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泉鏡花「義血侠血」 7

   七

公判は予定の日に金沢地方裁判所で開かれた。

傍聴席は人が山をなして、被告及び関係者である水島友は、弁護士や看守を助ける下級役人らとともに控えて、裁判官の着席を待った。

ほどなく正面の戸をさっと開いて、長身の裁判長が入って来た。

二名の陪席判事と一名の書記とがこれに続いた。

法廷内は静まり返って水を打ったようなので、その靴音は四方の壁に響き、天井にこだまし、一種の怖ろしい音となって、傍聴人の胸にとどろいた。

威儀おごそかに彼らが着席したとき、正面の戸が再び開いて、高潔な気配を帯び、秀でた容貌を備えた司法官が現れた。

彼はその麗しい髭を捻りながら、ゆったりと落ち着いて検事の席に着いた。

謹んだ聴衆を容れた法廷では、室内の空気は少しも熱くならず、人々は奥深い静かな谷の木立のように群がっている。

制服をまとった判事と検事とは、赤と青とカバーの異なるテーブルに別れて、一段高い場所に居並んだ。

初め判事らが出廷したとき、白糸は静かに顔を上げて彼らを見ながら、臆した様子もなかったが、最後に現れた検事代理を見るやいなや、顔色が蒼ざめ、体が震えた。

この優れた司法官は、実に彼女が三年の間、寝ている間も忘れなかった欣さんではないか。

彼はその学識と地位によって、かつて御者であった日の垢や塵を洗い去り、今ではその顔はたいそう清らかで、その眉はひときわ秀でて、驚くばかりに見違えているが、紛うはずもない、彼は村越欣弥である。

白糸は初め不意の再会に驚いていたが、再び彼を熟視するに及んで我を忘れ、三度彼を見て、憂いに沈んで首を垂れた。

白糸はあり得るはずもないほどに意外な思いをしていた。

彼女はこのときまで、一人の頼もしい馬丁(べっとう)として、その心の中で彼を思い描いてきた。

まだこのように畏敬すべき者になっていようとは知らなかった。

ある点では、彼を思うままにできるだろうと思っていた。

しかし、今、この検事代理である村越欣弥に対しては、その髪の毛一本さえ動かせる力が自分にないのを感じた。

ああ、闊達豪放な滝の白糸!

彼女はこのときまで、自分が人に対して、こうまで自分の意志が通せないものとは思わなかったのである。

彼女はこの憤りと喜びと悲しみに挫かれて、柳の枝が露でうつむいたように、哀れにしおれて見えた。

欣弥の視線は、密かに始終、恩人の姿に注いでいる。

彼女は果たして、三年前に天神橋の上で、月明かりの下で、肘を握って壮語し、虹のように気を吐いた女丈夫なのか。

その面影もなく、ひどく彼女は衰えたものだ。

恩人の顔は蒼ざめている。

その頬はこけている。

その髪は乱れている。

乱れた髪! あの夕べの乱れた髪は、実に活発な鉄火を表していたが、今はその憔悴を増すだけであった。

彼は思った。

闊達豪放の女丈夫!

彼女は瀕死の病床に横たわろうとも、決してこのような衰えた姿を見せないはずだ。

烈々とした彼女の心の中で燃える火はすでに消えたのか。

どうして彼女が冷たくなった灰のようなのか。

欣弥はこの姿を見るなり。不覚にもむやみに憐れを催して、胸も張り裂けるばかりだった。

同時に彼は自分の職務に気づいた。

私情で公務を疎かにはできないと、彼は拳を握って目を閉じた。

やがて裁判長が被告に向かって二、三の尋問をしたのち、弁護士は出刃打ちの冤罪をすすぐために、よどみなく数千語を連ねて、ほとんど余すところがなかった。

裁判長は事実を隠蔽しないように白糸を諭した。

彼女はあくまで盗難にあった覚えのない旨を答えて、黒白は容易に判別すべくもなかった。

検事代理はようやく閉じていた目を開くとともに、うちしおれてうなじを垂れている白糸を見た。

彼はそのとき一段と声を高くして、

「水島友、村越欣弥が・・・本官が改めて尋問するが、包み隠さず事実を申せ」

友はわずかに顔を上げて、額越しに検事代理の表情を窺った。

彼は情け容赦のない司法官の威厳のある態度で、

「そのほうは、まったく金を盗られた覚えはないのか。偽りを申すな。たとえ偽りを以って一時は逃れても、天知る、地知る、我知るで、いついつまでも知れずにはおらんぞ。しかし、知れるの知れないのと、そんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名高い芸人ではないか。それが、かりそめにも偽りなどを申しては、その名に対しても実に恥ずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。また、そのほうのような名高い芸人になれば、ずいぶん多くの贔屓(ひいき)もあろう、その贔屓が、裁判所でそのほうが偽りを申し立てて、そのために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸は天晴(あっぱれ)な心がけだと言って誉めるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日限り愛想を尽かして、以後は道で会おうとも唾もしかけんな。しかし、長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯千万な偽りの申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」

こう諭していた欣弥の声音には、その平生を知っている傍聴席の彼の母だけでなく、司法官も聴衆も、自ずからその異常な様子を聞きとれたのである。

白糸の憂いに沈んだ目は、急に清らかに輝いて、

「そんなら、事実を申しましょうか」

裁判長は穏やかに、

「うむ、隠さずに申せ」

「実は盗られました」

ついに白糸は自白した。

法の一貫目は情の一匁なのか、彼女はその懐かしい検事代理のために喜んで自白したのである。

「何? 盗られたと申すか」

裁判長は軽くテーブルを叩いて、厳しい表情で白糸を見た。

「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が私を手ごめにして、私の懐中の百円を盗りました」

「確かにその通りか」

「相違ございません」

これに次いで、白糸は無造作にその重罪も白状していた。

裁判長は直ちに尋問を中止し、即刻この日の公判を終わった。

検事代理村越欣弥は、私情の目を覆ってつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を重ねたこの上もない恩人を、殺人犯として起訴したのである。

やがて予審が終わり、公判を開いて、裁判長は検事代理の請求は是であるとして、彼女に死刑を宣告した。

一生他人ではいまいと誓った村越欣弥は、ついにあの世とこの世とに隔てられ、永く恩人と会えなくなることを悲嘆して、宣告の夕べ、仮住まいの二階で自殺していた。

(おわり)

泉鏡花「義血侠血」 6

   六

高岡-石動間の乗合馬車は、いま立野から福岡までの途中を走っている。

乗客の一人が煙草の火を借りた人に向かって、雑談の口を開いた。

「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、ご同様に共進会(産業の振興を図るため、産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会)でございますか」

「そうさ、共進会も見ようと思いますが、他に少し・・・」

彼は話好きらしく、

「へへ、何かご公務のご用で」

その人が髭を蓄え、洋服を着ていたので、彼はこう言ったのであろう。

官吏(?)は吸い詰めた巻き煙草を車の外に投げ捨て、次いで忙しく唾を吐いた。

「実は、明日か明後日あたり開くはずの公判を聴こうと思いましてね」

「へへえ、なるほど、へえ」

彼はその公判が何についてのものか知らないようである。

傍らにいた旅商人が、急に得意そうな我は顔で、嘴(くちばし)を容れた。

「ああ、何でございますか。この夏、公園で人殺しをした強盗の一件?」

髭のある人は、目を「我は顔」に転じて、

「そう。知っておいでですか」

「話には聞いておりますが、詳しいことは存じませんで。じゃ、あの賊は逮捕されましたか」

話を奪われた前の男も、思い当たる節があったのか、

「あ、あ、あ、ひとしきりそんな噂がございましたっけ。金持ちの夫婦を斬り殺したとかいう・・・その裁判があるのでございますか」

髭は再びこちらを振り向いて、

「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」

彼は話を釣れる器械である、彼特有の「へへえ」と「なるほど」を用いて、しきりにその顛末を聞こうとした。

乙者も劣らず水を向けていた。

髭のある人の口はようやく滑らかになった。

「賊はじきにその晩捕まった」

「恐いものだ!」と甲者は身を反らして頭を振った。

「あの、それ、南京出刃という見世物な、あの連中の仕業だというのだがね」

乙者はすぐにこれに応じた。

「南京出刃打ち? なるほど、見たことがございました。あいつらが? ふうん。いくらでもやりかねますまいよ」

「その晩、橋場町の交番の前を怪しい風体の奴が通ったので、巡査が咎めると、こそこそ逃げ出したから、こいつ胡散くさいとひっ捕らえてみると、着ている浴衣の片袖がない」

話がここに至って、甲と乙は、思わず同音に呻いた。

乗客は弁者の顔を窺って、その後段を渇望した。

甲者は重ねて感嘆の声を発して、

「おもしろい! なるほど。浴衣の袖がない! 天も・・・何とやらで何とかして漏らさず・・・ですな」

弁者はこの不完全な言葉をおかしがって、

「天網恢々疎にして漏らさず、かい」

甲者は聞くと同時に手を上げて、

「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」

乗客の多くは、この恢々に笑った。

「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩、兼六園の席貸な、六勝亭、あれの主人は桐田という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業だか、いや、それは実に残酷にやられたというね。亭主はみぞおちのところを突き通される、女房は頭に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を抉られて、倒れていたその手に、男の片袖をつかんでいたのだ」

車中は声もなく、人々は固唾を飲んで、その心を寒くした。

まさに、これは弁者の得意のとき。

「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸の側に出刃包丁が捨ててあった。柄のところに片仮名のテの字の焼き印がある。これを調べると、出刃打ちが使っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に違いないので、まず犯人はこいつと誰もが目を着けたさ」

旅商人は膝を進めた。

「へえ、それじゃ、そいつじゃないんでございますかい」

弁者はすぐに手を上げて、これを制した。

「まあ、お聞きなさい。ところで、出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、決して人殺しをした覚えはございません。奪(と)りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門は通りもしませんっ」

