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森鴎外「ふた夜」 7

東の空を見れば、鼠色の雲に少し明るい綻びがある。

地平線のところから狭く黄色い一帯が上ろうとして支えられているのが見える。

プステルレンゴはそう遠くあるまい。

伯は服を乾かせる暖炉、濃いコーヒーを夢に見ながら思うようだ。

チェッコーも今は大きくなっただろう。

彼が果たして俺の帽子をどれだけ引き裂いたか、見たいものだ。

もし四年後にまたあの帽子を見たら、奇遇だといえるだろう。

とりとめのないことを思い続け、舌を打ち鳴らすと、馬は泥を蹴りたてて急行した。

しばらくしてまた夜明けが近い霧の中から、一群の猟隊の後ろ姿を見た。

気性の勝ったこの隊なので、歩兵、騎兵などと違って、話し声もときおり漏れ聞こえるが、夕べの疲れは表情に出て、人々はみな夜が早く明けて、暖炉のあるところにたどり着くことを祈るばかりだ。

猟隊の群れは一大隊ほどで、その前には旗騎兵の一群がいる。

この間を貧しくない農民めいた服を着た男が、手を後ろざまに縛られて歩いている。

服は裂けて泥にまみれ、帽子をかぶっていないので、黒い毛は額を覆っている。

この男は頭を垂れて、深い泥の中を歩いている。

伯がそのまま行き過ぎようとすると、急に笑みを含んで、

「止まれ」

と声をかける人がいる。

振り返っても誰かわからなかったが、灰色の外套の襟を開いて首を出し、緑の毛の付いた帽子を少し押し上げて額を現したのを見ると、先の参謀本部付きの仕官だった。

参謀本部付きは面白そうに言う。

「よい天気にまた遭ったものだな。俺は風邪をひいて堪えがたい。乾いたハンカチは持っていないか。俺のは濡れてしまって使えない」

「わかった。俺の鞍の防水袋さえ、その名に背かないなら、乾いたハンカチも巻煙草もあるだろう」

「善い兵士はフザールだ」

と参謀本部付きは鼻歌を歌ってまた言う。

「もし俺の願いがかなうときには、お返しに桜酒を一口飲ませよう」

防水袋は、その名に背かなかった。

二人の士官は、ハンカチと巻煙草と、桜酒を交換した。

そのうえで参謀本部付きは問う。

「お前はどこへ乗って行くのだ。昨日の晩から馬の背にばかりいるのでは、まさかあるまい」

「ほとんど馬の背にばかりいる。ただ馬を替えただけだ。寝たのは一時間で、その報いに、この恐ろしい夜に遭った」

二人が巻煙草に火をつけようと路傍に寄ると、兵卒があの罪人を引っ立てて通り過ぎた。

フザールの伯は言う。

「誰だ?」

「スパイだ。ピエモンテ人に戦おうとする意思でもあったならば、奴はどんなに我が兵を苦しめただろう。カサル・プステルレンゴの本営に連行されるところだ」

「怪しいものを持っていたのか」

「十分に。射殺してもあまりあるほどに。奴は貧しくない者だから、金を得るための仕業ではない。我が兵を憎んでスパイとなったのだ。昨日のことだったが、我が兵の使いに立った従順な御者が河畔で殺されたところ、昨夜捕らえたこの男の懐から御者の持った文書が出てきた」

伯は不憫だと思うように肩を少し動かして、この罪人を見た。

どのような罪人も死地に就くのを見るのは快くない。

「このスパイの命は助からないだろう。裁判は隊の出発前に終わった。しかし、彼が住むカサル・プステルレンゴに連行して、現地の役所にただして、罪を軽くするよすがもあろうから、ともかくも連行するのだ」

二人の士官はまもなく縦列を後にして村に近づいた。

地平線に見えた黄色い一帯は、今は広くなって、先には一団をなしていた灰色の雲もようやく離れ離れになった隙間から、日光が漏れて空に余光を漲らせている。

しかし、この光はまだ灰色を帯びて濁っている。

朝とはいえ、景色は沈んで見える。

雲はまだ低く垂れて、眠たげに広い郊外の野原を彼方へたなびいていく。

道の周りの高低さまざまな木は、鋭い朝風になびいて、昨夜から貯えた雨水を地上に撒き散らしている。

左右の溝には水が満ち、色は褐色に似て田舎汁を見るようだ。

荒い風に半ば吹き倒された稲の茎が、寒さに堪えられずにか震えているのも哀れだ。

士官は互いの姿を見合って、昨夜から汚れた軍服のみすぼらしい様子を笑った。

馬は鞍のあたりまで泥にまみれて、白い外套にはところどころに褐色の筋がある。

靴と拍車と剣は泥に包まれている。

村に近いところで、また新しい縦列に会った。

村の道には兵卒が満ち満ちている。

本営は大きな家で、二人は馬から下りてここに入ったが、用が終わって伯が出てきたのは一時間ばかり経た後だった。

雨は止んだ。

歩兵の群れが道を塞いでいる。

現地の民衆は、濡れた兵士たちに食事を出そうと騒いでいる。

民衆はオーストリア兵を尊んで、自由の贈り物をもらったと言っている。

これは、半ばはオーストリア王室を尊ぶ気持ちから出て、半ばは長い戦が終わるのを願う気持ちから出たのだろう。

早くも駅舎が見えるところに来た。

あそこに厩がある。

ここに家がある。

厩の前には一群の軽騎兵がいて、馬を暖かいところに引き入れようとしている。

御者数人がこれを助けようとしている。

伯が来て馬から下りるのを見て、一人の御者が馬のくつわを受け取った。

「駅舎の一家は、今どうしているか」

と問われて、御者は何かに恐れるような様子で、家の方を振り向き、肩を動かして言う。

「家はあちらです。戸は開いていますので入ってご覧ください。人がいますかいませんか。しかし、外套をお干しになるほどの場所はありましょう。私は馬を厩に引いて、また後から参りまして、火を起こしておもてなしいたしましょう」

「誰も家にはいないのか。駅舎の主人の家族はいないのか」

と士官が問うと、御者はただ、

「知りません」

とだけ答えた。

伯がいぶかしさに頭を振って入ると、閾の上には大きなむく毛の犬が伏せており、伯の顔を仰ぎ見て尾を振った。

これこそ見覚えのある犬だ。

伯が入ると、犬はその後について来た。

伯は先の夜に立った窓のある部屋を目指して、廊下を進んでドアを開けた。

岡に向かった窓は開いている。

先の夜のように、葡萄の蔓は風になびいている。

しかし、優しい月の光は受けず、霧深い朝の灰色の光を帯びている。

葉先からは重そうな雨の雫が、風につれてはらはらと落ちた。

部屋には二人の子どもがいる。

一人は六歳ほどだが、暖炉の中で消えようとする炭火を吹いている。

一人は二歳ほどに見えるが、床の上に座って、小さい手を肌寒そうな服の下に差し入れて温めようとしている。

大きいほうは男児で、小さいほうは女児だろう。

あの人の娘だろうか。

顔がよく似ているな。

大きな光のある目まで。

伯が思わず、

「テレシナ」

と呼ぶと、幼子は頭を振り向けて笑った。

床の上のものを見ると、貧しそうではない。

しかし、どうしてか皆ひどく乱れた様子に見える。

伯はどういうわけか自分でもわからずに、身が震えるほど哀れを感じた。

男児はチェッコーだろう。

昔、少女の膝にいた頃と違い、大人びて、

「火はもうすぐ燃えるから、ちょっと待ってください」

という主人ぶりも哀れだ。

伯が部屋を出て先ほどの御者に事情を聞きたいと思うとき、一束の薪を抱いて御者が入ってきた。

「誰も家にいないのか。この子どものほかには。主人はどこに行った」

と伯に問われて、御者は薪を暖炉の近くに下ろし、また肩を動かして言う。

「ここにいらっしゃったことがおありで」

「四年ほど前に一度」

「それでこのようにお聞きになるのですか」

「馬を換えようとして、夜ここで休憩したとき、美しい少女を見たが」

「テレシナ」

と御者は答えて、また暖炉の近くを指差し、

「あそこにいるのは、彼女の子です」

「彼女は」

「不幸にも一年前に亡くなりました。人があまりに辛いので」

「辛かったとは誰が、彼女の父か」

「いえ、父親は早く世を去りました。彼女の夫で、私の今の主人です」

と言って、また何かに恐れる様子だ。

「さては、ピアチェンツァの駅の者だろう」

と、伯は胸が迫っているさまを見せまいと、声を低めて問う。

「あなたは彼をご存じでしたか」

「顔は知らないが、名を聞いたことがある」

「まさかあなたがご存じの人ではないでしょう。天罰は逃れられないものです。こういう誠意ある妻を、善き美しい妻を。父親がピアチェンツァから婿を取ろうと迫ったのを、我慢して引き受けた気持ちはどうでしたか。悪人とは誰も知らない者はないのに。そうして夫婦になっては誠意を尽くしたのに、今はどうでしょう。彼は天罰だからよい。不憫なのは子どもです」

「天罰とはどういうことか」

と伯は窓に肘をもたれて問う。

心中ではどのような恐ろしいことだろうかと疑っている。

「あまり長くなったので、ついに露見しました。先ほどスパイだといって連行されました」

と小声で答える。

「あなたは行き会いましたでしょう。同じ道を連行されましたから。命は助かるまい。将軍殿の言葉をいただいても」

「さては、彼が」

と伯は静かに言い、床の上の娘が自分の傍にいざり寄って、剣の鞘につかまったのを見ている。

幼児と顔を見合わせて、深く感じた様子で顔を背け、懐の金貨が満ちた財布を引き出して、老いた御者に渡して言う。

「お前は実直な男とみえる。これは子どもたちのために収めておいて、後で渡してくれ」

伯は幼い娘を抱き上げて、愛らしい唇にキスをし、黙ってドアを出ようとする。

「火が今燃えますから、待ってください。士官殿」

とチェッコーが後ろから声をかけた。

出て行く人は聞こえないふりをして厩に入り、急いで跨って乗り出し、首を回して駅舎に最後の一目を注ぐ。

このとき、左手の方から太鼓が鳴って、小銃の音が三発四発聞こえた。

伯が端綱を緩めて拍車をあてると、馬はローディの方へと急いで駆け出した。

(おわり)

森鴎外「ふた夜」 6

一、二時間も寝ただろうかと思う頃、呼び起こされた。

枕元に立っているのは少佐だ。少佐が言う。

「無情にも君を起こしたのは、やむを得ないことがあってだ。誰も頼む者がいない。君がすでにひどく疲れているのは知っているが、また夜更けに出てもらうこととなった」

言葉もまだ終わらないうちに、伯は跳ね起きた。

剣と革袋をほどよく揺すって直し、指令の文を受け取った。

この文はピッツィゲットーネに持っていき、すでにオーストリア人がそこに入っている場合は、何某将軍に渡せという。

少佐が自ら淹れさせたコーヒーのカップ半分を分けて伯に飲ませ、指令状を渡すのを、伯は受け取って慌ただしく階段を下り、向かいの家へ馬を取りに行った。

馬はまたたく間に整ったので、伯は白い上着を引っ掛け、これに乗って村の方へと歩ませた。

天気が悪くなった。

あたりはすべて暗く、目の前に手をやっても見えないというのは、諺ばかりではない。

大空には星一つさえ輝かない。

ときおり鋭く乾いた風が払うように吹いてくるのは、口を開けば火を吐き、天地を荒らすに違いない雷雨の苦しげな息であるらしい。

野辺にたむろしている兵士は、焚いた篝火を消されまいとするが、風に誘われる弱い焔は、嘆かわしそうにあちらこちらへなびいている。

露営の馬は身震いし、鼻を開いて空を仰いでいる。

兵卒の仲間にも一人として心地よさそうに寝転んでいる者は見えず、皆眠らずに、窪地に座っている者がおり、道端に群れをなしているのは、ときおり地平線のあたりに閃く電光に照らされる黒い空を指して、何か言っているようだ。

士官が集まったところを過ぎるたびに、皆快く礼をした。

そうして言葉を添えて言う。

「気をつけたまえ。今にも激しい空となろう」

と。

ほどなく駐屯も露営も通り過ぎ、伯は独り淋しい田舎道に出た。

このとき、伯は心中に四年前のことを思い出した。

ミラノを発ってほとんど同じ道を通った夜、そのおりの花の香り、鶯の歌、恋が思い出された。

今と比べると、どれほど面白かっただろう。

あの少女が三度自分に触れた唇は今も忘れない。

これより後に温かい唇に触れたこともあるが、あの熱く甘い唇には比べるべくもなかった。

今夜は鶯の歌も聞こえない。

そのときにはなかった風が吠える音と次第に頭上に近づいて鳴る雷の音があるばかりだ。

風は激しく、道端の木々は横ざまになびいている。

黒雲の間を行き交う稲妻に恐れて、騎馬は何度も身を震わせていた。

途中で騎兵の一群に会った。

先頭に立った老下士官が言う。

「河の畔で、ピエモンテ人がピッツィゲットーネを撤退しようとするのを見ました。たいしてお急ぎにならずとも、オーストリアの前哨と行き会われるほどでしょう」

夜の一時ばかりでもあろうか。

雷雨はいよいよ激しくなった。

風は馬の歩みを止めるばかりで、騎手の周りを吠えながら吹き、その顔には砂や小石を投げつけ、大木の梢を折っては、馬の左右に投げ出している。

雨は瀑布のように降っている。

雹は大粒でたいそう激しく、馬と騎手の体に当たって、慣れた士官の力も、驚く馬を鎮めかねたほどだ。

実に恐ろしく心細い伝令の役目だった。

この激しい雷雨が一時間ばかりも続いただろうか。

雨も風もやや弱くなった。

このとき、騎手の耳に遠くから車の走る音、歩兵と騎兵の進む音などが聞こえるかと思われた。

この物音は、風とともに近くなり、また遠くなった。

馬を止めて身を少し屈め、敵か味方か、その方角も覗って、真っ直ぐに行くにしても、横へ避けるにしても決めたいと思った。

ピッツィゲットーネは少し左手に当たっているだろうから、今の物音はその方角から右の方へ撤退するかと思われる。

これは今、柵を離れていくピエモンテ人に違いない。

馬を左の方へ歩ませて、街と川の流れのあるらしい方へ進んだ。

流れは程近いと思うのに、闇夜なので水の光も見分けられない。

突然、馬が躍り上がって退いた。

驚いた騎手は端綱を堅く引き、無意識に剣の柄に手をかけて身構え、目の前で暗い夜が裂け、大地がその臓腑までもはじけたろうと思ううちに、恐ろしい焔が足元から起こった。

赤い、黄色い焔が散って、無量の火の粉となり、天も焦げるほどである。

これは弾薬の爆裂だった。

この火は一瞬のうちに消えたが、砦への距離が十五分ほどであるのを、士官は測ることができた。

このときに橋が壊されたのも見えた。

しかし、一瞬の後にはまた真っ暗になって、今はときおり壊された跡から立ち上る小さい焔はあるが、行く手を照らすには足りなかった。

爆裂のときには地が震え、馬は恐ろしいものが目前に見えるのを避けようと、右へ左へと道を外そうとした。

ようやく馬を乗り鎮めて、どうしようかとしばらく考えたが、思い定めて砦の方へ行こうとする。

先ほど聞いたのは、橋を断って去ったピエモンテ人がたてた物音だったのだろう。

しかし聞け、また物音が聞こえる。

これは耳に慣れた響きだ。

猟隊の角笛の音だ。

ああ、味方の兵だ。

敗走する敵を追うのだろうか。

しかし、後の推測は当たらなかった。

のちに聞けば、ピエモンテ人はピッツィゲットーネと撤退しようとするとき、火薬庫に火をつけて空に打ち上げ、これと同時に橋を壊したが、このために命を落とす者さえあったとか。

