泉鏡花「義血侠血」 6
六
高岡-石動間の乗合馬車は、いま立野から福岡までの途中を走っている。
乗客の一人が煙草の火を借りた人に向かって、雑談の口を開いた。
「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、ご同様に共進会(産業の振興を図るため、産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会)でございますか」
「そうさ、共進会も見ようと思いますが、他に少し・・・」
彼は話好きらしく、
「へへ、何かご公務のご用で」
その人が髭を蓄え、洋服を着ていたので、彼はこう言ったのであろう。
官吏(?)は吸い詰めた巻き煙草を車の外に投げ捨て、次いで忙しく唾を吐いた。
「実は、明日か明後日あたり開くはずの公判を聴こうと思いましてね」
「へへえ、なるほど、へえ」
彼はその公判が何についてのものか知らないようである。
傍らにいた旅商人が、急に得意そうな我は顔で、嘴(くちばし)を容れた。
「ああ、何でございますか。この夏、公園で人殺しをした強盗の一件?」
髭のある人は、目を「我は顔」に転じて、
「そう。知っておいでですか」
「話には聞いておりますが、詳しいことは存じませんで。じゃ、あの賊は逮捕されましたか」
話を奪われた前の男も、思い当たる節があったのか、
「あ、あ、あ、ひとしきりそんな噂がございましたっけ。金持ちの夫婦を斬り殺したとかいう・・・その裁判があるのでございますか」
髭は再びこちらを振り向いて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
彼は話を釣れる器械である、彼特有の「へへえ」と「なるほど」を用いて、しきりにその顛末を聞こうとした。
乙者も劣らず水を向けていた。
髭のある人の口はようやく滑らかになった。
「賊はじきにその晩捕まった」
「恐いものだ!」と甲者は身を反らして頭を振った。
「あの、それ、南京出刃という見世物な、あの連中の仕業だというのだがね」
乙者はすぐにこれに応じた。
「南京出刃打ち? なるほど、見たことがございました。あいつらが? ふうん。いくらでもやりかねますまいよ」
「その晩、橋場町の交番の前を怪しい風体の奴が通ったので、巡査が咎めると、こそこそ逃げ出したから、こいつ胡散くさいとひっ捕らえてみると、着ている浴衣の片袖がない」
話がここに至って、甲と乙は、思わず同音に呻いた。
乗客は弁者の顔を窺って、その後段を渇望した。
甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の袖がない! 天も・・・何とやらで何とかして漏らさず・・・ですな」
弁者はこの不完全な言葉をおかしがって、
「天網恢々疎にして漏らさず、かい」
甲者は聞くと同時に手を上げて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
乗客の多くは、この恢々に笑った。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩、兼六園の席貸な、六勝亭、あれの主人は桐田という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業だか、いや、それは実に残酷にやられたというね。亭主はみぞおちのところを突き通される、女房は頭に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を抉られて、倒れていたその手に、男の片袖をつかんでいたのだ」
車中は声もなく、人々は固唾を飲んで、その心を寒くした。
まさに、これは弁者の得意のとき。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸の側に出刃包丁が捨ててあった。柄のところに片仮名のテの字の焼き印がある。これを調べると、出刃打ちが使っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に違いないので、まず犯人はこいつと誰もが目を着けたさ」
旅商人は膝を進めた。
「へえ、それじゃ、そいつじゃないんでございますかい」
弁者はすぐに手を上げて、これを制した。
「まあ、お聞きなさい。ところで、出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、決して人殺しをした覚えはございません。奪(と)りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門は通りもしませんっ」
「はて、ねえ」と、甲者は眉を動かして弁者を見つめ、乙者は黙って考えた。
ますますその後段を渇望する乗客は、順繰りに席を進めて、弁者に近づこうとした。
彼はそのとき巻き煙草を取り出して、唇に湿しながら、
「話はこれからだ」
左側の席の最前に並んでいる、威厳のある紳士とその老母は、顔を見合わせて互いに表情を動かした。
彼は質素な黒の紋付の羽織に、節の多い絹糸で織った仙台平の袴をはいて、その髭は弁者より麗しいものであった。
彼は紳士といえるほどの服装ではなかったのである。
しかし、その容貌とその髭は、多くの男が備えることのできない紳士の風采を備えていた。
弁者はもっともらしく煙を吹いて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
乙者は頷き頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美人で」
