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  • 「まちこの香箱(かおりばこ)」
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泉鏡花「夜行巡査」 6

   

老人は、なお女の耳をとらえて放さず、覆いかかるようにして歩きながら、

「お香、こうは言うもののな、俺はお前が憎かあない、死んだ母親にそっくりで可愛くってならないのだ。憎い奴なら何もおれが仕返しをする価値はないのよ。だからな、食うことも着ることも、何でもお前の好きなとおり、俺ゃ着ないでもお前には着せる。わがままいっぱいさしてやるが、ただあればかりはどんなにしても許さんのだからそう思え。俺ももう寄る年だし、死んだ後でと思うであろうが、そううまくはさせやあしない、俺が死ぬときはきさまも一緒だ」

恐ろしい声で老人が語ったその最後の言葉を聞くと同時に、お香はもはや堪えかねたのだろう、力を込めて老人が押えた肩を振り放し、ばたばたと駆け出して、あっという間にお堀端の土手へひょいと飛び乗った。

これは身を投げる!と老人は狼狽して、引き戻そうと飛んで行ったが、酔った目で足場を誤り、体は横向きに霜をすべって、水にざんぶと落ち込んだ。

このとき、すばやく救護のために駆けつけた八田巡査を見るとすぐに、

「義さん」

と息を切らし、お香は一言呼びかけて、巡査の胸に額を埋め、自分も人も忘れたように、しっかりとすがりついた。

蔦をその身に絡めたまま、枯木は冷然として答えもせず、堤防の上につっと立って角燈を片手に振りかざし、水を厳しく見下ろした。

その寒く冷たいことはいうまでもない。

見渡す限り霜は白く、墨より黒い水面に激しい泡が吹き出ているのは、老人の沈んだところらしく、薄氷には亀裂が入っていた。

八田巡査はこれを見て、躊躇したのも一瞬、手にした角燈を置いた。

と見ると、一枝の花かんざしが徽章のように自分の胸にかかったが、揺れるばかりに動悸の激しいお香の胸と自分の胸が、ぴったり合って放れがたい。

両手を静かに振り払って、

「お退き」

「え、どうするの」

とお香は下から巡査の顔を見上げた。

「助けてやる」

「伯父さんを?」

「伯父でなくって誰が落ちた」

「でも、あなた」

巡査は厳然として、

「職務だ」

「だってあなた」

巡査は冷ややかに、

「職掌だ」

お香は急に気がついて、またさらに蒼くなって、

「おお、まあ、あなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」

「職掌だ」

「それだって」

「いかん、駄目だもう、僕も殺したいほどの親爺だが、職務だ!諦めろ」

と突きやる手に食いつくほどに、

「いけませんよう、いけませんよう。あれ、誰か来てくださいな。助けて、助けて」

と呼び立てたが、土塀と石垣はひっそりとして、前後十町に通行人は絶えている。

八田巡査は、声を荒げて

「放さんか!」

決然として振り払うと、力は敵わずに手を放した。

とっさに巡査は飛び上って、棄てるように身を投げた。

お香はハッと気絶した。

気の毒に八田は警官として社会から荷った負債を消却するため、あくまでその死ぬことを、むしろ殺すことを欲していた悪魔を救おうとして、氷点下の水が凍る夜半に、泳ぎを知らない身で、生命とともに愛を棄てた。

後日、社会は一般に、八田巡査を情け深い仁者だと称した。

ああ、果たして仁だろうか。

しかも、同じ彼が残忍苛酷で、許すべき老車夫を懲罰し、憐むべき母と子を厳責した尽力を、称賛する者がないのはどうか。

(おわり)

泉鏡花「夜行巡査」 5

   

「ええと、八円様に不足はないが、どうしてもお前をやることはできないのだ。それもあいつが浮気者で、ちょいと色に迷ったばかり、お嫌ならよしなさい、よそを聞いてみますという、お手軽なところだと、俺も承知をしたかもしれんが、どうして俺が探ってみると、義延という男はそんな男と男が違う。なんでも思い込んだらどうしても忘れることのできないたちで、やっぱりお前と同じように、自殺でもしたいというふうだ。ここでおもしろいて、はははははは」