それだけでなく、敵兵は先の雷雨に遭って、倒木に打たれ、また大きな雹に負傷されられなどしたのを、敵将バラ自身が報じた。

伯はピッツィゲットーネで使命を果たし、恐ろしい破壊の跡を見て街を離れ、アッダを渡り、カサル・プルテルレンゴにある第四軍団の本営に行こうとする。

雨では服の裏まで濡れ、先ほどからの変に神経もまだ落ち着かない様子で、淋しい街路を乗りながら、彼も心中で戦が忌まわしいものであることを今さらのように思った。

近くには河水が響いている。

風が止んだ後は、この水音と一歩一歩軟らかい泥に踏み込む馬の息だけが聞こえる。

外套がびっしょりと濡れているので、体を圧すように垂れ、髪と髭からは雫が落ちる。

雨は雷が鳴ったときのように激しくは降らないが、今も止まない。

小粒ながらも重く服を透そうとしている。

こうして乗っていくこと一時間ばかりで、前方に馬蹄の音が聞こえる。

追い近づいてみれば、旗騎兵の一群だ。

これに聞いて、第四軍団が果たしてカサル・プステルレンゴにいるのを知った。

「その最後尾の軽騎兵は、そう遠くない前を雨で打たれている。追いつくことは難しくあるまい」

と言う。

馬は股で圧されて、衰えた力をひときわ励まして走らせて行くと、しばらくして軽騎兵の一群が見えた。

兜は半ば光を失い、白い上着も闇に透かして灰色に見える。

午後にアッダ川の岸の酒屋で別れた友も、この群れにいる。

その甚だしく濡れて泥にまみれ、外套は重そうに垂れて、馬は尾を股間に引っ込めて行くのを見ると、自分の姿が哀れなのも推し量られる。

人々は皆おもしろくない顔つきをして、馬を歩ませている。

当然だ。

服はずぶ濡れであったから。

あの軽騎兵士官は、濡れた巻煙草の火を消すまいと、しきりに吸っている。

「恐ろしい空だな。近頃にない夜だった」

と伯に言う。

「お前もあの激しい雷雨にあったか」

こう言ううちに、この群れの士官たちが徐々に集まってきて、ピッツィゲットーネ、フォルミガーラの様子などを問う。

「お前たちも、橋が空中に飛んだのを見たか。実に美しかった。大砲が一度に二千発も鳴ったかと思った。そのあたりにいた兵卒らの憐れなことよ」

と大尉が言う。

伯が言う。

「恐ろしいさまだったが、味方の兵には怪我人はいなかった。かえって敵の兵卒らこそ、ともに空中に飛ばされたろう。許せ、君らはあまりにゆっくり歩ませているので、俺は一鞭加えよう。俺の鐙(あぶみ)から落ちる水は、馬の全身を洗うのに足りないほどだ」

「俺たちが乾いていると思うか」

と軽騎兵士官は笑って答えた。

「しかし、お前の言葉にも道理がある。行け、急いでプステルレンゴに着き、俺たちのために宿舎を探しておけ」

「さらば」

伯はプステルレンゴに向かうとき、昔の一夜の記憶があって、夢心地に惹かれるようだ。

心中に思うのは、わざわざ来るようなところでないのに、この戦がまた俺を引っ張ってあそこへ行かせようとする。

この夜を明かすのは、あの人の家かも知れない。

雨が小止みにもならず降るから、駅舎の前で馬から下り、家に入って、驚いた娘に言おう。

「もう四年経ちました。また来ることは、あなたの教えに背くようですが、戦の最中なのでお許しください」

と。

娘はこれを聞いて必ず笑うだろう。

また思うに、本営も駅舎にあって、多くの士官があそこに住んでいるかもしれない。

ならば、テレシナはひそかに昔なじみのために、奥の小部屋を開いて貸すこともあるだろう。

この部屋は、葡萄が繁っていたあの庭に向かっているだろうか。

娘の姿は今どうなっているだろう。

少し太ったか。

目は昔よりも物恋しげに見えるだろうか。

こう思いながら、伯は砲兵と車輪の間を通り抜けた。

車を御する兵卒は不興げな顔つきをして端綱を引き、高級下級の多くの士官が、皆外套をしっかりまとって、通り過ぎるフザール士官を見ようともしない。

語る者もなければ笑う者もなく、聞こえるのは、馬が鼻を鳴らす音と車輪の鎖が擦れ合う響きだけだ。

車を引いている性質の悪い馬に引っかけられて車輪の間で圧されまいと、伯は気をつけて馬を御している。

橋を渡って長い歩兵の縦列を通り越した。

激しい雨に打たれて気の毒な様子で歩いている。

この群れを通り抜けようとするのは、かえって砲兵などより難しかった。

列の先頭の士官に礼をして、一、二語を交え、少し進むと、目前にようやく一筋の空路がある。

(つづく)

森鴎外「ふた夜」 5

三人はテーブルに向かい、また酒を一瓶持ってこさせて、平生の大事、小事を語り合った。

まだ十五分にもならないのに、伯は馬を躍らせて帰り、家の前で馬から飛び下り、急いで階段を上ってきた。

「みな無事だったか」

と嬉しそうに言って、両手を差し伸べたのを人々が握って強く押す。

「喜ばしいが、時間がない。すぐに本営に帰らねばならない用事があるから。皆本当に無事だったか。手傷を負った者はいないか」

「皆すべて回復した」

とフザール士官が答える。

「俺はクルタトーネでかすり傷を負ったが、言うにも足りないことで、すぐに縫合させた。お前はどうだ。お前に長く合わなかったな。まだ最後に会ったときのことを憶えているか」

「忘れるものか」

と伯は答える。

「あのミラノのホテルの送別会を。俺がローマ、ナポリへ行こうとしたときの送別会を。奇遇だな。俺たちはまたここで集まっている。ほとんど元の人数で。そのとき、ひどく望んだ戦の最中に」

「本当にそうだ」

と軽騎兵士官は答えながら、そのグラスを取り上げた。

「この場に欠けているのは二人だけだ。お前の連隊のあの男、彼は今、マンツァにいるとか。それとあの面白い竜騎兵士官と」

参謀士官は言う。

「竜騎兵士官は、今ダスプルの伝令使だ。マンツァの方はどうした。重傷か」

「脇を刺された」

とフザール大尉は答える。

「しかし、医者は治すと言った。乾杯して彼の健康を祝そう」

一座は高くグラスを挙げて、友の傷が早く癒えることを祈った。

「昔と今と」

伯は新たにグラスに酒を注ぎながら言う。

「昔と今の間には四年が過ぎた。多くのことが変わった。多くのことが現れた。昔は美しい時間を自分の前に見ていた。美しく心地よい時間を。この酒、このサラミの腸詰めも旨くないとは言うまい。だが、思い出す昔のジネーには及ばない。近頃は美味いものに出会わないから、やたらとあのときが恋しい。昔、ドアの前で俺を待っていた車、静かな夜、その夜の景色を見ながら、心地よく車の中で寛いで、春の野を駆けたときとは変わって、今は落ち着かない痩せ馬の鞍があるだけだ。夜は何度目を覚まされるかも、予めわからない。お前たちも、この頃の伝令の忙しさは知るまい。指令はすべて夜が更けて出るようになった。あわれな伝令使を苦しめようとしてか、本営に向かってくる問いは夕方に着き、回答文は夜にばかり出る」

「そうはいっても、本営にいる者にはよいことも多いだろう」

と他のフザール士官が言う。

「お前たちが休む場所には必ず物がある。いや、むしろお前たちは必ず物がある場所で休んでいる。かつ、いつも屋根の下にいられるのだから、たとえ藁や枯れ草の上であっても、乾いたままで寝るというのは大きな幸せだ」

「そうだ。その代わりには昼夜の別なく、激務にばかり追われている。今夜も帰ったら必ず聞くだろう、第二、第三の遠乗りはすでに決まっていると。そうして偶然俺の前の男が他の任務があって行かなければ、俺は六時間か八時間の夜道を乗り通さなければならない。しかし、今この瞬間の楽しさは昔にもまして感じられる」

とグラスを挙げて、日が差す方に向けた。

「ああ、戦の神よ。この戦を長からしめよ」

「その望みは無駄だろう」

と参謀本部付きが答える。

「芝居ははねている。明日かあさってか。ミラノという大喜利は華々しい幕だろう。そうしてカルロ・アルベルトとその兵どもの後ろには幕が落ちてしまうだろう」

「もうお別れだ」

と伯が言う。

「俺は本営に帰る。向こうの地平線から起こる黒雲が空に漲らないうちに」

「何の因果か」

と二人の騎兵士官が叫ぶ。

これは、今夜外にいようと思っていたからだ。

二人はいま湧き出る雲を仰ぎ見ている。

「今夜は潤うだろう」

「その潤いには血が混じるだろう」

と参謀本部付きが言う。

「敵の将官バラはわずかの兵を率いて、ピッツィゲットーネに急いだ。あそこの砦の守りを固くして、自分の軍の車が支障なくあそこの細い道を過ぎることを願ってだ。しかし、わが先鋒の足さえ速ければ、追いつくことはたやすいはずだ。そのときは一場の血戦が起こるだろう」

「雨と血を同列に言うことはない」

と騎兵大尉は不平らしく言う。

「俺は一晩中戦うのを嫌がるものではないが、ここに残って一晩濡れることが恨めしいのだ。しかし、神のご随意に。また、ラデツキー老人のご随意に」

「アーメン」

とこの言葉の後を継ぎながら、参謀本部付きの士官は、羽の着いた帽子をかぶった。

「俺ももう馬に乗ろう。俺の耳にはピッツィゲットーネのほうで砲声が聞こえるようだ。アッダの右岸を占めようとして、ピエモンテ人があそこで大砲を撃つことがあっても、俺は少しも怪しいとは言わない」

「あそこで鳴るのは、雷神だ」

と言いながら、軽騎兵士官は空を仰いだ。

このとき、今まで真っ青だった空は、雷雨に先立つ鼠色の雲で覆われようとしていた。

「では、健勝で。またミラノで会おう」

「チャオ」

伯と参謀本部付きは馬に乗り、早足で歩ませて橋にかかり、馬蹄の下で鳴る仮橋の上で並足にし、右岸に着いてくつわを別った。

参謀本部付きが行くのは第一軍団で、フザール士官が行くのはラデツキー将軍が本営を据えたフォルミガーラであったから。

この若いフザール士官がこのあたりに来てから早や四年を経た。

昔、ローマ、ナポリ、パリの旅路を終えた後、彼は他のフザール連隊に転任させられ、ウィーンに留まって、ロンバルディアの戦が起こるのに遭い、イタリアの戦役に赴きたいと願い出たが、性格のよい士官は騎馬にも熟達しているので、伝令使とされたのだ。

フォルミガーラという小村に行き着いた頃には日が暮れた。

街路には砲兵の緻密な縦列が往来し、その他の車まであるので、並足でしか進むことができない。

その場に近づくにしたがって、兵卒の雑踏が甚だしくなった。

左右の野には、歩兵と騎兵がたむろしていた。

そこに薪が運ばれてくると見ると、あちらからは今焚きつけようとする篝火のたいそう濃い煙が立ち上っている。

村の道の雑踏は頂点に達し、その中に酒樽を載せた数列の車を牛に引かせているものがある。

また、大きな木桶に食物を盛って士卒に分配しているのも見える。

将軍が住んでいる小さい家は、本営の常でたいそう騒がしく、窓という窓からいろいろな軍服を着た士官が顔を出している。

庭には人が乗る車や荷車があり、その二本の轅(ながえ)には馬を繋いでいる。

戸口に立った伝令使らは、本営の若い士官の一群とともに、この勝ち誇った兵卒の歓呼する様子を眺めて、喜ばしげな顔をしている。

伯がこれらの間に馬を乗り入れると、人々は歓び迎えた。

彼は問われるままに来た道の様子を語り、また長く会わない友の伝言などを果たした。

若い幟騎兵の士官がいて問う。

「卿の白馬も今はさぞかし疲れたろう」

伯は言う。

「馬だけではない。俺は今日十四時間を鞍の上で過ごしたのだ。足を伸ばして休めるところはあるか」

「部屋だけではない。美しく広いベッドもある。しかし、今寝ようと思うのは、はかない願いだろう。上の階では、ペンも飛ぼうとするほど指令を書いているのを知らないのか。少佐殿は指令状に封をするのも忙しいらしい。俺たちはすでに約束しあった。次の伝令はお前に頼もうと。あそこの教会の傍の家に行け。お前の従者が何頭かの馬と待っていよう」

