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  • 「まちこの香箱(かおりばこ)」
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泉鏡花「琵琶伝」 6

   第五

お通は琵琶だと思ったのだろう、名を呼ぶ声にさまよい出て、思わず謙三郎の墓がある埋葬地の間近に至り、気がつくとまだ新しく見える土饅頭に、激しく当時を追懐して、無念、愛惜、絶望、悲惨、その一つでさえもまだ人を殺せるに足るいろいろな感慨に胸を打たれた。

なかんずく、重隆の執念深い復讐の企てで、意中の人が銃殺されるのを、目前で自分に見せた当時の無念は、禁じることができなかった。

女の意地と張りのために、勤めて忍んできた鬱憤が、数十倍の勢いでいま満身の血を炙っているのに、顔は蒼ざめ、紅い唇は白い歯でくいしばって、ほとんど我を忘れている折から、視線の彼方のススキの原から背の高い人物が現れた。

大股で埋葬地の間をよぎって、ふと立ち止まると見えたが、つかつかと歩いて、謙三郎の墓に到り、足を挙げてはたと蹴り、カッと唾を吐きかけた。

その傍若無人のふるまいが手に取るように見えると、激昂のあまり煙も立たんほどで、お通はどうしても堪えられなかった。

駆け寄る婦人の足音に、その人物は振り返った。

近藤重隆であった。

彼は出征した旅団の留守中で、いま山狩りの帰り道であった。

はたと顔を合わせたとき、相手との隔たりは三十歩、お通のそのときの形相はどれほどすさまじいものであったか、尉官は思わず絶叫して、

「殺す! 俺を、殺す!!!」

というより早く、弾装した猟銃をわななきながら差し向けた。

矢も銃弾も当たろうはずがない。

轟音を立てて一射した銃声が雲を破って響くと同時に、尉官は、あっと悲鳴をあげると見えたお通の髷を両手でつかみ、両者とも動かずにいた十分後、同時に地上へ重なり倒れたが、二束の黒髪はそのまま、ついに起たなかった尉官の両手に残って、ひょろひょろと立ち上がったお通の口は、喰い破った夫の喉の血で染まっていた。

彼女はその血を拭おうともせず、一歩、二歩、三歩ばかり、謙三郎の墓に近寄りつつ、かすれた声もたいそう細く、

「謙さん」

と言ったまま、がっくりと横に倒れた。

月は青く、山は黒く、白いものがあって空を飛び、傍の枝に羽音を留めた。

葉を吹く風の音につれて、

「ツウチャン、ツウチャン、ツウチャン」

と二度三度、こだまを返して、琵琶はしきりに名を呼んだ。

琵琶はしきりに名を呼んだ。

(おわり)

泉鏡花「琵琶伝」 5

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   第四

出征に際して脱営したことと殺人罪とで、もちろん謙三郎は銃殺された。

謙三郎が死んだ後も、清川の家の居慣れた八畳の彼の書斎は、依然として元のままであった。

秋の末にもなったので、籐で編んだ筵を、秋野の錦を浮織にした花型模様の毛氈に代えて、たいそう華々しく敷き詰めている。

床の花瓶の花もしぼまず、西向きの窓に設けた格子の下にあった机の上も片づいて、硯の蓋に塵も置かず、座布団を前に敷き、傍の桐火桶に赤銅色の火箸を添えて、ふと見ると中に炭火も活けてある。

紫檀の四角い茶盆の上には、数個の茶碗を伏せて、菓子を盛った皿も置いてある。

机の上には一枚の謙三郎の写真を飾り、あたりの襖を閉め切ると、そうでなくても秋の暮なので、室内は静かでほの明るく、四隅はだんだん暗くなって、物音さえ聞こえないが、火鉢にかけた鉄瓶の湯気だけが薄く立ち上って、湯の沸く音が静かである。

折からあちらから襖を開けた。

わずかな風が吹き入って、立ち上る湯気がなびくと同時に、もの寂しいこの書斎を真っ白い顔が覗くと、

「謙さん」

と呼びかけた。

裾もすらすらと入りざま、ぴたりと襖を閉めて、部屋の中央に進み寄り、愁いに沈んだ様子であたりを見回し、座りもせず、下あごを襟に埋めて、うちしおれているお通の面影がやつれている。