と嘲笑った。

女は声を震わせて、

「そんなら伯父さん、まあどうすりゃいいのでございます」

と思い詰めた様子で聞いた。

伯父は事もなげに、

「どうしてもいけないのだ。どんなにしてもいけないのだ。とても駄目だ、何にも言うな、たとえどうしても聞きゃあしないから、お香、まあ、そう思ってくれ」

女はわっと泣き出した。彼女は路上であることも忘れたのだ。

伯父は少しも意に介せず、

「これ、一生のうちにただ一度言おうと思って、今までお前にも誰にもほのめかしたこともないが、ついでだから言って聞かす。いいか、亡くなったお前のおっかさんはな」

母という名を聞くやいなや、女は急に聞き耳を立て、

「え、おっかさんが」

「うむ、亡くなったお前のおっかさんには、俺が、すっかり惚れていたのだ」

「あら、まあ、伯父さん」

「うんや、驚くこたあない、また疑うにも及ばない。それを、そのおっかさんを、お前のおとっさんに奪られたのだ。な、解ったか。もちろんお前のおっかさんは、俺が何だということも知らず、弟もやっぱり知らない。俺もまた、口へ出したことはないが、心では、心では、実に俺ゃもう、お香、お前はその思いやりがあるだろう。巡査というものを知ってるから。婚礼の席に連なったときや、明け暮れその仲のいいのを見ていた俺は、ええ、これ、どんな気がしたとお前は思う」

という声が濁って、痘痕だらけの頬骨が高い老いた顔が酒気を帯びているところに、片方の見えない目がたいそう凄いものとなって、押しつぶさんばかりに力を込めて、お香の肩をつかみ動かし、

「いまだに忘れない。どうしてもその残念さが消え失せない。そのために俺はもうすべての事業を打ち棄てた。名誉も棄てた。家も棄てた。つまりお前の母親が、俺の生涯の幸福と、希望とをみな奪ったのだ。俺はもう世の中に生きてる望みはなくなったが、ただ何とかして仕返しがしたかった、といって密かに悪事を企むじゃあない、恋に失望したもののその苦しみというものは、およそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに、要らない命を長らえたが、慕いあって望みが叶うた、お前の両親に対しては、どうしてもその味を知らせる手段がなかった。もうちっと長生きをしていりゃ、そのうちには俺が仕方を考えて思い知らせてやろうものを、不幸せだか、幸せだか、二人とも亡くなって、残ったのはお前だけだ。親戚といって他にはないから、そこで俺が引き取って、これだけの女にしたのも、三代崇る執念で、親の代わりに、なあ、お香、きさまに思い知らせたさ。幸い八田という意中の人が、お前の胸にできたから、俺も望みが遂げられるんだ。さ、こういう因縁があるんだから、たとえ世界の金持ちに俺をしてくれるといったって、とても言うこたあ聞かれない。覚悟しろ!所詮だめだ。や、こいつ、耳に蓋をしているな」

眼にいっぱいの涙を湛えて、お香はわなわなと震えながら、両袖を耳にあてて、せめて死刑の宣告を聞くまいと努めたのを、老人は残酷にも引き放して、

「あれ!」

と横を向いた耳に言う。

「どうだ、解ったか。なんでも、少しでもお前が失望の苦しみをよけいに思い知るようにする。そのうち巡査のことをちっとでも忘れると、それ今夜のように人の婚礼を見せびらかしたり、気の悪くなる話をしたり、あらゆることをして苛めてやる」

