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泉鏡花「義血侠血」 1

泉鏡花「義血侠血」(初出:『読売新聞』明治27年11月1日~30日)の現代語訳です。

   

越中高岡から倶利伽羅峠下の発着所である石動まで、四里八町(約16.6km)の間を定時に出る乗合馬車がある。

車代が安いので、旅客はおおかた人力車を見捨てて、こちらに頼った。

車夫はその不景気を馬車会社のせいにして怨み、人力車と馬車との軋轢は次第にひどくなったが、顔役の調停でかろうじて営業上は不干渉を装っても、折にふれて紛争が起こることはしばしばであった。

七月八日の朝、一番馬車に乗り合う客を揃えようと、小僧がその門前で鈴を振りながら、

「馬車はいかがです。むちゃに安くって、人力車よりお速うござい。さあ、お乗んなさい。すぐに出ますよ」

甲走った声は鈴の音よりも高く、静かな朝の街に響き渡った。

通りすがりの粋な女が歩みを止めて、

「ちょいと、小僧さん、石動までいくら? なに十銭だって。ふう、安いね。その代わり遅いだろう」

沢庵を洗い立てたような色に染めたアンペラの古帽子の下から、小僧は猿のような目をきらめかせて、

「ものは試しだ。まあ、お召しなすってください。人力車より遅かったら、お代はいただきません」

こう言う間も、彼の手にある鈴は騒ぎ続けた。

「そんな立派なことを言って、きっとだね」

小僧は昂然と、

「嘘と坊主の髪は、ゆったことがありません」

「なんだね、しゃらくさい」

微笑みながら、女はこう言い捨てて乗り込んだ。

その年頃は二十三、四、姿は満開の花の色を強いて洗って、清楚になった葉桜の浅い緑のようである。

色白で鼻筋が通り、眉に力強さがあって、眼差しにいくぶんの凄みを帯び、見る目に涼しい美人である。

これは果たして何者なのか。

髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に紅だけをさしている。

将棋の駒を派手に散らした紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯を緩く引っかけに結んで、空色の縮緬の蹴出しをちらつかせ、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包を持ち添えている。

なりふりがお侠(きゃん)で、人を恐れない様子は、世間擦れ、場慣れして、一筋縄では繋ぐことができない精神を表している。

思うに、彼女の雪のような肌には刺青が浮かび出て、悪竜が焔を吐いていなければ、少なくともその左腕には、二つ枕でともに老いると誓った男の名が刻まれていようか。

馬車は、この怪しい美人で満員となった。

発車の号令が割れるばかりにしばらく響いた。

先刻から待合所の縁にもたれて、一冊の書物を読んでいる二十四、五歳の若者がいる。

紺無地の腹掛、股引に白い小倉織の汚れた背広を着て、ゴムのほつれた長靴を履き、つばが広い麦藁帽子を斜めに傾けてかぶっている。

跨いだ膝の間に茶褐色で渦毛の太くたくましい犬を入れて、その頭をなでながら読書に専念していたが、鈴の音を聞くと同時に身を起して、ひらりと御者台に乗り移った。

彼の体は貴公子のように華奢で、態度は厳かで、その中に自ずから活発な気配を含んでいる。

卑しげに日に焼けた顔も、よく見れば、澄んだ瞳と美しい眉をして、秀でた容貌は尋常ではない。

つまりは、馬蹄の塵にまみれて鞭を振るという輩ではないのである。

御者が書物を腹掛のポケットに収め、革紐を付けた竹根の鞭を執って、静かに手綱を捌きつつ身構えたとき、一輌の人力車が南から来て、疾風のように馬車の側をかすめ、瞬く間に一点の黒い影となり終えた。

美人はこれを眺めて、

「おい、小僧さん、人力車より遅いじゃないか」

小僧がまだ答えないうちに、御者は厳しい表情で顔を上げ、微かになった車の影を見送って、

「吉公、てめえ、また人力車より速えと言ったな」

小僧は愛嬌よく頭を掻いて、

「ああ、言った。でも、そう言わねえと乗らねえもの」

御者は黙って頷いた。

すぐに鞭が鳴ると同時に、二頭の馬は高くいなないて一文字に駆け出した。

不意をくらった乗客は、席に堪えられずに、ほとんど転げ落ちようとした。

奔馬は中空を駆けて、見る見る人力車を追い越した。

御者はやがて馬のもがく足を緩め、車夫に先を越させない程度にゆっくりと進行させた。

車夫は必死になって遅れてなるものかと焦ったが、馬車はまるで月を背にした自分の影のように、一歩進むごとに一歩進んで、追っても追っても抜きがたく、次第に力尽きて息も迫り、もはや倒れてしまいそうに感じる頃、高岡から一里(約3.9km)を隔てた立野の駅に着いた。

