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  • 「まちこの香箱(かおりばこ)」
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泉鏡花「義血侠血」 5

   五

水が澱んで油のような霞ヶ池の水際に、生死不明で倒れている女性がいる。

四肢を弛めて地面にひれ伏し、身動きもせずにしばらく横たわっていたのが、ようやく首を動かして、がっくりと頭を垂れ、やがて草の根を力におぼつかなくも起ち上がって、よろめく体を傍らの根上がり松でやっと支えている。

その浴衣はところどころ引き裂け、帯は半ば解けて脛が露わになり、高島田は面影を留めないほど崩れている。

これこそ、盗難に遭った滝の白糸の姿である。

彼女は今夜の演芸を終えた後、連日の疲労が一時に出て、楽屋の涼しい所でまどろんでいた。

一座の連中は早くも荷物を取りまとめて、「さあ、引き払おう」と夢の中の太夫に呼びかけていたが、彼女は快眠を惜しみ、一足先に行けと夢うつつのうちに言い放って、再び熟睡した。

彼らは豪放な太夫の平生を知っていたので、彼女の言うままに捨て置いて立ち去ったのである。

しばらくして白糸は目を覚ました。

この空き小屋の中でうたた寝した彼女の懐には、欣弥の半年の学資が収められていたのである。

しかし、彼女は危ないところだったとも思わず、昼の暑さに引きかえ、涼しい真夜中が静かなのを喜びながら、福井の興行主が待っている旅宿に行こうと、ここまで来たところに、ばらばらと木陰から躍り出た数人がいる。

これが皆、屈強の大男で、いずれも手拭いで顔を覆ったのが五人ほど、手に手に研ぎ澄ました出刃包丁を引っ提げて、白糸を取り巻いた。

気性のしっかりした女ではあるが、彼女はさすがに驚いて立ち止まった。

狼藉者の一人が、だみ声を潜めて、

「おう、姉さん、懐の物を出しねえ」

「ジタバタすると、これだよ、これ」

こう言いながら、他の一人がその包丁を白糸の前で閃かせると、四挺の出刃も一斉にきらめいて、女の目を脅かした。

白糸はすでに自分が釜中の魚で、死の危機が迫っていることを覚悟した。

気持ちは少しも屈さないが、力が及ばないのはどうしようもない。

前進して敵と争うことはできず、後退して逃げることも難しい。

平生の彼女はかつて百円を惜しんだことがない。

しかし、今夜懐にある百円は、普段の千万円に値するもので、彼女の半身の生血ともいうべきものである。

彼女は何物にも換えがたく惜しんだ。

今ここでこれを失えば、ほとんど再びこれを得る方法はない。

しかし、彼女はついに失わざるを得ないのだろうか、豪放闊達の女丈夫も途方に暮れていた。

「何をぐずぐずしてやがるんで! さっさと出せ、出せ」

白糸は死守しようと決心した。

彼女の唇は黒くなった。

彼女の声はひどく震えた。

「これはやれないよ」

「くれなけりゃ、ふんだくるだけだ」

「やっつけろ、やっつけろ!」

その声を聞くと同時に、白糸は背後から組み付かれた。

振り払おうとする間もなく、胸も押し潰されるばかりの羽交い絞めにあった。

すぐに荒くれた四つの手は、乱暴に彼女の帯の間と内懐とをかき探した。

「あれえ!」と叫んで救いを求めていたのは、このときの血を吐くような声であった。

「あった、あった」と一人の賊が叫んだ。

「あったか、あったか」と両三人の声が応えた。

白糸は猿ぐつわをはめられ、手も足も地面に押し伏せられた。

しかし、彼女は絶えず身をよじって、跳ね返そうとしていたのである。

急に彼らの力が弛んだ。

すかさず白糸が起き返るところを、はたと蹴り倒された。

賊はその隙に逃げ失せて行方が知れない。

惜しんでも惜しんでも、なお余りある百円は、ついに還らないものとなった。

白糸は胸中に湯が沸くように、火が燃えるように、さまざまな思いが募るにまかせ、無念で仕方のない松の下蔭に立ち尽くして、夜が更けるのも忘れていた。

「ああ、仕方ない、何事も運命だと諦めるのだ。何の百円ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう ?! 」