「あれ、伯父さん、もう私は、もう、ど、どうぞ堪忍してくださいまし。お放しなすって、え、どうしょうねえ」

と思わず、声を出した。

少し距離を隔てて巡行している八田巡査は、思わず一歩前進した。

彼はそこを通り過ぎようと思ったらしい。

しかし、進むことができなかった。

彼は立ち留まって、しばらくして、たじたじと後退した。

巡査はこの場所を避けようとしたのだ。

しかし、彼は退かなかった。

わずかの間、八田巡査は木像のように突っ立った。

さらに冷然として一定の足並みで粛々と歩み出した。

ああ、恋は命だ。

間接的に自分を死なせようとする老人の話を聞くことが、どれほど巡査には苦痛だったか。

ひとたび歩みを急いだなら、八田はすぐに彼らを通り越せただろう。

あるいは、ことさらに歩みを緩めれば、視界の外に彼らを追いやれただろう。

しかし、彼にはその職掌を堅守するため、自分で決めた日常における一式の法則がある。

交番を出て何度か曲がって道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。

感情のために道を迂回し、あるいは疾走し、緩歩し、立ち止まることは、職務に尽くすべき責任に対して、彼が潔しとしないところだった。

(つづく)

泉鏡花「夜行巡査」 4

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

老人は、とっさに演じられたこのきっかけでも気付かないのか、さらに気にかける様子もなく、

「なあ、お香、さぞ俺のことを無慈悲な奴と怨んでいよう。俺ゃお前に怨まれるのが本望だ。いくらでも怨んでくれ。どうせ、俺もこう因業じゃ、いい死に様もしやぁしまいが、何、そりゃもとより覚悟の上だ」

真顔になって言う風情は、酒のせいとも思われなかった。

女はようやく口を開き、

「伯父さん、まあ往来で、何をおっしゃるのでございます。早く帰ろうじゃございませんか」

と老人の袂を引き動かし、急いで巡査を避けようとするのは、聞くに堪えない伯父の言葉を彼の耳に入れまいとしてなのに、伯父は少しも頓着せず、平気でむしろ聞こえよがしに、

「あれもさ、巡査だから、俺が承知しなかったと思われると、何か身分のいい官員か、金持ちでも選んでいて、月給八円に怖気をふるったようだが、そんな卑しい了見じゃない。お前の嫌いな、一緒になると生き血を吸われるような人間でな、たとえば乞食坊主だとか、高利貸しだとか、再犯の盗っ人とでもいうような者だったら、俺は喜んでくれてやるのだ。乞食ででもあってみろ、それこそ俺が乞食をして俺の財産をみんなそいつに譲って、夫婦にしてやる。え、お香、そうしてお前の苦しむのを見て楽しむさ。けれども、あの巡査はお前が心から好いてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる甲斐がないとまでに執心の男だ。そこを俺がちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと欲のないもんじゃないか。そこでいったん俺が断わった上は、どうでも諦めてくれなければならないと、普通の人間なら言うところだが、俺はそうじゃない。伯父さんがいけないとおっしゃったから、まあ私も仕方がないと、お前にわけもなく諦めてもらった日にゃあ、俺の志も水の泡さ、形なしになる。ところで、恋というものは、そんな浅はかなもんじゃあない。なんでも剛胆な奴が危険な目に逢えば逢うほど、いっそう剛胆になるように、何かしら邪魔が入れば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。どうだい、お前は思い切れるかい、うむ、お香、今じゃもうあの男を忘れたか」

女はややしばらく黙っていたが、

「い・・・い・・・え」と切れ切れに答えた。

老人は心地よさそうに高く笑い、

「うむ、もっともだ。そう安っぽく諦められるようでは、わが因業も価値がねえわい。これ、後生だから諦めてくれるな。まだまだ足りない、もっとその巡査を慕っててもらいたいものだ」

