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泉鏡花「夜行巡査」 4

以下の文中には、原文の表現にもとづき、今日では不適切と受け取られる表現が一部含まれていることをおことわりいたします。

   

老人は、とっさに演じられたこのきっかけでも気付かないのか、さらに気にかける様子もなく、

「なあ、お香、さぞ俺のことを無慈悲な奴と怨んでいよう。俺ゃお前に怨まれるのが本望だ。いくらでも怨んでくれ。どうせ、俺もこう因業じゃ、いい死に様もしやぁしまいが、何、そりゃもとより覚悟の上だ」

真顔になって言う風情は、酒のせいとも思われなかった。

女はようやく口を開き、

「伯父さん、まあ往来で、何をおっしゃるのでございます。早く帰ろうじゃございませんか」

と老人の袂を引き動かし、急いで巡査を避けようとするのは、聞くに堪えない伯父の言葉を彼の耳に入れまいとしてなのに、伯父は少しも頓着せず、平気でむしろ聞こえよがしに、

「あれもさ、巡査だから、俺が承知しなかったと思われると、何か身分のいい官員か、金持ちでも選んでいて、月給八円に怖気をふるったようだが、そんな卑しい了見じゃない。お前の嫌いな、一緒になると生き血を吸われるような人間でな、たとえば乞食坊主だとか、高利貸しだとか、再犯の盗っ人とでもいうような者だったら、俺は喜んでくれてやるのだ。乞食ででもあってみろ、それこそ俺が乞食をして俺の財産をみんなそいつに譲って、夫婦にしてやる。え、お香、そうしてお前の苦しむのを見て楽しむさ。けれども、あの巡査はお前が心から好いてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる甲斐がないとまでに執心の男だ。そこを俺がちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと欲のないもんじゃないか。そこでいったん俺が断わった上は、どうでも諦めてくれなければならないと、普通の人間なら言うところだが、俺はそうじゃない。伯父さんがいけないとおっしゃったから、まあ私も仕方がないと、お前にわけもなく諦めてもらった日にゃあ、俺の志も水の泡さ、形なしになる。ところで、恋というものは、そんな浅はかなもんじゃあない。なんでも剛胆な奴が危険な目に逢えば逢うほど、いっそう剛胆になるように、何かしら邪魔が入れば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。どうだい、お前は思い切れるかい、うむ、お香、今じゃもうあの男を忘れたか」

女はややしばらく黙っていたが、

「い・・・い・・・え」と切れ切れに答えた。

老人は心地よさそうに高く笑い、

「うむ、もっともだ。そう安っぽく諦められるようでは、わが因業も価値がねえわい。これ、後生だから諦めてくれるな。まだまだ足りない、もっとその巡査を慕っててもらいたいものだ」

女は堪えかねて顔を振り上げ、

「伯父さん、何がお気に入りませんで、そんな情けないことをおっしゃいます、私は・・・」

と声を飲む。

老人はうそぶき、

「なんだ、何がお気に入りません? 言うな、もったいない。なんだってまた、おそらくお前ほど俺が気に入ったものはあるまい。第一器量はよし、気立てはよし、優しくはある、することなすこと、お前のことといったら飯の食いようまで気に入るて。しかしそんなことでなに、巡査をどうするの、こうするのという理屈はない。たとえお前が何かのおりに、俺の命を助けてくれてさ、命の親と思ったって、決して巡査にゃあやらないのだ。お前が憎い女なら、俺もなに、邪魔をしゃあしねえが、可愛いから、ああしたのさ。気に入るの入らないのと、そんなこたあ言ってくれるな」

女は少し厳しい顔となり、

「それでは、あのお方になんぞお悪いことでもございますの」

こう言いかけて振り返った。巡査はこのとき、囁く声も聞こえる距離を着々と歩いていた。

老人は頭を振って、

「う、んや、俺ゃあいつも大好きさ。八円を大事にして、世の中に巡査ほどのものはないと澄ましているのが妙だ。あまり職掌を重んじて、苛酷だ、思いやりがなさすぎると、評判の悪いのに頓着せず、わらしべ一本でも見逃さない、あの邪慳非道なところが、ばかに俺は気に入ってる。まず八円の値打ちはあるな。八円じゃ高くない、禄盗人とはいわれない、実に立派な八円様だ」

女は堪らず振り返って、小腰をかがめ、片手を上げてそっと巡査を拝んだ。

どれほどお香はこの振る舞いを伯父に認められまいと努めたろう。

瞬間また頭を戻して、八田がどういう挙動で自分に答えたかを知らなかった。

(つづく)

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