この街道の車夫は組合を設けて、各駅に連絡を通じているので、今この車夫が馬車に遅れて喘ぎ喘ぎ走るのを見ると、そこで客を待っていた仲間の一人が、手に唾をして躍り出て、

「おい、兄弟、しっかりしなよ。馬車の畜生、どうしてくれよう」

いきなり牽引の綱を梶棒に投げかけると、疲れた車夫は勢いを得て、

「ありがてえ! 頼むよ」

「合点だい!」

それと言うまま引き始めた。

二人の車夫は勇ましく呼応しながら、急に驚くべき速力で走った。

やがて町外れの狭く急な曲がり角を争うと見えたが、人力車はわき目も振らずに突進して、ついに一歩抜いた。

車夫は一斉に勝鬨(かちどき)をあげ、勢いに乗じて二歩抜き、三歩抜き、ますます駆けて、球が跳ねるかのように軽く速く、二、三間(約3.6~5.5m)を先んじた。

先程は人力車を尻目に見て、たいそう揚々としていた乗客の一人が、

「さあ、やられた!」と身悶えして騒ぐと、車中はいずれも同感の意を表して、力瘤を握る者もあり、地団駄を踏む者もあり、小僧を叱咤してしきりにラッパを吹かせる者もある。

御者が縦横に鞭をふるって、激しく手綱を操ると、馬の背の汗は激しく流れて掬えるほどで、くつわの手綱を結ぶ部分にはみ出した白い泡は真綿の一袋分にもなったようである。

こうしている間、車体は上下に振動して、頓挫したり、傾斜したり、ただ風が落ち葉を巻き上げ、早瀬が浮き木を弄ぶのと変わらない。

乗客は前後に首を振り、左右に傾いて、片時も安心できず、今にもこの車がひっくり返るか、それとも自分が投げ落とされるか、いずれも怪我は免れないところと、老人は震え慄き、若者は目を据えて、ただ一瞬後を危ぶんだ。

七、八町(約763~872m)を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛うじて人力車を追い抜いた。

乗客は思わず手を叩き、車体も揺れるほどに喝采した。

小僧は勝鬨のラッパを吹き鳴らして、遅れた人力車を差し招きつつ、踏み段の上で躍った。

ひとり御者だけは喜ぶ様子もなく、注意して馬を労りながら駆けさせている。

怪しい美人が満面に笑みを含んで、起伏が並々でない席に落ち着いていることに、隣の老人が感動して、

「お前さんは、どうもお強い。よく貧血が起こりませんね。平気なものだ、男まさりだ。私なんぞは、からきし意気地がない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」

その言葉が終わらないうち、車は凸凹道を踏んで、ガクリとつまづいた。

老人は横になぎ倒されて、半ば禿げた法然頭がどさっと美人の膝を枕にした。

「あれ、危ない!」

と美人は、その肩をしっかりと抱いた。

老人はむくむくと身を起して、

「へい、これはどうもはばかりさま。さぞ、お痛うございましたろう。ご免なすって下さいましよ。いやはや、意気地がありません。これさ、馬丁(べっとう)さんや、もし若い衆(しゅ)さん、ところで、ひっくり返るようなことはなかろうの」

御者は振り返りもせず、勢いを込めた一鞭を加えて、

「わかりません。馬がつまづきゃ、それまででさ」

老人は目を丸くしてうろたえた。

「いやさ、転ばぬ先の杖だよ。ほんにお願いだ、気をつけておくれ。若い人と違って年寄りのことだ、放り出されたらそれまでだよ。もういい加減にして、やわやわとやってもらおうじゃないか。どうです皆さん、どうでございます」

「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、私に任せたものとして、安心していなければなりません」