やがて桐火桶の前に座って、亡き人の布団を避けつつ、その傍らにくずおれた。

「謙さん」

とまた小声で呼んで、何かに驚いているように、肩をすぼめてうなだれた。

鉄瓶にそっと手を触れて、

「おお、よく沸いてるね」

と茶盆に眼を着け、その蓋を取りのけて冷やかな急須の中を覗き、うちしおれた風情で、

「あなた、お茶でも入れましょうか」

と写真をじっと見守ったが、はらはらと涙をこぼして、その後はまたものを言わず、深い思いに沈んだのだろう、身動きさえもしなかった。

落ち葉がさらりと障子を撫でて、夜が次第に迫りつつ、生きているのか死んでいるのかわかないほどのお通の姿も、黄昏の色に蔽われた。

炭火の白い灰が動くとき、どうして聞こえたのだろうか、

「ツウチャン」

とお通を呼んだ。

再び、

「ツウチャン」

とお通を呼んだ。

お通は黙想の夢から覚めて、声がするほうをさっと仰いだ。

「ツウチャン」

とまた繰り返した。

お通は落ち着かない様子で立ち上がって、一歩進み、二歩行き、縁側に出て、庭に下り、閉め忘れていた裏の非常口からふらふらと出て、どこへともなく歩み去った。

こうして数分間、足のおもむくままに徘徊したお通は、ふと心づいて、

「おや、どこへ来たんだろうね」

と自分自身を怪しんだ。

お通は見るより顔色を変えた。

ここは陸軍の所轄に属する埋葬地のあたりであった。

銃殺された謙三郎もまた、葬られてここにいる。

あの夜、お通は機会を得て一度謙三郎と抱き合い、互いに顔も見なかったうちに、意中の人は捕縛された。

そのときすでに精神的には死んでしまっても当然な命を、医療の手で取りとめられ、生きるでもなく、死ぬでもなく、次第に二ヵ月が過ぎた頃、ある日、重隆がお通を強いて、ともに近郊を散策した。

小高い丘を上っていくと、ふと足元に平地があって広さは十町四方あまり、その一端には新しい十字架が建てられているのを見た。

お通は見るからにいたましく、夫は予め用意していたのだろう、従卒に持ってこさせた折りたたみの腰かけをそこに押し並べ、あえてお通を抑留して、視線を外すのを許さなかった。

足音が急に丘の下で起こって、一中隊の兵員がいた。

樺色の囚人服を着た縄付きの一人を挟んで、視界に近くなったとき、お通は心から見るともなしに、ふとその囚人を見るやいなや、座右の夫を蔑んだ。

かつて、「どうするか見ろ」と夫が言った、それはつまり、これだったのだと。

十字架を一目見てさえ、なおかつ震えおののいた先の様子に引き換えて、見る見る囚人が顔を前にして両手を後ろで縛られ、射手の第一、第二弾、第三射撃の響きとともに、囚人の固く食いしばった唇を洩れる鮮血が、細く、長く、その胸間に垂れるまで、お通は瞬きもせずに見詰めながら、手も動かさず、姿勢も崩さず、石と化したように、一筋、二筋頬にかかった後れ毛さえも動かさなかった。

銃殺がすべて執行されて、硝煙の臭いが消えさるまで、尉官は始終お通の挙動に細かく注目していたが、心地よさそうに髯をひねって、

「勝手に節操を破ってみろ」

と片頬に微笑を浮かべていた。

お通はそのとき蒼くなって、

「もう、破ろうにも破られません。しかし、死、死ぬことはいつでも」

尉官はこれを聞き終わらないうちに、

「バカ」

と激しく言い伏せた。

お通のうなじが垂れるのを見て、

「従卒、家まで送ってやれ」

命じられた従卒は、お通が自ら促すまで、怖れて立つことさえできなかった。

こうして、その日の悲劇は終わった。

お通は家に帰ってから、言動はほとんど常と変らず、泣いたり怨んだりして、尉官近藤の夫人である風采と態度とを失うことはしなかった。

その後、いまだかつて許されなかった里帰りを許されて、お通は実家に帰ったが、母の膝下に来たと同時に、張りつめた気がゆるんだのだろう、彼女はあどけないものとなって、泣くも笑うも赤子のようで、気がふれたようになったことから、一日延ばしに言い延ばした。