伯は聞いて肩を高く上げ、手渡された瓶から勢いよく一口飲み、自分の白馬を引いて教えられた家に行った。

なるほど聞いたように、伯の残りの馬は皆ここにいた。

伯はイギリス産の一頭に鞍を置かせ、用があるときのために準備させて本営に帰った。

見ると、二人の同僚は早くも馬に跨ろうとしている。

一人はアッダの方へ引き返し、一人はマレーオに向かって第一軍団の方へ行くという。

残った一人の竜騎兵士官は言う。

「これで二人になった。俺はダスプルに渡す重い包みを一つ引き受けた。だが、彼はどこにいる。鬼も知らないだろう。出発した隊の人に追いつこうと後から行くのは、俺は嫌いだ。街道を行こうとすれば、馬車や砲車などの間に挟まれて、進退がままならない。横道を取ろうとすれば、溝の中に落ちる恐れがある。だが、どうすればいいのだ。見ろ、あそこから階段を下りてくる兵卒がいる。奴は俺が受け取るべき指令文を持ってきた。さらば。明日の朝のコーヒーか、そうでなければ昼飯までは会うことはないだろう。その飯はどこで食えるのだ」

こう言いながら、竜騎兵士官は金の肩章を肩に掛け、その房を右の方へ引き下げ、栗毛に跨って出ていった。

馬は休んだ後なので勢いがよい。

乗り手もさすがに疲れてはいない。

伯と握手した。

蹄に前の敷石をしたたかに踏ませて、火花を散らし、見る間に闇夜を侵して去っていった。

しばらくは白い軍服の後ろ姿が見えたが、もう影もない。

伯は階段を上って、顔見知りの二、三の士官に会い、晩飯を形ばかり済ませ、一本の巻煙草を吸って、甚だしく疲れていたので、アティラという軍服も脱がず、剣もさしたままで、一間の藁布団の上に横たわり、すぐに深く眠った。

(つづく)

森鴎外「ふた夜」 4

   後の夜(一八四八年)

騒がしい蒸気船、数多い商船もなく、魚の群れが波に戯れて、深い砂原を横切っては岩石の間を過ぎ、また潅木が散在する緑濃い沃野を貫き、ロンバルディアの平地を流れる清く静かなアッダ河は、今年八月一日に、驚くべき、また楽しむべき珍しいドラマが両岸で演じられるのを見た。

このフォルミガーラに近い流れのほとりに立ち、今や勝ちに乗じたラデツキー将軍は、急いで一本の橋を架けようとしている。

今まさに破竹の勢いがあるオーストリア勢に、立つ足もなく追い立てられて逃げていく敵の縦列は、この橋を渡るだろう第一、第二の両軍団に遭遇して、片方の車輪でも残すことができるだろうか。

ピエモンテの将官たちは、わずかに警固を立てているだけだ。

わずかに数中隊の兵卒を放って、勝ち誇っている敵兵に向かわせただけだ。

このイタリア勢は敵の様子を眺めただけで、まだ戦わないうちに乱れた。

もとは戦に慣れて強く荒々しい名を負った隊も、白い線を見ては背を向け、鷲の章を見ては敗走して、踵に追いつこうとする敵の刃を逃れようとばかりに焦っている。

騎兵は張った陣形を崩し、砲兵は引く車の音も轟々とその場を逃れ、歩兵の縦列は瓦のように砕けた。

兵卒の中には、横ざまに野原に入って避けようとして自分の士官に追いつかれ、また敵に向かうよりは馬の蹄に襲いかかろうと、地にひれ伏して無聊をかこつ者もいた。

斜めに傾いているアッダの岸は、このときたいそう面白い一幅の戦図に対した。

野に満ちた兵はさまざまな兵種に属し、ときおり群雲の間を洩れて熱い光線を射落としている陽は、無数の機械、銃身、軍服の金銀に当たって砕け散っている。

楽しそうにあちらへ寄せ、こちらへ返す兵士の群れ、砲兵はその砲車の傍に立ち、幟騎兵、フザール、竜騎兵は馬のくつわを取り、歩兵の隊はあちこちの砂の上で休憩し、中には背嚢を下ろし、銃を組み立てている者も見える。

この間を通って、架橋の材料を川のほうへと運ぶ者がいる。

この面白そうな群れの中を辛くも抜けて、軍令を岸辺に伝えようとするのは、色とりどりの軍服を着ている伝令である。

岸で激務の最中にあるのは架橋隊である。

積んで来た材料を降ろしては水に浮かせ、鉤を打っては繋ぎ合わせる。

その早いことは喩えようがない。

見る見る橋は長さを増して中流に向かっていく。

そうして一つの材料を繋ぎ終わるごとに、士卒は「フルラー」の声を張り上げてこれを祝し、後ろの方までこの声を伝えて応じ合う。

この忙しさはなぜか、河の架橋隊がこれほど常にない力を出すのはなぜかと問おうと思うなら、休憩している士卒が見ている方を見るがよい。

彼らの多くはアッダ河の中の繁忙な事業を見ずに、岸辺の小高い岡の上だけを見ている。

多くの連隊の士官は皆あそこにいる。

指令を岸辺に伝える伝令は、あそこから来ている。

下の架橋隊の使いも、後ろから進む隊の使いも、皆あそこへ行く。

岡の上にいる士官は大抵馬に跨って、大きな半円形をなしている。

その中心と見えるところに、一人の小柄な男が立っている。

灰色の将官服を着て、右手を腰に当て、左手に剣と帽子を持っている。

この人は馬から下りて、いま親しく誠意ある眼差しで、河岸と橋の上の群れを見下ろしている。

そうして、あるときは一人の士官に向かって何やら語り、あるときはまた下にいる士卒たちを手招きする。

この手招きには、下にいる士卒が必ず高く「フルラー」と叫び、「エヴィワー」と叫び、「エリエン」と叫んで答えている。

この白髪頭の小柄な男は誰か。

これが士卒に父と呼ばれるラデツキー将軍であった。

今やピエモンテの兵を一歩一歩と追いまくって、このロンバルディア平原まで来た。

その力は計り知れない。

その罰はたいそう恐ろしい。

ミラノは彼が近づくのを聞いて、震え恐れるばかりだ。

この都市は、ある忌まわしい夜に彼を見くびったことが、かえって気がかりなのだ。

将軍の傍にいる士官の群れは、思い思いの姿勢をしていた。

望遠鏡で河の向こうを見る者がいる。

自分の馬に寄りかかって、過ぎた日のことなどを語り合い、またミラノの都市がどのように自分たちを迎えるだろうかと噂している。

午後四時頃に橋は完成した。

今までより高い「フルラー」の声が聞こえる。

将軍は馬に跨った。

全軍が立ち上がった。

今まで散り乱れていた士卒は、ここに集まり、あそこに群れをなし、縦列となり、中隊となり、大隊となった。

伝令は東西南北に走り、すれ違って、先に指令を受けた隊は、もう橋のほうへと歩み寄る。

晴れがましい一瞬だ。

それぞれの連隊の楽手は、国歌を吹奏し、今まで混沌としたありさまを見せた河岸には、隊伍が並び立った軍が見える。

歩兵、騎兵、砲兵、工兵が順を追って進んでいる。

夢を見ているようだった。

この五色が入り交じった群れは、鉄、ブロンズ、黄金、白銀、この色とりどりの印章が列を正して、長蛇の形をなし、次第に延びて橋の上に横たわり、すでに末は遠く、向こう岸の野辺に繰り出した。

楽器がカラカラと鳴り、軍歌の声がこれに混じって遠方まで聞こえる。

すでにこちらの岸にある色の種類は、だんだん淋しくなって、橋を渡っているのは数限りない車だ。

次いで将軍がその本部とともに渡る。

こちらの岸に残ったのは、最後尾をなす一、二の隊伍だけだ。

騎兵二、三中隊に砲兵が少し混じっている。

いま軍隊が立って行く川岸に一軒の小屋がある。

主人は船頭であるが、酒の販売業も兼ねている。

アッダ川がときおり増水するのを避けようとしてか、家を階段の上に建てている。

主人の住む部屋のほかには、ただ川に向かって階段に臨んだ酒席があるだけだ。

その小さく軽い様子を想像してみよ。

この階段の上のほうは、廊のように張り出している。

その大小さまざまな材木を組み合わせている様子は、例のイタリア風で、確かに軽率に、確かに条理なく見えて、かえって確かに雅趣があると思われる。

繁った山葡萄の葉が、この廊を覆って材木にまとわりつき、木の端のところには、うねりを見せている蔓が垂れて、風に揺られ、あちらこちらへなびいている。

この美しい自然の屋根の下で、粗末な木のテーブルを前にした二人の若い士官がいる。

質朴に作った藁椅子の上に座を占めて、代わる代わる藁で巻いたフォリエッタ(瓶)を取り、グラスに注いでいる。

二人の馬は、従者たちに守らせて廊の下にいる。

このあたりには、まだ渡り残っている士卒の群れが多い。

ここに階段の端に腰かけて数頭の馬のたづなを取っているフザール卒がいれば、あそこに鞍の締め緒をあれこれと結ぶ竜騎卒がいる。

また軽騎兵卒が自分の馬の背に両肘をついて、片手に飲みさしの酒のグラスを取り、友に与えようとする者もいる。

傍では、歩兵と騎兵の士官が行きつ戻りつ、今日はまだ進行すべきか、ここで露営すべきかと話している。

銃を膝に乗せて地面に座っている歩卒がいる。

その間に重そうな熊の皮の帽子を傍に置いて、休憩しているのは榴弾卒だ。

また地面に匍匐してあごを支え、銃を傍に置いているのは猟兵卒だ。

空樽の上にうずくまって緩やかに進撃の譜面を練習する楽手は、前回の戦を思うのだろうか。

またこの家から遠くないところで、榴弾卒が取り巻いて警備しているのは、捕虜となったピエモンテ人だ。

この一幅の絵画は、なお牛に引かせた一群れの車によって補足される。

これは酒樽を載せて大隊の後ろに続くものである。

騎兵の馬は身震いしていななき、川のあちらからは切れ切れになって軽い太鼓の音、楽隊の手すさびが聞こえる。

またときには後ろの方から、ラッパの音、兵卒の歌う声、高笑いする声が聞こえて、牛の群れより高く吠える声がする。

廊に座った二人の士官は、フザール隊の大尉と軽騎兵の中尉だ。

中尉はいま、常に剣に添えて持っている巻煙草入れの革袋を外そうとしている。

二人の服は砂にまみれている。

二人は重い剣、チャコ帽、カルツッシュを身につけている。

兜と革袋は傍のテーブルの上にある。

「まずここまでは漕ぎつけた。わが家の鴨居の下までもう来たのだ。あの老人が今夜勢いよくこの扉を叩くさまが思いやられるな」

と河のあちらを見ながら、フザール士官が言う。

軽騎兵仕官が答える。

カルロ・アルベルトはミラノまで後退すると聞く。あそこで一合わせ存分に戦いたいものではないか」 

こう言いながら、彼は煙草を吸いつけた。

「一合わせ? そんな快いことがあるものか。砲兵の列を少し見せ、一枚の檄文を飛ばし、民衆を少し狂い回らせ、それで事は終わるだろう。俺が思うに、二、三日以内に、この一行は教会の前の大通りを行くことだろう。奴らはどんな顔をして、『神よ、大君を守りたまえ』という歌を唱えるか。俺の楽しみは、これを見ることだけだ」

とフザール士官は言う。

「それは一つ残らず面白い。ただ残念なのは、奴らが俺たちのミラノのホテルを住み荒らしたことだ。俺の美しい武器はどこにある。俺の銀の器は?」

友は笑って、

「銀の器は代わりを買うのもたやすいだろう。惜しいと思うのは、俺の長椅子の上に掛けていたユリエッタ嬢の写真だ。奴らの粗暴者が、この写真の本人を知って、オーストリア士官に馴染んだのを憎むあまり、酷く責めたかもしれない」

と軽騎兵士官は軽く答える。

「彼女らは、あの恐ろしい五日間を落ち延びただろう。猟隊の友人が、いろいろと混じった車の列に、泣き叫ぶ娘やトランクの山を載せていくのを見たと言うのを聞いたから」

この会話は階段の下から呼ぶ一声で絶たれた。

二人が席から飛び上がって外を見ると、青い羽を刺している低い帽子をかぶった年若い士官が、兵卒の群れを抜け、こちらへ向けて静かに馬を歩ませている。

「よく来たな、参謀本部付き」

とフザール士官は顔が見えるほどになったときに叫んだ。

「どこから来た。本営に行くのか。しばらくここに上がって一休みしろ」

参謀士官は馬を下り、たづなを下に立っている竜騎卒に渡し、階段を上ってきた。

「長く会わなかったな。ヴェローナ以来と思うがどうだ。いま何をしている?」

と来た人が面白そうに言う。

「この面倒な河を越す番が巡ってくるまで、根気よくここで待っている」

と軽騎兵士官は答える。

「どうだ、参謀士官よ。お前は河越えの指令を持って来ていないか」

こちらは笑って、

「まずそれに似たことだ。しかし、越すのは今日ではない。お前たちは腹を決めてここに残ることになるだろう。お前たちの酒も悪くは見えない。我慢のできないことはあるまい」

「つまらん」

とフザール士官はつぶやいた。

「俺たちは四日このかた後へ後へと残って、馬の尾ばかり見ているのだ。打ち込む楽しみには長く会わない」

参謀士官は笑って、

「今あそこを進んでいく奴らも、別に面白い目に会うわけではない。俺たちは馬の尾を見るが、大砲の口も見る。ただ距離がたいそう遠いだけだ」

「ところで、俺たちは本当に今日ここに留まるのか」

と軽騎兵士官が聞く。

「お前たちはここに残ることになるだろう。しかし、俺はまだ本営から一仕官が指令を伝えに来るのを待っている。見ろ、あそこの橋を渡ってくる人はいないか」

と言いながら、参謀士官はその望遠鏡を挙げて川を見た。

「間違いない。フザール士官だ。きっと伝令使に違いない。そのうえ見間違いでなければ、俺たちの仲間の伯爵士官だ。見ろ、彼が条例に背かず、並足で橋を渡ろうとたずなを引く様子を。そうだ、そうだ、奴だ。もうこちらの岸に来た。馬が岡を登ろうとしている」

こうして待たれたのは、まさしく伯爵士官だった。

彼は岡を登ってきて、酒屋の前を横切ろうとする。

「チャオ」

と彼は喜ばしく声をかけた。

階段の上にいる三人を見てまた、

「うれしいことだ、お前たち三人を一緒に見るとはな。将軍はどこだ。伝え終わったら、またここに来よう。酒を一杯残しておけ」

こちらのフザール士官が言う。

「右へ曲がって数千歩馬で行け。岡の上に農家がある。将軍はそこにいる。もうサン・バッサーノのほうへ乗り出した後でないなら。しかし、あまり長く向こうで休むな。俺たちはまだここに留まるのか」

