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樋口一葉「裏紫」

樋口一葉「裏紫」(初出:『新文壇』明治29年2月、未完)の現代語訳です。

   

夕暮れの店先に、郵便脚夫が女文字の手紙を一通投げ込んで行った。

炬燵の間のランプの陰で読んで、くるくると帯の間に巻き納めると、立居が気になって心配なことはひととおりではない。

自ずと様子に表れて、お人好しの旦那殿が、「どうかしたか」とお聞きになるので、

「いえ、格別のことでもございませんでしょうけど、仲町の姉が何か心配事があるので、こちらから行けばいいのだけれど、やかましやの夫が暇といっては毛筋ほどもくれないうるささで、夜分でも帰りはこちらから送らせるから、旦那殿にお願いしてちょっと来てくれないだろうか。待っている、という手紙でございます。また、継娘と揉め事でも起こりましたのか。気が小さい人なので何事も口には出せず、うんと胸を痛めるのがあの人の性分。困りものでございます」

とわざと高笑いをして聞かせると、

「はてさて、気の毒な」

と太い眉を寄せて、

「お前にすれば、たった一人のきょうだい。善悪を聞き分けねばならない役を、笑い事にしてはおかれまい。何事の相談か、行って様子を見たらよかろう。女は気が小さいもの。待つとなっては、一時も十年のように思われるだろうに。お前の怠りをわしのせいに取られて、恨まれても徳が行かないことだ。夜は格別の用もない。早く行って聞いてやればよかろう」

と可愛い妻の姉のことなので、優しい許しが願わずに出ると、飛び立つほど嬉しいのをこちらはわざと顔にも出さない。

「では、行きましょうか」

と不承不承にタンスへ手をかけると、

「不実なことを言わずに早く行ってやれ。向こうはどれほど待っているか知れないぞ」

と知らぬことなので、仏のように情け深い旦那殿が急き立てると、良心の呵責か、自ずと顔がほてって、胸では動悸の波が高くなった。

糸織の小袖を重ねて、縮緬の羽織にお高祖頭巾、背の高い人なので、夜風を防ぐ角袖外套がよく似合う。

「では、行ってきます」

と店口に駒下駄を直させながら、

「太吉、太吉」

と小僧の背中を人差し指の先で突いて、

「お舟を漕ぐ真似に精を出して、店の物をちょろまかされないようにしておくれ。私の帰りが遅いようなら、構わずに戸を下ろして、行火にあたるなら、いつまでも床の中へ入れておいてはならないよ」

「さんは台所の火の元に気をつけて、旦那のお枕元には、いつものとおりお湯沸かしにお煙草盆を忘れないようにして、ご不自由させますな。なるだけ早く帰るけれど」

と硝子戸に手をかけると、旦那殿が声をかけて、

「車を呼んでやらないか、どうせ歩いては行かれないまいに」

と甘ったるい言葉を口にする。

「なんの、商人の女房が店から車を乗り出すのは、栄耀の沙汰でございます。そこらの角から適当に値切って乗ってまいりましょう。これでも勘定は知っていますから」

と可愛らしい声で笑うと、

「世帯じみたことを」

と旦那殿は恐悦顔になる。

見ないようにして妻は表へ出たが、大空を見上げてほっと息をつくとき、曇ったような表情にいよいよ暮が深くなった。

どこの姉様からお手紙が来ようか、真っ赤な嘘を、と我が家が振り返られる。

何事もご存じなくて、快いお顔をして暇をくださるもったいなさ。

あのような毒のない、疑いといってはつゆほどもお持ちにならない心の美しい人を、よくもよくも舌先三寸に騙して、心のままの不義放埓。

これがまあ、人の女房の所業だろうか。

何という悪者の、人でなしの、法も道理も無茶苦茶の犬畜生のような心だろう。

このような悪戯の畜生を、ご存じないこととはいえ、天にも地にもないかのように可愛がってくださって、私のことといえば、ご自分の身をないものにして言葉を立てさせてくださるお気持ち。