母は娘を重隆のもとに返さず、一ヵ月あまりを過ごしてきた。

だから、亡き謙三郎が今も書斎にいるかのように、掃除し、机を並べ、花を活け、茶を煎じ、菓子を挟むのも、みなこれはお通の堪え忍びようのない追慕の思いが、その一端を洩らしているのだろうと、母は娘の心を察して、その挙動がほとんど狂者のようであるにもかかわらず、制したり禁じたりすることができなかった。

(つづく)

泉鏡花「琵琶伝」 4

そう老人が言ったように、お通は今にいたる一年間、幽閉されたこの一軒家にいて、涙に、口に、またなりふりに、心中のその苦痛を語ったことは絶えてなく、身なりを整え、正しく慎む様子には、ほとんど測り知れないものがあったのである。

しかし、ひとたび大盤石が根底から覆ると、小石が転がるようなものではない。

三昼夜、麻畑の中に潜伏して、ひとたび彼女に逢うため、一粒の飯さえ口にせず、却ってワラジムシの餌食となっている意中の人の困窮には、泰山といえども動かずにはおかないほど、お通は動転したのである。

「そんなに解っているのなら、ちょっとの間、大目に見ておくれ」

と前後も忘れて手足をばたつかせるが、伝内はいささかも手をゆるめず、

「はて、きき分けのねえ、どういうものだね」

お通は涙にむせいりながら、

「ええ、きき分けがなくってもいいよ、お放し、放しなってば、放しなよう」

「どうしてもきかなけりゃ、うぬ、ふん縛って、動かさねえぞ」

と伝内は大声で叱りつけた。

実に、近藤は執着の果て、女に自分への節操を尽くさせるか、終生空閨を守らせ、自分は一分もその傍におらずに、なおよく節操を保たせるのでなければ、自分に貞であるとはいえないとした。

初めからお通が自分を嫌っているのは、蛇や蠍よりもはなはだしいのを知りながら、まるで彼女に取り憑いたかのように、行動すべてに付きまとって、ついにお通と謙三郎とのすでに成立した恋を破り、自分はその生贄を得ていたにもかかわらず、従兄妹同士の恋愛がいかに強いかを知ってから、嫉妬のあまり、肉欲を抑え、婚姻当初の夜から同衾しないだけでなく、一度も来て妻を見たことがない。