この言葉は、すでに伝令使の背後から響いたが、彼は振り返って、

「そうだ」

と答え、もう馬を丘陵の間に乗り入れて見えなくなった。

(つづく)

森鴎外「ふた夜」 3

この静かな駅舎が、今どれほど面白いところとなったか。

また、初めは怒りを帯びて見つめたこの一軒の草屋が、今どのようであるか。

もちろん、間近で見られる室内の様子は、喩えようもなく面白かった。

こう思うのは、思いがけず見たからだろうか。

少女が美しく見えるのは、真っ暗な夜を額縁として見る画だからだろうか。

このように美しい少女を見るのは今夜が初めてだと、士官は心の中で思った。

高い椅子にもたれている乙女の服は、物資が足りないようで、たおやかな体を包んでいるのは赤い上着であった。

少女の足は、毛が縮れた大きな黒い犬の背に埋もれている。

犬は乙女の顔を見上げて、あそこの旅人を襲って、飛びかかってその喉を噛むべきかと問うようだ。

少女もこの様子を見てとったらしく、もたげた犬の頭をすばやく片足で押し下げたので、犬は目をつむって尾を振った。

この様子をすべて見ることは、伯にはできなかった。

まして、彼の目は乙女の上半身に注がれて、美しい頭、長いうなじ、黒い結び髪が解けてかかった間から輝き出ている白い肩を見ている。

少女の膝の上にいた子どもは眠ろうともしていなかったので、人が近づいたのを見ると、またすっかり目を覚まし、大きくみはった目を光らせ、士官の金で飾った帽子と紐がついたアティラという軍服を見つめている。

「では、あなたもここで馬を待とうとしていらっしゃるのね。ここではこういう目に遭う人が多いのです。父が持っている馬の数はとても少ないので。けれど、父もこの利益のない駅路で馬の数を増やそうとは思っていません。この駅路の利益を、ローディとピアチェンツァで占めるのはどうしようもないのです。母がいましたときは、酒屋を開いていましたが、今はありません。父は言います、この膝の上のチェッコーが大人になるまでは、何も拡げようと思わない、もし婿がするならともかくと」

「婿とは、どのような人ですか」

と士官が聞いた。

少女は面白そうに笑って、

「婿には、このテレシナの婿には、誰がなるんでしょう」

「テレシナとは、誰の名ですか」

「私の名です」

と言って微笑みながら、伯が燃えるような目で見つめたのを見て、下を向いた。

「そうです。この家を興し、駅舎も拡げるのはこの子でなければ」

と言いかけて、指を黒い髪の間に差し入れた。

「この子でないなら、婿でしょう」

こう言って、少女は美しさを表して頭を高くもたげた。

「その婿はもう決まっているのですか」

と伯が微笑みながら聞く。

「誰の婿? 私の?」

少女は笑った。

「思いもよらないことだわ。婿となる人は、私が愛する人でないとなりません。私がこの子を愛するように愛する人でなくては。でも、本心から人を愛したことはまだありません」

「では、テレシナ、どんな男も本心から愛すまでには心に留らなかったというのですか」

と伯は聞いた。

「いいえ」

と答えながら、少女は肘を窓に掛けた。

このとき、少女の体に隠され、子どもには帽子と軍服の紐が見えなくなったので、彼は声を張り上げて泣き出した。

これをなだめようと、伯が体を窓の中に差し入れたので、子どもは帽子に手を触れることができて泣き止んだ。

少女は支えている肘を引っ込めようともせず、頭も白い肩も胸のあたりも前に傾いている。

「あなたの父はプステルレンゴの人を婿にするつもりですか、あるいはローディの商人ですか」

と伯は聞いた。

少女は急に表情を改めて、

「いいえ、ピアチェンツァの駅長の息子ではないでしょうか。彼が理由もなく父のもとに来たことが何度あったか。父は気に入ったようです」

こう言ったが、また声を低くして、

「でも、私には少しもよいと思われません」

「その人は若くないのですか、美しくないのですか」

と伯は笑いながら聞く。

少女はあたりを見回し、恥ずかしそうな表情で、

「若くも美しくもありません。邪悪な性格で、うそが多いのです。彼を愛するなんて思いもよりません。もし彼を夫とするときには、私の若い命は捨てたも同然です。人が言うのを聞くと、愛がなくて結婚することほど、悲しいものはないというから」

「では、愛して夫婦にならないのが、かえってよいでしょう」

と伯が言う。

少女は顔を上げて、その顔を見て、

「よいとは思いませんが、面白いでしょうね」

ここでしばらくこの珍しい会話は途絶えた。

この間、いよいよ強く、いよいよ嬉しそうに鳴くのは、鶯だけだ。

士官は窓の高さを胸中で計って、音を立てずに中に入れないものかと思うようだった。

少女はその様子を察したのだろう、指で厩のほうを指し、

「音を立てないでください。老いたピエトロが耳ざといので。このように開いた窓で、長くあなたと語るのさえ後ろめたいのに」

こう言いかけて、光のある目を大きく開いて士官の顔を見ている。

「でも、どうしてかわかりません、あなたと語ることが他の誰より楽しいのは」

「駅長の息子と語るより楽しいと?」

「そうです。比べようもないわ」

「では、その人よりも私と愛し合って、私の妻となることをお望みになりますか」

と言いながら、伯は窓から白く美しい腕を取った。

「終わりにおっしゃったことは、あなたが士官でいらっしゃるので所詮かないません。また、初めにおっしゃったことも、明日の朝、千里も遠くに去ってしまわれるあなたとでは無理だわ」

「では、ここに留まったら」

「どうしてそんなことがあるでしょう。あなたは戯れにおっしゃるのでしょうけど。でも、本心からおっしゃっても、父が帰れば、ローディ、ピアチェンツァなどを勧めるはずですから、いずれにしても、ここにはお留まりにはなれないでしょう」

こう言って少女は腕を引っ込めたが、温かい指先まで引いたとき、伯はこれを放そうとしなかった。

少女もまた強いて引っ込めようとはしなかった。

少女の心は妖しくなった。

ああ、このようなことは血の温かい若者の間には、例が少なくない。

一時間前までは、一人の胸が生きて波立っているのを、一人は知らずにいたのに、ふと一目見て、また一言二言交わして、互いに離れがたく思うのは、妖しい限りではないか。

伯は今年十八歳だ。

彼の血は熱い。

手に取った少女の指先が震えているのを何度か唇に当てた。

これをこののどかで穏やかな夜、花の香り、鶯のさえずる声も、少しばかりは仲立ちしただろう。

ああ、この鶯という痴れ者め。

「私の心がどれほど楽しいかお思いください。どのような神が私をここにしばらく留めたのか」

「私も飛び立つように嬉しいわ。でも、どうしてかわかりません。笑おうとする気持ちはなく、かえって泣きたいのをどうしたらいいのでしょう」

少女がこう言って頭を腕の上に垂れると、額が伯の手の上に来た。

伯はかがんで、唇をうなじのあたりに当てた。

このとき、この小さな世界には三人の喜びが満ち満ちていた。

二人は言うまでもなく、少女の膝の上のバンビーノは、長い間、士官の帽子に付いた黒と黄に染め分けた紐に手をかけて取ろうとしていたが、このとき引きちぎることができ、嬉しそうに高く笑った。

恋する二人は、これに気づかない。

伯は伏せた少女の頭を軽く押して横に向かせ、熱い唇を額に当てた。

このとき、静かな夜を破って、面白そうに吹くラッパの音が聞こえた。

あたりがひっそりとしているとき、このような音が急に聞こえるのは、人に不思議な感じを起させるものだ。

少女は飛び上がって耳をそばだてたが、

「父よ」

と一声叫び、また言葉を継いで、

「でなければ、郵便馬車でしょう。さようなら、恋しいあなた。あなたがここにいらっしゃるのを人に見られてはよくないわ」

こう言って抱いた子を犬の傍に下ろし、体を伸ばして胸から上を窓の外に出し、手で士官のうなじを抱いて、

「許して、あなた。聖母マドンナもお許しください。またお会いするあなたではない。またお会いすることも願わないあなたです。またお会いしたら、私はどれほど恥ずかしいでしょう。でも、またお会いしないあなただから言うわ。私のあなたを愛する心がとてもとても深いことを」

「では、あなたにキスするからといって、誰が咎めましょう。このように。いま一度、もう一度」

「マドンナよ、彼をお守りください。さあ、早くお行きになって」

士官は恍惚のうちに、三度少女が燃える唇を当てたのを感じた。

少女はそっと士官の手をすり抜けて、手早く窓の戸を閉め、ランプを吹き消した。

ラッパの音は次第に近くなり、蹄の響きも聞こえる。

すでに厩の前に止まった馬が鼻を鳴らすのが聞こえる。

そのとき、家の隅から黒い人影が見えた。

従者が主人を尋ねてきたのだ。

伯は思い沈みながら、従者について歩み去った。

彼は手を額に当てて、夢ではないかと思ったが、あの熱い唇は今も燃えるような心地がする。

彼は、長い旅路でこの瞬間の奇遇を忘れようとするときもあったが、そのたびごとにあの唇を思い出すので胸の底まで温かくなり、あの春の夜を思い出し、あの駅舎を思い出して、自分がまた閉ざされた窓の中を覗いて茫然としたようになった。

厩ではいま帰った馬を拭って馬草を与え、また車の前につないだ。

従者が主人に尋ねる。

「帽子は車の中に置いていらっしゃったのですか。途中で落とされましたか」

伯は笑って、

「車で眠ったときに落ちたのだろう。新しいのを取り出せ」

と言った。

伯はピアチェンツァに留まって、この奇遇のなりゆきを見ようかと思ったが、別れる時に少女が表情を改めて、「またお会いしたら、どれほど恥ずかしいでしょう」と言ったことを思い出しては、これもよくないと諦めて旅立った。

それでもなお、途中からローディかミラノへ帰って、様子を探ろうかと思ったこともあったが、あの少女は愛すべく、敬うべき人なので、それでは彼女を傷つけるだろうかと自問自答して、自分は先の夜に得た三度のキスのみで強いて満足するようにし、その先の望みを抑えた。

ローディの御者は交代する男に向かって、

「ここで失った時間を取り戻せよ」

と勧めた。

伯はまた車に飛び乗り、従者はまた向かいの席を占め、馬はあらん限りの力を出して暗夜を進んだ。

御者はこのとき一声ラッパを吹いたが、この音、この曲は、先に窓の下で聞いたものと変わらない。

少女は今どうしているだろうか。

寝床にいてこれを聞き、涙で枕を濡らしているだろうか。

ああ、思えば、少女は今夜だけでなく、明日もあの窓に座ってこの音を聞き、慕わしげに窓に対している丘を眺めるが、ここから降りてくる人はいないだろう。

少女は同じ土地に留まって、同じ場所を眺めるのだろう。

膝の上の子どもは、まだ何週間か私の帽子を持って遊んでいるだろう。

父はまた少女の嫌うピアチェンツァの駅長の息子を家に伴うのだろう。

少女の心の苦しみは、果たしてまさにこのようであった。

それよりはかえって安らかだったのが伯の身の上である。

次の日の早朝にはボローニャに着き、ここからフィレンツェ、ローマ、ナポリを見て、パリで遊んだ。

しかし、これらの都会がこの上なく楽しいときも、他に比べるものがない景勝に対しても、また贅沢を極めた宴に臨んでも、伯の心中には淋しい駅とテレシナの姿が留まっているのだった。

(つづく)

森鴎外「ふた夜」 2

伯はすでにポルタ・ロマーナを後にして、心地よさそうに車の隅にもたれている。

向かいに座った従者は、外套を主人の膝のあたりに置き、火をキセルの皿に点じた。

このハンガリー煙草の味はどうだろうか。

この清涼な空気の快さはどうだろうか。

車中の客はローマを思い、ナポリを思い、自らを世界で一番の幸福者だと思っているだろう。

車は、美しく広い田舎道に出た。

昨日の雨で道がほどよく湿っているので、馬の蹄も車輪も塵を起こさない。

ローディで御者が交代したとき、先の者が得た心づけが多かったので、後の者も望みがあると思ったのだろうか、心地よいほど馬を走らせた。

ラッテンシュヴァンツという煙草をくゆらせて鞭を鳴らす御者は、従者と語ろうとしたが、従者はハンガリー人で、イタリア語といっては食事を求め、心づけを与えるから馬を走らせよということのほかは知らないので、御者はこの命令に従うだけだった。

