森鴎外「ふた夜」 4
後の夜(一八四八年)
騒がしい蒸気船、数多い商船もなく、魚の群れが波に戯れて、深い砂原を横切っては岩石の間を過ぎ、また潅木が散在する緑濃い沃野を貫き、ロンバルディアの平地を流れる清く静かなアッダ河は、今年八月一日に、驚くべき、また楽しむべき珍しいドラマが両岸で演じられるのを見た。
このフォルミガーラに近い流れのほとりに立ち、今や勝ちに乗じたラデツキー将軍は、急いで一本の橋を架けようとしている。
今まさに破竹の勢いがあるオーストリア勢に、立つ足もなく追い立てられて逃げていく敵の縦列は、この橋を渡るだろう第一、第二の両軍団に遭遇して、片方の車輪でも残すことができるだろうか。
ピエモンテの将官たちは、わずかに警固を立てているだけだ。
わずかに数中隊の兵卒を放って、勝ち誇っている敵兵に向かわせただけだ。
このイタリア勢は敵の様子を眺めただけで、まだ戦わないうちに乱れた。
もとは戦に慣れて強く荒々しい名を負った隊も、白い線を見ては背を向け、鷲の章を見ては敗走して、踵に追いつこうとする敵の刃を逃れようとばかりに焦っている。
騎兵は張った陣形を崩し、砲兵は引く車の音も轟々とその場を逃れ、歩兵の縦列は瓦のように砕けた。
兵卒の中には、横ざまに野原に入って避けようとして自分の士官に追いつかれ、また敵に向かうよりは馬の蹄に襲いかかろうと、地にひれ伏して無聊をかこつ者もいた。
斜めに傾いているアッダの岸は、このときたいそう面白い一幅の戦図に対した。
野に満ちた兵はさまざまな兵種に属し、ときおり群雲の間を洩れて熱い光線を射落としている陽は、無数の機械、銃身、軍服の金銀に当たって砕け散っている。
楽しそうにあちらへ寄せ、こちらへ返す兵士の群れ、砲兵はその砲車の傍に立ち、幟騎兵、フザール、竜騎兵は馬のくつわを取り、歩兵の隊はあちこちの砂の上で休憩し、中には背嚢を下ろし、銃を組み立てている者も見える。
この間を通って、架橋の材料を川のほうへと運ぶ者がいる。
この面白そうな群れの中を辛くも抜けて、軍令を岸辺に伝えようとするのは、色とりどりの軍服を着ている伝令である。
岸で激務の最中にあるのは架橋隊である。
積んで来た材料を降ろしては水に浮かせ、鉤を打っては繋ぎ合わせる。
その早いことは喩えようがない。
見る見る橋は長さを増して中流に向かっていく。
そうして一つの材料を繋ぎ終わるごとに、士卒は「フルラー」の声を張り上げてこれを祝し、後ろの方までこの声を伝えて応じ合う。
この忙しさはなぜか、河の架橋隊がこれほど常にない力を出すのはなぜかと問おうと思うなら、休憩している士卒が見ている方を見るがよい。
彼らの多くはアッダ河の中の繁忙な事業を見ずに、岸辺の小高い岡の上だけを見ている。
多くの連隊の士官は皆あそこにいる。
指令を岸辺に伝える伝令は、あそこから来ている。
下の架橋隊の使いも、後ろから進む隊の使いも、皆あそこへ行く。
岡の上にいる士官は大抵馬に跨って、大きな半円形をなしている。
その中心と見えるところに、一人の小柄な男が立っている。
灰色の将官服を着て、右手を腰に当て、左手に剣と帽子を持っている。
この人は馬から下りて、いま親しく誠意ある眼差しで、河岸と橋の上の群れを見下ろしている。
そうして、あるときは一人の士官に向かって何やら語り、あるときはまた下にいる士卒たちを手招きする。
この手招きには、下にいる士卒が必ず高く「フルラー」と叫び、「エヴィワー」と叫び、「エリエン」と叫んで答えている。
この白髪頭の小柄な男は誰か。
これが士卒に父と呼ばれるラデツキー将軍であった。
今やピエモンテの兵を一歩一歩と追いまくって、このロンバルディア平原まで来た。
その力は計り知れない。
その罰はたいそう恐ろしい。
ミラノは彼が近づくのを聞いて、震え恐れるばかりだ。
この都市は、ある忌まわしい夜に彼を見くびったことが、かえって気がかりなのだ。
将軍の傍にいる士官の群れは、思い思いの姿勢をしていた。
望遠鏡で河の向こうを見る者がいる。