その一軒家での幽閉の番人として、この老人を選んだのである。

お通はやむなく死力を出して、瞬時伝内と争ったが、風にも堪えないかよわい女の、つらさに痩せた体で、どうして力強い腕に敵うことができるだろう。

たやすく奥に引っ立てられて、そのままそこに押し据えられた。

たとえどのような手段でも、とうていこの老人を自分に忠実にさせることはできないとお通は判断した。

激昂の反動はいたく彼女を落胆させて、お通は張りもなくくず折れつつ、吐息をついて、悲しげに、

「じいや、世話を焼かすねえ。堪忍しておくれ、よう、じいや」

と身を持て余すかのように、ひじを枕に寝倒れた身体は、綿のように疲れてぐったりとしている。

伝内はこの一言を聞くと同時に、窪んだ両眼に涙を浮かべ、その場を少し退いて腕を組み、拳を握って何も言わない。

鐘音が遠く、夜は更けた。

あたりが静寂に包まれたとき、門の戸をかすかに叩いて、

「通ちゃん、通ちゃん」

と二声呼ぶ。

お通はその声を聞くやいなや、弾かれたように飛び起きて、しっかりと片膝を立てていたが、伝内の眼に遮られて、答えることができなかった。

戸外では言葉が途絶え、中を窺う気配であったが、

「通ちゃん、これだけしても、逢わせないから、仕方がないと諦めるが・・・」

息も絶えそうに途絶え途絶え、隙間を洩れて聞こえると、お通は居ずまいを整えて、畳に両手をつきつつ、行儀正しく聞いていた背中が震え、髪が揺らいだ。

「実はね、叔母さんが、言うから、仕方がないように、言っていたけれど、逢いたくって。実はね、私が」

と言いかけたとき、犬が二、三頭高く吠えて、謙三郎を囲んだのだろうか、シッ、シッと追うのが聞こえた。

さらに低まった声音が、風のない夜半に弱々しく、

「実はね、叔母さんに無理を言って、逢わねばならないようにしてもらいたかった。だからね、私にどんなことがあろうとも、叔母さんが気にかけないように」

という折しも、すさまじく大戸にぶつかる音がした。

「あ、痛」

と謙三郎が叫んだのは、足を咬まれたか、手を引っ掻かれたか、犬の毒牙にかかったのではないか。

あとは途切れて言葉がないので、お通は生きた心地もせず、思わず立って駆け出したが、肩肘を厳めしく構えた伝内を一目見て、蒼くなって立ちすくんだ。

これを見、あれを聞いていた伝内は、どうしたのか、つっと身を起して土間に下り立ち、早くも掛金に手をかけた。

「ええ、た、た、たまらないねえ、一か八かだ、逢わせてやれ」

とがたりと大戸を引き開けたとたん、犬がいて、さっと退いた。

駆け寄るお通を伝内は身をもって謙三郎から隔てつつ、謙三郎がよろめきながら中に入ろうと焦るのを遮り、

「うむや、そう易々とは入れねえだ。旦那様の言いつけで三原伝内が番するうちは、敷居も跨がすこっちゃねえ。どうしても入るなら、俺を殺せ。さあ、すっぱりと抉らっしゃい。ええ、何をぐずぐず、もうお前様方のように思い詰めりゃ、これ、人一人殺されねえこたあないはずだ。俺、はあ、自分で腹ぁ突いちゃあ、旦那様に済まねえだ。済まねえだから、死なねえだ、死なねえうちは邪魔するだ。この邪魔者を殺さっしゃい、七十になるじじいだ、殺し惜しくもねえでないか、さあ、やらっしゃい。ええ! 埒があかぬ」

と両手で襟を押し開けて、のけぞりざま喉仏を示したのを、謙三郎は瞬きもせず、しばらく見詰めていたが、銃剣が閃き、闇を切って、

「失敬!」

という声もろとも、喉に白刃を刺された瞬間、伝内ははたと倒れた。

同時に中に入ろうとした謙三郎は、敷居につまずき、土間に両手をつきざまにうつ伏せになって起き上がりもしない。

お通はまるで狂気のように謙三郎に取りすがって、

「謙さん、謙さん、私ゃ、私ゃ、顔が見たかった!」

と肩に手をかけ、膝に抱いた折から、靴音、軍刀がすれあう響き。

五、六名がどやどやと入ってきて、意識もない謙三郎をお通の手から奪いとり、有無を言わせず引っ立てると、ああ、とばかりにはね起きたまま、茫然として立っているお通が、歯を食いしばり、瞳を据えて、よろよろと倒れかかった。

その肩を支え、腕をつかんで、

「うぬ、どうするか、見ろ、ふとい奴だ」

これは婚姻の当夜以来、お通がまだ一度も聞いたことがなかった、怒りを鬱積させた夫の声であった。

(つづく)

泉鏡花「琵琶伝」 3

   第三

「これ、どこへござらっしゃる」

と不意に背後から呼び止められ、誰も知らないだろうと忍び出て、今ようやく戸口に到ったお通はどきっとした。

けれども、彼女が聞かないふりをして、手早く鎖を外そうとしたとき、手燭を片手に駆け出して、むんずと帯際を引き捉え、つかみ戻した老人がいる。

頭髪はまるで銀のようで、額は禿げて、髯はまだらで、たいそう厳めしい面構えの一癖ありそうに見えた老人が、野太い声でお通を叱り、

「夜夜中にとんでもねえ、駄目なこった、諦めさっせい。三原伝内が見張ってれば、びくともさせるこっちゃねえ。眼をくらまそうたって、そりゃ駄目だ。なんの表へ出すものか。こっちへござれ。ええ、こっちへござれと言うに」

