中国の儒者が尊ぶ仁の道で、権は自分勝手をするもと、いわゆる不仁の行いである。

だから、愛があれば権はなく、権があれば愛がなく、権と愛とは両立し得るものではないのだ。

ところが、わが国の習慣として、これほど不法、不徳な権柄が揮われ、男はみだりにこの権柄を振り回して縦横無尽に威を揮い、女はその恐ろしい権柄の下で恐縮して、ひたすら男の怒りに遭わないことだけに努め、恋も情も打ち捨て、悪魔の指令のままに従っている状態は、哀れともはかないとも言いようがないのだ。

これはただ女ばかりが不幸であるだけでなく、男にも人間のいちばんの幸福である男女の愛憐の楽しみを打ち消して、ともに面白くない境遇に陥っているものといえる。

実に愚かの極みではないか。

ああ、わが国の男たちが、ここに気づいたなら、自らの手に持って振り回している権柄をなげうって、本当の情愛を楽しむことに努めよ。

また、女たちは知恵を揮い、力を尽くして、あの悪魔を払い除くことに努めてほしいものだ。

(つづく)

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