女は堪えかねて顔を振り上げ、

「伯父さん、何がお気に入りませんで、そんな情けないことをおっしゃいます、私は・・・」

と声を飲む。

老人はうそぶき、

「なんだ、何がお気に入りません? 言うな、もったいない。なんだってまた、おそらくお前ほど俺が気に入ったものはあるまい。第一器量はよし、気立てはよし、優しくはある、することなすこと、お前のことといったら飯の食いようまで気に入るて。しかしそんなことでなに、巡査をどうするの、こうするのという理屈はない。たとえお前が何かのおりに、俺の命を助けてくれてさ、命の親と思ったって、決して巡査にゃあやらないのだ。お前が憎い女なら、俺もなに、邪魔をしゃあしねえが、可愛いから、ああしたのさ。気に入るの入らないのと、そんなこたあ言ってくれるな」

女は少し厳しい顔となり、

「それでは、あのお方になんぞお悪いことでもございますの」

こう言いかけて振り返った。巡査はこのとき、囁く声も聞こえる距離を着々と歩いていた。

老人は頭を振って、

「う、んや、俺ゃあいつも大好きさ。八円を大事にして、世の中に巡査ほどのものはないと澄ましているのが妙だ。あまり職掌を重んじて、苛酷だ、思いやりがなさすぎると、評判の悪いのに頓着せず、わらしべ一本でも見逃さない、あの邪慳非道なところが、ばかに俺は気に入ってる。まず八円の値打ちはあるな。八円じゃ高くない、禄盗人とはいわれない、実に立派な八円様だ」

女は堪らず振り返って、小腰をかがめ、片手を上げてそっと巡査を拝んだ。

どれほどお香はこの振る舞いを伯父に認められまいと努めたろう。

瞬間また頭を戻して、八田がどういう挙動で自分に答えたかを知らなかった。

(つづく)

泉鏡花「夜行巡査」 3

   

「伯父さん、お危のうございますよ」

半蔵門の方から来て、お堀端に曲がろうとするとき、一人の年若い美人が、連れの老人の酔ってよろける足に向かって注意した。

彼女は、編み物の手袋をはめた左手に提灯を携え、右手で老人を導いている。

伯父さんと呼ばれた老人は、ぐらつく足を踏みしめながら、

「なに、大丈夫だ。あればかしの酒に酔ってたまるものかい。ときにもう何時だろう」

夜は更けた。

夜色は沈み、風は止んでいる。

見渡すお堀端の往来は、三宅坂で一度果て、さらに一帯の樹立ちと連なる煉瓦の建物で取り囲まれた東京のそのあたりは寂しく、星だけが冷ややかに冴え渡っている。

美人は、人を求めて振り返った。

百歩を隔てて黒い影があり、靴を鳴らしてゆっくりとやって来る。

「あら、おまわりさんが来ましたよ」

伯父という人は、振り返って角燈の影を認めると、すぐに不快な声で、

「巡査がどうした、お前、なんだか、うれしそうだな」

と女の顔を見つめたが、一方の目は見えず、もう一方の目が鋭い。

女はギクッとした様子だ。

「ひどく寂しゅうございますから、もう一時前でもございましょうか」

「うん、そんなものかもしれない、ちっとも人力車が見えんからな」

「ようございますわね、もう近いんですもの」

やや無言で足を運んだ。

酔った足は捗らず、靴音が早くも近づいた。

老人は声高に、

「お香(こう)、今夜の婚礼はどうだった」

と少し笑って聞いた。

女は軽く受けて、

「たいそうお見事でございました」

「いや、お見事ばかりじゃあない、お前はあれを見てどう思った」

女は老人の顔を見た。

「何ですか」

「さぞ、羨ましかったろうの」

という声は嘲るようだ。

女は答えなかった。

彼女はこの冷たい一言のために、ひどく苦痛を感じたようだ。

老人は、思ったとおりだという様子で、

「どうだ、羨ましかったろう。おい、お香、おれが今夜あの家の婚礼の席へお前を連れて行った主意を知っとるか。なに、ハイだ。ハイじゃない。その主意を知ってるかよ」

女は黙った。

首を垂れた。

老夫はますます高い調子で、

「解るまい、こりゃおそらく解るまいて。何も儀式を見習わせるためでもなし、別にご馳走を食わせたいと思いもせずさ。ただ羨ましがらせて、情けなく思わせて、お前が心で泣いている、その顔を見たいばっかりよ。ははは」