「はて、ねえ」と、甲者は眉を動かして弁者を見つめ、乙者は黙って考えた。

ますますその後段を渇望する乗客は、順繰りに席を進めて、弁者に近づこうとした。

彼はそのとき巻き煙草を取り出して、唇に湿しながら、

「話はこれからだ」

左側の席の最前に並んでいる、威厳のある紳士とその老母は、顔を見合わせて互いに表情を動かした。

彼は質素な黒の紋付の羽織に、節の多い絹糸で織った仙台平の袴をはいて、その髭は弁者より麗しいものであった。

彼は紳士といえるほどの服装ではなかったのである。

しかし、その容貌とその髭は、多くの男が備えることのできない紳士の風采を備えていた。

弁者はもっともらしく煙を吹いて、

「滝の白糸というのはご存じでしょうな」

乙者は頷き頷き、

「知っとります段か、富山で見ました大評判の美人で」

「さよう、そこでその頃、福井の方で興行中のあの女を呼び出して、当事者を相対させて審理に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪うときに、大方ちぎられたのであろうが、自分は知らずに逃げたので、出刃包丁も同様に女を脅すために持っていたのを、慌てて忘れて来たのであるから、たとえその二つが桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理屈には合わんけれど、奴はまずそう言い張るのだ。そこで女が、その通りだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、他にいるとなるのだ」

甲者は頬杖をついていた顔を外して、弁者の前に差し寄せながら、

「へえへえ、そうして女は何と申しました」

「ぜひお前様に逢いたいと言ったね」

思いも寄らない弁者の冗談は、大いにその場の笑いを博した。

彼も仕方なく笑った。

「ところが、金を盗られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも盗ったと言う。泥棒のほうから盗ったというのに、盗られたほうでは盗られないと言い張る。なんだか大岡裁きの本にでもありそうな話さ」

「これには大分わけがありそうです」

乙者は首を捻りながら、腕を組んだ。

例の「なるほど」は、話がますます佳境に入るのを楽しんでいる様子で、

「なるほど、これだから裁判は難しい! へえ、それからどういたしました」

傍聴者は声を出すのを止めて、いよいよ耳を傾けた。

威厳のある紳士とその老母は、最も静かで行儀正しく、死んだように黙っていた。

弁者はなおも言葉を継いだ。

「実にこれは水掛け論さ。しかし、とどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでから、この公判までにはだいぶ間があったのだ。この間に出刃打ちの弁護士は非常に苦心して、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、ここ一番と腕を揮って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手ぐすねを引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」

甲者は例の「なるほど」を言わずに、不平の色を表した。

「へえ、その何でございますか。旦那、その弁護士という奴は出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女になすろうって企みなんでございますか」

弁者は彼の無分別を笑って、

「何も企みだの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」

甲者はますます不平に堪えなかった。

彼は弁者を睨んで、

「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つってえことがあるもんですか。相手は女じゃありませんか。可哀そうに。私なら弁護を頼まれたって何だって構やしません。お前が悪い、ありのままに白状しな、と出刃打ちの野郎を極め付けてやりまさあ」

彼の鼻息はすこぶる荒々しかった。

「そんな弁護士を誰が頼むものか」

と弁者はのけぞって笑った。

乗客は、威厳のある紳士とその老母を除いて、ことごとく大笑いした。

笑い止む頃、馬車は石動に着いた。

車を降りようと弁者は席を立った。

甲と乙は彼に向かって慇懃に一礼して、

「お蔭さまで面白うございました」

「どうも旦那ありがとう存じました」

弁者は得意そうに、

「お前さん方も暇があったら、公判に行ってごらんなさい」

「こりゃ、芝居より面白いことでございましょう」

乗客は慌ただしく下車して、思い思いに別れた。

最後に、威厳のある紳士がその母の手を取って助け降ろしながら、

「危のうございますよ。はい、これからは人力車でございます」

彼らの入った発着所の茶屋の入口に、馬車会社の老いた役員が佇んでいる。

彼は何気なく紳士の顔を見ていたが、急に我を忘れて、その瞳を凝らした。

そのまま近づいてきた紳士は帽子を脱いで、ボタンが二ヵ所失われた茶羅紗のチョッキに、水晶の小さな印をぶら下げたニッケルメッキの鎖を掛けて、柱にもたれている役員の前で頭を下げた。

「その後はご機嫌よろしゅう。相変わらずお達者で。・・・」

役員は狼狽して姿勢を正し、奪うかのようにその味噌漉しの形をした帽子を脱いだ。

「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから似ているとは思ったけれど、えらく立派になったもんだから。・・・しかし、お前さんも無事で、そうしてまあ、立派になんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして、勉強してきたのは法律かい。法律はいいね。お前さんは好きだった。好きこそ物の上手なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に・・・うん、検事代理というのかい」

老いた役員は我が子の出世を見るかのように喜んだ。

当時の紺無地の腹掛けは、今日、黒の三つ紋の羽織となった。

金沢裁判所新任検事代理、村越欣弥氏は、実に三年前の御者台上の金公であった。

(つづく)

泉鏡花「義血侠血」 5

   五

水が澱んで油のような霞ヶ池の水際に、生死不明で倒れている女性がいる。

四肢を弛めて地面にひれ伏し、身動きもせずにしばらく横たわっていたのが、ようやく首を動かして、がっくりと頭を垂れ、やがて草の根を力におぼつかなくも起ち上がって、よろめく体を傍らの根上がり松でやっと支えている。

その浴衣はところどころ引き裂け、帯は半ば解けて脛が露わになり、高島田は面影を留めないほど崩れている。

これこそ、盗難に遭った滝の白糸の姿である。

彼女は今夜の演芸を終えた後、連日の疲労が一時に出て、楽屋の涼しい所でまどろんでいた。

一座の連中は早くも荷物を取りまとめて、「さあ、引き払おう」と夢の中の太夫に呼びかけていたが、彼女は快眠を惜しみ、一足先に行けと夢うつつのうちに言い放って、再び熟睡した。

彼らは豪放な太夫の平生を知っていたので、彼女の言うままに捨て置いて立ち去ったのである。

しばらくして白糸は目を覚ました。

この空き小屋の中でうたた寝した彼女の懐には、欣弥の半年の学資が収められていたのである。

しかし、彼女は危ないところだったとも思わず、昼の暑さに引きかえ、涼しい真夜中が静かなのを喜びながら、福井の興行主が待っている旅宿に行こうと、ここまで来たところに、ばらばらと木陰から躍り出た数人がいる。

これが皆、屈強の大男で、いずれも手拭いで顔を覆ったのが五人ほど、手に手に研ぎ澄ました出刃包丁を引っ提げて、白糸を取り巻いた。

気性のしっかりした女ではあるが、彼女はさすがに驚いて立ち止まった。

狼藉者の一人が、だみ声を潜めて、

「おう、姉さん、懐の物を出しねえ」

「ジタバタすると、これだよ、これ」

こう言いながら、他の一人がその包丁を白糸の前で閃かせると、四挺の出刃も一斉にきらめいて、女の目を脅かした。

白糸はすでに自分が釜中の魚で、死の危機が迫っていることを覚悟した。

気持ちは少しも屈さないが、力が及ばないのはどうしようもない。

前進して敵と争うことはできず、後退して逃げることも難しい。

平生の彼女はかつて百円を惜しんだことがない。

しかし、今夜懐にある百円は、普段の千万円に値するもので、彼女の半身の生血ともいうべきものである。

彼女は何物にも換えがたく惜しんだ。

今ここでこれを失えば、ほとんど再びこれを得る方法はない。

しかし、彼女はついに失わざるを得ないのだろうか、豪放闊達の女丈夫も途方に暮れていた。

「何をぐずぐずしてやがるんで! さっさと出せ、出せ」

白糸は死守しようと決心した。

彼女の唇は黒くなった。

彼女の声はひどく震えた。

「これはやれないよ」

「くれなけりゃ、ふんだくるだけだ」

「やっつけろ、やっつけろ!」

その声を聞くと同時に、白糸は背後から組み付かれた。

振り払おうとする間もなく、胸も押し潰されるばかりの羽交い絞めにあった。

すぐに荒くれた四つの手は、乱暴に彼女の帯の間と内懐とをかき探した。

「あれえ!」と叫んで救いを求めていたのは、このときの血を吐くような声であった。

「あった、あった」と一人の賊が叫んだ。

「あったか、あったか」と両三人の声が応えた。

白糸は猿ぐつわをはめられ、手も足も地面に押し伏せられた。

しかし、彼女は絶えず身をよじって、跳ね返そうとしていたのである。

急に彼らの力が弛んだ。

すかさず白糸が起き返るところを、はたと蹴り倒された。

賊はその隙に逃げ失せて行方が知れない。

惜しんでも惜しんでも、なお余りある百円は、ついに還らないものとなった。

白糸は胸中に湯が沸くように、火が燃えるように、さまざまな思いが募るにまかせ、無念で仕方のない松の下蔭に立ち尽くして、夜が更けるのも忘れていた。

「ああ、仕方ない、何事も運命だと諦めるのだ。何の百円ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう ?! 」

彼女はひしと我が身を抱いて、松の幹に打ち当てた。

ふと傍らを見ると、広々とした霞ヶ池は、霜が降りたようにほの暗い月光を宿している。

白糸のまなざしは、その精神の全力を集めたかと思うほどの光を帯びて、病んだような水面を睨んだ。

「ええ、もう何ともいえない嫌な気持ちだ。この水を飲んだら、さぞ胸がせいせいするだろう! ああ、死にたい。こんな思いをするくらいなら、死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」

彼女は胸中に激してくる感情を消そうとして、万斛(ばんこく)の恨みを飲むように、この水を飲み尽くそうと覚悟したのである。

彼女がもはや前後を忘れて、ただ一心に死を急ぎながら、よろよろと水際に寄ると、足元に何かがあってきらめいた。

思わず彼女の目はこれに止まった。出刃包丁である!

