樋口一葉「わかれ道」 1
樋口一葉「わかれ道」(初出:『国民之友』明治29年1月付録「藻塩草」)の現代語訳です。
以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。
上
「お京さん、いますか」
と窓の外に来て、とんとんと羽目板を叩く音がする。
「誰だい。もう寝てしまったから、明日来ておくれ」
と嘘を言うと、
「寝たっていいやね。起きて開けておくんなさい。傘屋の吉だよ、俺だよ」
と少し声を大きくして言う。
「嫌な子だね。こんな遅くに何を言いに来たのか、またお餅のおねだりか」
と笑って、
「いま開けるよ。ちょっと辛抱おし」
と言いながら、仕立てかけの縫物に針止めをして立つのは、二十歳過ぎの意気な女だ。
多い髪を忙しい折だからと頭に巻き付けただけで、少し長めの八丈紬の前掛けに、ひどく着古したお召縮緬の半纏を着ている。
急ぎ足で沓脱(くつぬぎ)へ下りて格子戸に添った雨戸を開けると、
「お気の毒さま」
と言いながらすっと入るのは、一寸法師とあだ名のある町内の暴れ者で、傘屋の吉という持てあましの小僧だ。
歳は十六だが、ちょっと見たところは十一歳か十二歳のようだ。肩幅が狭く、顔は小さく、目鼻立ちはきりっとして利口そうだが、いかにも背が低いので、人が嘲ってあだ名を付けている。
「ごめんなさい」
と火鉢の傍へづかづかと上がるので、
「お餅を焼くには火が足りないよ。台所の火消壷から消し炭を持ってきて、お前が勝手に焼いてお食べ。私は今夜中にこれを一枚仕上げなければならない。角の質屋の旦那さんの御年始着だから」
と針を手に取った。
吉が
「ふふん。あの禿げ頭には惜しいものだ。仕立て下ろしを俺でも着てやろうか」
と言うので、
「馬鹿をお言いでない。他人の仕立て下ろしを着ると、出世ができないと言うじゃないか。今から伸びることができなくちゃ仕方がない。そんなことはよその家でもしてはいけないよ」
と注意する。
「俺なんぞご出世は願わないんだから、他人の物だろうが何だろうが、着てやるだけ得さ。お前さん、いつかこう言ったね。運が向いてきたら、俺に絹の着物を拵えてくれるって。本当に拵えてくれるかい」
真面目な顔になって聞くと、
「それは拵えてあげられるようなら、おめでたいんだもの、喜んで拵えるがね。私のなりを見ておくれ、こんなありさまで人様の縫物をしている境遇じゃないか。まあ、夢のような約束さ」
と言って笑っている。
「いいよ、それは。できないときに拵えてくれとは言わない。お前さんに運が向いてきたときのことさ。まあ、そんな約束でもして喜ばしておいておくれ。こんな野郎が羽織も着物も絹の揃えを着たところで、面白くもないけれども」
淋しそうな笑顔を見せるので、
「そんなら、吉ちゃん。お前が出世するときには私にもしておくれか。その約束も決めておきたいね」
と微笑んで言う。
「そいつはいけない。俺はどうしても出世なんぞはしないんだから」
「なぜ」
「なぜでもしない。誰かが来て、無理矢理に手を取って引き上げても、俺はここにこうしているのがいいんだ。傘屋の油引きが一番いいんだ。どうせ紺の木綿の筒袖に三尺帯を背負って産まれてきたんだろうから、柿渋を買いに行くとき、代金をちょっとごまかして、吹き矢の一本でも当たりを取るのがいい運さ。お前さんなんぞは元が立派な人だというから、今に上等の運が馬車に乗って迎えに来るのさ。だけれども、お妾になるって意味じゃないぜ。悪く取って怒らないでおくれよ」
と、炭火をいじりながら身の上を嘆くので、
「そうさ。馬車の代わりに火の車でも来るんだろう。胸が怒りで燃えることがずいぶんあるからね」
と、お京は物差しを杖に振り返って、吉三の顔をじっと見た。