道中、馬車には逢わなかったが、驢馬に引かせたミラノ帰りの空車を追い越したことは何度あったか。

空車の主たちは、今日の儲けの計算をしているのか、強情な様子で空の袋の上に座っているが、駆け抜ける馬車を見ようと頭を上げることさえ面倒そうだ。

驢馬が勇ましい友が来たのを見て、道を譲ってから何か問いたそうに首をねじ向けるのを、馬車の御者はうるさいと鞭を挙げて打とうとする。

驚いて驢馬が飛びのく。

鈴の音が鳴る。

揺られた車に驚く主が眠たそうに罵るのを振り返って、御者は笑った。

「アヴァンチー、アヴァンチー」

と従者が叫ぶにつれて、馬車は前へ前へと進んでいく。

左右の並木は飛ぶようで、前に見える離れ家はたちまち傍に来て、たちまち後ろに残った。

稲田のあたりに来ると、秘密めいたそよぎが聞こえる。

しなやかな幹についた鋭い葉は、夕風に吹かれて擦れ合い、言いようのないささやきをするようだ。

その間には、数千の昆虫が稲の若葉に止まり、湿った土の上を飛び交って鳴いている。

車がローディを過ぎる頃、涼しく露に濡れた夕べが空から地上に降りた。

夕景色が家も野も覆った。

厳しく見張った陽の目が眠ったのを待って、夕べという恋人が、声もなく土地の胸にもたれて、甘く豊かなキスをするのを、愛の火が燃え立つ土地はよく堪えて受ける。

この二人の恋仲は、今日、美しく香ばしい契りを結んだ。

数々の田舎の教会から、また教会の塔から、「アヴェ・マリア」の鐘の音がする。

草葉に置いた夜露は、数千の宝石かと見紛うほどに輝いて、大空に満ちた星は、震えながら透き通った光を反射する。

このとき、野の花と新たに刈った草が香りを放って、満天の気象は一種のびのびとした美しい感情を起こした。

ああ、この感情を最も深く知るものは誰か。

道の傍の木立から嬉しく優しい声で祝賀の歌をうたう、無数の鶯をおいて誰があろう。

この歌を聞こうと願う者は、暖かい春の夜にロンバルディアの豊かな野辺に来い。

野は細い流れで縦横に截られ、街は水に挟まれ、この上を覆ってそよぐ木の枝は、あの見事な歌い手が最も愛する住居である。

伯は、車の隅に身を寄せかけている。

その物に感じやすく、素直な心は、これを見、これを聞いて、この美しく妙なるものを受容したが、今夜のような鶯の歌声を、彼も聞いたことはなかった。

ましてまた、乗っている馬車が真っ直ぐに平らな田舎道を滞りなく走っていくのを。

ローディの御者は、二頭の白馬を車の前に繋ぎながら言う。

「次の駅はカザル・プステルレンゴといって、馬の数が少ないので、お客人を待たせしましょう。自分はその埋め合わせにも一骨折りましょう」

これを聞いた伯は、荒涼とした村の駅で、夜が更けて馬を待つのは面白くなく思ったが、こう言うのも御者の常套だからと自らを慰めて、ただ、

「お前はお前の職分を尽くせ」

とだけ言った。

彼はこの職分を実によく尽くした。

心づけを惜しまない伯なので、遅い車には会ったことはなかったが、またこれほど早い車にも会わなかった。

御者は鞍に上ると見る間に、

「フルラー」

と一声咆哮すると同時に鞭を振り上げて、馬にギャロップを踏ませた。

彼が白馬の背にいる様子は、昔の物語の悪霊にも似ている。

着ている黒い外套は風に舞って、長い髪の毛は後ろになびいている。

馬車の速力があまりに大きいので、車輪は真っ直ぐな道にうねうねと長い蛇のような轍を作った。

右へ左へと急に曲がる車に驚いて、伯の従者は傍の手すりを握った。

家も木も橋の欄干も道の印の石も、慌てふためいて走り去るようだ。

一時間とかからずに決まった道を過ぎた。

見えるのは、カザル・プステルレンゴ駅の初めの家のランプである。

駅舎は村の向こう、岡のふもとで、桑の梢と葡萄の蔦に覆われ、人家の背後にぴったりと沿って建っている。

駅の事務所は、厩とともに少し離れている。

ローディの御者は力を込めて、馬車が来るのを知らせようと、この静かな場所で鞭を鳴らし、

「ハルロー」

としきりに呼んでいたが、車が着いて厩の前に留まってから時間が経ったのに、中は静まり返って声もなく、人がいるとも思われないほどである。

御者は鞭を振るい、従者は剣の鞘を握って、厩の戸を激しく叩くのはどれほどの間だったか、ようやく屋根裏の窓から火を点すのが見えた。

しばらくして窓が開いて、髪がひどく乱れた男が、戸の隙間から首を出した。

彼は馬車が到着したのを確かに認めたらしく、ゆるゆると階段を下りて厩の戸を開いた。

白が早く新しい馬がほしいと言うのを聞いて、間が悪そうに手を擦った。

「神もご覧くださいませ。私めはやむを得ずに、お客さんをしばらくお待たせいたします。前の車は三時間前に出しました。馬が帰ってくるまで、まだ三十分はありましょう」

「ほかに馬はないのか」

と伯は不機嫌そうに聞く。

御者はこざかしそうに笑って、手で自分の言葉が当たったのを見なさいというような仕草をする。

「規則によれば、予備の馬も四頭以上なければならない。それはどこにあるのか」

「予備の馬はありますが、少し前にイギリス人の乗った車を引いて出ました」

「これは堪えがたいほど不自由なことだな。心づけは取らせよう。どうだ、本当に馬はないのか」

「思いもよりません。悪意があってこう言うとお思いくださいますな。この駅舎は小さくて、車が来ることさえ稀なので、駅路の主人も」

「駅路の主人はどこだ。私が会おう」

「ローディに行きました。家には私だけです」

とためらいながら笑う。

今は車が帰るのを待つよりほかに術がない。

駅舎が村の中央にあれば、一杯のコーヒーを飲んで、新聞でも読めただろうが、この真っ暗な夜に人気のない家でどうすればよいだろう。

実に無聊のきわみだ。

ローディの御者は自分の馬を厩に引き入れて、従者と厩番とともに長椅子の上に座っている。

この良い夜も、待つ人の無聊を慰めるには足りない。

駅舎と人家の周囲に立っている林からは、道中よりも美しい声で鶯が鳴いても仕方がない。

暗い空から、優しく人の心を押し鎮めようと星が照っても仕方がない。

穏やかで静かな天地に、短い夏の命を恃むように、さまざまな虫が鳴いても仕方がない。

伯の気持ちは飽きて、ああ、人に会いたい、いつもなら顔も見せないほどの、めったに会えない人に会いたいものだと思った。

彼は厩をすでに何度となく回った。

今は家に近いあたりの岡に登って、ポー川の流れは見えないか、見えたなら、それでも少しは心を慰めようものをと思った。

見下ろすと、月のように明るい星の光に照らされた広い野がある。

あちこちを截っている小さい溝と小さい湖は、葡萄と桑を植えた畑の黒い中から光って見える。

しばらくは水の流れを聞くかと思い、また遠いところから帰ってきた馬車の角笛を聞くかと思ったが、夜風が溝の葦の葉を吹いて、怪しくささやくのを聞き誤ったのだった。

腹立たしく思いながら降りようとするとき、ふと見ると、この人家の裏側に出ている。

小さい窓から差すランプの光に、家の礎にからまっている山葡萄の葉が照らされて、絵画を見る心地がする。

語り合える人はいるかと、開いている窓に歩み寄って中を覗き見たが、驚いてしばらく立ち止まった。

見入った一間の中には、背の高い腰掛があって、若い娘が座っていた。

顔はよくは見えないが、美しいようだ。

膝の上に幼児をのせて、さまざまな言葉でなだめすかし、また短い歌などをうたい聞かせて眠らせようとしているに違いない。

伯は近づいてよく見たいと思ったが、手足に触れる木の枝がサヤサヤと鳴ったら、中の人を驚かすだろうと危ぶんで、まずその頃歌われたイタリアのアリアの一節を、努めて優しく静かな声で歌い始めた。

少女は急に歌うのを止めて、この木を分け草を踏んで近寄る男を見ようとして、手で傍のランプの光を支え、暗い外を覗った。

少女の足のあたりには大きな犬が伏せていたらしく、このとき唸る声が一声二声聞こえ、またこれに続いて短く半ばで止めたように吠える声がする。

少女は犬を押し鎮めるように、自らは恐れる様子もなく、窓から顔を出して、

「誰」

と尋ねる。

「臨時の郵便馬車で今ここに来て、代わりの馬を待つ外国人です」

と伯は答えながら、なお進み寄って、

「長くここで待つことを辛いと思いましたが、しばらくあなたと語ることをお許しくだされば、実にこよなき幸せです」

伯は勇敢で精細な軍人の本性をここでも忘れず、こう言いながら一歩ずつ進み、最後の一語を言ったときには、ランプで照らされた窓の下に急に姿を現した。

少女の恐ろしいと思う気持ちを打ち破るには、これに勝る策はなかったのだ。

この若者の美しく素直に見える顔に、金色の八の字髭が形よく生えたのを見て、イタリアの乙女はまだ軍服を見ないうちに、

「あなたはオーストリアの士官ですか」

と尋ねた。

(つづく)

森鴎外「ふた夜」 1

Friedrich Wilhelm Hackländer “Zwei Nächte” の翻訳である森鴎外「ふた夜」(初出:『読売新聞』明治23年1月1日~2月26日)の現代語訳です。

                 *

   初の夜(一八四四年)

ミラノのホテル・ライヒマンで、美しい小庭園に臨んでいる食堂の窓が開いた下で、若い士官が集まって歓談しており、数えれば六人いる。

なるほど小会食には恰好な人数で、いま飲食を終えたばかりのようだ。

豊富に食べ物を積み上げたテーブルは、絵画のように雑然とした趣をなしている。

あちらに壊れた果実のカービングがあれば、こちらには栓を抜いたシャンパンの瓶が氷桶の中に立っている。

満ち足りた視線は、香り高いコーヒーを前にし、柔らかな煙のハバナ産の煙草を口にして、心地よさそうにこのテーブルの上をさまよっている。

時は五月の午後で、暖かい日差しはもう小庭園を越え去り、自らに代わって快い涼をもたらしている。

この涼風は窓を抜けて廊下を通り、屋根が高く取り巻いた中庭から流れ込んでいる。

別れゆこうとする陽の金色は、庭を囲む垣根や壁など、暗い陰があるところに、隣家の角張った棟を描き、幹が高い月桂樹の木、石榴の木などの頂を嬉しそうにかすめ、この楽しい穴蔵を離れるのを嫌がっているようだ。

しかし、見るにつれて、その明るい光は少しずつ昇っていき、これに従って鳴きながら飛び上がる昆虫とともに、この涼しく暗い影を逃げる。

テーブルに就いていた間の活発な会話は、いまコーヒー、煙草の時間となって中断した。

六人の士官はいずれも体を寛がせて椅子にもたれ、思うところがありそうに、別れゆく陽を見送った。

これはほんの束の間の心地よい昼休みだった。

苦労した後の楽しい憩いだった。

ちょうどよいことに、教会の塔からは大きな鐘が鳴り渡り、近くの教会の小さい鐘はことごとくこの低音に和している。

六人の士官は、四つの異なる連隊に属している。

そのうち、肌にぴったりとした青色のアティラという軍服を着けているハンガリーのフザール連隊の二人が、今日のホストである。

残りはみな客人で、一人は白に青を交えた竜騎兵の服を着け、一人は暗緑に紅を交えた軽騎兵の服を着け、一人は歩兵で真っ白な服を着けている。

しかし、この会食の主賓ともいうべきは、別の一人のフザール士官であって、彼は今夕ここを出立し、フィレンツェ、ローマを通り越し、ナポリの美しい湾頭に行こうとする伯爵家の子息である。

伯は連隊中で最も美しく、最も人に喜ばれる人である。

乗馬が巧みで、交友も大切にする。

とりわけ、いつも面白そうに見え、興に乗っては無数の冗談を口にするので、連隊中で極めて愛されている。

フザールの一人は言う。

「俺にとって運が悪いことには、お前の地位ほど嫉ましいものはない。二ヵ月の休暇を前にして、ドアの外にはトランクを載せた馬車があり、ポケットの中には高額の為替がある。この愉快な会食を終えると、あの車に乗り込み、腹をこなしながら、景色を眺めながら、この春の夜に馬を走らせようとしている。これを羨まずに、何を羨むというのか」

伯が聞いて、その手中のシャンパンのグラスを高く掲げたところに、最後の夕陽の光がグラスの縁を金色に染めた。

「言うまでもないことだ。しかし、この旅行はかなり前から知られたことで、お前たちにしても、心がけさえあれば、一緒に来られたではないか」

「それはそうだ。しかし、愛というものの光がなくて生きるのは甲斐がないだろう」

と一人は大きなため息をつきながら言う。

第三のフザールは言う。

「その愛の光が、お前の為替を焼き尽くしたのだ。ああ可哀相に」

こう言われた友は答える。

「なに、俺たちの為替というべきだ。なぜかというとお前、お前もまた俺に劣らず、辛い目に合っているからな。とはいえ、あのユリエッタほど愛らしく、小さく、軽やかな女性はいないだろう。身のこなしは、いかにもたおやかだ。芸道はいかにも優れている。ああ、彼女が劇場で第一の地位にいないのは、ただその温和さで人に譲っているからだ。その乙女が俺を深く愛したのだよ。俺たちが一緒に旅立つと告げたとき、彼女が舞台に上った様子をまだ憶えているか。化粧をせず、顔色は蒼ざめて、悲愁というものを擬人法で表すと、こうかと思うほどだった。だからこそ、長く嫌われていた老大佐殿まで俺に言ったのだ。お前はこの様子を見てまだ旅立とうと言うのか、と」

竜騎兵の士官は笑いながら、

「お前はそれで旅立つとは言わなかった」

と言って、青い煙草の煙を真っ直ぐに上のほうへ吹き上げている。

「お前はいつもあの女神の卓前に貢ぎ物を奉げて」

「面白い旅にも出られないようになった」

と伯は言葉を継いだ。

ここで会話はしばらく途切れて、コーヒーカップにスプーンが触れる音、長靴の拍車がチリチリと鳴る音などだけが聞こえる。

彼らは涸れた喉を潤し、疲れた足を置き換えるらしい。

「また時勢があまり落ち着いているから、誰もここで過ごすのを辛いと思わない」

と歩兵仕官は話の端緒を開いた。

「いつまでも同じ平時の生活、駐屯地、新兵の教練にも飽きた。哨兵の交代にも飽きた。ここにいて精神の自滅を防ごうとすれば、その勢いで何かをせずにいられない。俺は舞姫を愛さない。また愛そうと思っても、金がないのをどうしようもない。俺の思いを運ぶ美人は学問だ」

「お前は参謀本部へ行け」

と竜騎兵はが言って、自分の片足を前の椅子の上に載せた。

「結構なことだな。そのときは俺と同じく馬に乗るか」

こう言って大きなため息をつき、

「そのときは戦があっても、おもしろい立場に立って、自分の力を表しているだろう。どうしてまた埃にまみれて縦列の間を行くものか」

「そうだ。馬に乗ろう、馬に乗ろう」

と、軽騎兵の士官は今まで煙草ばかり吸っていたが、急に言う。

「願わくはもう一度あいたいものだ。慌ただしい戦に。血と汗と埃の隙間から、わが兵の前に立って、敵の騎兵の中央に躍り入って、レオポルド勲章を、もし幸運ならば、テレジア十字勲章も獲得するだろう。願わくはもう一度あいたいものだ」

「その希望が叶うのは、心もとない」

と舞姫を崇拝する士官は答える。

「その戦さえあれば、俺の地位も改まり、わずらわしい事柄とも縁が切れるのに。馬の背に跨って、角笛を一声し、俺も独立の身となるだろう」

「そのときのユリエッタの嘆きは」

と伯は笑った。

「彼女はそのときから化粧をするのを止めて、劇場との契約はそのために破棄されるだろう」

「ともあれ、戦が起こることは俺の願いだ」

と大きくため息をつきつつ、一人は答えた。

「それは無駄な願いだろう」

と歩兵士官は言う。

「政治の空は晴れている。雲といっては一塊もない。お前の行く手のナポリの空のように」

「それはずいぶん面白い」

と軽騎兵士官は答える。

「それならば、まだ望みがなくはない。なぜかというと、ナポリの地平線には、いつも勢いよく恐ろしい群雲がある。ヴェスヴィオ山の吐く雲がある。あそこからは、いつ事が起こるかも知れない」