これは悪漢の持っていた凶器であるが、彼らが白糸を手ごめにしたとき、あれこれと争う間に取り落としたものを、忘れて捨てていったのである。

白糸は急にぞっとして寒さを覚えたが、やがて拾い上げて月にかざしながら、

「これを証拠に訴えれば手がかりがあるだろう。そのうちにはまた何とか都合もできよう。・・・これは、今死ぬのは。・・・」

この証拠品を得たために、彼女は死を思い留まって、早く警察署に行こうと気が変わると、今となっては忌まわしいこの水際を離れて、彼女が押し倒されていたあたりを過ぎた。

無念な思いが湧き出るように起こった。

かよわい女の身だったことが口惜しい! 男だったならば、などと言っても仕方のない意気地のなさを思い出して、しばらくはその恨めしい場所を去ることができなかった。

彼女は再び草の上にある物を見出した。

近づいてよく見ると、薄い藍色の布地に白く七宝繋ぎの柄の、洗い晒した浴衣の片袖であった。

これがまた賊の遺留品であることに白糸は気づいた。

おそらく彼女が暴行に抵抗したおりに、引きちぎった賊の衣の一部であろう。

彼女はこれも拾い上げ、出刃を包んで懐の中に推し入れた。

夜はますます更けて、空はいよいよ曇った。

湿った空気は重く沈んで、柳の葉末も動かなかった。

歩くにつれて、足もとの叢から池に飛び込む蛙が、小石を投げるかのように水を鳴らした。

うなじを垂れて歩きながら、彼女は深く思い悩んだ。

「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕まろうか。捕まったところで、うまく金が戻るだろうか。危ないものだ。そんなことを当てにしてぐずぐずしているうちに、欣さんが食うに困ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が届かなかった日には、どんなに困るだろう。はてなあ! 福井の興行主のほうは、三百円のうち二百円前借りしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣きついてみようかしらん。駄目だ、あの親爺だもの。ひっきりなしに小癪に障ることばっかり並べやがって、もうもうほんとに顔を見るのも嫌なのだ。そのくせ、また持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、困った、困った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何よりつらい! といって工面のしようもなし。・・・」

鐘の音がもの寂しく鳴り渡るのを聞いた。

「もう二時だ。はてなあ!」

白糸は思案にあまって、歩く力も失せた。

何気なくもたれたのは、未央柳(びおうりゅう)が長く垂れている檜の板塀の下であった。

これこそは公園内で六勝亭と呼ばれる席貸で、主人は富裕な隠居なので、構造に風流な工夫を尽くし、営業の傍ら、その老後を楽しむ家である。

白糸が佇んでいるのは、その裏口の枝折門の前であるが、どうして忘れたのか、戸を鎖さずにいたので、彼女がもたれると同時に戸が自然と内側に開いて、吸い込むかのように白糸を庭の中に引き入れた。

彼女はしばらく呆然として佇んだ。

その心には何を思うともなく、きょろきょろと辺りを見回した。

奥深くひっそりと造られた築山のない庭を前に、縁側の雨戸が長く続き、家内はまったく寝静まっている気配である。

白糸は一歩進み、二歩進んで、いつしか「寂然(せきぜん)の森(しげり)」を出て、「井戸囲い」のあたりに至った。

このとき、彼女は初めて気づいて驚いた。

このような深夜に人目を盗んで他人の門内に侵入するのは、賊のふるまいである。

自分は図らずも賊のふるまいをしているのであった。

ここに思い至って、白糸は今までに一度も念頭に浮かばなかった、盗むという金策の手段があることに気づいた。

次いで懐にある凶器に気づいた。

これは奴らがその手段に用いていた形見である。

白糸は懐に手を差し入れながら、頭を傾けている。

良心は慌ただしく叫び、彼女を責めた。

悪意は勇み立ち、彼女を励ました。

彼女は良心の譴責に遭っては恥じて悔み、悪意の教唆を受けては承諾した。良心と悪意は、白糸が頼りにならないことを知って、ついに互いに闘っていた。

「人の道に外れたことだ。そんな真似をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ。・・・けれども、工面ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、恥も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗ろう。盗ってから死のう、死のう!」

こう固く決心したが、彼女の良心は決してこれを許さなかった。

彼女の心は激しく動揺し、彼女の体は波に揺られる小舟のように安定しかねて、行きつ戻りつ、塀際を歩き回った。

しばらくして、彼女は手水鉢の近くに忍び寄った。

しかし、あえて悪事を行おうとはしなかったのである。

彼女は再び考え込んだ。

良心に追われて恐くなった盗人は、発覚を防ぐ用意をするひまがなかった。

彼女が塀際を徘徊したとき、手水口を開いて、家人の一人は早くも白糸の姿を認めたが、彼女は鈍くも知らずにいた。

鉢前の雨戸が不意に開いて、人が顔を現した。

白糸があっと飛び退くひまもなく、

「泥棒!」と男の声が叫んだ。

白糸の耳には、百の雷が一時に落ちたようにとどろいた。

精神が錯乱したその瞬間に、懐にあった出刃は彼女の右手に閃いて、縁側に立った男の胸を、柄も透れとばかりに貫いた。

戸をぎしぎしと鳴らして、男は倒れた。

朱(あけ)に染まった自分の手を見ながら、重傷を負って呻く声を聞いた白糸は、戸口に立ち竦み、わなわなと震えた。

彼女はもとより一点の害意さえなかったのである。

自分はそもそもどのようにして、このような不敵なふるまいをしたのかを疑った。

見れば、自分の手は確かに出刃を握っている。

その出刃は確かに男の胸を刺したのだ。

胸を刺したことで、男は倒れたのだ。

ならば、人を殺したのは自分だ、自分の手だと思った。

しかし、白糸は自分の心に、自分の手に、人を殺した記憶がなかった。

彼女は夢かと疑った。

「本当に殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたんだろう?」

白糸が平静を失い、ほとんど我を忘れている背後で、

「あなた、どうなすった?」

と聞こえるのは、寝ぼけた女の声である。白糸は出刃を隠して、そちらを睨んだ。

灯火が縁側を照らして、足音が近づいた。

白糸はぴたっと雨戸に身を寄せて、何者が来たかと窺った。

この家の妻であろう。

五十ばかりの女が寝間着姿もしどけなく、真鍮の手燭をかざして、まだ覚めきっていない目を見開こうと顔をしかめながら、よたよたと縁側をつたって来た。

亡骸に近づいて、それとも知らず、

「あなた、そんなところに寝て・・・どうなすっ・・・」

灯を差し向けて、まだその血に驚くひまがないところに、

「静かに!」と白糸は姿を現して、包丁を突き付けた。

妻は賊の姿を見ると同時にぺったりと膝を折り敷き、その場に伏して、がたがたと震えた。

白糸の度胸はすでに十分決まった。

「おい、おかみさん、金を出しな。これさ、金を出せというのに」

伏して応えない妻のうなじを、出刃でぺたぺたと叩いた。

妻は身も心もなく、

「は、は、はい、はい、は、はい」

「さあ、早くしておくれ。たくさんは要らないんだ。百円あればいい」

妻は苦しい息の下から、

「金はあちらにありますから・・・」

「あっちにあるなら一緒に行こう。声を立てると、おい、これだよ」

出刃包丁が妻の頬を見舞った。

彼女はますます恐怖して立つことができなかった。

「さあ、早くしないかい」

「た、た、た、ただ・・・今」

彼女は立とうとするが、その腰は上がらなかった。

しかし、彼女はなお立とうと焦った。

腰はますます上がらない。

立たなければ終いに殺されるだろうと、彼女はたいそう慌てたり、悶えたりして、やっとのことで立ち上がって案内した。

二間を隔てた奥に伴って、妻は賊が要求する百円を出した。

白糸は先ずこれを収めて、

「おかみさん、いろいろなことを言って気の毒だけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿ぐつわをはめてておくれ」

彼女は妻を縛ろうと、寝間着の細帯を解こうとした。

ほとんど人心地のないほど恐怖していた妻は、このときようやく賊に害意がないのを知ると同時に、幾分か落ち着きながら、初めて賊の姿を確認できたのである。

これはそもそもどういうこと! 賊は荒くれた大の男ではなく、姿かたちの優しい女であろうとは、彼女は今その正体を見て、与しやすいと思うと、

「泥棒!」と叫んで、白糸に飛びかかった。

白糸は不意を突かれて驚いたが、すかさず包丁の柄を返して、力まかせに彼女の頭を撃った。

彼女は屈せず、賊の懐に手を捻じ込んで、あの百円を奪い返そうとした。

白糸はその手に咬み付き、片手には包丁を振り上げて、再び柄で彼女の脇腹にくらわした。

「泥棒! 人殺し!」と地団太を踏んで、妻はなお荒々しく、なおけたたましく、

「人殺し、人殺しだ!」と血を吐くような声を絞った。

これまでだと観念した白糸は、持った出刃を取り直し、躍り狂う妻の喉をめがけて、ただ一突きと突いていたが、狙いを外して肩先を切り削いだ。

妻が白糸の懐に出刃を包んでいた片袖を探り当て、引っつかんだまま逃れようとするのを、立て続けにその頭に切りつけた。

彼女がますます猛り狂って、再び喚こうとしていたので、白糸は当たるのを幸いに滅多切りにして、弱るところを乳の下に深く突っ込んだ。

これが実に最期の一撃であったのである。

白糸は生まれてこのかた、これほど大量の血を見たことがなかった。

一坪の畳はまったく朱に染まって、散ったり、迸ったり、ぽたぽたと滴ったりした跡が八畳間の隅々まで広がり、雨水のような紅の中に、数ヵ所の傷を負った妻の、拳を握り、歯をくいしばって仰向けに引っくり返っているさまは、血まみれの額越しに、半ば閉じた目を睨むかのように据えて、折でもあれば、むくっと立とうとする勢いである。

白糸は生まれてこのかた、このような悲痛な最期を見たことがなかった。

これほど大量の血! このような浅ましい最期! 

これは何者の仕業であるか。

ここに立っている自分の仕業である。

我ながら自分が恐ろしいことだ、と白糸は思った。

彼女の心は再び堪えられないほど激しく動揺して、今では自分自身が殺されることから逃れるよりも、なお数倍の危ない、恐ろしい思いがして、一秒もここにいるにいられず、出刃を投げ捨てるより早く、後ろも見ずに一散に走り出たので、気が急くまま手水口の縁に横たわる骸の冷ややかな脚につまづき、激しい勢いで庭先に転がり落ちた。

彼女は男が生き返ったのかと思って、気を失いそうになりながら、枝折門まで走った。

風が少し起こって庭の梢を鳴らし、雨がぽっつりと白糸の顔を打った。

(つづく)

泉鏡花「義血侠血」 4

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

滝の白糸は越後の国新潟の生まれで、その地特有の美しさを備えているうえに、その鍛え磨かれた水芸は、ほとんど人間業を離れ、すこぶる驚くべきものであった。

となれば、行く先々で大入りが叶わないところはないので、各地の興行主が彼女を争い、ついに前例のない莫大な給金を払うに到った。

彼女は親もなく、兄弟もなく、情夫もなかったので、一切の収入はことごとく自分一人に費やすことができ、加えて闊達豪放な気性は、この余裕のためにますます膨張して、十円を得れば二十円を散財する勢いで、得るにまかせて撒き散らした。

