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森鴎外「ふた夜」 6

一、二時間も寝ただろうかと思う頃、呼び起こされた。

枕元に立っているのは少佐だ。少佐が言う。

「無情にも君を起こしたのは、やむを得ないことがあってだ。誰も頼む者がいない。君がすでにひどく疲れているのは知っているが、また夜更けに出てもらうこととなった」

言葉もまだ終わらないうちに、伯は跳ね起きた。

剣と革袋をほどよく揺すって直し、指令の文を受け取った。

この文はピッツィゲットーネに持っていき、すでにオーストリア人がそこに入っている場合は、何某将軍に渡せという。

少佐が自ら淹れさせたコーヒーのカップ半分を分けて伯に飲ませ、指令状を渡すのを、伯は受け取って慌ただしく階段を下り、向かいの家へ馬を取りに行った。

馬はまたたく間に整ったので、伯は白い上着を引っ掛け、これに乗って村の方へと歩ませた。

天気が悪くなった。

あたりはすべて暗く、目の前に手をやっても見えないというのは、諺ばかりではない。

大空には星一つさえ輝かない。

ときおり鋭く乾いた風が払うように吹いてくるのは、口を開けば火を吐き、天地を荒らすに違いない雷雨の苦しげな息であるらしい。

野辺にたむろしている兵士は、焚いた篝火を消されまいとするが、風に誘われる弱い焔は、嘆かわしそうにあちらこちらへなびいている。

露営の馬は身震いし、鼻を開いて空を仰いでいる。

兵卒の仲間にも一人として心地よさそうに寝転んでいる者は見えず、皆眠らずに、窪地に座っている者がおり、道端に群れをなしているのは、ときおり地平線のあたりに閃く電光に照らされる黒い空を指して、何か言っているようだ。

士官が集まったところを過ぎるたびに、皆快く礼をした。

そうして言葉を添えて言う。

「気をつけたまえ。今にも激しい空となろう」

と。

ほどなく駐屯も露営も通り過ぎ、伯は独り淋しい田舎道に出た。

このとき、伯は心中に四年前のことを思い出した。

ミラノを発ってほとんど同じ道を通った夜、そのおりの花の香り、鶯の歌、恋が思い出された。

今と比べると、どれほど面白かっただろう。

あの少女が三度自分に触れた唇は今も忘れない。

これより後に温かい唇に触れたこともあるが、あの熱く甘い唇には比べるべくもなかった。

今夜は鶯の歌も聞こえない。

そのときにはなかった風が吠える音と次第に頭上に近づいて鳴る雷の音があるばかりだ。

風は激しく、道端の木々は横ざまになびいている。

黒雲の間を行き交う稲妻に恐れて、騎馬は何度も身を震わせていた。

途中で騎兵の一群に会った。

先頭に立った老下士官が言う。

「河の畔で、ピエモンテ人がピッツィゲットーネを撤退しようとするのを見ました。たいしてお急ぎにならずとも、オーストリアの前哨と行き会われるほどでしょう」

夜の一時ばかりでもあろうか。

雷雨はいよいよ激しくなった。

風は馬の歩みを止めるばかりで、騎手の周りを吠えながら吹き、その顔には砂や小石を投げつけ、大木の梢を折っては、馬の左右に投げ出している。

雨は瀑布のように降っている。

雹は大粒でたいそう激しく、馬と騎手の体に当たって、慣れた士官の力も、驚く馬を鎮めかねたほどだ。

実に恐ろしく心細い伝令の役目だった。

この激しい雷雨が一時間ばかりも続いただろうか。

雨も風もやや弱くなった。

このとき、騎手の耳に遠くから車の走る音、歩兵と騎兵の進む音などが聞こえるかと思われた。

この物音は、風とともに近くなり、また遠くなった。

馬を止めて身を少し屈め、敵か味方か、その方角も覗って、真っ直ぐに行くにしても、横へ避けるにしても決めたいと思った。

ピッツィゲットーネは少し左手に当たっているだろうから、今の物音はその方角から右の方へ撤退するかと思われる。

これは今、柵を離れていくピエモンテ人に違いない。

馬を左の方へ歩ませて、街と川の流れのあるらしい方へ進んだ。

流れは程近いと思うのに、闇夜なので水の光も見分けられない。

突然、馬が躍り上がって退いた。

驚いた騎手は端綱を堅く引き、無意識に剣の柄に手をかけて身構え、目の前で暗い夜が裂け、大地がその臓腑までもはじけたろうと思ううちに、恐ろしい焔が足元から起こった。

赤い、黄色い焔が散って、無量の火の粉となり、天も焦げるほどである。

これは弾薬の爆裂だった。

この火は一瞬のうちに消えたが、砦への距離が十五分ほどであるのを、士官は測ることができた。

このときに橋が壊されたのも見えた。

しかし、一瞬の後にはまた真っ暗になって、今はときおり壊された跡から立ち上る小さい焔はあるが、行く手を照らすには足りなかった。

爆裂のときには地が震え、馬は恐ろしいものが目前に見えるのを避けようと、右へ左へと道を外そうとした。

ようやく馬を乗り鎮めて、どうしようかとしばらく考えたが、思い定めて砦の方へ行こうとする。

先ほど聞いたのは、橋を断って去ったピエモンテ人がたてた物音だったのだろう。

しかし聞け、また物音が聞こえる。

これは耳に慣れた響きだ。

猟隊の角笛の音だ。

ああ、味方の兵だ。

敗走する敵を追うのだろうか。

しかし、後の推測は当たらなかった。

のちに聞けば、ピエモンテ人はピッツィゲットーネと撤退しようとするとき、火薬庫に火をつけて空に打ち上げ、これと同時に橋を壊したが、このために命を落とす者さえあったとか。