いつものように台所から炭を持ち出して、
「お前は食いなさらないか」
と聞くと、
「いいえ」
とお京は首を振る。
「じゃあ、俺だけご馳走になろうかな。本当にうちのケチな奴らめ、やかましい小言ばかり言いやがって、人を使う方法も知りやがらない。死んだお婆さんはあんなではなかったけれど、今の奴らときたら一人として話せるのはいない。お京さん、お前はうちの半次さんを好きか。ずいぶん嫌味で、思い上がった奴じゃないか。親方の息子だけれど、俺はあいつだけはどうしても主人とは思えない。機会があるたび、喧嘩をしてやり込めてやるんだが、ずいぶん面白いよ」
と話しながら、金網の上に餅をのせて、
「おお、熱っ」
と指先を吹いた。
「俺はどうも、お前さんのことが他人のように思えないのは、どうしてだろう。お京さん、お前は弟を持ったことはないのか」と聞かれて、「私は一人っ子で兄弟はいないから、弟も妹も持ったことは一度もない」
と言う。
「そうかなあ。それじゃあ、やっぱり何でもないんだろう。どこからか、こう、お前のような人が俺の血のつながった姉さんだとか言って出てきたら、どんなに嬉しいか。首っ玉にかじり付いて俺はそれきり往生しても喜ぶんだが、本当に俺は木の股からでも出てきたのか、ついぞ親類らしい者に会ったこともない。それだから、何度も何度も考えては、俺はもう一生誰にも会うことができないくらいなら、今のうちに死んでしまったほうが気楽だと考えるがね。それでも欲があるから可笑しい、ひょっくり変てこな夢なんかを見てね。普段優しいことの一言でも言ってくれる人が、お袋や親父や姉さんや兄さんのように思われて、もう少し生きていようかしら、もう一年も生きていたら、誰か本当のことを話してくれるかと楽しんでね。面白くもない油引きをやっているが、俺みたいな変な者が世間にいるだろうかねえ。お京さん、お袋も親父も、からっきし当てがないんだよ。親なしで産まれてくる子がいようか、俺はどうしても不思議でならない」
焼きあがった餅を両手で叩きつつ、いつも言うところの心細さを繰り返すので、
「それでも、お前、笹の蔓模様の錦のお守り袋というような証拠はないのかい。何か手掛かりはありそうなものだね」
とお京が言う。
それを打ち消して、
「なに、そんな気の利いたものはありそうにもない。生まれるとすぐに橋のたもとに貸赤子に出されたんだなどと、作業場の奴らが悪口を言うが、もしかするとそうかもしれない。それなら俺は乞食の子だ。お袋も親父も乞食かもしれない。表を通る襤褸(ぼろ)を下げた奴がやっぱり俺の親類一族で、毎朝決まって貰いにくる足と目が悪いあの婆あなんかが、俺にとって何に当たるか知れはしない。話さなくてもお前はたいてい知っているだろうけれど、今の傘屋に奉公する前は、やっぱり俺は角兵衛の獅子をかぶって芸をして歩いていたんだから」
としおれている。
「お京さん、俺が本当に乞食の子なら、お前は今までのように可愛がってはくれないだろうか。振り向いて見てはくれまいね」
と言うので、
「冗談をお言いでない。お前がどんな人の子でどんな身の上か、それは知らないが、どんな境遇だからって嫌がるとか嫌がらないとかいうことはない。いつものお前らしくない情けないことをお言いだけれど、私がお前なら、非人でも乞食でも少しも構いはしない。親がなかろうが兄弟がどうだろうが、自分ひとり出世をしたらよかろう。なぜそんな意気地のないことをお言いだい」
と励ますと、
「俺はどうしても駄目だよ。何にもしようとも思わない」
と下を向いて顔を見せなかった。
(つづく)
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