森鴎外「ふた夜」 7
東の空を見れば、鼠色の雲に少し明るい綻びがある。
地平線のところから狭く黄色い一帯が上ろうとして支えられているのが見える。
プステルレンゴはそう遠くあるまい。
伯は服を乾かせる暖炉、濃いコーヒーを夢に見ながら思うようだ。
チェッコーも今は大きくなっただろう。
彼が果たして俺の帽子をどれだけ引き裂いたか、見たいものだ。
もし四年後にまたあの帽子を見たら、奇遇だといえるだろう。
とりとめのないことを思い続け、舌を打ち鳴らすと、馬は泥を蹴りたてて急行した。
しばらくしてまた夜明けが近い霧の中から、一群の猟隊の後ろ姿を見た。
気性の勝ったこの隊なので、歩兵、騎兵などと違って、話し声もときおり漏れ聞こえるが、夕べの疲れは表情に出て、人々はみな夜が早く明けて、暖炉のあるところにたどり着くことを祈るばかりだ。
猟隊の群れは一大隊ほどで、その前には旗騎兵の一群がいる。
この間を貧しくない農民めいた服を着た男が、手を後ろざまに縛られて歩いている。
服は裂けて泥にまみれ、帽子をかぶっていないので、黒い毛は額を覆っている。
この男は頭を垂れて、深い泥の中を歩いている。
伯がそのまま行き過ぎようとすると、急に笑みを含んで、
「止まれ」
と声をかける人がいる。
振り返っても誰かわからなかったが、灰色の外套の襟を開いて首を出し、緑の毛の付いた帽子を少し押し上げて額を現したのを見ると、先の参謀本部付きの仕官だった。
参謀本部付きは面白そうに言う。
「よい天気にまた遭ったものだな。俺は風邪をひいて堪えがたい。乾いたハンカチは持っていないか。俺のは濡れてしまって使えない」
「わかった。俺の鞍の防水袋さえ、その名に背かないなら、乾いたハンカチも巻煙草もあるだろう」
「善い兵士はフザールだ」
と参謀本部付きは鼻歌を歌ってまた言う。
「もし俺の願いがかなうときには、お返しに桜酒を一口飲ませよう」
防水袋は、その名に背かなかった。
二人の士官は、ハンカチと巻煙草と、桜酒を交換した。
そのうえで参謀本部付きは問う。
「お前はどこへ乗って行くのだ。昨日の晩から馬の背にばかりいるのでは、まさかあるまい」
「ほとんど馬の背にばかりいる。ただ馬を替えただけだ。寝たのは一時間で、その報いに、この恐ろしい夜に遭った」
二人が巻煙草に火をつけようと路傍に寄ると、兵卒があの罪人を引っ立てて通り過ぎた。
フザールの伯は言う。
「誰だ?」
「スパイだ。ピエモンテ人に戦おうとする意思でもあったならば、奴はどんなに我が兵を苦しめただろう。カサル・プステルレンゴの本営に連行されるところだ」
「怪しいものを持っていたのか」
「十分に。射殺してもあまりあるほどに。奴は貧しくない者だから、金を得るための仕業ではない。我が兵を憎んでスパイとなったのだ。昨日のことだったが、我が兵の使いに立った従順な御者が河畔で殺されたところ、昨夜捕らえたこの男の懐から御者の持った文書が出てきた」
伯は不憫だと思うように肩を少し動かして、この罪人を見た。
どのような罪人も死地に就くのを見るのは快くない。
「このスパイの命は助からないだろう。裁判は隊の出発前に終わった。しかし、彼が住むカサル・プステルレンゴに連行して、現地の役所にただして、罪を軽くするよすがもあろうから、ともかくも連行するのだ」
二人の士官はまもなく縦列を後にして村に近づいた。
地平線に見えた黄色い一帯は、今は広くなって、先には一団をなしていた灰色の雲もようやく離れ離れになった隙間から、日光が漏れて空に余光を漲らせている。
しかし、この光はまだ灰色を帯びて濁っている。
朝とはいえ、景色は沈んで見える。
雲はまだ低く垂れて、眠たげに広い郊外の野原を彼方へたなびいていく。
道の周りの高低さまざまな木は、鋭い朝風になびいて、昨夜から貯えた雨水を地上に撒き散らしている。
左右の溝には水が満ち、色は褐色に似て田舎汁を見るようだ。
荒い風に半ば吹き倒された稲の茎が、寒さに堪えられずにか震えているのも哀れだ。
士官は互いの姿を見合って、昨夜から汚れた軍服のみすぼらしい様子を笑った。
馬は鞍のあたりまで泥にまみれて、白い外套にはところどころに褐色の筋がある。
靴と拍車と剣は泥に包まれている。
村に近いところで、また新しい縦列に会った。
村の道には兵卒が満ち満ちている。
本営は大きな家で、二人は馬から下りてここに入ったが、用が終わって伯が出てきたのは一時間ばかり経た後だった。
雨は止んだ。
歩兵の群れが道を塞いでいる。
現地の民衆は、濡れた兵士たちに食事を出そうと騒いでいる。
民衆はオーストリア兵を尊んで、自由の贈り物をもらったと言っている。
これは、半ばはオーストリア王室を尊ぶ気持ちから出て、半ばは長い戦が終わるのを願う気持ちから出たのだろう。
早くも駅舎が見えるところに来た。