ありがたい、嬉しい、恐ろしい、あまりのもったいなさに涙がこぼれる。

あのような夫を持つ身の何が不足で、剣の刃渡りをするような危ない企みをするのやら。

可哀そうに、あの人のよい仲町の姉さんまでを引き合いにして、三方四方を嘘で固めて、この足はまあどこへ向く。

思えば私は、悪党、人でなし、悪戯者の不義者の、まあ何という心得違い、と辻に立って歩くこともできない。

横町の角を二つ曲がって、今は我が家の軒は見えないのを振り返っては、熱い涙がはらはらとこぼれた。

夫の名は小松原東二郎、西洋小間物の店は名ばかりで、ありあまる財産を蔵の中に寝かせ、今の世の中の勘定さえ知らないお人好しで、恋女房のお律の機敏さは、奥も表も平手に揉んで、美しい目尻で夫の立つ腹も和らげれば、可愛らしい口元からお客様への世辞も出る。

「年も根っから行きなさらないのに、お利口なお内儀さま」と人が見るほど褒められ者の、この人自身の裏道の行い。

人は知るまいと自らをごまかしても、優しい夫の心配りがあいにく纏いつく気がして、お律は路傍に立ちすくんだままである。

行くまいか、行くまいか、いっそ思い切って行くまいか。

今日までの罪は、今日までの罪。

今から私さえ気持ちを改めれば、あの方にしてもそれほど未練はおっしゃらないだろうし、お互いに清いお付き合いをして、人が知らないうちに汚れを濯いでしまったなら、今から後のあの方のため、私のためになるだろう。

なまじっか恋い焦がれて付き纏っても、晴れて添われる仲ではない。

可愛い人に不義の名を着せて、少しでもそれが世間に知れたらどうしよう。

私はともかく、あの方はこれからのご出世前。一生を暗闇にさせて、それで私は満足に思われるだろうか。

ああ、嫌なこと、恐ろしい。

何と思って私は逢いに出てきたのか。

たとえお手紙が千通来ようと、行きさえしなければ、お互い傷にはならないだろうに。

もう思い切って帰りましょう、帰りましょう、帰りましょう。

ええ、もう私は思い切った、と路上で向きを変えて駒下駄を返すと、あいにく夜風の寒さが身に染みて、夢のような考えは、またもやふっと吹き破られる。

ええ、私はそのような心弱いことに引かれてなろうか。

最初、あの家に嫁入りするときから、東二郎殿を夫と決めて行ったのではないのだから。

形は行っても心は決してやるまいと決めていたのに、今更になって何の義理張り。

悪人でも、悪戯でも構いはしない。

お気に入らないなら、お捨てなさい。捨てられれば、かえって本望。

あのような愚物様を夫に奉って、吉岡さんを袖にするような考えを、なぜしばらくでも持ったのだろう。

私の命がある限り、逢い通しましょう、切れますまい。

夫を持とうと、奥様がおできになろうと、この約束は破るまいと言っていたのに、誰がどのように優しかろうと、ありがたいことを言ってくれようと、私の夫は吉岡さんの他にはないのだから。

もう何事も思いますまい、思いますまい、と頭巾の上から耳を押さえ、急ぎ足に五六歩駆け出すと、胸の動悸はいつしか止んで、心静かに気が冴えて、色のない唇には冷ややかな笑みさえ浮かんだ。

泉鏡花「外科室」 2

   下

数えれば、早や九年前である。高峰が当時はまだ医科大学の学生であった頃であった。

ある日、私は彼とともに、小石川にある植物園を散策した。

五月五日、躑躅が花盛りであった。

彼とともに手を携え、芳草の間を出たり入ったり、園内の公園にある池を巡って、咲き揃っている藤を見た。

足を転じてあそこの躑躅の丘に上ろうと、池に添いながら歩いているとき、あちらからやって来る見物客の一行がある。

洋服で煙突帽をかぶり、髯を蓄えた男が一人前衛をして、中に三人の女性を囲み、後からもまた同様の男が来た。

彼らは貴族の御者であった。

中の三人の女性たちは、一様に深張りの日傘を差しかざして、裾捌きの音も冴え冴えと、するすると練り歩いてきた。

と行き違いざま高峰は、思わず後を振り返った。

「見たか」

高峰は頷いた。「ああ」

こうして丘に上って躑躅を見た。

躑躅は美しかった。

しかし、ただ赤かったのみである。

傍らのベンチに腰かけている商人ふうの若者がいる。

「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」

「そうさね、たまにゃお前の言うことを聞くもいいかな。浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」