酒臭い息を吐いて顔も向けられず、女は悄然として横を向いた。

老人はその肩に手をかけて、

「どうだお香、あの花嫁は美しいの、さすがは一生の大礼だ。あのまた紅白の三枚襲で、羞ずかしそうに座った格好というものは、ありゃ女に二度とない晴れだな。花嫁もさ、美しいは美しいが、おまえにゃ九目(せいもく:囲碁で相手との間に相当の力の差があるとき、あらかじめ盤上の九点に石を置くこと)だ。婿も立派な男だが、あの巡査にゃ一段劣る。もしこれがお前と巡査とであってみろ。さぞ目の覚めることだろう。なあ、お香、いつぞや巡査がお前をくれろと申し込んで来たときに、俺さえハイと合点すりゃ、あべこべに人を羨ましがらせてやられるところよ。しかもお前が『命かけても』という男だもの、どんなにおめでたかったかもしれやあしない。しかし、どうもそれ、思いのままにならないのが浮き世ってな、よくしたものさ。俺という邪魔者がおって、小気味よく断わった。あいつもとんだ恥をかいたな。初めからできる相談か、できないことか、見当をつけてかかればよいのに、どうも、八田も目先の見えないやつだ。馬鹿巡査!」

「あれ、伯父さん」

と声が震えて、後ろの巡査に聞こえやしないかと、気にして振り返った眼に映るその人は、・・・夜目にもどうして見間違えよう。

「おや!」と一言、思わず口からもれて愕然とした。

八田巡査は流れ込む電気にしびれたようだった。

(つづく)

泉鏡花「夜行巡査」 2

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

公使館のあたりを行くその怪獣は、八田義延という巡査である。

彼は明治二十七年十二月十日の午後零時に某町の交番を発ち、一時間交替の巡回の途に就いたのであった。

その歩行といえば、この巡査には一定の法則が存在するようで、遅からず、速からず、着々と歩を進めて道を行くが、身体はきつく伸ばして左右に少しも傾かず、決然として落ち着いた態度には、一種犯しがたい威厳を備えている。

制帽のひさしの下で凄まじく潜んだ眼光は、機敏と鋭利と厳酷を混ぜた異様な光に輝いている。

彼は左右のものを見、上下のものを眺めるとき、さらにその顔を動かし、首を振りはしないが、瞳は自在に回転して思いのままにその用を足した。

だから、道中の物事、たとえば、お堀端の芝生の一面の白くぼんやり見える箇所に、幾筋か蛇が這ったように人の踏み荒らした跡があること、英国公使館の二階にあるガラス窓の一面に赤黒い灯火の影が射していること、その門前にある二柱のガス灯が昨夜よりも少し暗いこと、往来の真ん中に脱ぎ捨てた草鞋の片足が、霜に凍てついて堅くなっていること、道端に高く立ち並んでいる枯れ柳が、一陣の北風にさっと音を立てて一斉に南になびくこと、はるか彼方にぬっと立っている電灯局の煙突から一筋の煙が立ち上ることなど、およそこうした些細な事柄であっても、一つとしてこの巡査の視線から免れることはできなかった。

しかも、彼は交番を出て、路上で一人の老車夫を叱責し、その後ここに到るまで、ただの一回も背後を振り返ったことがない。

彼は前方に向かって着眼が鋭く、細かで、厳しいほど、背後には全く放心しているようだ。

なぜかといえば、背後はすでにいったん自分の眼で検察して、異状なしと認めて放免したものだからだ。

兇徒がいて、白刃をふるって背後から彼を刺しても、巡査はその息の根が止まるまで、背後に人がいることに思い至ることはないだろう。

ほかでもない、彼は自分の眼の観察が一度届いたところには、たとえどんなに狭いところでも、一点の懸念も残してはいないと信じているからだ。

だから、彼は泰然と威厳を有して、他意なく、懸念なく、悠々として、ただ前途だけを志すことができるのだった。

その靴は霜のたいそう深い夜に、人のいない場所に遠く足音を響かせつつ、一番町の曲がり角のややこちら側まで進んだとき、右側のある冠木(かぶき)門の下に踞まっている物体があって、自分の足音にうごめいたのを、例の眼で厳しく見た。