あそこに厩がある。
ここに家がある。
厩の前には一群の軽騎兵がいて、馬を暖かいところに引き入れようとしている。
御者数人がこれを助けようとしている。
伯が来て馬から下りるのを見て、一人の御者が馬のくつわを受け取った。
「駅舎の一家は、今どうしているか」
と問われて、御者は何かに恐れるような様子で、家の方を振り向き、肩を動かして言う。
「家はあちらです。戸は開いていますので入ってご覧ください。人がいますかいませんか。しかし、外套をお干しになるほどの場所はありましょう。私は馬を厩に引いて、また後から参りまして、火を起こしておもてなしいたしましょう」
「誰も家にはいないのか。駅舎の主人の家族はいないのか」
と士官が問うと、御者はただ、
「知りません」
とだけ答えた。
伯がいぶかしさに頭を振って入ると、閾の上には大きなむく毛の犬が伏せており、伯の顔を仰ぎ見て尾を振った。
これこそ見覚えのある犬だ。
伯が入ると、犬はその後について来た。
伯は先の夜に立った窓のある部屋を目指して、廊下を進んでドアを開けた。
岡に向かった窓は開いている。
先の夜のように、葡萄の蔓は風になびいている。
しかし、優しい月の光は受けず、霧深い朝の灰色の光を帯びている。
葉先からは重そうな雨の雫が、風につれてはらはらと落ちた。
部屋には二人の子どもがいる。
一人は六歳ほどだが、暖炉の中で消えようとする炭火を吹いている。
一人は二歳ほどに見えるが、床の上に座って、小さい手を肌寒そうな服の下に差し入れて温めようとしている。
大きいほうは男児で、小さいほうは女児だろう。
あの人の娘だろうか。
顔がよく似ているな。
大きな光のある目まで。
伯が思わず、
「テレシナ」
と呼ぶと、幼子は頭を振り向けて笑った。
床の上のものを見ると、貧しそうではない。
しかし、どうしてか皆ひどく乱れた様子に見える。
伯はどういうわけか自分でもわからずに、身が震えるほど哀れを感じた。
男児はチェッコーだろう。
昔、少女の膝にいた頃と違い、大人びて、
「火はもうすぐ燃えるから、ちょっと待ってください」
という主人ぶりも哀れだ。
伯が部屋を出て先ほどの御者に事情を聞きたいと思うとき、一束の薪を抱いて御者が入ってきた。
「誰も家にいないのか。この子どものほかには。主人はどこに行った」
と伯に問われて、御者は薪を暖炉の近くに下ろし、また肩を動かして言う。
「ここにいらっしゃったことがおありで」
「四年ほど前に一度」
「それでこのようにお聞きになるのですか」
「馬を換えようとして、夜ここで休憩したとき、美しい少女を見たが」
「テレシナ」
と御者は答えて、また暖炉の近くを指差し、
「あそこにいるのは、彼女の子です」
「彼女は」
「不幸にも一年前に亡くなりました。人があまりに辛いので」
「辛かったとは誰が、彼女の父か」
「いえ、父親は早く世を去りました。彼女の夫で、私の今の主人です」
と言って、また何かに恐れる様子だ。
「さては、ピアチェンツァの駅の者だろう」
と、伯は胸が迫っているさまを見せまいと、声を低めて問う。
「あなたは彼をご存じでしたか」
「顔は知らないが、名を聞いたことがある」
「まさかあなたがご存じの人ではないでしょう。天罰は逃れられないものです。こういう誠意ある妻を、善き美しい妻を。父親がピアチェンツァから婿を取ろうと迫ったのを、我慢して引き受けた気持ちはどうでしたか。悪人とは誰も知らない者はないのに。そうして夫婦になっては誠意を尽くしたのに、今はどうでしょう。彼は天罰だからよい。不憫なのは子どもです」
「天罰とはどういうことか」
と伯は窓に肘をもたれて問う。
心中ではどのような恐ろしいことだろうかと疑っている。
「あまり長くなったので、ついに露見しました。先ほどスパイだといって連行されました」
と小声で答える。
「あなたは行き会いましたでしょう。同じ道を連行されましたから。命は助かるまい。将軍殿の言葉をいただいても」
「さては、彼が」
と伯は静かに言い、床の上の娘が自分の傍にいざり寄って、剣の鞘につかまったのを見ている。
幼児と顔を見合わせて、深く感じた様子で顔を背け、懐の金貨が満ちた財布を引き出して、老いた御者に渡して言う。
「お前は実直な男とみえる。これは子どもたちのために収めておいて、後で渡してくれ」
伯は幼い娘を抱き上げて、愛らしい唇にキスをし、黙ってドアを出ようとする。
「火が今燃えますから、待ってください。士官殿」
とチェッコーが後ろから声をかけた。
出て行く人は聞こえないふりをして厩に入り、急いで跨って乗り出し、首を回して駅舎に最後の一目を注ぐ。
このとき、左手の方から太鼓が鳴って、小銃の音が三発四発聞こえた。
伯が端綱を緩めて拍車をあてると、馬はローディの方へと急いで駆け出した。
(おわり)
最近のコメント