泉鏡花「義血侠血」 7
七
公判は予定の日に金沢地方裁判所で開かれた。
傍聴席は人が山をなして、被告及び関係者である水島友は、弁護士や看守を助ける下級役人らとともに控えて、裁判官の着席を待った。
ほどなく正面の戸をさっと開いて、長身の裁判長が入って来た。
二名の陪席判事と一名の書記とがこれに続いた。
法廷内は静まり返って水を打ったようなので、その靴音は四方の壁に響き、天井にこだまし、一種の怖ろしい音となって、傍聴人の胸にとどろいた。
威儀おごそかに彼らが着席したとき、正面の戸が再び開いて、高潔な気配を帯び、秀でた容貌を備えた司法官が現れた。
彼はその麗しい髭を捻りながら、ゆったりと落ち着いて検事の席に着いた。
謹んだ聴衆を容れた法廷では、室内の空気は少しも熱くならず、人々は奥深い静かな谷の木立のように群がっている。
制服をまとった判事と検事とは、赤と青とカバーの異なるテーブルに別れて、一段高い場所に居並んだ。
初め判事らが出廷したとき、白糸は静かに顔を上げて彼らを見ながら、臆した様子もなかったが、最後に現れた検事代理を見るやいなや、顔色が蒼ざめ、体が震えた。
この優れた司法官は、実に彼女が三年の間、寝ている間も忘れなかった欣さんではないか。
彼はその学識と地位によって、かつて御者であった日の垢や塵を洗い去り、今ではその顔はたいそう清らかで、その眉はひときわ秀でて、驚くばかりに見違えているが、紛うはずもない、彼は村越欣弥である。
白糸は初め不意の再会に驚いていたが、再び彼を熟視するに及んで我を忘れ、三度彼を見て、憂いに沈んで首を垂れた。
白糸はあり得るはずもないほどに意外な思いをしていた。
彼女はこのときまで、一人の頼もしい馬丁(べっとう)として、その心の中で彼を思い描いてきた。
まだこのように畏敬すべき者になっていようとは知らなかった。
ある点では、彼を思うままにできるだろうと思っていた。
しかし、今、この検事代理である村越欣弥に対しては、その髪の毛一本さえ動かせる力が自分にないのを感じた。
ああ、闊達豪放な滝の白糸!
彼女はこのときまで、自分が人に対して、こうまで自分の意志が通せないものとは思わなかったのである。
彼女はこの憤りと喜びと悲しみに挫かれて、柳の枝が露でうつむいたように、哀れにしおれて見えた。
欣弥の視線は、密かに始終、恩人の姿に注いでいる。
彼女は果たして、三年前に天神橋の上で、月明かりの下で、肘を握って壮語し、虹のように気を吐いた女丈夫なのか。
その面影もなく、ひどく彼女は衰えたものだ。
恩人の顔は蒼ざめている。
その頬はこけている。
その髪は乱れている。
乱れた髪! あの夕べの乱れた髪は、実に活発な鉄火を表していたが、今はその憔悴を増すだけであった。
彼は思った。
闊達豪放の女丈夫!
彼女は瀕死の病床に横たわろうとも、決してこのような衰えた姿を見せないはずだ。
烈々とした彼女の心の中で燃える火はすでに消えたのか。
どうして彼女が冷たくなった灰のようなのか。
欣弥はこの姿を見るなり。不覚にもむやみに憐れを催して、胸も張り裂けるばかりだった。
同時に彼は自分の職務に気づいた。
私情で公務を疎かにはできないと、彼は拳を握って目を閉じた。
やがて裁判長が被告に向かって二、三の尋問をしたのち、弁護士は出刃打ちの冤罪をすすぐために、よどみなく数千語を連ねて、ほとんど余すところがなかった。
裁判長は事実を隠蔽しないように白糸を諭した。
彼女はあくまで盗難にあった覚えのない旨を答えて、黒白は容易に判別すべくもなかった。
検事代理はようやく閉じていた目を開くとともに、うちしおれてうなじを垂れている白糸を見た。
彼はそのとき一段と声を高くして、
「水島友、村越欣弥が・・・本官が改めて尋問するが、包み隠さず事実を申せ」
友はわずかに顔を上げて、額越しに検事代理の表情を窺った。
彼は情け容赦のない司法官の威厳のある態度で、
「そのほうは、まったく金を盗られた覚えはないのか。偽りを申すな。たとえ偽りを以って一時は逃れても、天知る、地知る、我知るで、いついつまでも知れずにはおらんぞ。しかし、知れるの知れないのと、そんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名高い芸人ではないか。それが、かりそめにも偽りなどを申しては、その名に対しても実に恥ずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。また、そのほうのような名高い芸人になれば、ずいぶん多くの贔屓(ひいき)もあろう、その贔屓が、裁判所でそのほうが偽りを申し立てて、そのために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸は天晴(あっぱれ)な心がけだと言って誉めるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日限り愛想を尽かして、以後は道で会おうとも唾もしかけんな。しかし、長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯千万な偽りの申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」
こう諭していた欣弥の声音には、その平生を知っている傍聴席の彼の母だけでなく、司法官も聴衆も、自ずからその異常な様子を聞きとれたのである。
白糸の憂いに沈んだ目は、急に清らかに輝いて、
「そんなら、事実を申しましょうか」
裁判長は穏やかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実は盗られました」
ついに白糸は自白した。
法の一貫目は情の一匁なのか、彼女はその懐かしい検事代理のために喜んで自白したのである。
「何? 盗られたと申すか」
裁判長は軽くテーブルを叩いて、厳しい表情で白糸を見た。
「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が私を手ごめにして、私の懐中の百円を盗りました」
「確かにその通りか」
「相違ございません」
これに次いで、白糸は無造作にその重罪も白状していた。
裁判長は直ちに尋問を中止し、即刻この日の公判を終わった。
検事代理村越欣弥は、私情の目を覆ってつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を重ねたこの上もない恩人を、殺人犯として起訴したのである。
やがて予審が終わり、公判を開いて、裁判長は検事代理の請求は是であるとして、彼女に死刑を宣告した。
一生他人ではいまいと誓った村越欣弥は、ついにあの世とこの世とに隔てられ、永く恩人と会えなくなることを悲嘆して、宣告の夕べ、仮住まいの二階で自殺していた。
(おわり)
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