彼女はひしと我が身を抱いて、松の幹に打ち当てた。

ふと傍らを見ると、広々とした霞ヶ池は、霜が降りたようにほの暗い月光を宿している。

白糸のまなざしは、その精神の全力を集めたかと思うほどの光を帯びて、病んだような水面を睨んだ。

「ええ、もう何ともいえない嫌な気持ちだ。この水を飲んだら、さぞ胸がせいせいするだろう! ああ、死にたい。こんな思いをするくらいなら、死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」

彼女は胸中に激してくる感情を消そうとして、万斛(ばんこく)の恨みを飲むように、この水を飲み尽くそうと覚悟したのである。

彼女がもはや前後を忘れて、ただ一心に死を急ぎながら、よろよろと水際に寄ると、足元に何かがあってきらめいた。

思わず彼女の目はこれに止まった。出刃包丁である!

これは悪漢の持っていた凶器であるが、彼らが白糸を手ごめにしたとき、あれこれと争う間に取り落としたものを、忘れて捨てていったのである。

白糸は急にぞっとして寒さを覚えたが、やがて拾い上げて月にかざしながら、

「これを証拠に訴えれば手がかりがあるだろう。そのうちにはまた何とか都合もできよう。・・・これは、今死ぬのは。・・・」

この証拠品を得たために、彼女は死を思い留まって、早く警察署に行こうと気が変わると、今となっては忌まわしいこの水際を離れて、彼女が押し倒されていたあたりを過ぎた。

無念な思いが湧き出るように起こった。

かよわい女の身だったことが口惜しい! 男だったならば、などと言っても仕方のない意気地のなさを思い出して、しばらくはその恨めしい場所を去ることができなかった。

彼女は再び草の上にある物を見出した。

近づいてよく見ると、薄い藍色の布地に白く七宝繋ぎの柄の、洗い晒した浴衣の片袖であった。

これがまた賊の遺留品であることに白糸は気づいた。

おそらく彼女が暴行に抵抗したおりに、引きちぎった賊の衣の一部であろう。

彼女はこれも拾い上げ、出刃を包んで懐の中に推し入れた。

夜はますます更けて、空はいよいよ曇った。

湿った空気は重く沈んで、柳の葉末も動かなかった。

歩くにつれて、足もとの叢から池に飛び込む蛙が、小石を投げるかのように水を鳴らした。

うなじを垂れて歩きながら、彼女は深く思い悩んだ。

「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕まろうか。捕まったところで、うまく金が戻るだろうか。危ないものだ。そんなことを当てにしてぐずぐずしているうちに、欣さんが食うに困ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が届かなかった日には、どんなに困るだろう。はてなあ! 福井の興行主のほうは、三百円のうち二百円前借りしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣きついてみようかしらん。駄目だ、あの親爺だもの。ひっきりなしに小癪に障ることばっかり並べやがって、もうもうほんとに顔を見るのも嫌なのだ。そのくせ、また持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、困った、困った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何よりつらい! といって工面のしようもなし。・・・」

鐘の音がもの寂しく鳴り渡るのを聞いた。

「もう二時だ。はてなあ!」

白糸は思案にあまって、歩く力も失せた。

何気なくもたれたのは、未央柳(びおうりゅう)が長く垂れている檜の板塀の下であった。

これこそは公園内で六勝亭と呼ばれる席貸で、主人は富裕な隠居なので、構造に風流な工夫を尽くし、営業の傍ら、その老後を楽しむ家である。

白糸が佇んでいるのは、その裏口の枝折門の前であるが、どうして忘れたのか、戸を鎖さずにいたので、彼女がもたれると同時に戸が自然と内側に開いて、吸い込むかのように白糸を庭の中に引き入れた。