これは一つには、金銭を得る難しさを彼女が知らなかったためである。

彼女はまた貴族的な生活を喜ばず、好んで下層社会の境遇に甘んじ、衣食の美とうわべを飾ることを求めなかった。

彼女のあまりに平民的なことは、その度を越えて、気性が激しく侠気に富む鉄火となった。

往々見られる女性の鉄火は、おおよそ汚行と罪業と悪徳とによって養成されないものはない。

白糸の鉄火は、自然のままの性質から生じて、きわめて純潔で清浄なものである。

彼女は思うままにこの鉄火を振り回して、自由にのびのびと、この何年も暢気に暮らしてきたが、今やもうそうではなかった。

村越欣弥は、彼女が仕送りを引き受けたことを信じて東京に遊学している。

高岡に住むその母は、箸を控えて彼女が送る食料を待っている。

白糸は、月々彼らを扶養すべき責任のある世帯持ちの身となっている。

それまでの滝の白糸は、まさにその自由気ままを縛り、その風変わりで個性の強い性格を押し潰して、世話女房のお友とならざるを得ないはずである。

彼女はついにその責任のために、石を巻き、鉄を捩じる思いで、曲げることのできない節を曲げ、仕事に励み、倹約を図る小心な女性となった。

その行動では、なおかつ滝の白糸としての活気を保ちつつ、その精神はまったく村越友として生計に苦労した。

その間は実に三年の長きにわたった。

あるいは富山に赴き、高岡に買われ、また大聖寺、福井に行き、遠くは故郷の新潟で興行し、苦労を厭わずほうぼうで稼ぎ回って、幸いどこも外さなかったので、場合によっては血を流さなければならないようなきわめて重い責任も、その収入によって難なく果たされた。

しかし、見世物の類は春夏の二つの季節が黄金期である。

秋は次第に寂しくなり、冬は霜枯れの哀れむべき状態を免れないのである。

まして北国(ほっこく)の降雪地帯では、ほとんど一年の三分の一を白いもののうちに蟄居せざるを得ないではないか。

ことに時候を問わない見世物と異なって、彼女の演芸は自ずから夏炉冬扇の傾向がある。

その喝采はすべて暑中のもので、冬季には仕事がない。

たとえ彼女が食べるのに困らなくても、月々十数円の工面は尋常な手段で成し遂げられるものではない。

彼女はどのようにして無い袖を振ったか? 

魚は木に縁(よ)りて求むべからず、方法を誤ると目的は達せられない、彼女は他日の興行を質入れして前借りしていたのである。

その一年、二年は、ともかくもこのような算段によって過ごした。

三年目は、さすがに八方塞がりとなって、融通の方法もなくなろうとしていた。

翌年初夏の金沢の招魂祭を当て込んで、白糸の水芸は興行されていた。

彼女は例の美しい姿と絶妙な技で稀有な人気を取っていたので、即座に越前福井の某という興行主が付いて、金沢を打ち上げ次第、二ヵ月間三百円で雇おうという相談が調った。

白糸は諸方に負債がある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理な借金を払って、手元に百余円を残していた。

これで欣弥親子の半年の扶養に足りるだろうと、彼女は憂いに顰(ひそ)めていた眉を開いた。

しかし、欣弥は実際、半年分の仕送りを要さないのである。

彼の望みはすでに手が届くばかりに近づいて、わずかにここ二、三ヵ月を支えられれば十分であった。

無頓着な白糸はただ彼の健康を尋ねるだけで安心し、あえて学業を成し遂げる時期を問わず、欣弥もまた必ずしもこれを告げようとはしなかった。

その約束に背くことを恐れる者と、恩を受けている最中にその恩を顧みない者とは、各々その努むべきことを努めるのに専念していた。

こうして、翌日まさに福井に向かって出発するという三日目の夜の興行を終えたのは、一時になろうとする頃であった。

白昼のようであった公園内の灯火はすべて消え、雨が降り出しそうな空に月はあっても、辺りは霧が立ちこめて煙を敷くように広がり、薄墨を流した森の彼方に、突然足音が響いて、ガヤガヤと罵る声がしたのは、見世物師らが連れ立って公園を引き払ったのであろう。

この一群のあとに残って語り合う女がいる。

「ちょいと、お隣の長松(ちょうまつ)さんや、明日はどこへ行きなさる?」

年増が抱いた猿の頭を撫でて、こう尋ねたのは、猿芝居と小屋を並べたろくろ首の因果娘である。

「はい、明日は福井まで参ります」

年増は猿に代わって答えた。

ろくろ首は愛想よく、

「おお、おお、それはまあ遠い所へ」

「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、加賀百万石のお庭だよ。千代公(ちょんこ)のほうは二度目だけれど、お前は初めてだ。さあ、よく見物しなよ」

彼女は抱いた猿を放した。

そのとき、あちらの池のあたりで、マッチの火がぱっと燃えた影に、頬被りした男の顔が赤く現れた。

黒い影法師も二つ三つ、その側に見えていた。

因果娘が闇を透かし見て、

「おや、出刃打ちの連中があそこに休んでいなさるようだ」

「どれどれ」と見向く年増の背後に声がして、

「おい、そろそろ出掛けようぜ」

旅装束をした四、五人の男が二人の側に立ち止まった。

年増はすぐに猿を抱き取って、

「そんなら、姉さん」

「参りましょうかね」

二人の女は彼らとともに行った。

続いて一団、また一団、大蛇を籠に入れて担う者と、馬に跨っていく曲馬芝居の座長とを先に立てて、さまざまな動物と異形の人間が、絶え間なく森蔭に列をなしたその様子は、実に百鬼夜行を描いた一幅の生きた画であった。

しばらくして彼らは残らず行ってしまった。

公園は奥深い森のようで、月の色はますます暗く、夜はもうまったく死んだように寝静まっていたとき、こだまに響き、池の水面に鳴って、驚いた声が、

「あれえ!」 

(つづく)

泉鏡花「義血侠血」 3

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

夜は既に十一時に近づいた。

磧はひどく涼しくて一人の人影もなく、天は高く、露気は冷ややかで、月だけが澄んでいた。

暑苦しさと騒がしさを極めていた露店は、ことごとく店をたたんで、ただあちこちで見世物小屋の板囲いを洩れる灯火が、かすかに宵のうちの名残を留めていた。

川は長く流れて、向山(卯辰山)の松風が静かに渡るところ、天神橋の欄干にもたれて、うとうととまどろむ男がいる。

彼は山を背に、水に臨み、清らかな風を受け、明るい月を戴き、そのはっきりとした姿は、もの静かな四つの境地と自然の清らかな幸福を占領して、たいそう心地よさそうであった。

おりから、磧の小屋から現れた粋な女がいる。

首から襟にかけて大きな模様を染め抜いた紺絞りの浴衣を着て、赤い毛布をまとい、身を持てあましたかのように足を運び、下駄の爪先にかつかつと小石を蹴りつつ、流れに沿ってぶらぶらと歩いていたが、瑠璃色に澄み渡った空を仰いで、

「ああ、いい月夜だ。寝るには惜しい」

川風がさっと彼女の耳際の毛を吹き乱した。

「ああ、うすら寒くなってきた」

しっかりと毛布をまとって、彼女は辺りを見回した。

「人っ子一人いやしない。何だ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものは意固地なもんだ。涼むんなら、こういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色なもんだ」

彼女は再びゆっくりと歩いた。

この女は滝の白糸である。

彼女らの仲間は便宜上旅籠を取らずに、小屋を家をする者が少なくない。

白糸もそうである。

やがて彼女は橋に来ていた。

吾妻下駄の音は天地の静寂を破って、からんころんと月に響いた。

彼女はその音のおかしさに、なお強いて響かせつつ、橋の半ば近くに来たとき、急に左手を上げて、その高髷をつかみ、

「ええ、もう重っ苦しい。ちょっ、うるせえ!」

荒々しく引き解いて、手早くぐるぐる巻きにした。

「ああ、これでせいせいした。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」

こうして白糸は、水を聴き、月を望み、夜景の静かさをめでて、ようやく橋の半ばを過ぎた。

彼女はすぐに暢気な人の姿を認めた。

何者か、天地を夜具として、夜露の下、月に照らされて快眠している男が、数歩のところにいて鼾を立てた。

「おや! いい気なもんだよ。誰だい、新じゃないか」

囃子方(はやしかた)に新という者がいる。

宵のうちから出てまだ小屋に戻らないので、それかと白糸は間近に寄って、男の寝顔を覗いた。

新はまだこのように暢気ではない。

彼は果たして新ではなかった。

新の容貌は、このように威厳のあるものではないのだ。

彼は新を千倍にして、なおかつ新の千倍も勝るほど尋常でない、強い精神の現れた顔であった。

その眉は長く濃やかで、眠っている目尻も凛として、正しく結んだ唇は、夢の中でも放心しない彼の気概が優れて高いことを語っている。

漆のような髪はやや伸びて、広い額に垂れたのが、吹き上げる川風に絶えずそよいでいる。

つくづくと眺めていた白糸は、急に顔色を変えて叫んだ。

「あら、まあ! 金さんだよ」

欄干で眠っているのは、他の誰でもない、例の乗合馬車の御者である。

「どうして今時分こんなところにねえ」

彼女は足音を忍ばせて、再び男に寄り添いながら、

「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」

恍惚として瞳を凝らしていたが、突然自分がまとった毛布を脱いで着せ掛けても、御者は夢にも知らずに熟睡している。

白糸は欄干に腰を休めて、しばらくすることもなかったが、突然声を上げて、

「ええ、ひどい蚊だ」と膝のあたりをはたと打った。この音に驚いたのか、御者は目を覚まして、あくび混じりに、

「ああ、寝た。もう何時かしらん」

思いもよらない傍で、なまめいた声がして、

「もう、かれこれ一時ですよ」

御者が驚いて振り返ると、肩に見覚えのない毛布があって、深夜の寒さを防いでいる。

「や、毛布を着せてくださったのは? あなた? でございますか」

白糸は微笑を浮かべて、呆れている御者の顔を見ながら、

「夜露に打たれると体の毒ですよ」

御者は黙って一礼した。

白糸は嬉しそうに身を進めて、

「あなた、その後は御機嫌よう」

いよいよ呆れた御者は少し身を退けて、一瞬、狐狸変化の物ではないかと心中で疑った。

月の光を浴びて凄まじいほどに美しい女の顔を、無遠慮に眺めている彼のまなざしは、ひそめた眉の下から異彩を放っている。

「どなたでしたか、一向存じません」

白糸は片方の頬に笑いを浮かべて、

「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」

「はてな」と御者は首を傾けている。

「金さん」と女は馴れ馴れしく呼びかけた。

御者はひどく驚いた。

月下の美人が初対面で自分の名を知る。

御者たる者、誰が驚かずにいようか。

彼は本当に、いまだかつて信じたことのなかった狐狸の類ではないかと当惑し始めた。

「お前さんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんていうことがあるものかね」

「抱いた? 私が?」

「ああ、お前さんに抱かれたのさ」

「どこで?」

「いいところで!」

袖を覆って白糸はにっこりと一笑した。

御者は深く思案に暮れていたが、ようやく傾けた首を正して言った。

「抱いた覚えはないが、なるほどどこかで見たようだ」

「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競争をして、石動(いするぎ)の手前からお前さんに抱かれて、馬の相乗りをした女さ」