「いかにも、そういえば、俺の喩えにも至らないところがあった」

と歩兵士官は笑いながら言う。

他のフザール士官が言う。

「俺のためにヴェスヴィオに思いを致せ。レシナの涙という酒を持っていくことを忘れるな。エルミートのはひどく不味いから」

「ああ、戦、戦」

と竜騎兵士官は呟いた。

「激しい戦があればな。俺に一国があれば、戦に代えたいものだ」

「その戦は忽然と起こるかもしれない」

と伯は言う。

「ある朝、大事が起こって俺を旅から呼び戻すときは、どんなに嬉しいだろう」

とこういう間に時が過ぎた。

「往路は遠い。ボローニャに着く時刻があまりに遅くなっては、心算に違うだろう。どの道から行くのか」

と歩兵士官は問う。

「言うまでもない。ローディ、ピアチェンツァを経由して」

と伯は答えながら静かに立ち、テーブルの傍らに置いた軍帽と剣を取った。

竜騎兵士官も自分の剣を帯びて言う。

「では、別れの時となった」

これを見て全員が立つ。

椅子のずれる音、剣の鞘が床に触れる音が聞こえて、六人は食堂を離れ、ホテルの庭に降りて、伯の乗る馬車が停まっている傍に来た。

伯の従者のフザールは、伯の外套を肘に掛けている。

御者は馬のくつわに付けて引く綱を直し、主人が乗るのを待っている。

伯は車に上った。

離別は言葉を重ねなくても、心からのようだ。

「では、アルフォンス。達者でな。また会うときまで」

「ありがとう。事があったら早く報せろ。いい加減にするなよ。俺のために言葉をユリエッタに頼む、ロメオ。お前は試験に及第しろよ。俺が帰ったときには、お前の帽子の上に緑の羽が挟まれていることを祈る」

「アヴァンチー」

「チャオ」

「さらば」

御者はイタリア流に左足をあぶみにかけて待っていたが、膝で馬の横腹に一当てすると、一鞭加えながら、身を躍らせて背に上ったと見る間に、馬は狂奔してホテルの門を出て去った。

人に誇ろうとする御者の心づもりが見えて、馬にギャロップをさせ、ポルタ・ロマーナの大通りを左に折れ、呆れ顔に見送る路上の人を快さそうに後に残している様子は、門出の車で軸を挫いて、旅の支障になることも厭わないらしい。

しかし、幸いにも問題なく出発した。

五人は門に立って手を振って送ったが、しばらくして別れた。

一人は教会の辻へ。

一人はコルソのほうへ。

そちらは家路へ、こちらはスカラへ。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 10

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   千呪陀羅尼(せんじゅだらに)

毒があると疑うので、ものも食べず、薬もどうして飲むだろうか。

美しい顔をしていても、優しいことを言っても、偽りの姉には、私は言葉もかけないつもりだ。

眼に触れて見えるものといえば、猛り狂い、罵り叫んで荒れていたが、ついには声も出ず、体も動かず、自分と他人を区別できず、死ぬような心地になっていたのを、うつらうつらと担き上げられて高い石段を上り、大きな門を入って、赤土がきれいに掃かれた一筋の長い道の、左右には石燈籠とざくろの小さい木が同じくらいの距離で代わる代わる続いているのを行き、香の薫りが染みついた太い円柱のきわで、寺の本堂に据えられた。

と思う耳の傍で竹を割る響きが聞こえ、数人の僧たちが一斉に声を揃え、高らかに誦する声が、耳が聞こえなくなるほど喧しくて堪えられない。

禿頭を並べている役に立たない法師たちが、どうかすると、拳を上げて一人の頭を打とうとしたが、一幅の青い光がサッと窓を射て、水晶の念珠が瞳をかすめ、ハッと胸を打ったので、ひるんでうずくまったとき、若い僧が円柱をいざり出ながらひざまづいて、サラサラと金襴のとばりを絞ると、華やかで美しい御厨子の中に尊い像が拝まれた。

読経の声が一段と高まったとたんに、激しい雷が天地に鳴った。

端厳として趣深いお顔、雲の袖、霞の袴、ちらちらと瓔珞(ようやく)をお掛けになった玉のような胸に、しなやかな手を添えて、しっかりと幼子を抱いていらっしゃるが、仰いでいると瞳が動き、微笑まれると思ったとき、優しい手の先が肩にかかって、姉上がお念じになった。

滝がこの堂にかかるかと思うほど、折しも雨が降りしきった。

渦巻いて寄せる風の音が、遠くの方から呻ってきて、ドッと寺中に打ち当たる。

本堂が青光りして、激しい雷が堂の上空を転がっていくのにひどく驚きながら、今は姉上を頼まずにおられようか、ああと膝に這い上がって、しっかりとその胸を抱いたが、これを振り捨てようとはなさらないで、温かい腕が私の背中で組み合わされた。

そうすると気も心も弱々しくなっていく。

ものははっきりと見え、耳鳴りが止んで、恐ろしい風雨の中で陀羅尼を唱える聖の声がさわやかに聞き取られた。

惨めで心細く、何となく恐ろしいので、身の置き所がなくなった。

体が消えてしまえばよいと、両手で肩にすがりながら顔でその胸を押し分けると、襟元を開かれながら、乳の下に私の頭を押し入れ、両袖を重ねて深く私の背中を覆ってくださった。

御仏がその幼子を抱いていらっしゃるのも、これなのだという嬉しさで、落ち着き、清々しい心地で、胸中が平穏になった。

やがて陀羅尼も終わった。

雷の音も遠ざかる。

私の背中をしっかりと抱いていらっしゃる姉上の腕もゆるんだので、そっとその懐から顔を出して、怖々とその顔を見上げた。

美しさは、以前と変わらないが、ひどくやつれていらっしゃった。

雨風はなお激しく、表を窺うことさえできない。

静まるのを待つと、一晩中荒れ通しだった。

家に帰れそうにもないので、姉上は夜通しで祈願なさった。

その夜の風雨で、車山の山中、俗に九ツ谺といった谷が、明け方にきこりが発見したのだが、たちまち淵になったという。

里の者、町の人が皆こぞって見にいく。

後日、私も姉上とともに来て見た。

その日、空はうららかで、空の色も水の色も青く澄み、そよ風がゆっくりとさざ波を立てる淵の上には、塵一つ浮かんでおらず、翼の広い白い鳥が青緑色の水面をゆったりと横切って舞った。

凄まじい嵐だったものだ。

この谷は元、薬研(やげん)のような細長い舟形をしていたという。

幾株とない常緑樹が根こそぎになり、谷間に吹き倒されたので、山腹の土が落ちて溜まり、底を流れる谷川を堰き止めると、自然の堤防となって凄まじい水を湛えた。

一たびここが決壊すれば、城の端の町は水底の都となるだろうと、人々が恐れ迷って、懸命に土を盛り、石を伏せて、堅固な堤防を築いたのが、ちょうど今の関屋少将夫人である姉上が十七のときなので、年が経ち、双葉だった常盤木ももう丈が伸びた。

草が生え、苔むして、昔からこうだったろうと思い紛うばかりである。

「ああ、小石を投げるな。美しい人の夢を驚かすだろう」

と、活発な友人のいたずらを叱り留めた。

若く清らかな顔をした海軍少尉候補生は、夕暮れに黒みを帯びた青色を湛えている淵に臨んで粛然とした。

(おわり)

泉鏡花「竜潭譚」 9

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   ふるさと

老夫は私を助けて舟から出した。

またその背中を向けている。

「泣くでねえ、泣くでねえ。もうじきに坊っさまの家じゃ」と慰めた。

悲しいのはそれではないが、言っても仕方がなくてただ泣いていた。

次第に体の疲れを感じて、手も足も綿のように軽く引っかけるように肩に担がれ、顔を垂れて運ばれた。

見覚えのある板塀のあたりに来て、日がやや暮れかかるとき、老夫は私を抱き下ろして、溝の縁に立たせ、ほくほく微笑みながら、慇懃に会釈した。

「おとなにしさっりゃりませ。はい」

と言い捨ててどこへ行くのだろう。

別れは彼にも惜しかったが、後を追える力もなくて見送るだけだった。

目指す方角もなく、歩くともなく足を動かすが、頭はふらふらとして足が重たくてうまく進めない。

前に行くのも、後ろに帰るのも、みな前から面識がある者だが、誰も取り合おうとはせずに行き来している。

それにしても、まだ何かありそうに私の顔を見ながら行くのが、冷ややかに嘲るように憎らしそうなのは腹立たしい。

おもしろくない町だとばかりに、足は思わず向き直って、とぼとぼとまた山のある方に歩き出した。

けたたましい足音がして、わしづかみに襟をつかむ者がいる。

驚いて振り返ると、わが家の後見をしている奈四郎という逞しい叔父が、凄まじい表情で、

「つままれ者め、どこをほっつく」

と喚きざまに引っ立てた。

また庭に引き出して水を浴びせられるかと、泣き叫んで身を振りよじるが、押さえた手をゆるめず、

「しっかりしろ、やい」

と目もくらむほどに背中を叩き、宙に吊るしながら、走って家に帰った。

立ち騒ぐ召使いたちを叱りながらも、細引き縄を持って来させ、しっかりと両手を結わえきれず、奥まった三畳の暗い一間に引っ立てていき、そのまま柱に縛りつけた。

近く寄れ、食い裂いてやると思うばかりで、

「歯がみして睨んでいる。眼の色が怪しくなった。吊り上がった目尻は憑き物の仕業よ」

と言って、寄ってたかって口ぐちに罵るのが無念だった。

表の方がざわめいて、どこかに行っていた姉上がお帰りになったらしく、襖をいくつかバタバタといわせて、もうここにいらっしゃった。

叔父は部屋の外で遮り迎えて、

「ま、やっと取り返したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走っていて、隙があると駆け出すじゃ。魔どのがそれ、しょっぴくでの」

と戒めている。

言うことがよく私の思いを捉えていた、そうだ、隙さえあれば、どうしてここに留まっていよう。

「あ」

とだけ応えて、姉上が転がり入り、しっかりと取り付きなさった。

無言で、さめざめと泣いていらっしゃる。

お情けが手にこもって、抱かれた私の胸は絞られるようだった。

姉上の膝に寝ている間に、医師が来て脈を窺ったりなどした。

叔父は医師とともにあちらに去った。

「ちさや、どうぞ気をたしかに持っておくれ。もう姉さんはどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだろう、私だよ」

とため息をつきながら、じっと私の顔を見守っていらっしゃる。

涙の跡がしたたるほどだ。

その心を安んじようと、無理に顔をつくってニコッと笑って見せた。

「おお、薄気味が悪いねえ」

と傍にいた奈四郎の妻である人がつぶやいて身震いした。

やがてまた人々が私を取り巻いて、あったことなどを責めるように聞いた。

詳しく語って疑いを解こうと思うが、幼い言葉で順序正しく語れようか。

根掘り葉掘り問うのに、いちいち説明しようにも、私はあまりに疲れていた。

うつろな気持ちで何を言ったろう。

ようやく縛るのは許されたが、なお気が狂った者として私を扱った。

言うことは信じられず、することはみな人の疑いを増すのをどうすればよいだろう。

じっと閉じ込められて庭にも出さず、日が過ぎた。

血色が悪くなって痩せもしたと、姉上が気遣いなさって、後見の叔父夫婦にはせっぱ詰って隠しながら、そっと夕暮れに人目を忍び、表の景色を見せてくださったが、門のあたりにいた子どもたちが、私の姿を見ると一斉に、

「あれ、さらわれ者の、気違いの、狐憑きを見よや」

と言いながら、砂利、小砂利をつかんで投げつけるのは、普段親しかった友だちである。

姉上は袖で私をかばいながら、顔を赤くして逃げ戻られた。

人目のないところに私を引き据えたとたんに、押さえつけ、お打ちになった。

悲しくなって泣き出すと、慌ただしく背中をさすって、

「堪忍しておくれよ、よ、こんな可哀相なものを」

と言いかけて、

「私あ、もう気でも違いたいよ」

としみじみとお訴えになった。

いつもの私と変わらないのを、どうしてそう誤解するのか。

この世でただ一人の懐かしい姉上まで、私の顔をみるたびに、

「気をたしかに、心を鎮めよ」

と涙ながらに言われるので、さてはどういうわけか、気が狂ったのではないかと、自分自身を危ぶむように、そのたびになっていき、果ては本当にもの狂おしくもなっていくのである。

たとえば、怪しい糸が十重二十重に自分を取り巻く心地がした。

徐々に暗い中に奥深く落ち込んでいく思いがする。

それを刈り払い、逃れ出ようとしても、その術はなく、すること、なすこと、人が見て必ず眉をひそめ、嘲り、笑い、卑しめ、罵り、または悲しんで心配したりするので、気が立ち、心が激し、ただ焦れに焦れて、すべてのもの皆が私を腹立たせる。

悔しく腹立たしいまま、周囲はことごとく敵だと思われる。

町も、家も、木も、鳥籠も、またそれが何だというのだ。

姉も本当の姉なのか、前には一度私を見てその弟を忘れたことがある。

塵一つとして私の眼に入るものは、すべて何かが化したもので、恐ろしい怪しい神が私を悩まそうとして現したものだろう。

だから、姉が私の快復を祈る言葉も、私に気を狂わせるように、わざとそう言うのだろうと、一度思っては堪らない。

力があるなら思うままにどうにかしたい、しよう、近づけば食い裂いてくれよう、蹴飛ばしてやろう、掻きむしろう、隙があれば飛び出して、九ツ谺と教えた貴い美しいあの人のもとに逃げ去ろうと、胸が湧き立つときがあると、再び暗室に縛られた。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 8

   渡し船

夢かまぼろしかも区別がつかないで、心を鎮めてじっと見ると、片手は私に腕枕をなさった元のまま、柔らかに力なげに布団の上に垂れていらっしゃる。

片手を胸に当てて、たいそう白くたおやかな五本の指を開いて、黄金の目貫がキラキラと美しい、鞘の塗りが輝いている小さい守り刀をしっかりと持つともなく、乳のあたりに落として据えている。