お通は厳しい表情で振り返り、

「お放し、私がちょっと表へ出ようとするのを、なんのお前がお構いでない、お放しよ、ええ!お放しってば」

「なりましねえ。麻畑の中へ行って逢おうたって、そうはいかねえ。素直にこっちへござれってえに」

お通は肩を動かした。

「お前、主人をどうするんだえ。ちっと出過ぎやしないかね」

「主人も糸瓜もあるものか、俺は、何でも重隆様の言いつけどおりにきちんと勤めりゃそれでいいのだ。お前様が何と言ったって、耳にも入れるものじゃねえ」

「邪慳もたいていにするものだよ。お前、あんまりじゃないかね」

とお通は黒く艶やかな瞳で老人の顔をじろりと見た。

伝内はぴくりともせず、

「邪慳でも因業でも、俺、何にも構わねえだ。旦那様のおっしゃる通り、きちんと勤めりゃそれでいいのだ」

威圧はきかないと見たお通は、少し様子を和らげ、

「しかしねえ、お前、そこには人情というものがあるわね。まあ、考えてみておくれ。一昨日の晩初めて門をお叩きなすってから、今夜でちょうど三晩の間、向こうの麻畑の中に隠れておいでなすって、召し上がるものといっちゃ、一粒のご飯もなし、家にいてさえひどいものを、ま、蚊やブヨでどんなだろうねえ。脱営をなすったって。もう、お前も知ってるとおり、今朝からどのくらい、お調べが来たか知れないもの、お捕まりなさりゃ、それっきりじゃないか。なんの、ちょっとぐらい顔を見せたからって、見たからって、お前、この夜中だもの、ね、お前、この夜中だもの、旦那に知れっこはありゃしないよ。でも、それでも許してくれなけりゃ、お前でもいい、お前でもいいからね、実はそれ、隠れ忍んでやっと拵えたこの食事をそっと届けて来ておくれ、よ、後生だよ。私に一目逢おうと思って、そのくらいに辛抱あそばす、それを私の身になっちゃ、ま、どんなだろうとお思いだ。え、後生だからさ。もう、私ゃいても立ってもいられやしないよ。後生だからさ、ちょっと届けて来ておくれなね」

伝内はただ頭をふるだけ。

「何を言わっしても駄目なこんだ。そりゃ、は、とても駄目でござる。こんなことがあろうと思わっしゃればこそ、旦那様が扶持つけて、お前様の番をさしておかっしゃるだ」

お通はたいそう切ない声で、

「さ、さ、そのことは聞こえたけれど・・・ああ、何といって頼みようもない。いっそお前。わ、私の眼を潰しておくれ、そうしたら顔を見る気遣いもあるまいから」

「そりゃいけねえだ。何でも、は、お前様に気をつけて、蚤にもささせるなという、おっしゃりつけだもの。眼を潰すなんてとんでもない。とんだことを言わっしゃる。それにしても、お前様眼が見えねえでも、口が利くだ。何でも、はあ、いっさい、男と逢わせることと話をさせることがならねえという、旦那様のおっしゃりつけだ。諦めてしまわっしゃい。何といっても駄目でござる」

お通は胸も張り裂けるばかり、

「ええ」

と叫んで、身を震わし、肩を揺すって、

「い、いっそ、殺しておしまいよう」

伝内は動じることなく、

「これ、またあんな無理を言うだ。蚤にも喰わすことのならねえものを、どうして、は、殺せるこんだ。さ、駄々をこねねえでこっちへござれ、ひどい蚊だかのう。お前様は喰わねえか」

「ええ、蚊が喰うどころのことじゃないわね。お前もあんまり因業だ、因業だ」

「なにその、言わっしゃるほど因業でもねえ。この家を目指してからに、何遍も探索がやってくるだ。つい、麻畑と言ってやりゃ、即座に捕まえられて、俺も、はあ、一晩中眠らねえで、お前様を見張るにも及ばずかい、ご褒美も貰えるだ。けんどもが、何も旦那様は、人を訴え出ろという言いつけはしなさらねえだから、俺知らねえで押し通しやさ。その代わりにゃまた、言いつけられたことは少しも放っておかねえだ。どうでも表へ出すことはなりましねえ。腕づくでも逢わせねえから、そう思ってくれさっしゃい」