「おう! そうだ」と思わず両手を打ち合わせて、御者は大声を発した。

白糸はその声に驚かされて、

「ええ、吃驚した。ねえ、お前さん、覚えておいでだろう」

「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」

御者は唇に微笑を浮かべて、再び両手を打った。

「でも、言われるまで思い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」

「いや、不実というわけではないが、毎日何十人という客の顔をいちいち覚えていられるものではない」

「それはごもっともさ。そうだけれども、馬の相乗りをするお客は毎日はありますまい」

「あんなことが毎日あってたまるものか」

二人は顔を見合わせて笑った。

ときに、いくつもの鐘の音が遠く響き、月はますます白く、空はますます澄んでいる。

白糸は改めて御者に向かって、

「お前さん、金沢へはいつ、どうしてお出でなすったの?」

四方は広々として、ただ山水と名月があるのみ。

ヒューヒューと吹く風は、おもむろに御者の毛布を翻した。

「実はあっちを失業してね・・・」

「おやまあ、どうして?」

「これも君のためさ」と笑うと、

「ご冗談もんだよ」と白糸は流し目で見た。

「いや、それはともかくも、話をしなけりゃわからん」

御者は懐を探って、油紙製の袋型の煙草入れを取り出し、忙しく一服して、すぐに話を始めようとした。

白糸は彼が吸殻をはたくのを待って、

「済みませんが、一服貸してくださいな」

御者は言下に煙草入れとマッチを手渡して、

「煙管(きせる)が詰まってます」

「いいえ、結構」

白糸は一吸いを試みた。

果たして、その言葉のとおり、煙管は不快な脂(やに)の音だけがして、煙が通るのは糸の筋よりわずかである。

「なるほど、これは詰まってる」

「それで吸うには、よっぽど力が要るのだ」

「馬鹿にしないねえ」

美人は紙縒(こより)をひねって、煙管を通し、溝泥のような脂に顔をしかめて、

「こら! ご覧な、不精だねえ。お前さん、やもめかい」

「もちろん」

「おや、もちろんとはご挨拶だ。でも、恋人の一人や半人はありましょう」

「馬鹿な!」と御者は一喝した。

「じゃ、ないの?」

「知れたこと」

「ほんとに?」

「くどいなあ」

彼はこの問答をいまいましそうに、そらとぼけた。

「お前さんの年で、独り身で、恋人がないなんて、ほんとに男の恥だよ。私が似合うのを一人世話してあげようか」

御者は傲然として、

「そんなものは要らんよ」

「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除ができたから、一服いただこう」

白糸はまず二服を吸って、三服目を御者に、

「はい、あげましょう」

「これはありがとう。ああ、よく通ったね」

「また詰まったときは、いつでも持ってお出でなさい」

大口を開いて御者は快さそうに笑った。

白糸は再び煙管を借りて、のどかに煙を吹きながら、

「今の話というのを聞かせてくださいな」

御者は頷いて、立っていた姿勢を変えて、斜めに欄干にもたれ、

「あのとき、あんな乱暴をやって、とうとう人力車を追い越したのはよかったが、奴らはあれを非常に悔しがってね、会社へ難しい掛け合いを始めたのだ」

美人は眉を上げて、

「なんだってまた?」

「なにもかにも理屈なんぞはありゃしない。あの一件を根に持って、喧嘩をしかけてきたのさね」

「ふん、生意気な! それで?」

「相手になると、事が面倒になって、実は双方とも商売の邪魔になるのだ。そこで、会社のほうでは穏便がいいというので、無論不公平な裁判だけれど、私が因果を含められて、雇いを解かれたのさ」

白糸は身に沁みる夜風に両腕で自らを抱いて、

「まあ、お気の毒だったねえ」

彼女は慰める言葉のないような表情だった。

御者は冷笑して、

「なあに、たかが馬方だ」

「けれどもさ、本当にお気の毒なことをしたねえ、いわば私のためだもの」

美人は憂いに沈んで腕を組んだ。

御者は真面目に、

「その代わり、煙管の掃除をしてもらった」

「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうして、お前さん、これからどうするつもりなの?」

「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡にぶらついていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁(べっとう)の口でもあるだろうと思って、探しに出てきた。今日も朝から一日奔走したので、すっかりくたびれてしまって、晩方ひとっ風呂入ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら涼みに出かけて、ここで月を見ているうちに、いい心持になって寝込んでしまった」

「おや、そう。そうして、口はありましたか」

「ない!」と御者は頭を振った。

白糸はしばらく考え込んでいたが、

「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるようなお方じゃないね」

御者は長いため息をついた。

「生まれもっての馬丁でもないさ」

美人は黙って頷いた。

「愚痴じゃあるが、聞いてくれるか」

侘しげな男の顔をつくづく眺めて、白糸は彼が物語るのを待った。

「私は金沢の士族だが、少し仔細があって、幼い頃に家は高岡へ引っ越したのだ。その後、私一人金沢へ出てきて、ある学校へ入っているうち、親父に亡くなられて、ちょうど三年前だね、仕方なく中途で学問は止めさ。それから高岡へ帰ってみると、その日から稼ぎ手というものがないのだ。私が母親を養わにゃならんのだ。何をいうにも、まだ書生中の体だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。親父は馬の家じゃなかったが、大の馬好きで、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も子どもの時分稽古をして、少しはおぼえがあるので、馬車会社へ住み込んで、御者となった。それでまず暮らしを立てているという、誠に恥ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で終わる了見でもない、目的も望みもあるのだが、ままにならぬのが浮世かね」

彼は広々とした天を仰いで、しばらくうちひしがれていた。

その顔には形容しがたい悲憤の色が表れている。白糸は同情に堪えない声音で、

「そりゃあ、もう誰しも浮世ですよ」

「うむ、まあ、浮世と諦めておくのだ」

「いま、お前さんのおっしゃった望みというのは、私たちには聞いても解りはしますまいけれど、何ぞ、その、学問のことでしょうね?」

「そう、法律という学問の修行さ」

「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃあありませんか」

御者は苦笑いして、

「そうとも」

「それじゃ、いっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」

「行けりゃ行くさ。そこが浮世じゃないか」

白糸は軽く膝を打って、

「金の世の中ですか」

「地獄の沙汰さえ、なあ」

再び御者は苦笑いした。

白糸はこともなげに、

「じゃ、あなた、お出でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立てちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送りしてあげようじゃありませんか」

沈着な御者の魂も、このとき躍るばかりに揺らめいた。

彼は驚くよりむしろ呆れた。

呆れるよりむしろ慄いたのである。

彼は顔色を変えて、この美しい魔性のものを睨んでいた。

先に五十銭の心づけを投じて、他の人々の一銭よりも惜しまなかったこの美人の肝っ玉は、十人の乗合客になんとなく恐れを抱かせた。

銀貨一枚に目をみはった乗合客よ、君らに今夜の天神橋での壮語を聞かせたなら、肝臓も胆嚢もすぐに破れて、血が耳から迸り出るだろう。

花のように美しい顔で柳のように細くしなやかな腰をした人よ、そもそもあなたは狐狸か、変化か、魔性か。

おそらくは化粧の怪物であろう。

これもまた一種の魔性である御者さえも、驚きかつ慄いた。

御者は美人の意図をその表情から読もうとしていたが、できずについに呻き出した。

「何だって?」

美人も不思議な顔つきで反問した。

「何だってとは?」

「どういう訳で」

「訳も何もありゃしない、ただお前さんに仕送りがしてみたいのさ」

「酔狂な!」と御者はその愚に唾を吐くかのように独り言をいった。

「酔狂さ。私も酔狂だから、お前さんも酔狂に、ひとつ私の志を受けてみる気はないかい。ええ、金さん、どうだね」

御者はしきりに考え、どうすべきか判断に迷った。

「そんなに考えることはないじゃないか」

「しかし、縁もゆかりもない者に・・・」

「縁というのも初めは他人同士。ここでお前さんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんじゃありませんかね」

「恩を受ければ、返さなければならない義務がある。その責任が重いから・・・」

「それで断るとお言いかい。何だねえ、恩返しができるの、できないのと、そんなことを苦にするお前さんでもなかろうじゃないか。私だって泥棒に伯父さんがいるのじゃなし、知りもしない人をつかまえて、やたらにお金を貢いで堪るものかね。私はお前さんだから貢いでみたいのさ。いくら嫌だとお言いでも、私は貢ぐよ。後生だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要るものじゃない。私はお前さんの望みというのが叶いさえすれば、それでいいのだ。それが私への恩返しさ、いいじゃないか。私はお前さんがきっと立派な人になれると思うから、ぜひ立派な人にしてみたくって堪らないんだもの。後生だから早く勉強して、立派な人になってくださいよう」

その声音は柔らかくなまめかしかったが、話の間に世間の厳しさを知る言葉を挟んで、凛として、烈しかった。

御者は感動して奮い立ち、両目に熱い涙を浮かべ、

「うむ、せっかくのお志だ。ご恩にあずかりましょう」

彼は襟を正して、恭しく白糸の前に頭を下げた。

「何ですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」

美人は喜色満面に溢れんばかりである。

「お世話になります」

「嫌だよ、もう金さん、そんな丁寧な言葉を使われると、私は気が詰まるから、やっぱり書生言葉をやってくださいよ。ほんとに凛々しくって、私は書生言葉が大好きさ」

「恩人に向かって済まんけれども、それじゃ、ぞんざいな言葉を使おう」

「ああ、それがいいんですよ」

「しかしね、ここに一つ困ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親が独りで・・・」

「それはご心配なく。及ばずながら、私がね・・・」

御者は夢見る心地がしつつ、耳を傾けている。

白糸は誠意を顔に表して、

「きっとお世話をしますから」

「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの恩返しには、お前さんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお望みはありませんか」

「だからさ、私の望みはお前さんの望みが叶いさえすれば・・・」

「それはいかん! 自分の望みを遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたことで恩返しになるものではない。それはただ恩に対するところの自分の義務というもので、決して恩人に対する義務ではない」