鼻の高い顔が仰向いて、唇はものを言うように、閉じた眼は微笑むように、さらさらとした髪が枕に乱れかかっている。

それも違わないのに、胸に剣さえお乗せになっているので、亡き母上のそのときの様子と違うようには見えないのだ。

これは、この方も亡くなられたのだと思う不吉さから、早く取り除けようと胸の守り刀に手をかけて引くと、切羽がゆるんで、青い光が眼を射た瞬間に、どういうはずみでか血がさっと迸った。

目の前が真っ暗になった。

ひたひたと流れにじむのを、しまったと思って両手の拳でしっかりと押さえたが、血は止まらず、タプタプと音がするばかりで、ぽたぽたと流れつたう血の紅色が着物を染めた。

美しい人はひっそりとして、石像のように静かな鳩尾の下から、やがて半身が血で浸し尽くされた。

押さえた私の手には血の色は付かないで、灯に透かす指の中が紅なのは、人の血が染まった色ではない。

怪しんで撫でてみた掌は、その血には濡れもせず、気がついてよく見ると、押しやった夜着が露わになり、生糸の絹織物を透けて見える、その肌にまとっていらっしゃる紅の色であった。

今となっては無我夢中で、声高に「母上、母上」と呼んだが、叫んだが、揺り動かし、押し動かしたが、甲斐はなくて、ただ泣き続けて、いつの間にか寝たらしい。

顔が温かく、胸を押される気がして眼が覚めた。

空は青く晴れて、日差しがまぶしく、木も草もてらてらと光って暑いほどである。

私はもう夕べ見た顔の赤い老夫に背負われて、ある山路を行くのであった。

後ろからはあの美しい人がついて来られた。

さては頼んでいらっしゃったように、家にお送りになるのだろうと推し量るだけで、私の胸中はすべて見透かすほどに知っていらっしゃるようなので、別れが惜しいのも、ことの怪しさも、口に出して言うのは無益である。

教えるべきことであれば、あちらから先に口に出されるであろう。

家に帰らなければならない私の運ならば、無理に留まりたいと願ったところでどうしようもない、留まれる理由があれば、とおとなしく、ものも言わずに行く。

断崖の左右に聳えて、しずくの音がするところがあった。

雑草が高い小道があった。

常緑樹の中を行くところもあった。

聞き知らない鳥が歌った。

褐色の獣がいて、ときおり叢に躍り入った。

踏み分ける道というほどでもなかったが、昨年の落ち葉が道を埋め、人が多く通るところとも見えなかった。

老夫は一丁の斧を腰にしていた。

例によって、のしのしと歩きながら、茨などが生い茂って着物の袖を遮るのに遭えば、ズカズカと切り払って、美しい人をお通しする。

そのため山路の困難はなく、高い塗下駄が見え隠れし、長い裾を捌きながらいらっしゃった。

こうして大沼の岸に臨んだ。

水は広々として藍色を湛え、まぶしい日差しもこの森には差さず、水面を渡る風は寒く、サッと音を立てている。

老夫はここに来て、そっと私を下ろした。

走り寄ると、女は手を取って、立ちながら肩をお抱きになる。

着物の袖が左右から長く私の肩に掛かった。

蘆の間の小舟のともづなを解いて、老夫は私を抱えて乗せた。

一緒でなければと、しばらくむずかったが、めまいがするからとお乗りにならず、さようならとおっしゃる間に棹を立てた。

舟は出た。

ワッと泣いて立ち上がったが、よろめいて尻餅をついた。

舟というものには初めて乗った。

水を切るたびに目くるめき、後ろにいらっしゃると思う人が大きな環に回って、行く手の汀にいらっしゃった。

どうやって渡し越しなさるのだろうと思うと、もう左手の汀が見えた。

見る見るうちに右手の汀に回って、やがて元の後ろに立っていらっしゃる。

箕(み)の形をした大きな沼は、汀の蘆と松の木と立て札と、その傍の美しい人と一緒に緩やかな環を描いて回転し、初めはゆっくりと回ったが、だんだん急になり、速くなり、くるくるくると次第に細かく回り続ける。

女は、私の顔から一尺ほど隔たっている近くの松の木にすがっていらっしゃるようだ。

しばらくして、眼の前で美しく気品がある顔が、にっこりとあでやかに微笑みなさったが、そのあとは見えなかった。

蘆が私の身の丈よりも高く繁る汀に、舟はトンと突き当たった。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 7

   九ツ谺(こだま)

やがて添い寝なさると、先ほど水をお浴びになったからか、私の肌はときおりゾッとしたが、無心にしっかりと取りすがり申し上げた。

「次を、次を」と言うと、子ども向けの物語を二つ三つお聞かせになった。

やがて、

「一ツ谺。坊や、二ツ谺と言えるかい」

「二ツ谺」

「三ツ谺。四ツ谺と言ってごらん」

「四ツ谺」

「五ツ谺。そのあとは」

「六ツ谺」

「そうそう、七ツ谺」

「八ツ谺」

「九ツ谺 ―― ここはね、九ツ谺というところなの。さあ、もうおとなしく寝るんです」

背中に手をかけて引き寄せ、玉のようなその乳房を含ませなさった。

露わになった白い首筋、肩のあたりに鬢の後れ毛がはらはらと乱れている様子は、私の姉上とはたいそう違った。

乳を飲もうというのを姉上はお許しにならない。

懐を探るといつもお叱りになるのだ。

母上が亡くなられてから三年が経った。

乳の味は忘れなかったが、いま口に含められたのは、それには似ていなかった。

垂玉の乳房はただ淡雪のようで、含むと舌で消えて触れるものがなく、涼しい唾だけがあふれ出ている。

軽く背中をさすられ、私が夢心地になったとき、屋根の棟、天井の上と思われるが、凄まじい音がしてしばらく鳴り止まない。

ここにつむじ風が吹くと柱が動くと恐ろしくなり、震えて取りつくのを抱きしめながら、

「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍しておくれよ。いけません」

と厳しくおっしゃると、やがて静まった。

「怖くはないよ。ネズミだもの」

という声はさりげないが、私はなおその響きの中に何かが叫んだ声がしたのが耳に残って震えた。

美しい人は半ば乗り出しなさって、ある蒔絵物の手箱の中から、一振りの守り刀を取り出しながら、鞘ごと手元に引き寄せて、雄々しい声で、

「何が来ても、もう怖くはない。安心してお寝よ」

とおっしゃる様子を頼もしく思い、その胸にぴったりと自分の顔をつけていると、ふと眼を覚ました。

行燈は暗く、床柱が黒くつややかに光るあたりに、薄い紫色が籠って、香の薫りが残っている。

枕を外して顔を上げた。

顔に顔を寄せて、ゆるく閉じていらっしゃる眼のまつ毛が数えられるほど、すやすやと寝入っていらっしゃった。

何か言おうと思って気おくれし、しばらくじっと見ていたものの、淋しくて堪らないので、密かにその唇に指先を触れてみた。

指は逸れて唇には届かなかったようだ。

本当によく眠っていらっしゃった。

鼻をつまもう、眼を押そうと、またつくづくと見入った。

ふと、その鼻先をねらって手を触れたが、手は空を泳いで、美しい人は雛のように顔の筋一つゆるみもしなかった。

また、その眼の縁を押したが、水晶の中にあるものの形を取ろうとするようで、私の顔はその後れ毛の端に頬をなでられるほど近くにありながら、どうしても指先はその顔に届かない。

果てはいらいらして、乳の下に顔を伏せて額で強く圧したところ、顔にはただ暖かい霞がまとうようで、のどかにふわふわと触ったが、薄手の和紙一枚も挟めないほど着けた額がツッと下に落ち沈む。

気がつくと、美しい人の胸は、元のように傍に仰向いていて、私の鼻は徒に自分の肌で温もっている。

柔らかい布団に埋もれていたのだ、可笑しい。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 6

   五位鷺

眼の縁が清々しく、涼しい香りが強くして気がつくと、柔らかい布団の上に寝ていた。

少し枕をもたげて見ると、竹を張った縁側の障子を開け放し、庭から続いた向かいの山懐に、緑の草が濡れたように青く生い茂っていた。

その中腹で、風情ある岩角の苔がなめらかなところに、裸ろうそく一本を灯した明かりが涼しく、筧の水がこんこんと湧いて玉と散るあたりにたらいを据え、美しく髪を結った女が一糸まとわぬ姿で、正面に浸っていた。

筧の水がそのたらいに落ち、溢れに溢れて、地の窪みに流れる音がした。

ろうそくの灯は、吹くともない山下ろしに明るくなり、暗くなりして、ちらちらと眼に映る雪のような肌が白かった。

私が寝返る音に、ふとこちらを振り返り、それとうなずく様子で、片手を縁にかけながら、片足を立ててたらいの外に出したとき、サッと音がして、烏よりは小さい真っ白い鳥がひらひらと舞い下り、美しい人の脛のあたりをかすめた。

そのまま恐れる様子もなく翼を休めていると、女はザブリと水を浴びせざま、にっこりとあでやかに笑って立った。

手早く着物でその胸を覆った。

鳥は驚いてバタバタと飛び去った。

夜の色は極めて暗く、ろうそくを手にした美しい人の姿は冴えて、庭下駄を重く引く音がした。

ゆっくりと縁の端に腰を下ろすと同時に、手をつき反らし、体をねじってこちらを向くと、私の顔を見た。

「気分はなおったかい、坊や」

と言って頭を傾けた。

遠くより近くのほうが優って見える顔には気品があり、眉は鮮やかで、瞳は涼しく、鼻はやや高く、唇は紅色をして、額つき、頬のあたりに洗練された美しさがあった。

これは前から私が気に入っていた雛の面影によく似ているので、貴い人だと思った。

年は姉上より上でいらっしゃる。

知った人ではなかったが、初めて会った人とは思わず、本当に誰だろうとつくづくと見入った。

また微笑みなさって、

「お前、あれはハンミョウといって大変な毒虫なの。もういいね、まるで変わったように美しくなった、あれでは姉さんが見違えるのも無理はないのだもの」

私もそうだろうと思わなくもなかった。

今では確かにそうだと疑わなくなって、おっしゃるままに頷いた。

あたりが珍しいので起きようとする夜着の肩を、長く柔らかにお押さえになった。

「じっとしておいで。具合が悪いのだから、落ち着いて、ね。気を鎮めるのだよ、いいかい」

私は逆らわず、ただ眼で答えた。

「どれ」

と言って立ったおり、のしのしと道端の雑草を踏む音がして、ぼろをまとい、顔の色がたいそう赤い老夫が、縁側の近くに入ってきた。

「はい、これはお子さまがござらっせえたの。可愛いお子じゃ、お前様も嬉しかろ。ははは、どりゃ、またいつものをいただきましょか」

腰を斜めにうつむけて、ぴったりとあの筧に顔を当て、口を押しつけてゴクゴクゴクと立て続けに飲んだのが、フッと息を吹いて空を仰いだ。

「やれやれ、甘いことかな。はい、参ります」

と踵を返すのを、こちらからお呼びになった。

「爺や、ご苦労だが、また来ておくれ。この子を返さなければならないから」

「あい、あい」

と答えて去る。

山風がサッと吹き下ろし、あの白い鳥がまた飛んで下りた。

黒いたらいの縁に乗り、羽づくろいをして静かになった。

「もう、風邪を引かないように寝させてあげよう。どれ、そんなら私も」

と静かに雨戸をお引きになった。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 5

   大沼

「いないって、私あどうしよう、爺や」

「根っからいさっしゃらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、ご心配なこんでござります。お前様、遊びに出しますとき、帯の結び目をトンと叩いてやらっしゃればよいに」

「ああ、いつもはそうして出してやるのだけれど、今日はお前、私に隠れてそっと出ていったろうではないかねえ」

「それははや不注意なこんだ。帯の結び目さえ叩いときゃ、何がそれで姉様なり、おふくろ様なりの魂が入るもんだで、魔めはどうすることもしえないでごす」

「そうねえ」と悲しそうに話しながら、社の前を横切りっていらっしゃった。

走り出たが、もう遅かった。

なぜかというと、私は姉上までを怪しんだからである。

後悔しても遅く、向こうの境内の鳥居のあたりまで追いかけたが、もうその姿は見えなかった。

涙ぐんで佇んでいると、ふと見た銀杏の木が暗い夜空に大きな丸い影をなして茂っている下に、女の後ろ姿があって私の視線を遮った。

あまりによく似ていたので、姉上と呼ぼうとしたが、つまらないものに声をかけて、なまじ私がここにいると知られるのは、愚かなことだからと思って止めた。

しばらくして、その姿がまた隠れ去った。

見えなくなるとなお懐かしく、たとえ恐ろしいものであっても、仮にも私の優しい姉上の姿に化したうえは、私を捕まえて酷いことをするだろうか、先ほどのはそうでなくて、いま幻に見えたのが本当の姉上であったかもしれないのに、どうして言葉をかけなかったかと、泣いたところで甲斐もない。

ああ、いろいろなものが怪しく見えるのは、すべて自分の眼がどうかした作用なのだろう。

そうでなければ涙でくもったか。

解決法はあった。

向こうの御手洗で洗ってみようと近寄った。

煤けた横長の行燈が一つ上に掛かって、ほととぎすの画と句などが書かれている。

灯をともしているので、水はよく澄み、青い苔むした石鉢の底も見える。

手で掬おうとしてうつむいたとき、思いがけず見た私の顔は、そもそもどうしたのか。

思わず叫んだが、注意して気を鎮め、両眼を拭いながら、水を覗いた。

自分でもないようで、またと見るに堪えないのを、どうしてこれが私だろう、きっと気の迷いだったのだろう、もう一度、もう一度と震えながら見直した。

そこへ肩をつかんで声を震わせ、

「お、お、千里。ええも、お前は」

と姉上がおっしゃるので、すがりつこうと振り返ったところ、私の顔をご覧になったのに、

「あれ!」

と言って一歩後ずさり、

「違ってたよ、坊や」

とだけ言い捨てて、急いで駆け去ってしまわれた。

怪しい神がいろいろなことをして愚弄しているのだと、あまりのことに腹立たしく、地団駄を踏んで泣きながら、懸命に走って追いかけた。

捕まえて何をしようとしたのか、それはわからない。

ただもう悔しかったので、とにかく捕まえたかったのだろう。

坂も下りた、上った。

大路らしい町にも出た。暗い小道もたどった。

野も横切った。

畔も越えた。

後ろも見ずに駆けていた。

どれほどの道だったろう、広々とした水面が闇の中に銀河のように横たわり、黒く恐ろしい森が四方を囲んでいる大沼らしいものが、行く手を塞ぐと思ったとき、蘆の葉が繁った中に私は倒れた。