「何しろ、三人とも揃ってらあ。どれが桃やら桜やらだ」

「一人は丸髷じゃあないか」

「どの道はや、ご相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、赤熊(しゃぐま)を入れた桃割れでも何でもいい」

「ところでと、あの様子じゃあ、ぜひ高島田と来るところを銀杏返しと出たなあ、どういう気だろう」

「い(っ)ちょう、合点がいかぬかい」

「ええ、悪い洒落だ」

「何でも、貴婦人方がお忍びで、目立たぬようにというはらだ。ね、それ、真ん中のに水際が立ってたろう。いま一人が影武者というのだ」

「そこでお召し物は何と踏んだ」

「藤色と踏んだよ」

「え、藤色とだけじゃ、本好きが納まらねえぜ。お前らしくもないじゃないか」

「眩しくってうなだれたね。自然と頭が上がらなかった」

「そこで帯から下へ目をつけたろう」

「馬鹿を言え、もったいない。見たかどうかも分からない短い間だったよ。ああ、残り惜しい」

「あのまた、歩きぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこう霞に乗って行くようだっけ。裾さばき、褄(つま)はずれなんていう歩きぶりや身のこなしを、なるほどと見たのは今日が初めてよ。どうもお育ち柄はまた格別違ったもんだ。ありゃもう、自然、天然と雲上の人になったんだな。どうして下界の奴らが真似ようたってできるものか」

「ひどく言うな」

「ほんのこったが、私ゃそれご存知のとおり、新吉原の遊郭を三年の間、金比羅様に断ったというもんだ。ところが、何のこたあない。肌にお守りを懸けて、夜中に吉原の土手を通ろうじゃあないか。罰の当たらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦(すべった)ども、どうするものか。見なさい、あれあれ、ちらほらとこう、そこいらに赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、ゴミか蛆が蠢いているように見えるじゃあないか。馬鹿馬鹿しい」

「これは厳しいね」

「冗談じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召(縮緬)で、同じような蝙蝠傘で立ってるところは、憚りながらこれ人間の女だ。しかも若い女だ。若い女に違いはないが、いま拝んだのと比べて、どうだい。まるでもってくすぶって、何といっていいか汚れきっていらあ。あれでも同じ女だってさ、へん、聞いて呆れらい」

「おやおや、どうした大変なことを言い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。一緒に歩くお前にも、随分迷惑をかけたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。何だかせいせいとする、以後女はふっつりだ」

「それじゃあ、生涯ありつけまいぜ。源吉とやら、わたくしは、とあの姫様が言いそうもないからね」

「罰が当たらあ、とんでもない」

「でも、あなたやあ、と来たらどうする」

「正直なところ、私(わっし)は逃げるよ」

「お前もか」

「え、君は」

「私も逃げるよ」と目を合わせた。

しばらく言葉が途絶えた。

「高峰、ちょっと歩こうか」

私が高峰とともに立ち上がって、遠くその若者たちを離れたとき、高峰はさも感動した表情で、

「ああ、真の美が人を動かすこと、あの通りさ。君はお手のものだ、勉強したまえ」

私は画家であるために動かされない。

行くこと数百歩、あの楠の大樹の鬱蒼とした木の下蔭の、やや薄暗いあたりを行く藤色の衣の端を遠くからちらっと見た。

植物園を出ると、丈が高く肥えた馬が二頭立って、磨り硝子が入った馬車に、三人の馬丁(べっとう)が休憩していた。

その後九年を経て、病院のあのことがあったときまで、高峰はあの女性のことについて、私にさえ一言も語らなかったが、年齢においても、地位においても、高峰は妻があってしかるべき身であるにも関わらず、家を納める夫人はなく、しかも彼は学生時代より品行は一層謹厳であったのである。

私は多くを言うまい。

青山の墓地、谷中の墓地と、場所こそは変わっても、彼らは同じ日に前後して相逝った。

言葉を寄せる、天下の宗教家よ、彼ら二人は罪悪があって、天に行くことはできないのだろうか。

(おわり)

泉鏡花「外科室」 1

泉鏡花「外科室」(初出:『文芸倶楽部』明治28年6月)の現代語訳です。

   

実は好奇心のために、しかし、私は自分が画家であることを利用して、ともかくも口実を設けつつ、私と兄弟以上の医学士高峰に強いて、ある日、東京府下のある病院で、彼が執刀する貴船伯爵夫人の手術を私に見せざるを得なくした。