自分の馬に寄りかかって、過ぎた日のことなどを語り合い、またミラノの都市がどのように自分たちを迎えるだろうかと噂している。
午後四時頃に橋は完成した。
今までより高い「フルラー」の声が聞こえる。
将軍は馬に跨った。
全軍が立ち上がった。
今まで散り乱れていた士卒は、ここに集まり、あそこに群れをなし、縦列となり、中隊となり、大隊となった。
伝令は東西南北に走り、すれ違って、先に指令を受けた隊は、もう橋のほうへと歩み寄る。
晴れがましい一瞬だ。
それぞれの連隊の楽手は、国歌を吹奏し、今まで混沌としたありさまを見せた河岸には、隊伍が並び立った軍が見える。
歩兵、騎兵、砲兵、工兵が順を追って進んでいる。
夢を見ているようだった。
この五色が入り交じった群れは、鉄、ブロンズ、黄金、白銀、この色とりどりの印章が列を正して、長蛇の形をなし、次第に延びて橋の上に横たわり、すでに末は遠く、向こう岸の野辺に繰り出した。
楽器がカラカラと鳴り、軍歌の声がこれに混じって遠方まで聞こえる。
すでにこちらの岸にある色の種類は、だんだん淋しくなって、橋を渡っているのは数限りない車だ。
次いで将軍がその本部とともに渡る。
こちらの岸に残ったのは、最後尾をなす一、二の隊伍だけだ。
騎兵二、三中隊に砲兵が少し混じっている。
いま軍隊が立って行く川岸に一軒の小屋がある。
主人は船頭であるが、酒の販売業も兼ねている。
アッダ川がときおり増水するのを避けようとしてか、家を階段の上に建てている。
主人の住む部屋のほかには、ただ川に向かって階段に臨んだ酒席があるだけだ。
その小さく軽い様子を想像してみよ。
この階段の上のほうは、廊のように張り出している。
その大小さまざまな材木を組み合わせている様子は、例のイタリア風で、確かに軽率に、確かに条理なく見えて、かえって確かに雅趣があると思われる。
繁った山葡萄の葉が、この廊を覆って材木にまとわりつき、木の端のところには、うねりを見せている蔓が垂れて、風に揺られ、あちらこちらへなびいている。
この美しい自然の屋根の下で、粗末な木のテーブルを前にした二人の若い士官がいる。
質朴に作った藁椅子の上に座を占めて、代わる代わる藁で巻いたフォリエッタ(瓶)を取り、グラスに注いでいる。
二人の馬は、従者たちに守らせて廊の下にいる。
このあたりには、まだ渡り残っている士卒の群れが多い。
ここに階段の端に腰かけて数頭の馬のたづなを取っているフザール卒がいれば、あそこに鞍の締め緒をあれこれと結ぶ竜騎卒がいる。
また軽騎兵卒が自分の馬の背に両肘をついて、片手に飲みさしの酒のグラスを取り、友に与えようとする者もいる。
傍では、歩兵と騎兵の士官が行きつ戻りつ、今日はまだ進行すべきか、ここで露営すべきかと話している。
銃を膝に乗せて地面に座っている歩卒がいる。
その間に重そうな熊の皮の帽子を傍に置いて、休憩しているのは榴弾卒だ。
また地面に匍匐してあごを支え、銃を傍に置いているのは猟兵卒だ。
空樽の上にうずくまって緩やかに進撃の譜面を練習する楽手は、前回の戦を思うのだろうか。
またこの家から遠くないところで、榴弾卒が取り巻いて警備しているのは、捕虜となったピエモンテ人だ。
この一幅の絵画は、なお牛に引かせた一群れの車によって補足される。
これは酒樽を載せて大隊の後ろに続くものである。
騎兵の馬は身震いしていななき、川のあちらからは切れ切れになって軽い太鼓の音、楽隊の手すさびが聞こえる。
またときには後ろの方から、ラッパの音、兵卒の歌う声、高笑いする声が聞こえて、牛の群れより高く吠える声がする。
廊に座った二人の士官は、フザール隊の大尉と軽騎兵の中尉だ。
中尉はいま、常に剣に添えて持っている巻煙草入れの革袋を外そうとしている。
二人の服は砂にまみれている。
二人は重い剣、チャコ帽、カルツッシュを身につけている。
兜と革袋は傍のテーブルの上にある。
「まずここまでは漕ぎつけた。わが家の鴨居の下までもう来たのだ。あの老人が今夜勢いよくこの扉を叩くさまが思いやられるな」
と河のあちらを見ながら、フザール士官が言う。
軽騎兵仕官が答える。
