森鴎外「ふた夜」 3
この静かな駅舎が、今どれほど面白いところとなったか。
また、初めは怒りを帯びて見つめたこの一軒の草屋が、今どのようであるか。
もちろん、間近で見られる室内の様子は、喩えようもなく面白かった。
こう思うのは、思いがけず見たからだろうか。
少女が美しく見えるのは、真っ暗な夜を額縁として見る画だからだろうか。
このように美しい少女を見るのは今夜が初めてだと、士官は心の中で思った。
高い椅子にもたれている乙女の服は、物資が足りないようで、たおやかな体を包んでいるのは赤い上着であった。
少女の足は、毛が縮れた大きな黒い犬の背に埋もれている。
犬は乙女の顔を見上げて、あそこの旅人を襲って、飛びかかってその喉を噛むべきかと問うようだ。
少女もこの様子を見てとったらしく、もたげた犬の頭をすばやく片足で押し下げたので、犬は目をつむって尾を振った。
この様子をすべて見ることは、伯にはできなかった。
まして、彼の目は乙女の上半身に注がれて、美しい頭、長いうなじ、黒い結び髪が解けてかかった間から輝き出ている白い肩を見ている。
少女の膝の上にいた子どもは眠ろうともしていなかったので、人が近づいたのを見ると、またすっかり目を覚まし、大きくみはった目を光らせ、士官の金で飾った帽子と紐がついたアティラという軍服を見つめている。
「では、あなたもここで馬を待とうとしていらっしゃるのね。ここではこういう目に遭う人が多いのです。父が持っている馬の数はとても少ないので。けれど、父もこの利益のない駅路で馬の数を増やそうとは思っていません。この駅路の利益を、ローディとピアチェンツァで占めるのはどうしようもないのです。母がいましたときは、酒屋を開いていましたが、今はありません。父は言います、この膝の上のチェッコーが大人になるまでは、何も拡げようと思わない、もし婿がするならともかくと」
「婿とは、どのような人ですか」
と士官が聞いた。
少女は面白そうに笑って、
「婿には、このテレシナの婿には、誰がなるんでしょう」
「テレシナとは、誰の名ですか」
「私の名です」
と言って微笑みながら、伯が燃えるような目で見つめたのを見て、下を向いた。
「そうです。この家を興し、駅舎も拡げるのはこの子でなければ」
と言いかけて、指を黒い髪の間に差し入れた。
「この子でないなら、婿でしょう」
こう言って、少女は美しさを表して頭を高くもたげた。
「その婿はもう決まっているのですか」
と伯が微笑みながら聞く。
「誰の婿? 私の?」
少女は笑った。
「思いもよらないことだわ。婿となる人は、私が愛する人でないとなりません。私がこの子を愛するように愛する人でなくては。でも、本心から人を愛したことはまだありません」
「では、テレシナ、どんな男も本心から愛すまでには心に留らなかったというのですか」
と伯は聞いた。
「いいえ」
と答えながら、少女は肘を窓に掛けた。
このとき、少女の体に隠され、子どもには帽子と軍服の紐が見えなくなったので、彼は声を張り上げて泣き出した。
これをなだめようと、伯が体を窓の中に差し入れたので、子どもは帽子に手を触れることができて泣き止んだ。
少女は支えている肘を引っ込めようともせず、頭も白い肩も胸のあたりも前に傾いている。
「あなたの父はプステルレンゴの人を婿にするつもりですか、あるいはローディの商人ですか」
と伯は聞いた。
少女は急に表情を改めて、
「いいえ、ピアチェンツァの駅長の息子ではないでしょうか。彼が理由もなく父のもとに来たことが何度あったか。父は気に入ったようです」
こう言ったが、また声を低くして、
「でも、私には少しもよいと思われません」
「その人は若くないのですか、美しくないのですか」
と伯は笑いながら聞く。
少女はあたりを見回し、恥ずかしそうな表情で、
「若くも美しくもありません。邪悪な性格で、うそが多いのです。彼を愛するなんて思いもよりません。もし彼を夫とするときには、私の若い命は捨てたも同然です。人が言うのを聞くと、愛がなくて結婚することほど、悲しいものはないというから」
「では、愛して夫婦にならないのが、かえってよいでしょう」
と伯が言う。
少女は顔を上げて、その顔を見て、
「よいとは思いませんが、面白いでしょうね」
ここでしばらくこの珍しい会話は途絶えた。
この間、いよいよ強く、いよいよ嬉しそうに鳴くのは、鶯だけだ。
士官は窓の高さを胸中で計って、音を立てずに中に入れないものかと思うようだった。
少女はその様子を察したのだろう、指で厩のほうを指し、
「音を立てないでください。老いたピエトロが耳ざといので。このように開いた窓で、長くあなたと語るのさえ後ろめたいのに」
こう言いかけて、光のある目を大きく開いて士官の顔を見ている。
「でも、どうしてかわかりません、あなたと語ることが他の誰より楽しいのは」
「駅長の息子と語るより楽しいと?」
「そうです。比べようもないわ」
「では、その人よりも私と愛し合って、私の妻となることをお望みになりますか」
と言いながら、伯は窓から白く美しい腕を取った。
「終わりにおっしゃったことは、あなたが士官でいらっしゃるので所詮かないません。また、初めにおっしゃったことも、明日の朝、千里も遠くに去ってしまわれるあなたとでは無理だわ」
「では、ここに留まったら」
「どうしてそんなことがあるでしょう。あなたは戯れにおっしゃるのでしょうけど。でも、本心からおっしゃっても、父が帰れば、ローディ、ピアチェンツァなどを勧めるはずですから、いずれにしても、ここにはお留まりにはなれないでしょう」