その日、午前九時過ぎる頃に家を出て、病院に人力車を飛ばした。

まっ直ぐに外科室のほうに向かっているとき、向こうから戸を開けてすらすらと出てきた華族の小間使いとも見える顔立ちのよい女性二、三人と、廊下の半ばで行き違った。

見れば、彼女らの間には、被布を着た七、八歳の娘が抱かれ、見送るうちに見えなくなった。

これだけでなく、玄関から外科室、外科室から二階の病室に通じている長い廊下には、フロックコートを着た紳士、制服を着けた武官、あるいは羽織袴の人物、その他、貴婦人令嬢などいずれもきわめて高貴な人々が、あちらで行き違い、こちらで落ち合い、あるいは歩き、あるいは立ち止まり、往復する様子はまるで機を織るようである。

私は今しがた門前で見た数台の馬車を思い合わせ、密かに心で頷いた。

彼らのある者は沈痛で、ある者は気遣わしげで、またある者は慌しげで、いずれも顔色は穏やかでなく、忙しげで小刻みな靴音、草履の響きが、一種寂寞とした病院の高い天井、広い建具、長い廊下との間で、異様な足音を響かせつつ、いよいよ陰惨な趣をなしている。

私はしばらくして外科室に入った。

ときに私と目を合わせて、唇のあたりに微笑を浮かべた医学士は、両手を組んでやや仰向けに椅子にもたれている。

今に始まることではないが、ほとんど我が国の上流社会全体の喜憂に関するだろう、この大いなる責任を担った身が、まるで晩餐の席に臨んでいるように平然として冷ややかであること、おそらく彼のような者は稀であろう。

助手三人、立ち会いの医学博士一人と、別に赤十字の看護婦五名がいる。

看護婦その者にして、胸に勲章を帯びている者も見受けたが、皇室から特に下賜されたものもあると思われる。

他に女性はいなかった。

なにがし公、なにがし侯、なにがし伯と、皆、立ち会いの親族である。

そして、一種形容しがたい表情で、憂いに沈んで立っている人こそ、患者の夫の伯爵であろう。

室内のこの人々に見守られ、室外のあの方々に気遣われて、塵も数えられるほど明るく、しかも何となく凄まじく侵しがたいような観のある外科室の中央に据えられた、手術台の伯爵爵夫人は、純潔な白衣をまとって死骸のように横たわっている。

その顔色はあくまで白く、鼻は高く、あごは痩せて、手足は綾や薄絹の重さにも堪えられないであろう。

唇の色は少し褪せていて、真珠のような前歯がかすかに見え、目を固く閉ざしているのが、思いなしか、眉をひそめているようだ。

わずかに、束ねた頭髪がふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれている。

そのかよわげで、かつ気高く、清く、尊く、美しい患者の姿を一目見るなり、私はぞっとして寒さを感じた。

医学士はと、ふと見ると、彼は少しの感情も動かしていない者のように、虚心で平然とした様子が表れて、椅子に座っているのは室内でただ彼だけである。

その大変落ち着いた様子は、頼もしいと言えば言えるが、伯爵夫人のこのような容体を見た私の目からは、むしろ心憎いばかりであった。

おりから、しとやかに戸を開けて、静かにここに入ってきたのは、先に廊下で行き違った三人の腰元の中でひときわ目立った女性である。

そっと貴船伯に向かって沈んだ声色で、

「御前、姫様はようやくお泣き止みあそばして、別室でおとなしゅういらっしゃいます」

伯は無言で頷いた。

看護婦はわが医学士の前に進んで、

「それでは、先生」

「よろしい」

と一言答えた医学士の声は、このとき少し震えを帯びて私の耳には達した。

その顔色は、どうしたのだろう、急に少し変わった。

さてはどのような医学士も、いざという場合に臨んでは、さすがに懸念もあろうかと、私は同情を表していた。

看護婦は医学士の旨に頷いた後、その腰元に向かって、

「もう、何ですから、あのことを、ちょっと、あなたから」

腰元はその意を受けて、手術台に擦り寄った。

ゆうに膝のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、

「奥様、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞ、それをお聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お数えあそばしますように」