お通はわっと泣き出した。

伝内は眉をひそめて、

「あれ、泣かあ。いつにねえことにどうしただ。お前様、婚礼の晩、床入りもしねえでその場っからこっちへ追い出されて、今じゃ月日も一年越し、男猫も抱かないで家にばかり。敷居を跨がすなという言いつけで、俺に見張っとれというこんだから、俺ゃ、お前様の心が思いやらるるで、見ているが辛いでの、どんなに断ろうと思ったか知んねえけんど、今の旦那様が三代目で、代々養われたじじいだで、横のものをば縦にしろと言われたところで、従わなけりゃなんねえので、承知したことは承知したが、さてお前様がさぞ泣き続けるこんだろうと、命が縮まるように思っただ。すると、案じるより産むが安いで、長いことこうやって一緒にいるが、お前様の諦めのいいにはたまげたね、思いなしか、気のせいか、だんだんやつれるようには見えるけんど、ついぞ膝も崩したことはなし、ちゃんとして威勢がよくって、俺、はあ、ひとりでに頭が下がるだ、はてここいらは、田舎も田舎だ。どこにいたところで何の楽しみのねえじじいでさえ、つまらねえこったと思って、気が滅入るに、お前様はえらい女だ。面壁九年とやら、悟ったものだと恐れ入っていたんだがさ、とんでもないことが湧いてきて、お前様ついぞ見たこともねえ、泣かっしゃるね。ご心中、のう、察しねえでもねえけんどが、旦那様にゃ代えられましねえ。はて、お前様のようでもねえ。諦めてしまわっしゃい。どの道こう言い出したからにゃ、いくら泣いたってそりゃ駄目だ」

(つづく)

泉鏡花「琵琶伝」 2

   第二

相本謙三郎はただ一人清川の書斎にいて、あてもなく部屋の一方を見詰めたまま、黙って物思いにふけっていた。

彼の書斎の縁先には、一個の意匠を凝らした鳥籠をかけた中に、一羽の純白のオウムがいて、餌をついばむのにも飽きたのだろう、もの淋しげに謙三郎の後ろ姿を見やりつつ、頭を左右に傾けていた。

部屋がひっそりとしていたのは少しの間であった。

謙三郎はその清く秀でた顔でオウムを見向き、いたく案ずる様子であったが、憂うるように、危ぶむように、また人に憚ることがあるもののように、

「琵琶」

と一声、オウムを呼んだ。

琵琶とは、おおかたオウムの名であろう。

低く口笛を鳴らすと同時に、

「ツウチャン、ツウチャン」

と叫んだ声が、奥深いこの書斎を徹して、一種の音調が響くと、謙三郎は愁いに沈んで思わず涙を催した。

琵琶は長年、清川の家で養われていた。

お通と彼女の従兄である謙三郎との間にいて、巧みに二人の情愛を育んでいた。

ほかでもない、お通がこの家の愛娘として、部屋を隔てながら同居していた頃、まだ近藤に嫁ぐ以前には、謙三郎が用があって、お通に会いたいことがあるたびに、いま彼がしたように籠の中の琵琶を呼んで、このように口笛を鳴らすとともに、琵琶が冴えて澄んだ声で、

「ツウチャン、ツウチャン」

と伝令するように、よく馴らされていた。

だから、このときのように声を上げて二度三度呼ぶとともに、家の奥で物静かに縫物をする女は、物差しを棄て、針を置いて、すぐに謙三郎のもとにやって来つつ、笑顔を合わせるのが常だったのである。

今はいない、いないのを知りつつ、謙三郎は日中に数回、夜に数回、このはかない子どものような遊びを繰り返すことを禁じ得なかった。

さて、その頃は日清戦争の出兵があった頃、ちょうど予備、後備に対する召集令が発表された折であった。

謙三郎もまた、わが国の徴兵令によって、予備兵の籍にあったので、一週間前すでに一度連隊に入営したが、某月某日の翌日は旅団が戦地に出発するということで、親戚や家族の心を察し、一日の出営を許されたのである。

彼は父母のない孤児で、他に兄弟などもなかったが、子として幼少から養育されて、母とも思う叔母に会って、永い別離を惜しむため、朝からここに来ていた。

聞くこともまた言うことも、永い夏の日に尽きないが、帰営の時刻が迫ってきたので、謙三郎はぴったりと軍服をまとい、まさに辞去しようとして躊躇した。

書斎にあれがある、ポケットに入れるのを忘れたといって、すでに玄関まで出ていた身で、一人書斎に引き返した。

叔母とその使用人たちは、みな玄関に立ち並んで、いずれも顔に愁いを浮かべている。

弾丸の中に行く人が、今にも来ると待っていたが、五分を過ぎ、十分を経て、まだ書斎から出て来ないとは、謙三郎はどうしたのか、とそれぞれに思っている折から、ひっそりとして広い家のはるか奥の方から音がして、