彼女はしばらく呆然として佇んだ。

その心には何を思うともなく、きょろきょろと辺りを見回した。

奥深くひっそりと造られた築山のない庭を前に、縁側の雨戸が長く続き、家内はまったく寝静まっている気配である。

白糸は一歩進み、二歩進んで、いつしか「寂然(せきぜん)の森(しげり)」を出て、「井戸囲い」のあたりに至った。

このとき、彼女は初めて気づいて驚いた。

このような深夜に人目を盗んで他人の門内に侵入するのは、賊のふるまいである。

自分は図らずも賊のふるまいをしているのであった。

ここに思い至って、白糸は今までに一度も念頭に浮かばなかった、盗むという金策の手段があることに気づいた。

次いで懐にある凶器に気づいた。

これは奴らがその手段に用いていた形見である。

白糸は懐に手を差し入れながら、頭を傾けている。

良心は慌ただしく叫び、彼女を責めた。

悪意は勇み立ち、彼女を励ました。

彼女は良心の譴責に遭っては恥じて悔み、悪意の教唆を受けては承諾した。良心と悪意は、白糸が頼りにならないことを知って、ついに互いに闘っていた。

「人の道に外れたことだ。そんな真似をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ。・・・けれども、工面ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、恥も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗ろう。盗ってから死のう、死のう!」