伯爵夫人は答えない。

腰元は恐る恐る繰り返して、

「お聞き済みでございましょうか」

「ああ」とだけお答えになる。

念を押して、

「それではよろしゅうございますね」

「何かい、麻酔剤をかい」

「はい、手術が済みますまで、ちょっとの間でございますが、お眠りになりませんと、いけませんそうです」

夫人は黙って考えていたが、

「いや、よそうよ」と言った声は判然として聞こえた。

一同が顔を見合わせた。

腰元は諭すかのように、

「それでは奥様、ご治療ができません」

「はあ、できなくってもいいよ」

腰元は言葉もなく、振り返って伯爵の様子を伺った。

伯爵は前に進み、

「奥、そんな無理を言ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。我儘を言ってはなりません」

侯爵がまた傍らから口を挟んだ。

「あまり無理をお言いやったら、姫(ひい)を連れてきて見せるがいいの。早くよくならんでどうするものか」

「はい」

「それではご得心でございますか」

腰元は彼らの間で周旋した。

夫人は重そうな頭を振った。

看護婦の一人は優しい声で、

「なぜ、そんなにお嫌いあそばすの。ちっとも嫌なもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」

このとき夫人の眉は動き、口は歪んで、瞬間苦痛に堪えないようであった。

半ば目を見開いて、

「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。麻酔剤はうわごとを言うと申すから、それが恐くってなりません。どうぞもう、眠らずにご治療ができないようなら、もうもう治らんでもいい、よして下さい」

聞いたとおりならば、伯爵夫人は意中の秘密を夢うつつの間に人につぶやくだろうことを恐れて、死を以ってこれを守ろうとするのである。

夫である者がこれを聞いた胸中はどうか。

この言葉がもし平生に出たものであれば、必ず一件の揉めごとが引き起こされるに相違ないが、患者に対して看護の立場にある者は、どのようなことも不問に帰すしかない。

しかも、自分の口からあからさまに、秘密があって人に聞かせることはできないと、断固として言い出した夫人の胸中を察すれば。

伯爵は穏やかに、

「わしにも、聞かされぬことなのか。え、奥」

「はい、誰にも聞かすことはなりません」

夫人には決然としたものがあった。

「何も麻酔剤を嗅いだからって、うわごとを言うという、決まったこともなさそうじゃの」

「いいえ、このくらい思っていれば、きっと言いますに違いありません」

「そんな、また、無理を言う」

「もう、ご免下さいまし」

投げ棄てるようにこう言いながら、伯爵夫人は寝返りして横に背を向けようとしたが、病んだ身がままならず、歯を鳴らす音が聞こえた。

そのために顔色を変えない者は、ただあの医学士一人だけである。

彼は先刻どうしたのか、一度その平生を失ったが、今はまた落ち着いていた。

侯爵は渋面を作って、

「貴船、こりゃ何でも姫を連れて来て、見せることじゃの。なんぼでも子の可愛さには我も折れよう」

伯爵は頷いて、

「これ、綾」

「は」と腰元は振り返る。

「何を、姫を連れて来い」

夫人は堪らず遮って、

「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、治療はできないか」

看護婦は窮した微笑を浮かべて、

「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でございます」

「なに、私ゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」

私はそのあまりの無邪気さに、無意識のうちに震撼するのを止めることができなかった。

おそらく今日の切開術は、目を開いてこれを見る者はあるまいと思われるのに。

看護婦はまた言った。

「それは奥様、いくら何でもちょっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそばすのとは違いますよ」

夫人はここでぱっちりと目を開いた。

気も確かになったのであろう、声は凛として、

「メスを執る先生は、高峰様だろうね!」

「はい、外科科長です。しかし、いくら高峰先生でも、痛くなくお切り申すことはできません」

「いいよ。痛かあないよ」

「夫人、あなたのご病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺いで、骨を削るのです。ちょっとの間、ご辛抱なさい」

臨検の医学博士は、いま初めてこう言った。

これはとうてい三国時代の蜀の勇将関雲長(かんうんちょう)でないからには、堪えられることではない。

しかし、夫人には驚く様子がない。

「そのことは存じております。でも、ちっとも構いません」

「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」

と伯爵は憂い悲しんだ。

侯爵が傍らから、

「ともかく、今日はまあ、見合わすとしたらどうじゃの。後でゆっくりと言い聞かすがよかろう」

伯爵は一つの異議もなく、皆がこれに同意するのを見て、その医学博士が遮った。

「いっとき遅れては、取り返しがなりません。いったい、あなた方は病気を軽視しておられるから埒が明かん。感情をとやかく言うのは一時逃れです。看護婦、ちょっとお押さえ申せ」