こう言って少女は腕を引っ込めたが、温かい指先まで引いたとき、伯はこれを放そうとしなかった。
少女もまた強いて引っ込めようとはしなかった。
少女の心は妖しくなった。
ああ、このようなことは血の温かい若者の間には、例が少なくない。
一時間前までは、一人の胸が生きて波立っているのを、一人は知らずにいたのに、ふと一目見て、また一言二言交わして、互いに離れがたく思うのは、妖しい限りではないか。
伯は今年十八歳だ。
彼の血は熱い。
手に取った少女の指先が震えているのを何度か唇に当てた。
これをこののどかで穏やかな夜、花の香り、鶯のさえずる声も、少しばかりは仲立ちしただろう。
ああ、この鶯という痴れ者め。
「私の心がどれほど楽しいかお思いください。どのような神が私をここにしばらく留めたのか」
「私も飛び立つように嬉しいわ。でも、どうしてかわかりません。笑おうとする気持ちはなく、かえって泣きたいのをどうしたらいいのでしょう」
少女がこう言って頭を腕の上に垂れると、額が伯の手の上に来た。
伯はかがんで、唇をうなじのあたりに当てた。
このとき、この小さな世界には三人の喜びが満ち満ちていた。
二人は言うまでもなく、少女の膝の上のバンビーノは、長い間、士官の帽子に付いた黒と黄に染め分けた紐に手をかけて取ろうとしていたが、このとき引きちぎることができ、嬉しそうに高く笑った。
恋する二人は、これに気づかない。
伯は伏せた少女の頭を軽く押して横に向かせ、熱い唇を額に当てた。
このとき、静かな夜を破って、面白そうに吹くラッパの音が聞こえた。
あたりがひっそりとしているとき、このような音が急に聞こえるのは、人に不思議な感じを起させるものだ。
少女は飛び上がって耳をそばだてたが、
「父よ」
と一声叫び、また言葉を継いで、
「でなければ、郵便馬車でしょう。さようなら、恋しいあなた。あなたがここにいらっしゃるのを人に見られてはよくないわ」
こう言って抱いた子を犬の傍に下ろし、体を伸ばして胸から上を窓の外に出し、手で士官のうなじを抱いて、
「許して、あなた。聖母マドンナもお許しください。またお会いするあなたではない。またお会いすることも願わないあなたです。またお会いしたら、私はどれほど恥ずかしいでしょう。でも、またお会いしないあなただから言うわ。私のあなたを愛する心がとてもとても深いことを」
「では、あなたにキスするからといって、誰が咎めましょう。このように。いま一度、もう一度」
「マドンナよ、彼をお守りください。さあ、早くお行きになって」
士官は恍惚のうちに、三度少女が燃える唇を当てたのを感じた。
少女はそっと士官の手をすり抜けて、手早く窓の戸を閉め、ランプを吹き消した。
ラッパの音は次第に近くなり、蹄の響きも聞こえる。
すでに厩の前に止まった馬が鼻を鳴らすのが聞こえる。
そのとき、家の隅から黒い人影が見えた。
従者が主人を尋ねてきたのだ。
伯は思い沈みながら、従者について歩み去った。
彼は手を額に当てて、夢ではないかと思ったが、あの熱い唇は今も燃えるような心地がする。
彼は、長い旅路でこの瞬間の奇遇を忘れようとするときもあったが、そのたびごとにあの唇を思い出すので胸の底まで温かくなり、あの春の夜を思い出し、あの駅舎を思い出して、自分がまた閉ざされた窓の中を覗いて茫然としたようになった。
厩ではいま帰った馬を拭って馬草を与え、また車の前につないだ。
従者が主人に尋ねる。
「帽子は車の中に置いていらっしゃったのですか。途中で落とされましたか」
伯は笑って、
「車で眠ったときに落ちたのだろう。新しいのを取り出せ」
と言った。
伯はピアチェンツァに留まって、この奇遇のなりゆきを見ようかと思ったが、別れる時に少女が表情を改めて、「またお会いしたら、どれほど恥ずかしいでしょう」と言ったことを思い出しては、これもよくないと諦めて旅立った。
それでもなお、途中からローディかミラノへ帰って、様子を探ろうかと思ったこともあったが、あの少女は愛すべく、敬うべき人なので、それでは彼女を傷つけるだろうかと自問自答して、自分は先の夜に得た三度のキスのみで強いて満足するようにし、その先の望みを抑えた。
ローディの御者は交代する男に向かって、
「ここで失った時間を取り戻せよ」
と勧めた。
伯はまた車に飛び乗り、従者はまた向かいの席を占め、馬はあらん限りの力を出して暗夜を進んだ。
御者はこのとき一声ラッパを吹いたが、この音、この曲は、先に窓の下で聞いたものと変わらない。
少女は今どうしているだろうか。
寝床にいてこれを聞き、涙で枕を濡らしているだろうか。
ああ、思えば、少女は今夜だけでなく、明日もあの窓に座ってこの音を聞き、慕わしげに窓に対している丘を眺めるが、ここから降りてくる人はいないだろう。
少女は同じ土地に留まって、同じ場所を眺めるのだろう。
膝の上の子どもは、まだ何週間か私の帽子を持って遊んでいるだろう。
父はまた少女の嫌うピアチェンツァの駅長の息子を家に伴うのだろう。
少女の心の苦しみは、果たしてまさにこのようであった。
それよりはかえって安らかだったのが伯の身の上である。
次の日の早朝にはボローニャに着き、ここからフィレンツェ、ローマ、ナポリを見て、パリで遊んだ。
しかし、これらの都会がこの上なく楽しいときも、他に比べるものがない景勝に対しても、また贅沢を極めた宴に臨んでも、伯の心中には淋しい駅とテレシナの姿が留まっているのだった。
(つづく)
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