こう固く決心したが、彼女の良心は決してこれを許さなかった。

彼女の心は激しく動揺し、彼女の体は波に揺られる小舟のように安定しかねて、行きつ戻りつ、塀際を歩き回った。

しばらくして、彼女は手水鉢の近くに忍び寄った。

しかし、あえて悪事を行おうとはしなかったのである。

彼女は再び考え込んだ。

良心に追われて恐くなった盗人は、発覚を防ぐ用意をするひまがなかった。

彼女が塀際を徘徊したとき、手水口を開いて、家人の一人は早くも白糸の姿を認めたが、彼女は鈍くも知らずにいた。

鉢前の雨戸が不意に開いて、人が顔を現した。

白糸があっと飛び退くひまもなく、

「泥棒!」と男の声が叫んだ。

白糸の耳には、百の雷が一時に落ちたようにとどろいた。

精神が錯乱したその瞬間に、懐にあった出刃は彼女の右手に閃いて、縁側に立った男の胸を、柄も透れとばかりに貫いた。

戸をぎしぎしと鳴らして、男は倒れた。

朱(あけ)に染まった自分の手を見ながら、重傷を負って呻く声を聞いた白糸は、戸口に立ち竦み、わなわなと震えた。

彼女はもとより一点の害意さえなかったのである。

自分はそもそもどのようにして、このような不敵なふるまいをしたのかを疑った。

見れば、自分の手は確かに出刃を握っている。

その出刃は確かに男の胸を刺したのだ。

胸を刺したことで、男は倒れたのだ。

ならば、人を殺したのは自分だ、自分の手だと思った。

しかし、白糸は自分の心に、自分の手に、人を殺した記憶がなかった。

彼女は夢かと疑った。

「本当に殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたんだろう?」

白糸が平静を失い、ほとんど我を忘れている背後で、

「あなた、どうなすった?」

と聞こえるのは、寝ぼけた女の声である。白糸は出刃を隠して、そちらを睨んだ。

灯火が縁側を照らして、足音が近づいた。

白糸はぴたっと雨戸に身を寄せて、何者が来たかと窺った。

この家の妻であろう。

五十ばかりの女が寝間着姿もしどけなく、真鍮の手燭をかざして、まだ覚めきっていない目を見開こうと顔をしかめながら、よたよたと縁側をつたって来た。

亡骸に近づいて、それとも知らず、

「あなた、そんなところに寝て・・・どうなすっ・・・」

灯を差し向けて、まだその血に驚くひまがないところに、

「静かに!」と白糸は姿を現して、包丁を突き付けた。

妻は賊の姿を見ると同時にぺったりと膝を折り敷き、その場に伏して、がたがたと震えた。

白糸の度胸はすでに十分決まった。

「おい、おかみさん、金を出しな。これさ、金を出せというのに」

伏して応えない妻のうなじを、出刃でぺたぺたと叩いた。

妻は身も心もなく、

「は、は、はい、はい、は、はい」

「さあ、早くしておくれ。たくさんは要らないんだ。百円あればいい」

妻は苦しい息の下から、

「金はあちらにありますから・・・」

「あっちにあるなら一緒に行こう。声を立てると、おい、これだよ」

出刃包丁が妻の頬を見舞った。

彼女はますます恐怖して立つことができなかった。

「さあ、早くしないかい」

「た、た、た、ただ・・・今」

彼女は立とうとするが、その腰は上がらなかった。

しかし、彼女はなお立とうと焦った。

腰はますます上がらない。

立たなければ終いに殺されるだろうと、彼女はたいそう慌てたり、悶えたりして、やっとのことで立ち上がって案内した。

二間を隔てた奥に伴って、妻は賊が要求する百円を出した。

白糸は先ずこれを収めて、

「おかみさん、いろいろなことを言って気の毒だけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿ぐつわをはめてておくれ」

彼女は妻を縛ろうと、寝間着の細帯を解こうとした。

ほとんど人心地のないほど恐怖していた妻は、このときようやく賊に害意がないのを知ると同時に、幾分か落ち着きながら、初めて賊の姿を確認できたのである。

これはそもそもどういうこと! 賊は荒くれた大の男ではなく、姿かたちの優しい女であろうとは、彼女は今その正体を見て、与しやすいと思うと、

「泥棒!」と叫んで、白糸に飛びかかった。

白糸は不意を突かれて驚いたが、すかさず包丁の柄を返して、力まかせに彼女の頭を撃った。

彼女は屈せず、賊の懐に手を捻じ込んで、あの百円を奪い返そうとした。

白糸はその手に咬み付き、片手には包丁を振り上げて、再び柄で彼女の脇腹にくらわした。

「泥棒! 人殺し!」と地団太を踏んで、妻はなお荒々しく、なおけたたましく、

「人殺し、人殺しだ!」と血を吐くような声を絞った。

これまでだと観念した白糸は、持った出刃を取り直し、躍り狂う妻の喉をめがけて、ただ一突きと突いていたが、狙いを外して肩先を切り削いだ。

妻が白糸の懐に出刃を包んでいた片袖を探り当て、引っつかんだまま逃れようとするのを、立て続けにその頭に切りつけた。

彼女がますます猛り狂って、再び喚こうとしていたので、白糸は当たるのを幸いに滅多切りにして、弱るところを乳の下に深く突っ込んだ。

これが実に最期の一撃であったのである。

白糸は生まれてこのかた、これほど大量の血を見たことがなかった。

一坪の畳はまったく朱に染まって、散ったり、迸ったり、ぽたぽたと滴ったりした跡が八畳間の隅々まで広がり、雨水のような紅の中に、数ヵ所の傷を負った妻の、拳を握り、歯をくいしばって仰向けに引っくり返っているさまは、血まみれの額越しに、半ば閉じた目を睨むかのように据えて、折でもあれば、むくっと立とうとする勢いである。

白糸は生まれてこのかた、このような悲痛な最期を見たことがなかった。

これほど大量の血! このような浅ましい最期! 

これは何者の仕業であるか。

ここに立っている自分の仕業である。

我ながら自分が恐ろしいことだ、と白糸は思った。

彼女の心は再び堪えられないほど激しく動揺して、今では自分自身が殺されることから逃れるよりも、なお数倍の危ない、恐ろしい思いがして、一秒もここにいるにいられず、出刃を投げ捨てるより早く、後ろも見ずに一散に走り出たので、気が急くまま手水口の縁に横たわる骸の冷ややかな脚につまづき、激しい勢いで庭先に転がり落ちた。

彼女は男が生き返ったのかと思って、気を失いそうになりながら、枝折門まで走った。

風が少し起こって庭の梢を鳴らし、雨がぽっつりと白糸の顔を打った。

(つづく)

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