「カルロ・アルベルトはミラノまで後退すると聞く。あそこで一合わせ存分に戦いたいものではないか」
こう言いながら、彼は煙草を吸いつけた。
「一合わせ? そんな快いことがあるものか。砲兵の列を少し見せ、一枚の檄文を飛ばし、民衆を少し狂い回らせ、それで事は終わるだろう。俺が思うに、二、三日以内に、この一行は教会の前の大通りを行くことだろう。奴らはどんな顔をして、『神よ、大君を守りたまえ』という歌を唱えるか。俺の楽しみは、これを見ることだけだ」
とフザール士官は言う。
「それは一つ残らず面白い。ただ残念なのは、奴らが俺たちのミラノのホテルを住み荒らしたことだ。俺の美しい武器はどこにある。俺の銀の器は?」
友は笑って、
「銀の器は代わりを買うのもたやすいだろう。惜しいと思うのは、俺の長椅子の上に掛けていたユリエッタ嬢の写真だ。奴らの粗暴者が、この写真の本人を知って、オーストリア士官に馴染んだのを憎むあまり、酷く責めたかもしれない」
と軽騎兵士官は軽く答える。
「彼女らは、あの恐ろしい五日間を落ち延びただろう。猟隊の友人が、いろいろと混じった車の列に、泣き叫ぶ娘やトランクの山を載せていくのを見たと言うのを聞いたから」
この会話は階段の下から呼ぶ一声で絶たれた。
二人が席から飛び上がって外を見ると、青い羽を刺している低い帽子をかぶった年若い士官が、兵卒の群れを抜け、こちらへ向けて静かに馬を歩ませている。
「よく来たな、参謀本部付き」
とフザール士官は顔が見えるほどになったときに叫んだ。
「どこから来た。本営に行くのか。しばらくここに上がって一休みしろ」
参謀士官は馬を下り、たづなを下に立っている竜騎卒に渡し、階段を上ってきた。
「長く会わなかったな。ヴェローナ以来と思うがどうだ。いま何をしている?」
と来た人が面白そうに言う。
「この面倒な河を越す番が巡ってくるまで、根気よくここで待っている」
と軽騎兵士官は答える。
「どうだ、参謀士官よ。お前は河越えの指令を持って来ていないか」
こちらは笑って、
「まずそれに似たことだ。しかし、越すのは今日ではない。お前たちは腹を決めてここに残ることになるだろう。お前たちの酒も悪くは見えない。我慢のできないことはあるまい」
「つまらん」
とフザール士官はつぶやいた。
「俺たちは四日このかた後へ後へと残って、馬の尾ばかり見ているのだ。打ち込む楽しみには長く会わない」
参謀士官は笑って、
「今あそこを進んでいく奴らも、別に面白い目に会うわけではない。俺たちは馬の尾を見るが、大砲の口も見る。ただ距離がたいそう遠いだけだ」
「ところで、俺たちは本当に今日ここに留まるのか」
と軽騎兵士官が聞く。
「お前たちはここに残ることになるだろう。しかし、俺はまだ本営から一仕官が指令を伝えに来るのを待っている。見ろ、あそこの橋を渡ってくる人はいないか」
と言いながら、参謀士官はその望遠鏡を挙げて川を見た。
「間違いない。フザール士官だ。きっと伝令使に違いない。そのうえ見間違いでなければ、俺たちの仲間の伯爵士官だ。見ろ、彼が条例に背かず、並足で橋を渡ろうとたずなを引く様子を。そうだ、そうだ、奴だ。もうこちらの岸に来た。馬が岡を登ろうとしている」
こうして待たれたのは、まさしく伯爵士官だった。
彼は岡を登ってきて、酒屋の前を横切ろうとする。
「チャオ」
と彼は喜ばしく声をかけた。
階段の上にいる三人を見てまた、
「うれしいことだ、お前たち三人を一緒に見るとはな。将軍はどこだ。伝え終わったら、またここに来よう。酒を一杯残しておけ」
こちらのフザール士官が言う。
「右へ曲がって数千歩馬で行け。岡の上に農家がある。将軍はそこにいる。もうサン・バッサーノのほうへ乗り出した後でないなら。しかし、あまり長く向こうで休むな。俺たちはまだここに留まるのか」
この言葉は、すでに伝令使の背後から響いたが、彼は振り返って、
「そうだ」
と答え、もう馬を丘陵の間に乗り入れて見えなくなった。
(つづく)
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