「ええ、とんでもない。どうして安心ができるものか」

呆れ果てて老人がつぶやくと、御者は初めて振り返った。

「それで安心ができなけりゃ、ご自分の脚で歩くんです」

「はいはい、それはご親切に」

老人は腹立たしげに御者の顔をぬすみ見た。

遅れた人力車は、次の発着所でまた一人増して後押しを加えたが、やはりまだ追いつかないので、車夫らがますます発憤して悶えるおりから、松並木の中途で、向こうから空車を引いてくる二人の車夫に出会った。

行き違いざま、綱引きが必死な声を振り立て、

「後生だい、手を貸してくんねえか。あのガタ馬車の畜生、追い越さねえじゃ」

「こちとらの顔が立たねえんだ」と他の一人が叫んだ。

血気事を好む連中は、「おう」と言うまま、その車を道端に棄てて、総勢五人の車夫が激しく揉み合って駆けたので、二、三町(約218~327km)のうちに敵に追いつき、しばらくは並走して互いに一歩を争った。

そのとき、車夫が一斉に鬨の声をあげて馬を驚かせた。

馬は怯えて躍り狂った。

車はこのために傾斜して、まさに乗客を振り落とそうとした。

恐怖、叫喚、騒擾、地震における惨状が馬車の中に現れた。

冷ややかに平然としているのは、独りあの怪しい美人だけである。

一身を自分に任せよと言った御者は、波風に翻弄される汽船が、やがて大海原の底に沈没しようとする危急に際して、蒸気機関がまだ洋々とした穏やかな波を切るのと変わらない態度で、その職を全うするかのように、落ち着いて手綱を操っている。

競争者に遅れず先んじず、隙さえあれば一躍して追い越そうと、睨み合いつつ押していく様子は、この道に堪能な達人と思われ、たいそう頼もしく見えていた。

しかし、危急の際、この頼もしさを見ていたのは、わずかに例の美人だけであった。

他は皆、見苦しくも慌てふためいて、多くの神と仏とがそれぞれの心で祈られた。

その美人はなお、この騒擾の間、始終御者の様子を見守っていた。

こうして六つの車輪はまるで一つの軸にあって回転するように、両者は並んで福岡というところに着いた。

ここに馬車の休憩所があって、馬に水を与え、客に茶を売るのが通例であるが、今日ばかりは素通りだろう、と乗客はそれぞれに思った。

御者はこの店先に馬を止めた。

これでこっちのものだと、車夫は急に勢いを増して、手を振り、声を上げ、思うままに侮辱して駆け去った。

乗客は歯がみをしつつ見送っていたが、人力車は遠く一団の砂埃に包まれて、ついに視界の外に失われた。

旅商人ふうの男が最も苛立って、

「何と皆さん、腹が立つじゃございませんか。大人気のないことだけれど、こういう行きがかりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁さん、早くやってくれたまえな」

「それもそうですけれどもな、年寄りはまことにはやどうも。第一、この疝痛に障りますのでな」

と遠慮がちに訴えるのは、美人に膝枕した老人である。

馬は群がるハエとアブの中で悠々と水を飲み、小僧は木陰の腰掛けに大の字になって、むしゃむしゃと菓子を食べている。

御者は上がり框で休息して、巻煙草を燻らせながら、茶店のおかみと話していた。

「こりゃ、急に出そうもない」と一人がつぶやけば、田舎女房らしいのが、その向かいにいて、

「憎らしいほど落ち着いてるじゃありませんかね」

最初の発言者は、ますます堪えかねて、

「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか心づけをはずみまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。どうぞご賛成願います」

