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泉鏡花「夜行巡査」 6

   

老人は、なお女の耳をとらえて放さず、覆いかかるようにして歩きながら、

「お香、こうは言うもののな、俺はお前が憎かあない、死んだ母親にそっくりで可愛くってならないのだ。憎い奴なら何もおれが仕返しをする価値はないのよ。だからな、食うことも着ることも、何でもお前の好きなとおり、俺ゃ着ないでもお前には着せる。わがままいっぱいさしてやるが、ただあればかりはどんなにしても許さんのだからそう思え。俺ももう寄る年だし、死んだ後でと思うであろうが、そううまくはさせやあしない、俺が死ぬときはきさまも一緒だ」

恐ろしい声で老人が語ったその最後の言葉を聞くと同時に、お香はもはや堪えかねたのだろう、力を込めて老人が押えた肩を振り放し、ばたばたと駆け出して、あっという間にお堀端の土手へひょいと飛び乗った。

これは身を投げる!と老人は狼狽して、引き戻そうと飛んで行ったが、酔った目で足場を誤り、体は横向きに霜をすべって、水にざんぶと落ち込んだ。

このとき、すばやく救護のために駆けつけた八田巡査を見るとすぐに、

「義さん」

と息を切らし、お香は一言呼びかけて、巡査の胸に額を埋め、自分も人も忘れたように、しっかりとすがりついた。

蔦をその身に絡めたまま、枯木は冷然として答えもせず、堤防の上につっと立って角燈を片手に振りかざし、水を厳しく見下ろした。

その寒く冷たいことはいうまでもない。

見渡す限り霜は白く、墨より黒い水面に激しい泡が吹き出ているのは、老人の沈んだところらしく、薄氷には亀裂が入っていた。

八田巡査はこれを見て、躊躇したのも一瞬、手にした角燈を置いた。

と見ると、一枝の花かんざしが徽章のように自分の胸にかかったが、揺れるばかりに動悸の激しいお香の胸と自分の胸が、ぴったり合って放れがたい。

両手を静かに振り払って、

「お退き」

「え、どうするの」

とお香は下から巡査の顔を見上げた。

「助けてやる」

「伯父さんを?」

「伯父でなくって誰が落ちた」

「でも、あなた」

巡査は厳然として、

「職務だ」

「だってあなた」

巡査は冷ややかに、

「職掌だ」

お香は急に気がついて、またさらに蒼くなって、

「おお、まあ、あなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」

「職掌だ」

「それだって」

「いかん、駄目だもう、僕も殺したいほどの親爺だが、職務だ!諦めろ」

と突きやる手に食いつくほどに、

「いけませんよう、いけませんよう。あれ、誰か来てくださいな。助けて、助けて」

と呼び立てたが、土塀と石垣はひっそりとして、前後十町に通行人は絶えている。

八田巡査は、声を荒げて

「放さんか!」

決然として振り払うと、力は敵わずに手を放した。

とっさに巡査は飛び上って、棄てるように身を投げた。

お香はハッと気絶した。

気の毒に八田は警官として社会から荷った負債を消却するため、あくまでその死ぬことを、むしろ殺すことを欲していた悪魔を救おうとして、氷点下の水が凍る夜半に、泳ぎを知らない身で、生命とともに愛を棄てた。

後日、社会は一般に、八田巡査を情け深い仁者だと称した。

ああ、果たして仁だろうか。

しかも、同じ彼が残忍苛酷で、許すべき老車夫を懲罰し、憐むべき母と子を厳責した尽力を、称賛する者がないのはどうか。

(おわり)

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