「ツウチャン、ツウチャン」

とオウムの声がした。

聞き慣れている叔母が、このときばかりは何を思ったのだろう、顔色を変えて慌ただしく書斎にやって来た。

謙三郎は琵琶に命じて、お通の名を呼ばせたが、来るべき人がいないことに、いつものこととはいいながら、明日は戦地に赴く身で、再び見聞きできる声ではないので、決意している門出にも、彼は自然に涙ぐんだ。

そのとき縁側に足音がした。

女々しい風情を見られまいと、謙三郎が立ったとき、叔母は早くもこちらに来て、突然鳥籠の蓋を開けた。

驚いて見る間に、羽ばたき高く、琵琶は籠の中から逃げ去った。

「おや! 何をなさいます」

と謙三郎はせわしく聞いた。

叔母はこちらを見返りもせず、琵琶の行方を見守りつつ、縁側に立っていたが、ああ、消え残った樹の間の雪か、緑陰の暗いあたりに白いオウムが見え隠れし、ヒグラシが一声鳴いたとき、手で涙を拭いつつ、おもむろに謙三郎を顧みた。

「いいえね、未練が出ちゃあ悪いから、もうあの声を聞くまいと思って・・・さ」

叔母は涙の声を飲んだ。

謙三郎は羞じた様子である。

これには答えずに、胸の間のボタンをかけた。

「それでは参ります」

とつかつかと書斎を出た。

叔母は引き添うようにして、その左側に従いつつ、歩きながら口早に、

「いいかい。さっき言ったことは違えやしまいね」

「何ですか。お通さんに逢って行けとおっしゃった、あのことですか」

謙三郎は立ち止った。

「ああ、そのことだとも。お前、戦に行くという人に他に願いがあるものかね」

「それは困りましたな。あそこまでは五里あります。今朝だと人力車で駆けて行ったんですが、とても逢わせないといいますから、行こうという気もありませんでした。今からじゃ、もう時間がございません。三十分間、兵営まででさえ大急ぎでございます。とんだ長居をいたしました」

言うことを聞きも終わらず、叔母は少し急き込んで、

「そのことは聞いたけれど、娘の身にもなってごらん、あんな田舎に押し込まれて、一年越し外出もできず、折があったらお前に逢いたい一心で、細々と命を繋いでいるのに、顔も見せないで行かれちゃあ、それこそあの子は死んでしまうよ。お前もあんまり思いやりがない」

と軍服を捉えて離さないので、謙三郎は困りつつ、

「そうおっしゃるのも無理はございませんが、もう今から逢いますには、脱営しなければなりません」

「は、脱営でも何でもおし。通が私ゃかわいそうだから、よう、後生だから」

と片手で軍服の袖を捉えて、片手で拝むのに身も世もない。

謙三郎が蒼くなって、

「なに、私の身はどうなろうと、名誉も何も構いませんが、それでは、それではどうも国民としての義務が欠けますから」

と真心をこめた強い声音も、どうして叔母の耳に入るだろうか。

ひたすら頭を振って、

「何が欠けようとも構わないよ。何が何でもいいんだから、これたった一目、後生だ。頼む。逢って行ってやっておくれ」

「でも、それだけは・・・」

謙三郎がなお辞すると、果ては怒って血相を変え、

「ええ、どう言ってもきかないのか。私一人だからいいと思って、叔父さんがおいでのときなら、そんなこと、言われやしまいが。え、お前、いつも口癖のように何とお言いだ。必ず養育された恩を返しますって、立派な口をきくくせに。私がこれほど頼むのに、それじゃあ義理が済むまいが。あんまりだ、あんまりだ」

謙三郎はどうにも言い訳すべき言葉を知らなかった。

しばらく思案して頭を垂れたが、叔母の背を撫でた。

「ようございます。何とでもいたして、きっと逢って参りましょう」

言われて叔母は振り仰ぎ、さも嬉しそうに見えたが、謙三郎の顔色がただならないのを危ぶんで、

「お前、いいのかい。何ともありゃしないかね」

「いえ、お気遣いには及びません」

とたいそう淋しそうに微笑んだ。

(つづく)