「でも、私が承知ならいいじゃありませんかね」

「いくらお前さんが承知でも、私が不承知だ」

「おや、まあ、いやに難しいのね」

こう言いつつ、美人は微笑んだ。

「いや、理屈をいうわけではないがね、目的を達するのを恩返しといえば、乞食も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、彼らの目的は食うことだ。食っていけるから、それが方々で銭をもらった恩返しになるとは言われまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさせてください。そうすれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれど、お断り申そう」

すぐには返す言葉もなく、白糸は頭を垂れていたが、やがて御者の顔を見るかのように、見ないかのように窺いつつ、

「じゃ、言いましょうか」

「うむ、承ろう」と男はやや姿勢を正した。

「ちょっと恥ずかしいことさ」

「何なりとも」

「聞いてくださるか。いずれお前さんの身に適ったことじゃあるけれども」

「一応聞いたうえでなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、いくらでも承諾するさ」

白糸は耳際のおくれ毛をかき上げて、幾分か恥ずかしさを紛らわそうとした。

御者は月に向かった美人の姿の輝くばかりであるのを見つめながら、固唾を呑んでその語るのを待った。

白糸は初め口ごもっていたが、すぐに心を決めた様子で、

「生娘のように恥ずかしがることもない、いいババアのくせにさ。私の望みというのはね、お前さんに可愛がってもらいたいの」

「ええ!」と御者は鋭く叫んだ。

「あれ、そんな恐い顔をしなくったっていいじゃありませんか。何もおかみさんにしてくれというんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯親類のようにして暮らしたいというんでさね」

御者は躊躇せず、彼女の語るのを追って潔く答えた。

「よろしい。決してもう他人ではない」

涼しい目と凛々しい目とは、無量の思いを含んで見つめ合った。

彼らは無言の数秒の間に、語ることもできない、説くこともできない、きわめて微妙な魂の言葉を交えていた。

彼らが十年かかっても語り尽くすことのできない、心の底で混じり合って一つになった思いは、実にこの瞬間に暗黙のうちに約束されたのである。

しばらくして、まず御者が口を開いた。

「私は高岡の片原町で、村越欣弥(むらこし きんや)という者だ」

「私は水島友(みずしま とも)といいます」

「水島友? そうしてお宅は?」

白糸ははたと言葉に詰まった。

彼女には決まった家がないからである。

「お宅は、ちっと困ったねえ」

「だって、家のない者があるものか」

「それがないのだからさ」

天下に家を持たないのは何者か。

乞食の徒といっても、やはり雨露を凌げる蔭に眠らないか。

世間の例をもってすれば、彼女はまさに立派な家に住み、玉の輿に乗るべき人である。

ところが、彼女は宿なしという。

その行動は奇怪で、その心情もまた奇怪であるとはいっても、まだこの言葉の奇怪さには及ばないと御者は思った。

「それじゃ、どこにいるのだ」

「あそこさ」と美人は磧の小屋を指した。

御者はそちらを眺めて、

「あそことは?」

「見世物小屋さ」と白糸は今までとは変わった微笑を浮かべた。

「ははあ、見世物小屋とは変っている」

御者は心中で驚いていた。

彼はもとよりこの女を良家の女性とは思いもしなかった。

少なくとも、海山五百年の怪物であることを看破していたが、見世物小屋に寝起きする乞食芸人の仲間であろうとは、実に意表を突いていたのである。

とはいっても、彼は素知らぬ様子で答えていた。

白糸は彼の思いを汲んで自分を嘲った。

「あんまり変わり過ぎてるわね」

「見世物の三味線でも弾いているのかい」

「これでも太夫元さ。太夫だけになお悪いかもしれない」

御者は、軽侮の表情も表さず、

「はあ、太夫! 何の太夫?」

「無官の太夫敦盛じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、きまりが悪いからさ」

御者はますます真面目になって、

「水芸の太夫? ははあ、それじゃ、この頃評判の・・・」

こう言いつつ、珍しそうに女の顔を覗いた。

白糸はさっと赤らむ顔を背けつつ、

「ああ、もうたくさん、堪忍しておくれよ」

「滝の白糸というのはお前さんか」

白糸は彼の言葉を手で制した。

「もう、いいってばさ!」

「うむ、なるほど!」と疑問が解消した様子で、欣弥は頷いた。

白糸はますます恥じらって、

「嫌だよ、もう。何がなるほどなんだね」

「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど・・・」

「もう、いいってばさ」

つっと身を寄せて、白糸はいきなり欣弥を突いた。

「ええ、危ねえ! いい女だからいいというのに、突き飛ばすことはないじゃないか」

「人を馬鹿にするからさ」

「馬鹿にするものか。実に美しい、いくつになるのだ」

「お前さん、いくつになるの?」

「私は二十六だ」

「おや、六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもうババアだね」

「いくつさ」

「言うと愛想を尽かされるから嫌」

「馬鹿な! ほんとにいくつだよ」

「もうババアだってば。四さ」

「二十四か! 若いね。二十歳くらいかと思った」

「何か奢りましょうよ」

白糸は帯の間から白縮緬の袱紗包みを取り出した。

開くと、一束の紙幣を紙に包んだものであった。

「ここに三十円あります。まあこれだけあげておきますから、家のかたを付けて、一日も早く東京へお出でなさいな」

「家のかたといって、別に金の要るようなことはなし、そんなには要らない」

「いいからお持ちなさいよ」

「みんなもらったら、お前さんが困るだろう」

「私はまた明日入る口があるからさ」

「どうも済まんなあ」

欣弥は受け取った紙幣を軽く戴いて懐にした。

そのとき通りかかった夜稼ぎの車夫が、怪しむべき月下の密会を一瞥して、

「お相乗り、都合で、いかがで」

彼はからかう態度を示して、二人の側に立ち止まった。

白糸はわずかに振り返って、棄てるかのように言い放った。

「要らないよ」

「そう仰らずにお召なすって。へへへへへ」

「何だね、人を馬鹿にして。一人乗りに相乗りができるかい」

「そこはまたお話し合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」

面白半分にまつわるのを、白糸は鼻の先にあしらって、

「お前もとんだ苦労性だよ。他人のことよりは、早く帰って、うちのでも悦ばしておやんな」

さすがに車夫も、この姉御の与しやすくないのを知った。

「へい、これははばかりさま。まあ、そちらさまもお楽しみなさいまし」

彼はすぐに踵(きびす)を返して、鼻歌交じりに行き過ぎた。

欣弥は何を思ったのか、

「おい、車屋!」と急に呼び止めた。

車夫は頭を振り向けて、

「へえ、やっぱりお相乗りですかね」

「馬鹿言え! 伏木まで行くか」

車夫が答えるのに先立って、白糸は驚きかつ怪しんで聞いた。

「伏木・・・あの、伏木まで?」

伏木はおそらく上京の道、越後の直江津まで汽船便がある港である。

欣弥は平然として、

「これからすぐに発とうと思う」

「これから ?! 」と白糸はさすがに胸をとどろかせた。

欣弥は頷いていた頭をそのまま垂れて、見るべきものもない橋の上に瞳を凝らしながら、その胸中は出発するかしないかの二つから一つを選ぶのに忙しかった。

「これからとはあんまり急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」

一方では欣弥を説き、一方では車夫に向かい、

「若い衆さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」

彼女が紙入れを探るとき、欣弥は慌ただしく、

「車屋、待っとれ。行っちゃいかんぜ」

「あれさ、いいやね。さあ、若衆さん、これを持って行っとくれよ」

五銭の白銅を手にして、まさに渡そうとした。

欣弥はその間に分け入って、

「少し都合があるのだから、これからやってくれ」

彼は十分に決心した表情をしている。

白糸はとうていそれを動かすことができないのを覚って、潔く未練を棄てた。

「そう。それじゃ無理には止めないけれども・・・」

このとき、二人の目は期せずして合った。

「そうして、お母さんには?」

「道で寄って暇乞いをする、必ず高岡を通るのだから」

「じゃ、町外れまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」

「四、五町(約436~545m)行きゃ、いくらもありまさあ。そこまでだから一緒に召していらっしゃい」

「おふざけでないよ」

欣弥はすでに車上にいて、

「車屋、どうだろう、二人乗ったら壊れるかなあ、この車は?」

「なあに大丈夫。姉さん、ほんとにお召なさいよ」

「構うことはない。早く乗った乗った」

欣弥が手招きすると、白糸は微笑む。

その肩を車夫はトンと打って、

「とうとう、乙な寸法になりましたぜ」

「嫌だよ、欣さん」

「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑した。

月はようやく傾き、鶏が鳴いて、空はほのかに白かった。

(つづく)

泉鏡花「義血侠血」 2

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

金沢の浅野川の磧(かわら)は、毎夜毎夜、納涼の人出のために熱気にあふれていた。

これを機会に、諸国から入り込んだ興行師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け連ねて、猿芝居、娘軽業、山雀(やまがら)の芸当、剣の刃渡り、活き人形、名所の覗きからくり、電気手品、盲人相撲、評判の大蛇、天狗の骸骨、手無し娘、子どもの玉乗りなど、いちいち数えるいとまもない。

その中でも大評判、大当たりは、滝の白糸の水芸である。

太夫(たゆう)滝の白糸は妙齢十八、九の美人で、その技芸は容色と調和して、市中の人気は山のようである。

そのため、他はみな夕方からの開場であるにもかかわらず、これだけが昼夜二回の興行で、どちらも客が詰めかける大入りであった。

時はまさに午後一時、拍子木を打ち鳴らし、囃子(はやし)が鳴りを鎮めるとき、口上人が彼のいわゆる不弁舌な弁をふるって前口上を述べ終えると、すぐに起こる三味線と笛の節を踏んで、静々と歩み出たのは当座の太夫元(座長)滝の白糸で、高島田に奴(やっこ)元結いをかけ、濃やかな化粧に桃の花のような媚を装い、朱鷺(とき)色縮緬の単衣(ひとえ)に、銀糸の波の刺繍がある水色絽(ろ)の裃(かみしも)を着けている。

彼女がしとやかに舞台の中央に進んで、一礼を施すと、待ち構えていた見物客は口々に喚いた。

「いよう、待ってました大明神様!」

「あでやか、あでやか!」

「ようよう、金沢荒らし!」

「ここな命取り!」

喝采の声のうちに彼女は静かに顔を上げて、情を含んで微笑んだ。

口上人は扇を挙げて咳払いし、

「東西!お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元、滝の白糸にござりまする。お目見えが相済みますれば、早速ながら本芸に取りかからせまする。最初、小手調べとしてご覧に入れまするは、露に蝶の狂いをかたどりまして、花野の曙。ありゃ来た、よいよいよい、さて」

