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樋口一葉「にごりえ」 1

樋口一葉「にごりえ」(初出:『文芸倶楽部』明治28年9月)の現代語訳です。

   

「おい、木村さん、信さん、寄っておいでよ。お寄りといったら、寄ってもいいじゃないか。また素通りで二葉屋へ行く気だろう。押しかけて行って引きずってくるから、そう思いな。ほんとにお風呂なら、帰りにきっと寄っておくれよ。嘘っつきだから、何を言うか知れやしない」

と、店先に立って馴染みらしい突っかけ下駄の男をつかまえ、小言をいうような物の言い振りに、腹も立たないのか言い訳しながら、

「後で来る。後で」

と通り過ぎるのを、ちょっと舌打ちしながら見送って、

「後でもないもんだ、来る気もないくせに。本当に女房持ちになっては仕方がないね」

と、店に向かって敷居を跨ぎながら独り言をいえば、

「高ちゃん、だいぶご述懐だね。何もそんなに案じなくていいだろう。焼けぼっくいと何とやら、またよりが戻ることもあるよ。心配しないで、まじないでもして待つがいいさ」

と慰めるような同僚の口ぶりに、

「力ちゃんと違って、私には技量(うで)がないからね。一人でも逃がしては残念さ。私のような運の悪い者には、まじないも何も効きはしない。今夜もまた木戸番か。何てことだ。面白くもない」

と癇癪まぎれに店先へ腰をかけて、駒下駄の後ろでトントンと土間を蹴るのは、二十歳を越して七年か十年か、眉を長く描いて額際に墨を塗り、白粉をべったりと付け、唇は人を喰う犬のようで、これでは口紅もいやらしいものである。

お力と呼ばれたのは、中肉で背格好がすらりとして、洗い髪の大島田に新藁の髪飾りという爽やかさに、頸元だけの白粉も映えて見えない天然の色白をこれ見よがしに胸元まで広げて、煙草スパスパ、長煙管に立て膝の無作法も、咎める人がないのでよいが、思いきった大柄の模様の浴衣に、端を垂らした帯は黒繻子と何かの紛い物、緋色の平ぐけが背に見え、いわずと知れたこのあたりの姉さま風である。

お高といったのは、洋銀のかんざしで天神返しの髷の下を掻きながら、思い出したように、

「力ちゃん、さっきの手紙、お出しか」

と言う。

「はあ」

と気のない返事をして、

「どうせ来やしないけれど、あれもお愛想さ」

と笑っていると、

「たいていにおしよ。巻紙二尋(十二尺)も長い手紙を書いて、二枚切手の分厚い封書がお愛想でできるものか。それに、あの人は赤坂からの馴染みじゃないか。ちっとやそっとのいざこざがあろうと、縁切れになってたまるもんか。お前の出かた一つでどうにでもなるのに、ちっとは精を出して引き止めるように心がけたらよかろう。あんまり冥利が悪いだろう」

と言う。

「ご親切にありがとう。ご意見は承りおきまして、私はどうもあんな奴は虫が好かないから、ない縁と諦めてください」

と他人事のように言うので、

「あきれたものだね」

と笑って、

「お前などはその我がままが通るから豪勢さ。私のようになっては仕方がない」

と団扇を取って足元を扇ぎながら、昔は花よというように言うのが可笑しく、表を通る男を見かけて、

「寄っておいで」

と夕暮れの店先が賑わった。

店は二間間口の二階作りで、軒にはご神灯を下げて景気よく塩を盛り、空き瓶か何か知らない銘酒を多く棚の上に並べて、帳場めいたところも見える。

勝手元には七輪を扇ぐ音がおりおり騒がしく、女主人が寄せ鍋、茶碗蒸しくらいは作れるのも当然で、表に掲げた看板を見ると、もったいぶって御料理としたためてある。

とはいっても、仕出しを頼みに行けば何と言うであろう。

急に「本日品切れ」もおかしいし、「男のお客様は、手前どもの店へお出かけを願います」とも言いにくかろう。

しかし、世の中は方便か、商売柄を心得て、口取り、焼き魚と注文に来る田舎者もいなかった。

お力というのは、この店の一枚看板で、年は一番若いが、客を呼ぶのが巧妙で、それほどご愛想の嬉しがらせを言うようでもなく、我がまま放題のふるまいに、

「少し器量を鼻にかけるかと思うと、顔を見るだけでも憎らしい」

と陰口を言う同僚もいたが、

「付き合うと思いのほか優しいところがあって、女同士でも離れたくない心持ちがする。ああ、心というものは表れるもの。顔つきがどことなく優れて見えるのは、あの娘の本性が現れるのだろう。誰でもこの新開の銘酒屋街へ入るほどの者で、菊の井のお力を知らない者はあるまい。菊の井のお力か、お力の菊の井か。それにしても、近頃まれな拾いもの。あの娘のお蔭で新開に光がそなわった。抱え主は神棚へ捧げておいてもいい」

と軒を並べる店の羨望の種になっている。

お高が往来の人がないのを見て、

「力ちゃん、お前のことだから、何があったからって気にしてもいまいが、私は身につまされて源さんのことが思われる。それは今の身分に落ちぶれては、まるきりいいお客ではないけれども、想い合ったからには仕方がない。年は違おうが子があろうがさ。ねえ、そうではないか。お内儀さんがあるといって別れられるものかね。構うことはない、呼び出しておやり。私のなぞといったら、野郎が根っから心変わりして、顔を見てさえ逃げ出すのだから仕方がない。どうせ諦めて別の相手を探すんだが、お前のはそれとは違う。了見一つでは、今のお内儀さんに三行半もやられるのだけど、お前は気位が高いから、源さんと一緒になろうとは思うまい。それだもの、なおのこと、呼ぶのに支障があるものか。手紙をお書き。今に三河屋のご用聞きが来るだろうから、あの小僧にお遣いをさせるがいい。なに、お嬢様ではあるまいし、ご遠慮ばかり申してなるものか。お前は思い切りがよすぎるからいけない。ともかくも手紙をやってごらん。源さんも可哀想だわな」

と言いながらお力を見ると、煙管掃除に余念がなく、うつむいたまま黙っている。

やがて雁首を綺麗に拭いて、一服吸ってポンとはたき、また吸いつけてお高に渡しながら、

「気をつけておくれ、店先で言われると人聞きが悪いじゃないか。菊の井のお力は土方の手伝いを情夫(まぶ)に持つなどと考え違いをされてもいけない。それは昔の夢語りさ。なに、今は忘れてしまって、源とも七とも思い出さない。もう、その話は止め、止め」

と言いながら立ち上がると、表を兵児帯の書生たちが通る。

「これ、石川さん、村岡さん、お力の店をお忘れになりましたか」

と呼びかけると、

「いや、相変わらず豪傑のお声がかり。素通りもなるまい」

とすっと入るので、たちまち廊下にバタバタという足音がして、

「姉さん、お銚子」

と声をかければ、

「お肴は何を」

と答える。

三味線の音が景気よく聞こえ、それからは踊り乱れる足音が聞こえ始めた。

(つづく)

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コメント

「力ちゃん、お前のことだから、何があったからって気にしてもいまいが、私は身につまされて源さんのことが思われる。
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お前は気位が高いから、源さんと一緒になろうとは思うまい。
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源さんも可哀想だわな」
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この小高の言葉を考えれば、お力の正体が分ります.

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