彼は直ちに帯から下げたがま口を取り出して、中の銭を探りながら、

「ねえあなた、ここでああ怠けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」

やがて言い出した者から銅貨三銭で始めた。

帽子を脱いでその中に入れたものを、人々の前に差し出して、彼は広く義捐(ぎえん)を募った。

勇んで躍り込んだ白銅の五銭がある。

渋々捨てられた五厘もある。

ここの一銭、あそこの二銭と積もって、十六銭五厘となった。

美人は片隅にいて、応募の最終であった。

言い出した者の帽子が巡回して彼女の前に来たとき、世話人は言葉を低くして挨拶した。

「とんだお付き合いで、どうもお気の毒さまでございます」

美人が軽く会釈すると同時に、その手は帯の間に入った。

懐紙で上包みした緋塩瀬の紙入れを開いて、彼女は無造作に半円銀貨を投げ出した。

それとなく見た老人は非常に驚いて顔を背け、世話人は頭を掻いて、

「いや、これはお釣りが足りない。私もあいにく細かいのが・・・」

と腰のがま口に手を掛けると、

「いいえ、いいんですよ」

世話人は呆れて叫んだ。

「こんなに? 五十銭!」

これを聞いた乗客は、そうでなくても何者なのか、怪しい美人と目を着けていたのが、今この金離れが女性には不相応なことから、いよいよ底気味悪く怪しんだ。

世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、

「しめて金六十六銭と五厘! 大したことになりました。これなら馬は駈けますぜ」

御者はすでに着席して出発の用意をしている。

世話人は心づけを紙に包んで持っていった。

「おい、若い衆さん、これは皆さんからの心づけだよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶん一つ奮発してね。頼むよ」

彼は気軽に御者の肩を叩いて、

「隊長、一晩遊べるぜ」

御者は流し目で紙包みを見てそらとぼけた。

「心づけで馬は動きません」

わずかに五銭六厘を懐にした小僧は、驚きかつ惜しんで、恨めしそうに御者の顔を眺めた。

好意を無にされた世話人は腹を立て、

「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃ要らないんだね」

車はゆっくりと進行した。

「いただく理由がありませんから」

「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえってことさ」

六十六銭五厘は、まさに御者のポケットに闖入しようとした。

彼は固く拒んで、

「思し召しはありがたく存じますが、規定の車代のほかに骨折り賃をいただく理由がございません」

世話人は押し返された紙包みを持ち扱いつつ、

「理由もへちまもあるものかな。お客がくれるというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰って済まないと思ったら、一骨折って今の人力車を抜いてくれたまえな」

「心づけなんぞはいただかなくっても、十分骨は折ってるんです」

世話人は嘲笑った。

「そんな立派な口をきいたって、約束が違や世話はねえ」

御者は厳しい表情で振り返って、

「何ですと?」

「この馬車は人力車より速いという約束だぜ」

厳然として御者は答えた。

「そんなお約束はしません」

「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の心づけをお出しなすったのはこの方だよ。あの人力車より速く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大な心づけもはずもうというのだ。どうだ先生、恐れ入ったか」

鼻をうごめかせて、世話人は御者の背を指で突いた。

彼は一言も発さず、世話人はすこぶる得意であった。

美人は戯れるかのようになじった。

「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」

彼はなお口を厳しく閉ざしていた。

その唇を動かすべき力は、彼の両腕に奮って、馬蹄が急に高く挙がると、車輪はその骨が見えなくなるまでに回転した。

乗客は再び地上の波に揺られて、浮沈の憂き目に遭った。

思うがままに馬を走らせること五分、遥か前方に競争者の影が認められた。

しかし、出る時間が遅れたので、容易に追いつくはずもなかった。

到着地である石動は、もはや間近に迫っている。

いま一躍の下に追い越さなければ、終いには負けざるを得ないであろう。

憐れにも過度の奔走に疲れ果てた馬は、力なげに垂れた首を並べて、打っても走っても、足は重く、地を離れかねていた。

何を思ったか、御者は地上に降り立った。

乗客がこれはいったいどうしたことかと見る間に、彼は手早く一頭の馬を解き放って、

「姉さん、済みませんが、ちょっと降りてください」

乗客は顔を見合わせて、この謎を解くのに苦しんだ。

美人が彼の言うとおりに車を降りると、

「どうかこちらへ」と御者は自分の立った馬の側に招いた。

美人はますますその意味がわからなかったが、なお彼の言うがままに進み寄った。

御者は物も言わずに美人を引き抱えて、ひらりと馬に跨った。

驚いたのは乗客だ。乗客は実に驚いたのである。

彼らは千体仏のように顔を集め、あっけらかんとあごを垂れて、おそらくは絵にも見ることがかなわないこの不思議な様子に目を奪われていたが、その馬は奇怪な御者と奇怪な美人と奇怪な挙動とを乗せて、まっしぐらに駆け去った。