たいそう厳かな命のもとに、五名の看護婦はバラバラと夫人を囲んで、その手と足を押さえようとした。

彼女らは服従をもって責任とする。

単に医師の命令さえ奉じればよく、あえて他の感情を顧みる必要はないのである。

「綾! 来ておくれ。あれ!」

と夫人が絶え入る息で腰元をお呼びになると、慌てて看護婦を遮って、

「まあ、ちょっと待って下さい。奥様、どうぞ、ご堪忍あそばして」と優しい腰元はおろおろ声。

夫人の顔は蒼ざめて、

「どうしても聞きませんか。それじゃ治っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」

と真っ白く細い手を動かし、かろうじて襟の合わせ目を少し緩めながら、玉のような胸部を現し、

「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きゃしないから、大丈夫だよ。切ってもいい」

決然として言い放った、その言葉も表情も動かすことができない。

さすがは高位の御身で威厳があたりを払うと、室内の者は一斉に声を呑み、高い咳払いも漏らさずに、ひっそりと静まったその瞬間、先刻から少しの身動きさえせず、火の気のない冷たい灰のように見えた高峰が、軽く身を起こして椅子を離れ、

「看護婦、メスを」

「ええ」と看護婦の一人は、目を見張ってためらった。

一同がともに愕然として医学士の顔を見守るとき、他の一人の看護婦は少し震えながら、消毒したメスを取ってこれを高峰に渡した。

医学士は受け取るとそのまま、靴音軽く移動して、つっと手術台に近寄った。

看護婦はおどおどしながら、

「先生、このままでいいんですか」

「ああ、いいだろう」

「じゃあ、お押さえ申しましょう」

医学士はちょっと手を挙げて、軽く押し留め、

「なに、それにも及ぶまい」

言うが早いか、その手はすでに患者の胸の白衣をかき開けた。

夫人は両手を肩に組んで身動きさえしない。

このようなとき、医学士は誓うかのように、深く重い厳粛な声色で、

「夫人、責任を負って手術します」

ときに、高峰の風采は一種神聖で犯すことのできない異様なものであった。

「どうぞ」と一言答えた夫人の蒼白な両頬が、刷毛で塗ったように紅潮した。

じっと高峰を見つめたまま、胸に臨んだメスにも目を塞ごうとはしなかった。

と見ると、雪の寒紅梅のように血が胸からつっと流れて、さっと白衣を染めるとともに、夫人の顔は元のようにたいそう蒼白くなったが、思ったとおり落ち着いて、足の指も動かさなかった。

ことがここに及ぶまで、医学士の挙動は脱兎のように神速で、少しの隙もなく、伯爵夫人の胸を割くと、一同はもとよりあの医学博士に至るまで、言葉を差し挟める寸隙もなかったが、ここにおいてか、わななく者、顔を覆う者、背を向ける者、あるいは首を垂れる者があり、私などは我を忘れて、ほとんど心臓まで寒くなった。

数秒で彼の手術は、早くもその佳境に進みつつ、メスが骨に達すると思われたとき、

「あっ」と深刻な声を絞って、二十日以上寝返りさえも打てないと聞いた夫人は、突然器械のように上半身を跳ね起こしながら、メスを執っている高峰の右腕に両手でしっかりと取りすがった。

「痛みますか」

「いいえ、あなただから、あなただから」

こう言いかけて、伯爵夫人はがっくりと仰向きながら、凄まじいこと極まりない最期の眼で、名医をじっと見守って、

「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」

言うやいなや、高峰が手にしたメスに片手を添えて、乳の下を深く掻き切った。

医学士は真っ蒼になっておののきながら、

「忘れません」

その声、その息、その姿、その声、その息、その姿。

伯爵夫人が嬉しげに、たいそうあどけない微笑を浮かべて高峰の手から手を離し、ばったりと枕に伏すのが見えた。

唇の色が変わった。

そのときの二人の様子は、まるで二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、まったく人がいないかのようであった。

(つづく)

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