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泉鏡花「夜行巡査」 5

   

「ええと、八円様に不足はないが、どうしてもお前をやることはできないのだ。それもあいつが浮気者で、ちょいと色に迷ったばかり、お嫌ならよしなさい、よそを聞いてみますという、お手軽なところだと、俺も承知をしたかもしれんが、どうして俺が探ってみると、義延という男はそんな男と男が違う。なんでも思い込んだらどうしても忘れることのできないたちで、やっぱりお前と同じように、自殺でもしたいというふうだ。ここでおもしろいて、はははははは」

と嘲笑った。

女は声を震わせて、

「そんなら伯父さん、まあどうすりゃいいのでございます」

と思い詰めた様子で聞いた。

伯父は事もなげに、

「どうしてもいけないのだ。どんなにしてもいけないのだ。とても駄目だ、何にも言うな、たとえどうしても聞きゃあしないから、お香、まあ、そう思ってくれ」

女はわっと泣き出した。彼女は路上であることも忘れたのだ。

伯父は少しも意に介せず、

「これ、一生のうちにただ一度言おうと思って、今までお前にも誰にもほのめかしたこともないが、ついでだから言って聞かす。いいか、亡くなったお前のおっかさんはな」

母という名を聞くやいなや、女は急に聞き耳を立て、

「え、おっかさんが」

「うむ、亡くなったお前のおっかさんには、俺が、すっかり惚れていたのだ」

「あら、まあ、伯父さん」

「うんや、驚くこたあない、また疑うにも及ばない。それを、そのおっかさんを、お前のおとっさんに奪られたのだ。な、解ったか。もちろんお前のおっかさんは、俺が何だということも知らず、弟もやっぱり知らない。俺もまた、口へ出したことはないが、心では、心では、実に俺ゃもう、お香、お前はその思いやりがあるだろう。巡査というものを知ってるから。婚礼の席に連なったときや、明け暮れその仲のいいのを見ていた俺は、ええ、これ、どんな気がしたとお前は思う」

という声が濁って、痘痕だらけの頬骨が高い老いた顔が酒気を帯びているところに、片方の見えない目がたいそう凄いものとなって、押しつぶさんばかりに力を込めて、お香の肩をつかみ動かし、

「いまだに忘れない。どうしてもその残念さが消え失せない。そのために俺はもうすべての事業を打ち棄てた。名誉も棄てた。家も棄てた。つまりお前の母親が、俺の生涯の幸福と、希望とをみな奪ったのだ。俺はもう世の中に生きてる望みはなくなったが、ただ何とかして仕返しがしたかった、といって密かに悪事を企むじゃあない、恋に失望したもののその苦しみというものは、およそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに、要らない命を長らえたが、慕いあって望みが叶うた、お前の両親に対しては、どうしてもその味を知らせる手段がなかった。もうちっと長生きをしていりゃ、そのうちには俺が仕方を考えて思い知らせてやろうものを、不幸せだか、幸せだか、二人とも亡くなって、残ったのはお前だけだ。親戚といって他にはないから、そこで俺が引き取って、これだけの女にしたのも、三代崇る執念で、親の代わりに、なあ、お香、きさまに思い知らせたさ。幸い八田という意中の人が、お前の胸にできたから、俺も望みが遂げられるんだ。さ、こういう因縁があるんだから、たとえ世界の金持ちに俺をしてくれるといったって、とても言うこたあ聞かれない。覚悟しろ!所詮だめだ。や、こいつ、耳に蓋をしているな」

眼にいっぱいの涙を湛えて、お香はわなわなと震えながら、両袖を耳にあてて、せめて死刑の宣告を聞くまいと努めたのを、老人は残酷にも引き放して、

「あれ!」

と横を向いた耳に言う。

「どうだ、解ったか。なんでも、少しでもお前が失望の苦しみをよけいに思い知るようにする。そのうち巡査のことをちっとでも忘れると、それ今夜のように人の婚礼を見せびらかしたり、気の悪くなる話をしたり、あらゆることをして苛めてやる」

「あれ、伯父さん、もう私は、もう、ど、どうぞ堪忍してくださいまし。お放しなすって、え、どうしょうねえ」

と思わず、声を出した。

少し距離を隔てて巡行している八田巡査は、思わず一歩前進した。

彼はそこを通り過ぎようと思ったらしい。

しかし、進むことができなかった。

彼は立ち留まって、しばらくして、たじたじと後退した。

巡査はこの場所を避けようとしたのだ。

しかし、彼は退かなかった。

わずかの間、八田巡査は木像のように突っ立った。

さらに冷然として一定の足並みで粛々と歩み出した。

ああ、恋は命だ。

間接的に自分を死なせようとする老人の話を聞くことが、どれほど巡査には苦痛だったか。

ひとたび歩みを急いだなら、八田はすぐに彼らを通り越せただろう。

あるいは、ことさらに歩みを緩めれば、視界の外に彼らを追いやれただろう。

しかし、彼にはその職掌を堅守するため、自分で決めた日常における一式の法則がある。

交番を出て何度か曲がって道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。

感情のために道を迂回し、あるいは疾走し、緩歩し、立ち止まることは、職務に尽くすべき責任に対して、彼が潔しとしないところだった。

(つづく)

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