さて、太夫がなみなみと水を盛ったコップを左手にとって、右手には黄と白二面の扇子を開き、「やっ」と声をかけて交互に投げ上げると、露を争う二匹の蝶が、縦横上下に追いつ追われつ、雫(しずく)もこぼさず、羽も休めず、太夫の手にも留まらずに、空中に綾を織りなす鍛え磨かれた技芸で、「今じゃ、今じゃ」と、木戸番がだみ声も高く喚きつつ、表の幕を引き揚げたとき、演芸中の太夫はふと外に目をやったが、何に心を奪われたのか、はたとコップを取り落とした。

口上人は狼狽して走り寄った。

見物客はその失敗をどっと囃(はや)した。

太夫は受け止めた扇を手にしたまま、その瞳をなお外に凝らしつつ、つかつかと土間に下りた。

口上人はいよいよ狼狽して、なすすべを知らなかった。

見物客は呆れ果てて息を呑み、場内一斉に頭をめぐらせて太夫の挙動を見つめている。

白糸は群れいる客を押し分け、かき分け、

「ご免あそばせ、ちょいとご免あそばせ」

慌ただしく木戸口に走り出て、うなじを延ばして目で追った。

その視線の先に御者ふうの若者がいる。

何事が起ったのかと、見物客が白糸の後からどよどよと乱れ出る喧騒に、その男は振り返った。

白糸は初めてその顔を見ることができた。

彼は色白で瀟洒だった。

「おや、違ってた!」

こう独り言をいい、太夫はすごすごと木戸を入った。

(つづく)

泉鏡花「義血侠血」 1

泉鏡花「義血侠血」(初出:『読売新聞』明治27年11月1日~30日)の現代語訳です。

   

越中高岡から倶利伽羅峠下の発着所である石動まで、四里八町(約16.6km)の間を定時に出る乗合馬車がある。

車代が安いので、旅客はおおかた人力車を見捨てて、こちらに頼った。

車夫はその不景気を馬車会社のせいにして怨み、人力車と馬車との軋轢は次第にひどくなったが、顔役の調停でかろうじて営業上は不干渉を装っても、折にふれて紛争が起こることはしばしばであった。

七月八日の朝、一番馬車に乗り合う客を揃えようと、小僧がその門前で鈴を振りながら、

「馬車はいかがです。むちゃに安くって、人力車よりお速うござい。さあ、お乗んなさい。すぐに出ますよ」

甲走った声は鈴の音よりも高く、静かな朝の街に響き渡った。

通りすがりの粋な女が歩みを止めて、

「ちょいと、小僧さん、石動までいくら? なに十銭だって。ふう、安いね。その代わり遅いだろう」

沢庵を洗い立てたような色に染めたアンペラの古帽子の下から、小僧は猿のような目をきらめかせて、

「ものは試しだ。まあ、お召しなすってください。人力車より遅かったら、お代はいただきません」

こう言う間も、彼の手にある鈴は騒ぎ続けた。

「そんな立派なことを言って、きっとだね」

小僧は昂然と、

「嘘と坊主の髪は、ゆったことがありません」

「なんだね、しゃらくさい」

微笑みながら、女はこう言い捨てて乗り込んだ。

その年頃は二十三、四、姿は満開の花の色を強いて洗って、清楚になった葉桜の浅い緑のようである。

色白で鼻筋が通り、眉に力強さがあって、眼差しにいくぶんの凄みを帯び、見る目に涼しい美人である。

これは果たして何者なのか。

髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に紅だけをさしている。

将棋の駒を派手に散らした紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯を緩く引っかけに結んで、空色の縮緬の蹴出しをちらつかせ、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包を持ち添えている。

なりふりがお侠(きゃん)で、人を恐れない様子は、世間擦れ、場慣れして、一筋縄では繋ぐことができない精神を表している。

思うに、彼女の雪のような肌には刺青が浮かび出て、悪竜が焔を吐いていなければ、少なくともその左腕には、二つ枕でともに老いると誓った男の名が刻まれていようか。

馬車は、この怪しい美人で満員となった。

発車の号令が割れるばかりにしばらく響いた。

先刻から待合所の縁にもたれて、一冊の書物を読んでいる二十四、五歳の若者がいる。

紺無地の腹掛、股引に白い小倉織の汚れた背広を着て、ゴムのほつれた長靴を履き、つばが広い麦藁帽子を斜めに傾けてかぶっている。

跨いだ膝の間に茶褐色で渦毛の太くたくましい犬を入れて、その頭をなでながら読書に専念していたが、鈴の音を聞くと同時に身を起して、ひらりと御者台に乗り移った。

彼の体は貴公子のように華奢で、態度は厳かで、その中に自ずから活発な気配を含んでいる。

卑しげに日に焼けた顔も、よく見れば、澄んだ瞳と美しい眉をして、秀でた容貌は尋常ではない。

つまりは、馬蹄の塵にまみれて鞭を振るという輩ではないのである。

御者が書物を腹掛のポケットに収め、革紐を付けた竹根の鞭を執って、静かに手綱を捌きつつ身構えたとき、一輌の人力車が南から来て、疾風のように馬車の側をかすめ、瞬く間に一点の黒い影となり終えた。

美人はこれを眺めて、

「おい、小僧さん、人力車より遅いじゃないか」

小僧がまだ答えないうちに、御者は厳しい表情で顔を上げ、微かになった車の影を見送って、

「吉公、てめえ、また人力車より速えと言ったな」

小僧は愛嬌よく頭を掻いて、

「ああ、言った。でも、そう言わねえと乗らねえもの」

御者は黙って頷いた。

すぐに鞭が鳴ると同時に、二頭の馬は高くいなないて一文字に駆け出した。

不意をくらった乗客は、席に堪えられずに、ほとんど転げ落ちようとした。

奔馬は中空を駆けて、見る見る人力車を追い越した。

御者はやがて馬のもがく足を緩め、車夫に先を越させない程度にゆっくりと進行させた。

車夫は必死になって遅れてなるものかと焦ったが、馬車はまるで月を背にした自分の影のように、一歩進むごとに一歩進んで、追っても追っても抜きがたく、次第に力尽きて息も迫り、もはや倒れてしまいそうに感じる頃、高岡から一里(約3.9km)を隔てた立野の駅に着いた。

この街道の車夫は組合を設けて、各駅に連絡を通じているので、今この車夫が馬車に遅れて喘ぎ喘ぎ走るのを見ると、そこで客を待っていた仲間の一人が、手に唾をして躍り出て、

「おい、兄弟、しっかりしなよ。馬車の畜生、どうしてくれよう」

いきなり牽引の綱を梶棒に投げかけると、疲れた車夫は勢いを得て、

「ありがてえ! 頼むよ」

「合点だい!」

それと言うまま引き始めた。

二人の車夫は勇ましく呼応しながら、急に驚くべき速力で走った。

やがて町外れの狭く急な曲がり角を争うと見えたが、人力車はわき目も振らずに突進して、ついに一歩抜いた。

車夫は一斉に勝鬨(かちどき)をあげ、勢いに乗じて二歩抜き、三歩抜き、ますます駆けて、球が跳ねるかのように軽く速く、二、三間(約3.6~5.5m)を先んじた。

先程は人力車を尻目に見て、たいそう揚々としていた乗客の一人が、

「さあ、やられた!」と身悶えして騒ぐと、車中はいずれも同感の意を表して、力瘤を握る者もあり、地団駄を踏む者もあり、小僧を叱咤してしきりにラッパを吹かせる者もある。

御者が縦横に鞭をふるって、激しく手綱を操ると、馬の背の汗は激しく流れて掬えるほどで、くつわの手綱を結ぶ部分にはみ出した白い泡は真綿の一袋分にもなったようである。

こうしている間、車体は上下に振動して、頓挫したり、傾斜したり、ただ風が落ち葉を巻き上げ、早瀬が浮き木を弄ぶのと変わらない。

乗客は前後に首を振り、左右に傾いて、片時も安心できず、今にもこの車がひっくり返るか、それとも自分が投げ落とされるか、いずれも怪我は免れないところと、老人は震え慄き、若者は目を据えて、ただ一瞬後を危ぶんだ。

七、八町(約763~872m)を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛うじて人力車を追い抜いた。

乗客は思わず手を叩き、車体も揺れるほどに喝采した。

小僧は勝鬨のラッパを吹き鳴らして、遅れた人力車を差し招きつつ、踏み段の上で躍った。

ひとり御者だけは喜ぶ様子もなく、注意して馬を労りながら駆けさせている。

怪しい美人が満面に笑みを含んで、起伏が並々でない席に落ち着いていることに、隣の老人が感動して、

「お前さんは、どうもお強い。よく貧血が起こりませんね。平気なものだ、男まさりだ。私なんぞは、からきし意気地がない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」

その言葉が終わらないうち、車は凸凹道を踏んで、ガクリとつまづいた。

老人は横になぎ倒されて、半ば禿げた法然頭がどさっと美人の膝を枕にした。

「あれ、危ない!」

と美人は、その肩をしっかりと抱いた。

老人はむくむくと身を起して、

「へい、これはどうもはばかりさま。さぞ、お痛うございましたろう。ご免なすって下さいましよ。いやはや、意気地がありません。これさ、馬丁(べっとう)さんや、もし若い衆(しゅ)さん、ところで、ひっくり返るようなことはなかろうの」

御者は振り返りもせず、勢いを込めた一鞭を加えて、

「わかりません。馬がつまづきゃ、それまででさ」

老人は目を丸くしてうろたえた。

「いやさ、転ばぬ先の杖だよ。ほんにお願いだ、気をつけておくれ。若い人と違って年寄りのことだ、放り出されたらそれまでだよ。もういい加減にして、やわやわとやってもらおうじゃないか。どうです皆さん、どうでございます」

「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、私に任せたものとして、安心していなければなりません」

「ええ、とんでもない。どうして安心ができるものか」

呆れ果てて老人がつぶやくと、御者は初めて振り返った。

「それで安心ができなけりゃ、ご自分の脚で歩くんです」

「はいはい、それはご親切に」

老人は腹立たしげに御者の顔をぬすみ見た。

遅れた人力車は、次の発着所でまた一人増して後押しを加えたが、やはりまだ追いつかないので、車夫らがますます発憤して悶えるおりから、松並木の中途で、向こうから空車を引いてくる二人の車夫に出会った。