泉鏡花「琵琶伝」 1

泉鏡花「琵琶伝」(初出:『国民之友』第277号、明治29年1月)の現代語訳です。

   第一

新婦が床入りをしようとして、座敷から休息の間に帰ってきたとき、介添の婦人はふとその顔を見て驚いた。

顔にはほとんど生気がなく、今にも倒れそうなくらいであるが、何かに激している様子なので、介添は心もとなげに、ひざまづいて着替えを捧げながら、

「もし、ご気分でもお悪いのじゃございませんか」

と声をひそめて、そっと聞いた。

新婦はさびしく冷やかな瞳を転じて、介添を顧みた。

「なに」

とだけ簡単に言い捨てたまま、体さえ眼さえ動かさず、ただ一心に思うことがあるその方向を見詰めつつ、衣を換えるのも、帯を締めるのも、衣紋を直すのも、褄を揃えるのも、みな人の手に委ねてしまう。

ただならない新婦の様子を危ぶんだ介添が、何かは知らず、おどおどしながら、

「こちらへ」

と言うのに任せ、彼女は少しもためらわず、静々と足を廊下に運んで、やがて寝室に伴われた。

床にはもう夫がいて、新婦が来るのを待っていた。

彼は名を近藤重隆という陸軍の尉官である。

次第は別に言わないのだろう、仲人の妻が退き、介添の婦人もみな退出した。

二人だけが寝床の上で相対し、新婦はきちんと身体を固めて、端然と座ったまま、真正面から夫の顔を見上げ、打ち解けた様子は少しもなく、また恥じらう風情もなかった。

尉官は腕組みをして、こちらもまた和らいだ様子はなく、ほとんど五分ほどの間、互いに眼と眼を見合せたが、ついに夫がまずおごそかな声で、

「お通(つう)」

とだけ呼びかけた。

新婦の名はお通であろう。

呼ばれたのに応えて、

「はい」

とだけ。

彼女ははっきりとものを言った。

尉官はいたく苛立つ胸を強いて落ち着かせたような、沈んだ、力のある声音で、

「お前、よく来たな」

お通は少しも口ごもらず、

「どうも仕方がございません」

尉官はしばらく黙っていたが、ややその声を高くした。

「おい、謙三郎はどうした」

「息災でおります」

「よく、お前、別れることができたな」

「仕方がないからです」

「なぜ仕方がない。うむ?」

お通はこれに答えず、懐中に手を差し入れて一通の書簡を取り出し、夫の前に繰り広げて、両手を膝にきちんと置いた。

尉官は右手を差し伸ばし、身近に行燈を引き寄せつつ、視点を定めて読み下ろした。

文字はおおかた次のようなものであった。

お通に申し残しいたす。御身と近藤重隆殿とは許嫁である。

しかし、御身がことのほかあの人を忌み嫌う様子は、拙者の眼にも明らかであったから、わが娘ながらも、その次第を言い聞かすことができず、いまわの際まで黙っていた。

そうではあるが、いったん親戚の義を約束いたしたからは、義理堅かった重隆殿の亡父殿に対して面目なく、いまさら取り消すことはできない。

気の毒だが犠牲となって、拙者の名のためにあの人に身をお任せいたすよう、この遺言をしたためるときの拙者の心中の苦痛をもって、御身に謝罪いたす。

                              清川通知

  月 日

   お通殿

二度三度繰り返して、尉官は姿勢を改めた。

「通、俺は夫だぞ」

お通は聞いて両手をついた。

「はい、あなたの妻でございます」

そのとき、尉官は傲然と、うつむいているお通を見下ろしつつ、

「俺の言うことには、お前、必ず従うであろうな?」

こちらは頭を垂れたまま、

「いえ、お従わせなさらなければいけません」

尉官は眉を動かした。

「ふむ。しかし、通、俺を夫とした以上は、お前、妻たる節操は守ろうな?」

お通はさっと顔を上げた。

「いいえ、できさえすれば破ります!」

尉官は怒気が心頭を衝いて烈火のように、

「何だ!」

とその言葉を再び言わせた。

お通は恐れず、臆する様子もなく、

「はい。私に、私に、節操を守らねばなりませんという、そんな、義理はございませんから、できさえすれば破ります!」

恐れ気もなく言い放った、その片頬に微笑が浮かんでいる。

尉官はすぐに頷いた。

予めこの心算があったのであろう、熱さは極まって冷たさとなり、口ぶりもたいそう静かに、

「うむ、必ず節操を守らせるぞ」

彼は唇の先で嘲笑していた。

(つづく)

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