それだけでなく、敵兵は先の雷雨に遭って、倒木に打たれ、また大きな雹に負傷されられなどしたのを、敵将バラ自身が報じた。

伯はピッツィゲットーネで使命を果たし、恐ろしい破壊の跡を見て街を離れ、アッダを渡り、カサル・プルテルレンゴにある第四軍団の本営に行こうとする。

雨では服の裏まで濡れ、先ほどからの変に神経もまだ落ち着かない様子で、淋しい街路を乗りながら、彼も心中で戦が忌まわしいものであることを今さらのように思った。

近くには河水が響いている。

風が止んだ後は、この水音と一歩一歩軟らかい泥に踏み込む馬の息だけが聞こえる。

外套がびっしょりと濡れているので、体を圧すように垂れ、髪と髭からは雫が落ちる。

雨は雷が鳴ったときのように激しくは降らないが、今も止まない。

小粒ながらも重く服を透そうとしている。

こうして乗っていくこと一時間ばかりで、前方に馬蹄の音が聞こえる。

追い近づいてみれば、旗騎兵の一群だ。

これに聞いて、第四軍団が果たしてカサル・プステルレンゴにいるのを知った。

「その最後尾の軽騎兵は、そう遠くない前を雨で打たれている。追いつくことは難しくあるまい」

と言う。

馬は股で圧されて、衰えた力をひときわ励まして走らせて行くと、しばらくして軽騎兵の一群が見えた。

兜は半ば光を失い、白い上着も闇に透かして灰色に見える。

午後にアッダ川の岸の酒屋で別れた友も、この群れにいる。

その甚だしく濡れて泥にまみれ、外套は重そうに垂れて、馬は尾を股間に引っ込めて行くのを見ると、自分の姿が哀れなのも推し量られる。

人々は皆おもしろくない顔つきをして、馬を歩ませている。

当然だ。

服はずぶ濡れであったから。

あの軽騎兵士官は、濡れた巻煙草の火を消すまいと、しきりに吸っている。

「恐ろしい空だな。近頃にない夜だった」

と伯に言う。

「お前もあの激しい雷雨にあったか」

こう言ううちに、この群れの士官たちが徐々に集まってきて、ピッツィゲットーネ、フォルミガーラの様子などを問う。

「お前たちも、橋が空中に飛んだのを見たか。実に美しかった。大砲が一度に二千発も鳴ったかと思った。そのあたりにいた兵卒らの憐れなことよ」

と大尉が言う。

伯が言う。

「恐ろしいさまだったが、味方の兵には怪我人はいなかった。かえって敵の兵卒らこそ、ともに空中に飛ばされたろう。許せ、君らはあまりにゆっくり歩ませているので、俺は一鞭加えよう。俺の鐙(あぶみ)から落ちる水は、馬の全身を洗うのに足りないほどだ」

「俺たちが乾いていると思うか」

と軽騎兵士官は笑って答えた。

「しかし、お前の言葉にも道理がある。行け、急いでプステルレンゴに着き、俺たちのために宿舎を探しておけ」

「さらば」

伯はプステルレンゴに向かうとき、昔の一夜の記憶があって、夢心地に惹かれるようだ。

心中に思うのは、わざわざ来るようなところでないのに、この戦がまた俺を引っ張ってあそこへ行かせようとする。

この夜を明かすのは、あの人の家かも知れない。

雨が小止みにもならず降るから、駅舎の前で馬から下り、家に入って、驚いた娘に言おう。

「もう四年経ちました。また来ることは、あなたの教えに背くようですが、戦の最中なのでお許しください」

と。

娘はこれを聞いて必ず笑うだろう。

また思うに、本営も駅舎にあって、多くの士官があそこに住んでいるかもしれない。

ならば、テレシナはひそかに昔なじみのために、奥の小部屋を開いて貸すこともあるだろう。

この部屋は、葡萄が繁っていたあの庭に向かっているだろうか。

娘の姿は今どうなっているだろう。

少し太ったか。

目は昔よりも物恋しげに見えるだろうか。

こう思いながら、伯は砲兵と車輪の間を通り抜けた。

車を御する兵卒は不興げな顔つきをして端綱を引き、高級下級の多くの士官が、皆外套をしっかりまとって、通り過ぎるフザール士官を見ようともしない。

語る者もなければ笑う者もなく、聞こえるのは、馬が鼻を鳴らす音と車輪の鎖が擦れ合う響きだけだ。

車を引いている性質の悪い馬に引っかけられて車輪の間で圧されまいと、伯は気をつけて馬を御している。

橋を渡って長い歩兵の縦列を通り越した。

激しい雨に打たれて気の毒な様子で歩いている。

この群れを通り抜けようとするのは、かえって砲兵などより難しかった。

列の先頭の士官に礼をして、一、二語を交え、少し進むと、目前にようやく一筋の空路がある。

(つづく)

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