車上の見物客は、ようやく我に返ってどよめいた。

「いったい、どうしたんでしょう」

「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」

「へえ、何でございます」

「客の逃げたのが乗り逃げ。御者の方で逃げたのだから、乗せ逃げでしょう」

例の老人は頭を振り振りつぶやいた。

「いや洒落どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」

不審の眉をひそめた前の世話人は、腕を組みながら車中を見回して、

「皆さん、何と思召す? こりゃただ事じゃありませんぜ。馬鹿を見たのは我々ですよ。まったく駆け落ちですな。どうもあの女がさ、ただの鼠じゃあるめえと睨んでおきましたが、こりゃあ、まさにそうだった。しかし、いい女だ」

「私は急ぎの用を抱えている身だから、こうして安閑としてはいられない。なんとかこの小僧に頼んで、一頭の馬でやってもらおうじゃございませんか。馬鹿馬鹿しい、銭を出して、あのザマを見せられて、置き去りをくう奴もないものだ」

「まったくそうでございますよ。ほんとにふざけた真似をする野郎だ。小僧、早くやってくんな」

小僧は途方に暮れて、先刻から車の前後に出没していたが、

「どうもお気の毒さまです」

「お気の毒さまは知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早くやってくれ、やってくれ!」

「私にはまだよく馬が動きません」

「生きてるものの動かないという法があるものか」

「臀っぺたをひっぱたけ、ひっぱたけ」

小僧は苦笑いしつつ、

「そんなことを言ったっていけません。二頭引きの車ですから、馬が一頭じゃやりきれません」

「そんなら、ここで降りるから銭を返してくれ」

腹を立てる者、無理を言う者、つぶやく者、罵る者、迷惑する者、乗客の不平は小僧の身に集まった。

彼は散々に苛められて、ついに涙ぐみ、身の置き所に窮して、辛うじて車の後ろで小さくなっていた。

乗客はますます騒いで、相手のいない喧嘩に狂った。

御者が真一文字に馬を飛ばして、雲を霞と走ったので、美人は生きた心地もせず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り彼の腰にすがりついた。

風がヒューヒューと両腋の下に起こって、髪は逆立ち、道はさながら河のようで、濁流が足元に勢いよく流れ注ぎ、体は空中を転がるようである。

彼女は本当に死ぬ思いがした。

次第に風が止み、馬が止まるのを感じると、すぐに昏倒して正気を失った。

御者が静かに馬から助け降ろして、茶店の座敷に担ぎ入れたときである。

彼はその介抱を店主の老女に頼んで、自身は息をも継がず、再び疲れた馬に鞭打って、もと来た道を急いだ。

ほどなく美人は目を覚まして、ここが石動の外れであるのを知った。

御者はすでにいない。

彼女は彼の名を老女に訊ねて、金さんであると知った。

その人柄を問うと、行いは正しく、真面目で厳か、その行いを尋ねると、学問好き。 

(つづく)

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コメント

初めまして
ネットで40年前の岡田茉莉子さん主演の「滝の白糸」を見つけたので視聴していました
そうなると、もっと深く鑑賞するために原作も読みたいところ
ですが青空で、見つけた原文は硬すぎてギブアップ

そうしてネット巡りしてるところで、ここを見つけました
大変助かりました  読みやすいです
それに明治の文学と敬遠してましたが、本当に面白いですね
最初の馬車と人力車のカーチェイス紛いの出だし
全然古くないです  いっぺんに話に引き込まれました
それと滝の白糸の男前ぶり

それが最後はドラマでも泣かされそうですが、読み物の方も泣かされそうです  本当にありがとうございました

初めまして
ネットで40年前の岡田茉莉子さん主演の「滝の白糸」を見つけたので視聴していました
そうなると、もっと深く鑑賞するために原作も読みたいところ
ですが青空で、見つけた原文は硬すぎてギブアップ

そうしてネット巡りしてるところで、ここを見つけました
大変助かりました  読みやすいです
それに明治の文学と敬遠してましたが、本当に面白いですね
最初の馬車と人力車のカーチェイス紛いの出だし
全然古くないです  いっぺんに話に引き込まれました
それと滝の白糸の男前ぶり

それが最後はドラマでも泣かされそうですが、読み物の方も泣かされそうです  本当にありがとうございました

犬飼多吉さま

コメントありがとうございます。
冒頭の章は馬車と人力車のカーチェイス、最後の法廷の章は泣けますよね。
「義血侠血」は鏡花の出身地・金沢が舞台としていかされている点も興味深いです。
よろしかったら、他の泉鏡花作品もお楽しみください。

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