「さよう、そこでその頃、福井の方で興行中のあの女を呼び出して、当事者を相対させて審理に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪うときに、大方ちぎられたのであろうが、自分は知らずに逃げたので、出刃包丁も同様に女を脅すために持っていたのを、慌てて忘れて来たのであるから、たとえその二つが桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理屈には合わんけれど、奴はまずそう言い張るのだ。そこで女が、その通りだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、他にいるとなるのだ」
甲者は頬杖をついていた顔を外して、弁者の前に差し寄せながら、
「へえへえ、そうして女は何と申しました」
「ぜひお前様に逢いたいと言ったね」
思いも寄らない弁者の冗談は、大いにその場の笑いを博した。
彼も仕方なく笑った。
「ところが、金を盗られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも盗ったと言う。泥棒のほうから盗ったというのに、盗られたほうでは盗られないと言い張る。なんだか大岡裁きの本にでもありそうな話さ」
「これには大分わけがありそうです」
乙者は首を捻りながら、腕を組んだ。
例の「なるほど」は、話がますます佳境に入るのを楽しんでいる様子で、
「なるほど、これだから裁判は難しい! へえ、それからどういたしました」
傍聴者は声を出すのを止めて、いよいよ耳を傾けた。
威厳のある紳士とその老母は、最も静かで行儀正しく、死んだように黙っていた。
弁者はなおも言葉を継いだ。
「実にこれは水掛け論さ。しかし、とどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでから、この公判までにはだいぶ間があったのだ。この間に出刃打ちの弁護士は非常に苦心して、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、ここ一番と腕を揮って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手ぐすねを引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
甲者は例の「なるほど」を言わずに、不平の色を表した。
「へえ、その何でございますか。旦那、その弁護士という奴は出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女になすろうって企みなんでございますか」
弁者は彼の無分別を笑って、
「何も企みだの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
甲者はますます不平に堪えなかった。
彼は弁者を睨んで、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つってえことがあるもんですか。相手は女じゃありませんか。可哀そうに。私なら弁護を頼まれたって何だって構やしません。お前が悪い、ありのままに白状しな、と出刃打ちの野郎を極め付けてやりまさあ」
彼の鼻息はすこぶる荒々しかった。
「そんな弁護士を誰が頼むものか」
と弁者はのけぞって笑った。
乗客は、威厳のある紳士とその老母を除いて、ことごとく大笑いした。
笑い止む頃、馬車は石動に着いた。
車を降りようと弁者は席を立った。
甲と乙は彼に向かって慇懃に一礼して、
「お蔭さまで面白うございました」
「どうも旦那ありがとう存じました」
弁者は得意そうに、
「お前さん方も暇があったら、公判に行ってごらんなさい」
「こりゃ、芝居より面白いことでございましょう」
乗客は慌ただしく下車して、思い思いに別れた。
最後に、威厳のある紳士がその母の手を取って助け降ろしながら、
「危のうございますよ。はい、これからは人力車でございます」
彼らの入った発着所の茶屋の入口に、馬車会社の老いた役員が佇んでいる。
彼は何気なく紳士の顔を見ていたが、急に我を忘れて、その瞳を凝らした。
そのまま近づいてきた紳士は帽子を脱いで、ボタンが二ヵ所失われた茶羅紗のチョッキに、水晶の小さな印をぶら下げたニッケルメッキの鎖を掛けて、柱にもたれている役員の前で頭を下げた。
「その後はご機嫌よろしゅう。相変わらずお達者で。・・・」
役員は狼狽して姿勢を正し、奪うかのようにその味噌漉しの形をした帽子を脱いだ。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから似ているとは思ったけれど、えらく立派になったもんだから。・・・しかし、お前さんも無事で、そうしてまあ、立派になんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして、勉強してきたのは法律かい。法律はいいね。お前さんは好きだった。好きこそ物の上手なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に・・・うん、検事代理というのかい」
老いた役員は我が子の出世を見るかのように喜んだ。
当時の紺無地の腹掛けは、今日、黒の三つ紋の羽織となった。
金沢裁判所新任検事代理、村越欣弥氏は、実に三年前の御者台上の金公であった。
(つづく)
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