八田巡査が厳しく見ると、これはひどくやつれた女だった。

一人の幼児を抱いているが、夜更けの人目なさに心を許したのだろう、帯を解いてその幼児を肌に引き寄せ、着ているぼろの綿入れを衾として、少しでも多くの暖を与えようとする母心はどうだろうか。

たとえその母子に一銭の恵みを与えなくても、誰もが憐れに思うだろう。

ところが、巡査は二つ三つ女の枕元で足踏みして、

「おい、こら、起きんか、起きんか」

と沈んだしかも力を込めた声で言った。

女は慌ただしく跳ね起きて、急に居ずまいを繕いながら、

「はい」と答える歯の音も合わず、そのまま土に頭を埋めた。

巡査は重々しい語気で、

「はいではない、こんなところに寝ていちゃあいかん、はやく行け、何という醜態だ」

と鋭く言う。

女は恥じて呼吸の下で、

「はい、恐れ入りましてございます」

こう謝罪したとき、ちょうど幼児は目を覚まして、寝ている間に忘れていた餓えと寒さを思い出し、そのあと泣き出す声も疲労のために嗄れていた。

母は見るとすぐに人目も恥じず、慌てて乳房を含ませながら、

「夜分のことでございますから、どうぞ旦那様、お慈悲でございます。大目にご覧あそばして」

巡査は冷ややかに、

「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」

おりから吹き荒ぶ風は冷たさを極め、手足も露わな女の肌を引き裂こうとした。

彼女はブルブルと身を震わせ、鞠のように身をすくめながら、

「堪りません、もし旦那、どうぞ、後生でございます。しばらくここにお置きあそばしてくださいまし。この寒さにお堀端の吹きさらしへ出ましては、こ、この子が可哀相でございます。いろいろ災難に逢いまして、にわかの物貰いで勝手が分りませず・・・」

と言いかけて女は咽んだ。

これをこの軒の主人に請えば、まだ諾否したかもしれない。

しかし、巡査は聞き入れなかった。

「いかん、俺がいったんいかんと言ったら、何といってもいかんのだ。たとえきさまが観音様の化身でも、寝ちゃならない、こら、行けというのに」

(つづく)

泉鏡花「夜行巡査」 1

泉鏡花「夜行巡査」(『文芸倶楽部』明治28年4月)の現代語訳です。

   

「よう、爺さん、お前どこだ」

と職人風の若者が、傍にいる車夫の老人に向かって問いかけた。

車夫の老人はすでに五十歳を越え、六十歳にも間があるまいと思われる。

腹が減ってか弱々しい声が、しかも寒さに震えながら、

「どうぞ真っ平御免なすって、今後きっと気を付けまする。へいへい」

と、どぎまぎして慌てていた。

「爺さん、慌てなさんな。よう、俺ゃ巡査じゃねえぜ。え、おい、可哀相によっぽど面食らったと見える。全体、お前、気が小さすぎらあ。何の縛ろうとは言やしめえし、あんなにビクビクしねえでものことさ。俺あ片一方で聞いててさえ、少し癇癪に障って堪えられなかったよ。え、爺さん、聞きゃお前の身なりが悪いって咎めたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや。ほかにお前何ぞし損ないでもしなすったのか、ええ、爺さん」