行き違いざま、綱引きが必死な声を振り立て、

「後生だい、手を貸してくんねえか。あのガタ馬車の畜生、追い越さねえじゃ」

「こちとらの顔が立たねえんだ」と他の一人が叫んだ。

血気事を好む連中は、「おう」と言うまま、その車を道端に棄てて、総勢五人の車夫が激しく揉み合って駆けたので、二、三町(約218~327km)のうちに敵に追いつき、しばらくは並走して互いに一歩を争った。

そのとき、車夫が一斉に鬨の声をあげて馬を驚かせた。

馬は怯えて躍り狂った。

車はこのために傾斜して、まさに乗客を振り落とそうとした。

恐怖、叫喚、騒擾、地震における惨状が馬車の中に現れた。

冷ややかに平然としているのは、独りあの怪しい美人だけである。

一身を自分に任せよと言った御者は、波風に翻弄される汽船が、やがて大海原の底に沈没しようとする危急に際して、蒸気機関がまだ洋々とした穏やかな波を切るのと変わらない態度で、その職を全うするかのように、落ち着いて手綱を操っている。

競争者に遅れず先んじず、隙さえあれば一躍して追い越そうと、睨み合いつつ押していく様子は、この道に堪能な達人と思われ、たいそう頼もしく見えていた。

しかし、危急の際、この頼もしさを見ていたのは、わずかに例の美人だけであった。

他は皆、見苦しくも慌てふためいて、多くの神と仏とがそれぞれの心で祈られた。

その美人はなお、この騒擾の間、始終御者の様子を見守っていた。

こうして六つの車輪はまるで一つの軸にあって回転するように、両者は並んで福岡というところに着いた。

ここに馬車の休憩所があって、馬に水を与え、客に茶を売るのが通例であるが、今日ばかりは素通りだろう、と乗客はそれぞれに思った。

御者はこの店先に馬を止めた。

これでこっちのものだと、車夫は急に勢いを増して、手を振り、声を上げ、思うままに侮辱して駆け去った。

乗客は歯がみをしつつ見送っていたが、人力車は遠く一団の砂埃に包まれて、ついに視界の外に失われた。

旅商人ふうの男が最も苛立って、

「何と皆さん、腹が立つじゃございませんか。大人気のないことだけれど、こういう行きがかりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁さん、早くやってくれたまえな」

「それもそうですけれどもな、年寄りはまことにはやどうも。第一、この疝痛に障りますのでな」

と遠慮がちに訴えるのは、美人に膝枕した老人である。

馬は群がるハエとアブの中で悠々と水を飲み、小僧は木陰の腰掛けに大の字になって、むしゃむしゃと菓子を食べている。

御者は上がり框で休息して、巻煙草を燻らせながら、茶店のおかみと話していた。

「こりゃ、急に出そうもない」と一人がつぶやけば、田舎女房らしいのが、その向かいにいて、

「憎らしいほど落ち着いてるじゃありませんかね」

最初の発言者は、ますます堪えかねて、

「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか心づけをはずみまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。どうぞご賛成願います」

彼は直ちに帯から下げたがま口を取り出して、中の銭を探りながら、

「ねえあなた、ここでああ怠けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」

やがて言い出した者から銅貨三銭で始めた。

帽子を脱いでその中に入れたものを、人々の前に差し出して、彼は広く義捐(ぎえん)を募った。

勇んで躍り込んだ白銅の五銭がある。

渋々捨てられた五厘もある。

ここの一銭、あそこの二銭と積もって、十六銭五厘となった。

美人は片隅にいて、応募の最終であった。

言い出した者の帽子が巡回して彼女の前に来たとき、世話人は言葉を低くして挨拶した。

「とんだお付き合いで、どうもお気の毒さまでございます」

美人が軽く会釈すると同時に、その手は帯の間に入った。

懐紙で上包みした緋塩瀬の紙入れを開いて、彼女は無造作に半円銀貨を投げ出した。

それとなく見た老人は非常に驚いて顔を背け、世話人は頭を掻いて、

「いや、これはお釣りが足りない。私もあいにく細かいのが・・・」

と腰のがま口に手を掛けると、

「いいえ、いいんですよ」

世話人は呆れて叫んだ。

「こんなに? 五十銭!」

これを聞いた乗客は、そうでなくても何者なのか、怪しい美人と目を着けていたのが、今この金離れが女性には不相応なことから、いよいよ底気味悪く怪しんだ。

世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、

「しめて金六十六銭と五厘! 大したことになりました。これなら馬は駈けますぜ」

御者はすでに着席して出発の用意をしている。

世話人は心づけを紙に包んで持っていった。

「おい、若い衆さん、これは皆さんからの心づけだよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶん一つ奮発してね。頼むよ」

彼は気軽に御者の肩を叩いて、

「隊長、一晩遊べるぜ」

御者は流し目で紙包みを見てそらとぼけた。

「心づけで馬は動きません」

わずかに五銭六厘を懐にした小僧は、驚きかつ惜しんで、恨めしそうに御者の顔を眺めた。

好意を無にされた世話人は腹を立て、

「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃ要らないんだね」

車はゆっくりと進行した。

「いただく理由がありませんから」

「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえってことさ」

六十六銭五厘は、まさに御者のポケットに闖入しようとした。

彼は固く拒んで、

「思し召しはありがたく存じますが、規定の車代のほかに骨折り賃をいただく理由がございません」

世話人は押し返された紙包みを持ち扱いつつ、

「理由もへちまもあるものかな。お客がくれるというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰って済まないと思ったら、一骨折って今の人力車を抜いてくれたまえな」

「心づけなんぞはいただかなくっても、十分骨は折ってるんです」

世話人は嘲笑った。

「そんな立派な口をきいたって、約束が違や世話はねえ」

御者は厳しい表情で振り返って、

「何ですと?」

「この馬車は人力車より速いという約束だぜ」

厳然として御者は答えた。

「そんなお約束はしません」

「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の心づけをお出しなすったのはこの方だよ。あの人力車より速く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大な心づけもはずもうというのだ。どうだ先生、恐れ入ったか」

鼻をうごめかせて、世話人は御者の背を指で突いた。

彼は一言も発さず、世話人はすこぶる得意であった。

美人は戯れるかのようになじった。

「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」

彼はなお口を厳しく閉ざしていた。

その唇を動かすべき力は、彼の両腕に奮って、馬蹄が急に高く挙がると、車輪はその骨が見えなくなるまでに回転した。

乗客は再び地上の波に揺られて、浮沈の憂き目に遭った。

思うがままに馬を走らせること五分、遥か前方に競争者の影が認められた。

しかし、出る時間が遅れたので、容易に追いつくはずもなかった。

到着地である石動は、もはや間近に迫っている。

いま一躍の下に追い越さなければ、終いには負けざるを得ないであろう。

憐れにも過度の奔走に疲れ果てた馬は、力なげに垂れた首を並べて、打っても走っても、足は重く、地を離れかねていた。

何を思ったか、御者は地上に降り立った。

乗客がこれはいったいどうしたことかと見る間に、彼は手早く一頭の馬を解き放って、

「姉さん、済みませんが、ちょっと降りてください」

乗客は顔を見合わせて、この謎を解くのに苦しんだ。

美人が彼の言うとおりに車を降りると、

「どうかこちらへ」と御者は自分の立った馬の側に招いた。

美人はますますその意味がわからなかったが、なお彼の言うがままに進み寄った。

御者は物も言わずに美人を引き抱えて、ひらりと馬に跨った。

驚いたのは乗客だ。乗客は実に驚いたのである。

彼らは千体仏のように顔を集め、あっけらかんとあごを垂れて、おそらくは絵にも見ることがかなわないこの不思議な様子に目を奪われていたが、その馬は奇怪な御者と奇怪な美人と奇怪な挙動とを乗せて、まっしぐらに駆け去った。

車上の見物客は、ようやく我に返ってどよめいた。

「いったい、どうしたんでしょう」

「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」

「へえ、何でございます」

「客の逃げたのが乗り逃げ。御者の方で逃げたのだから、乗せ逃げでしょう」

例の老人は頭を振り振りつぶやいた。

「いや洒落どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」

不審の眉をひそめた前の世話人は、腕を組みながら車中を見回して、

「皆さん、何と思召す? こりゃただ事じゃありませんぜ。馬鹿を見たのは我々ですよ。まったく駆け落ちですな。どうもあの女がさ、ただの鼠じゃあるめえと睨んでおきましたが、こりゃあ、まさにそうだった。しかし、いい女だ」

「私は急ぎの用を抱えている身だから、こうして安閑としてはいられない。なんとかこの小僧に頼んで、一頭の馬でやってもらおうじゃございませんか。馬鹿馬鹿しい、銭を出して、あのザマを見せられて、置き去りをくう奴もないものだ」

「まったくそうでございますよ。ほんとにふざけた真似をする野郎だ。小僧、早くやってくんな」

小僧は途方に暮れて、先刻から車の前後に出没していたが、

「どうもお気の毒さまです」

「お気の毒さまは知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早くやってくれ、やってくれ!」

「私にはまだよく馬が動きません」

「生きてるものの動かないという法があるものか」

「臀っぺたをひっぱたけ、ひっぱたけ」

小僧は苦笑いしつつ、

「そんなことを言ったっていけません。二頭引きの車ですから、馬が一頭じゃやりきれません」

「そんなら、ここで降りるから銭を返してくれ」

腹を立てる者、無理を言う者、つぶやく者、罵る者、迷惑する者、乗客の不平は小僧の身に集まった。

彼は散々に苛められて、ついに涙ぐみ、身の置き所に窮して、辛うじて車の後ろで小さくなっていた。

乗客はますます騒いで、相手のいない喧嘩に狂った。

御者が真一文字に馬を飛ばして、雲を霞と走ったので、美人は生きた心地もせず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り彼の腰にすがりついた。

風がヒューヒューと両腋の下に起こって、髪は逆立ち、道はさながら河のようで、濁流が足元に勢いよく流れ注ぎ、体は空中を転がるようである。

彼女は本当に死ぬ思いがした。

次第に風が止み、馬が止まるのを感じると、すぐに昏倒して正気を失った。

御者が静かに馬から助け降ろして、茶店の座敷に担ぎ入れたときである。

彼はその介抱を店主の老女に頼んで、自身は息をも継がず、再び疲れた馬に鞭打って、もと来た道を急いだ。

ほどなく美人は目を覚まして、ここが石動の外れであるのを知った。

御者はすでにいない。

彼女は彼の名を老女に訊ねて、金さんであると知った。

その人柄を問うと、行いは正しく、真面目で厳か、その行いを尋ねると、学問好き。 

(つづく)

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