後のことはわからない。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 4

   逢う魔が時

私が思うところと違わず、堂の前を左に回って少し行った突き当たりに、小さい稲荷の社がある。

青い旗、白い旗が二、三本その前に立ち、後ろはすぐに山裾の雑木が斜めに生えて、社の上を覆っている。

その下の小暗いところに穴のような空き地があるのを、そっと目配せした。

瞳は水がしたたるようで、斜めに私の顔を見て動いたので、明らかにその意味は読みとれた。

そのため、少しもためらわずに、つかつかと社の裏を覗きこむと、鼻を打つほど冷たい風が吹いている。

落ち葉、朽ち葉が堆積して、水っぽい土の臭いがするばかりで、人の気配もせず、襟元が冷くなったのに驚いて振り返ったと思う間に、彼女はもういなくなっていた。

どこに行ったのだろうか。

暗くなった。

身の毛がよだって、思わず、ああと叫んだ。

人の顔が定かでないとき、暗い隅に行ってはならない、黄昏の片隅には、怪しいものがいて人を惑わすと、姉上に教えられたことがある。

私は茫然として眼をみはった。

足が震えて動くことができず、固くなって立ちすくんだ左手に坂がある。

穴のようで、その底からは風が吹き出ていると思う真っ暗闇の坂下から、何かが上ってくるようなので、ここにいると捕まると恐ろしく、あれこれと思慮もないので、社の裏の狭い中に逃げ入った。

眼を塞ぎ、息を殺して潜んでいると、四足のものが歩く気配がして、社の前を横切った。

私は人心地もなく、見られまいとばかりにひたすら手足を縮めた。

それにしても、先ほどの女の美しかった顔、優しかった眼を忘れない。

ここを私に教えたのは、今にして思えば、隠れた子どもの居所ではなく、何か恐ろしいものが私を捕まえようとするのを、ここに潜め、助かるだろうと、導いたのではないかなどと、とりとめのないことを考えた。

しばらくして、小提灯の明かりが坂下から急いで上ってきて、あちらに走っていくのを見た。

ほどなく引き返して、私が潜んでいた社の前に近づいたときは、一人でなく二人三人が連れ立って来た感がある。

ちょうどその立ち止まった折に、別の足音がまた坂を上ってきて、先に来た者と落ち合った。

「おいおい、分からないか」

「不思議だな、なんでもこの辺で見たというものがあるんだが」

と後から言ったのは、わが家で使っている下男の声に似ていたので、もう少しで出ようとしたが、恐ろしいものがそのようにだまして、おびき出すのはないかと、ますます恐ろしくなった。

「もう一度念のためだ、田んぼの方でも回ってみよう。お前も頼む」

「それでは」

と言って、上下にばらばらと分かれていく。

再び静かになったので、そっと身動きして足を伸ばし、板目に手をかけて眼ばかりと思う顔を少し差し出して外の方を窺うと、何事もなかったので、やや落ち着いた。

怪しいものどもが、どうして私を見つけられようか、愚かな、と冷ややかに笑ったところに、思いがけず、誰だろう驚いた声がして、慌てふためいて逃げる者がある。

驚いてまた潜んだ。

「ちさとや、ちさとや」と坂下あたりで、悲しそうに私を呼ぶのは、姉上の声であった。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 3

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   かくれあそび

先ほど私が泣き出して姉に救いを求めたのを、彼女に知られなかったのは幸いである。

言うことをきかずに一人で出てきたのに、心細くて泣いたと知られては、そうだろうと笑われよう。

優しい姉が懐かしいが、顔を合わせて言い負けるのは悔しいから。

嬉しく喜ばしい思いが胸に満ちては、また急に家に帰ろうとは思わない。

一人境内に佇んでいると、ワッという声や笑う声が、木の陰、井戸の裏、堂の奥、回廊の下からして、五つから八つまでの子が五、六人、前後に走り出た。

これは、隠れ遊びで一人が見つかったものだろう。

二人三人と走ってきて、私がそこに立っているのを見た。

皆、瞳を集めていたが、

「お遊びな、一緒にお遊びな」

と迫って勧めた。

小家が散在するこのあたりに住むのは、乞食というものだという。

風俗が少し異なっている。

子どもたちは、親たちの家に金があってもよい着物を身につけた者がなく、たいてい裸足である。

三味線を弾いてときどきわが家の門に来た者、溝川でドジョウを捕まえる者、マッチや草履などを売りにくる者たちは皆、この子たちの母であり、父であり、祖母などである。

こういう者とは一緒に遊ぶなと、私の友だちは常に忠告した。

ところが、町方の者はといえば、乞食の子どもたちを尊び敬って、少しでも一緒に遊ぶことを願うのか、勉めて親しく優しくするのだ。

普段はこちらから遠ざかったのを、そのときは先ほどのあまりに淋しく、友だちが欲しくて堪らなかった思いがまだなくなっていないのと、恐ろしかった後の楽しみとで、私は拒まずにうなずいた。

子どもたちは、ざわめき喜んでいた。

それからまた隠れ遊びを繰り返そうと、ジャンケンをして探す者を決めると、私がその役に当たった。

顔を覆えと言うままにした。

ひっそりとなって、堂の裏の崖を逆さに落ちる滝の音はドードーと、常緑樹の梢は夕風に鳴り渡る。

かすかに、

「もういいよ、もういいよ」

と呼ぶ声が、こだまに響いた。

眼を開けると、あたりは静まり返り、黄昏の色がまた一際おそってきた。

立ち並んでいる大きな樹が朦朧として、薄暗い中に隠れようとしている。

声がした方をと思うところには誰もいない。

あちこちと探したが、人らしいものはなかった。

また元の境内の中央に立ち、もの淋しく見回した。

山の奥にも響くような凄まじい音がして、堂の扉を閉ざす音がした。

ひっそりとして何も聞こえなくなった。

親しい友だちではない。

いつもは疎ましい子どもたちなので、この機会に私を苦しめようと企んだのだろうか。

隠れたままこっそりと逃げ去ったのでは、探したところで見つからない。

無駄なことだとふと思い浮かぶと、そのまま踵を返した。

それにしても、もし私が見つけるのを待っていたら、いつまでも出てこれまい。

それもまたあり得ることかと、あれこれと思い迷い、徒に立ち尽くしている折しも、どこから来たとも見えず、暗くなった境内の美しく掃いた土が広々と灰色をしたところに、際立って顔の色が白く美しい人が、いつの間にか私の傍にいて、うつむきざまに私を見た。

きわめて背の高い女だったが、その手を懐にして肩を垂れている。

優しい声で、

「こちらへおいで、こちら」

と言って先に立って導いた。

見知った女ではないが、美しい顔が笑みを浮かべている。

よい人だと思ったので怪しまず、隠れた子の居所を教えるものと思ったので、いそいそとついていった。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 2

   鎮守の社

坂は急でなく長くもないが、一つ越えるとまた新たに現れる。

起伏はまるで大波のように続いて、いつ平らになるとも知れなかった。

ひどく疲れたので、一つ下りて上る坂の窪みにしゃがみ、手の空いたままに何か指で土に書き始めた。

「さ」という字もできた。

「く」という字も書いた。

曲がったもの、真っ直ぐなものを、心の趣くままに落書きした。

こうしている間にも、先ほど毒虫が触れたのだろうと思うが、頬のあたりがしきりに痒いので、袖でしょっちゅうこすった。

こすってはまた落書きなどをした中に、難しい字が一つ形よくできたのを姉に見せたいと思うと、急にその顔が見たくなった。

立ち上がって行く手を見ると、左右から小枝が交差し、間も透かさずにつつじが咲いている。

日差しがひとしお赤くなってきたので、手を見ると掌に照り付けた。

一文字に駆け上って、ふと見ると、同じつつじのだらだら下りである。

走り下りて、走り上った。

いつまでこうなのだろう、今度こそという思いに反して、道はまたうねった坂である。

踏み心地は柔らかく、小石一つなくなった。

まだ家には遠いと思うと、姉の顔が懐かしくてたまらず、これ以上堪えられなくなった。

再び駆け上り、また駆け下りたときは、思わず泣いていた。

泣きながらひたすら走ったが、なお家のあるところに至らず、坂もつつじも少しも先ほどと異ならず、日の傾くのが心細い。

肩、背のあたりが寒くなった。

夕日が鮮やかにパッと照り映えて、まぶしいほど美しいつつじの花は、まるで紅の雪が降り積もったかと疑われる。

私は涙声を上げ、あるほどの声を絞って姉を求めた。

一度二度三度して、返答があるかと耳を澄ますと、遥かに滝の音が聞こえた。

ドードーと響くなかに、たいそう高く冴えた声がかすかに、

「もういいよ、もういいよ」

と呼んでいるのが聞こえた。

これは、幼いわが仲間が隠れ遊びというものをする合図であることがわかった。

一声繰り返すと、もう聞こえなくなったが、ようやく落ち着いて、その声がしたほうをたどり、また坂を一つ下りて一つ上り、小高いところに立って見下ろすと、たいして雑作なく、堂の瓦屋根が杉木立の中から見えた。

こうして私は踏み迷った紅の雪の中から逃れた。

背後にはつつじの花が飛び飛びに咲き、青い草がまばらに生え、やがて堂の裏に達したときは一株も赤い花はなく、黄昏の色が境内の御手洗のあたりを塗りこめていた。

柵で囲んだ井戸が一つと銀杏の古い木があり、その後ろに人家の土塀がある。

こちらは裏木戸の空き地で、向かいに小さい稲荷の堂がある。

石の鳥居がある。

木の鳥居がある。

この木の鳥居の左の柱には割れ目があって、太い鉄の輪がはまっているのさえ、確かに覚えている。

ここからはもう家に近いと思うと、先ほどの恐ろしさはまったく忘れてしまった。

ただひたすら、夕日が照り付けているつつじの花が、私の身の丈よりも高いところ、前後左右を咲き埋めている赤い色の赤さの中に、緑、紅、紫、青白の光を羽色に帯びた毒虫がキラキラと飛んでいる広い景色だけが、画のように小さい胸に描かれた。

(つづく)

泉鏡花「竜潭譚」 1

泉鏡花「竜潭譚」(初出:『文芸倶楽部』明治29年11月)の現代語訳です。

   つつじが丘

午後である。

木はまばらで、長く緩やかな坂には木陰もない。

寺の門、植木屋の庭、花屋などが坂下を挟んで、町の入口にはなっているが、上るにつれて畑ばかりになった。

番小屋のようなものが小高いところに見える。

谷には菜の花が残っていた。

道の左右には、紅色のつつじの花が、見渡すほうも見返すほうも、今を盛りと咲いていた。

歩くにつれて汗が少し出た。

空はよく晴れて一点の雲もなく、風は暖かく野の上を吹いている。

一人では行くなと、優しい姉上が言っていたのをきかずに、隠れて来た。

おもしろい眺めだ。

山の上のほうから一束の薪を担いだ男が下りて来た。

眉が太く、眼が細い男が、鉢巻をした額のあたりに汗をかいて、のしのしと目の前に近づきながら、細い道を片側によけて私を通したが、振り返って、

「危ないぞ、危ないぞ」

と言い捨てて、目尻に皺を寄せてさっさと行き過ぎた。

振り返ると、もう下り坂にいて、その肩は躑躅の花に隠れ、髪を結った頭だけが出ていたが、やがて山陰に見えなくなった。

草深い小道の遠くの小川が流れる谷間の畦道を、菅笠をかぶった女が、裸足で鋤を肩にし、小さい女の子の手を引いてあちらに行く後ろ姿があったが、それも杉の木立に入った。

行く方もつつじである。

来た方もつつじである。

山土の色も赤く見えた。

あまりの美しさに恐ろしくなって、家路につこうと思ったとき、私がいた一株のつつじの中から、羽音をあげて虫が飛び立ち、頬をかすめたのが、あちらに飛んで、およそ五、六尺隔てたところにあった小石の脇に止まった。

羽を震わせる様子も見えた。

手をあげて走りかかると、パッとまた飛び上がって、同じく五、六尺ほどの距離のところに止まった。

そのまま小石を拾い上げて狙い打ちにした。

石はそれた。

虫はクルリと一回りして、また元のようにしている。

追いかけると、すばやくまた逃げた。

逃げても遠くには行かず、いつも同じくらいの距離をとっては、キラキラとささやかな羽ばたきをして、鷹揚にその二本の細いヒゲを上下に輪を作るように押し動かすのが、いかにも憎らしいようであった。

私は足踏みしていらだった。

虫のいた跡を踏みにじって、

「ちくしょう、ちくしょう」

とつぶやくとすぐ、躍りかかってバンと打ったが、拳は徒に土で汚れた。

虫は一足先に場所を替え、悠々と羽づくろいしている。

憎しみを込めて凝視していると、虫は動かなくなった。

よくよく見ると、羽蟻の形をして、それよりもやや大きい体は五彩の色を帯び、青みがかった輝きを放っている。

その美しさは言いようがない。

色彩と光沢がある虫は毒があると、姉上が教えたのをふと思い出したので、そのまますごすごと引き返したが、足元に先ほどの石が二つに砕けて落ちているのを見ると、急に心が動き、拾い上げて取って返し、真剣に毒虫を狙った。

今度はしくじらず、したたかに打って殺した。

喜んで走り寄り、石を合わせて虫を押し潰した。

蹴飛ばした石は、つつじの中をくぐって小砂利を巻き込み、バラバラと谷深く落ちていく音がした。

袂の塵を払って空を仰ぐと、日差しはやや斜めになっている。

ぽかぽかと顔が暑い日向で唇が乾き、眼の縁から頬のあたりがむず痒くて堪らなかった。

気がつくと、もと来た方ではあるまいと思う坂道の異なるほうに、私はいつしか下りかけていた。

丘を一つ越えたのだろう。

戻る道はまた先ほどと同じ上りになった。

見渡せば、見回せば、赤土の道幅は狭く、うねうねと果てしないのに、両側に続くつつじの花が遠くのほうでは前後を塞ぎ、日差しが赤く咲き続ける真っ青な空の下に、佇んでいるのは私だけだ。

(つづく)

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