問われて老車夫は吐息をつき、

「へい、まことに吃驚いたしました。おまわりさんに咎められましたのは、親爺、今が初めてで、はい、もうどうなりますることやらと、人心地もござりませなんだ。いやもうから意気地がござりません代わりにゃ、決して後ろ暗いことはいたしません。ただいまも別に不調法のあったわけではござりませんが、股引が破れまして、膝から下がむき出しでござりますので見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、ご規則も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、出し抜けにこら!って喚かれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」

若者はしきりに頷いた。

「うむ、そうだろう。気の小さい維新前の者は、得てして巡査みたいものを恐がるものよ。なんだ、たかがこれ、股引がねえからって、仰山に咎め立てをするにゃあ当たらねえ。主の抱え車じゃあるめえし、ふん、余計なお節介よ、なあ爺さん、向こうから言わねえたって、この寒いのに股引はこっちで穿きてえや、そこがめいめいの事情で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかも、提灯しか見えっこのねえ闇夜じゃねえか、風俗もへちまもあるもんか。自分が商売で寒い思いをするからったって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん!寒鴉(がらす)め。あんなやつも滅多にゃねえよ、往来の少ないところなら、昼だって小便するくらいは大目に見てくれらあ、業腹な。俺ぁ別に人のふんどしで相撲を取るにもあたらねえが、これが若い者でもあることか、可哀相によぼよぼの爺さんだ。よう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで車を曳くなあ、よくよくのことだと思いねえ。ちぇっ、べらぼうめ、サーベルがなけりゃ袋叩きにしてやろうものを、威張るのもいい加減にしておけえ。へん、お堀端あ、こちとらのお成り筋だぞ、まかり間違やぁ胴上げして鴨のあしらいにしてやらあ」

口を極めてすでに立ち去った巡査を罵り、満腔の熱気を吐きながら、思わず腕を擦ったが、四谷組合と記した煤け提灯の蝋燭を今継ぎ足して、力なげに梶棒を取り上げる老車夫の風采を見て、若者はしょんぼりするほど哀れをもよおし、

「そうして爺さん、稼ぎ手はお前ばかりか、孫や子はねえのかい」

優しく言われて、老車夫は涙ぐんだ。

「へい、ありがとう存じます、いやも、幸いと孝行な倅が一人おりまして、よう稼いでくれまして、お前さん、こんな晩にゃ行火を抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、倅はな、お前さん、この秋兵隊に取られましたので、後には嫁と孫が二人、みんな快う世話をしてくれますが、何分暮らしが立ち兼ねますので、蛙の子は蛙になる、親爺も元はこの家業をいたしておりましたから、年は取ってもちっとは呼吸がわかりますので、倅の車をこうやって曳きますが、何が、達者で、綺麗で、安いという、三拍子も揃ったのが競争をいたしますのに、私のような車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとは言いまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然身なりなんぞも構うことはできませんので、つい、おまわりさんに、はい、お手数をかけるようにもなりまする」

たいそう長々しい繰り言を、じれったいとも思わずに聞いた若者は、ひとかたならず心を動かし、

「爺さん、嫌たあ言われねえ、うん、もっともだ。聞きゃ一人息子が兵隊に入ってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言いこめて隙あ潰さした埋め合わせに、酒代でもふんだくってやればいいに」

「ええ、滅相な。しかし申し訳のためばかりに、そのことも申しましたけれど、いっこうお聞き入れがござりませんので」

若者はますます憤り、いっそう憐んで、

「なんという朴念仁だろう、因業な寒鴉め。といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまで一緒に歩きねえ。股火鉢で五合とやらかそう。なに遠慮しなさんな、ちと相談もあるんだからよ。はて、いいわな。お前稼業にも似合わねえ。馬鹿め、こんな爺さんをつかめえて、叱るのもすさまじいや、何だと思っていやがんでえ、こう指一本でも指してみろ、今じゃおいらが後見だ」

憤慨と軽侮と怨恨を満たした視線の赴くところ、麹町一番町の英国公使館の土塀のあたりを、柳の木立ちに見え隠れして角灯が見え、南を指して行く。

その光は暗夜に怪獣の眼のようだ。

(つづく)

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