三島英子『雪形』 小学館 1999年
1995年に第2回小学館ノンフィクション大賞を受賞した『乳房再建』の著者による、乳腺外科医を主人公にした小説です。
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N大学医学部講師の縣信彦は、乳房切除術の執刀中、結婚して9年の妻と4歳の娘が、自宅のある松本から離れた中央自動車道の富士見高原付近で事故に遭い、死亡したという電話を受けます。
妻のりえは、右乳がんで乳房切除術を受けて半年余り。
信彦は、搬送先の病院へ車を飛ばしながら、術後初めてりえの傷跡を見た先週、萎えて抱けなくなったことを思い出し、「死にたかったのか。まさか・・・」という疑念を抱きます。
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事故後まもなく関連病院に移って5年、信彦は42歳。
乳房温存を望む患者は少しずつ増え、その日、検査結果を伝えたファッションコーディネーター兼モデルの永田蓉子も乳房切除を拒否します。
信彦は、美容上満足する形で残せないときは乳房切除をすること、術後の病理結果によっても乳房切除となり得ることを説明し、3週間後に温存術を行うことで同意。
その間、信彦は国際学会に参加するため渡米しますが、緊急連絡先として職場に届けたのは、同期の内科医・浅川の医院開業パーティーで知り合って3年のピアノ講師・蜂谷奏子。
信彦の留守中、奏子は右乳房のしこりに気づきますが、りえの死因に対するこだわりからか、自分を抱いても乳房に触れない信彦には相談せず、実家に近い南甲府病院を受診します。
検査の結果、左右の乳房にまだがんではないしこりがあった奏子は、祖母と伯母が乳がんで亡くなっていることから、遺伝子診断を受けるよう勧められ、3ヵ月後に返答することに。
帰国した信彦は、病院に直行して蓉子を手術し、浅川から再発転移の疑いで依頼された大森冬美を診察し、奏子の部屋へ行きます。
4年前、結婚直前の本人の強い希望で、タモキシフェンの服用と3ヵ月ごとの受診を約束して温存術を受けた冬美は、病院からの連絡も無視し、乳房切除となるのを恐れてこれまで来院せず。
命より乳房が大切なのかと内心腹立たしく思う信彦に、冬美は、
「先生、私、温存してよかったと思っています。あの時乳房切除していたら、結婚式もしなかったでしょうし、新婚旅行もいかなかったと思います。きっと、一生結婚できなかったと思います」
と言い、浅川の医院でターミナルケアを受けることに。
その日、奏子の部屋で夕食をとり、横になった信彦は、アメリカの乳がん事情を報じるテレビの音声で目を覚まし、
「半分は乳房を全部取ってしまう手術じゃないんだ」
と言う奏子と、
「日本では、乳房温存はまだ二十二パーセントぐらいだろう」
「温存できるしこりの大きさはどのぐらいまでなの?」
「まだ、こうだという数字がなくてね。病院によっても、外科医によっても違うのが現状なんだ」
と話しています。
作中の現在時は、翌年1月に奏子が遺伝子診断を受けた日が彼女の35歳の誕生日で、受診カードの生年月日が「1961.01.16」なので、上の会話の時点では1995年10月。
「乳房温存術:がんナビ」http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/cancernavi/breast/treatment/201112/522619.html
の手術方法別・構成比の年次推移グラフを見ると、1995年の乳房温存術の割合はやはり22%くらいで、妻のりえや冬美が手術を受けた4~5年前の乳房温存術は10%前後。
『乳房温存療法ガイドライン』もまだ発表されていない90年代半ばが舞台の小説なのに、今年、アンジェリーナ・ジョリーの手記で話題になったがん抑制遺伝子BRCA1、2の診断や予防切除の話も出てくる、温故知新(?)な小説でした。
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奏子は、遺伝子診断の結果がどうあれ、「乳房がなくても、人間の価値はかわらないよ」(「女性としての価値」ではない)と言っていた信彦のもとを去ることを決め、母の心臓が悪化したと嘘をつき、翌年2月に帰郷します。
当然、奏子からは連絡がなく、3月になって信彦が奏子の実家に電話を入れると、母親は元気で、「マンションにはおりませんでしたか?」
PCの故障で消えたと嘘をつき、マンションの電話番号を聞いた信彦は、留守電に「会いたいんだが、会えないかな・・・」と入れますが、折り返しはなく、常念岳に白い雪形を認める5月になっても、好きな男でもできたのか・・・と引きずっています。
そんななか、7ヵ月前に手術した永田蓉子の遠隔転移がわかり、病院や信彦の自宅、N大学の医局や教授にまで、彼女の夫が恨みや怒りの電話をかけるように。
同じ頃、浅川から奏子が松本に来る日を聞かれ、もう逢っていないと答えた信彦は、奏子のコンサートのチケットを渡され、「彼女は乳がんらしい」と知らされます。
蓉子が亡くなった日、無性に奏子に逢いたくなった信彦は、甲府のコンサート会場へ向かう途中で事故を起こし、搬送中の救急隊員たちの会話から、現場が事故の多い直線で、りえの事故現場と2キロ違いだったことを知ります。
同じ頃、会場に来ていた浅川から事故のことを聞いた奏子は、終了後すぐ、浅川の車に同乗。
脳外のない救急病院では助からないと主張して、管轄を超えてN大学病院に運ばれた信彦は、同期の脳神経外科医・小野塚が押すストレッチャーで廊下を移動中、通りがかった医師に顔面を診てもらいます。
「南甲府病院の形成外科医だ。俺たちより三年上だ。口唇口蓋裂と乳房再建では日本一だね。おまえ、知らないか? 上根康博って」
と小野塚に言われ、
「ジョウネ先生って名前の先生がいらっしゃるのよ」
と、りえが言っていたのを思い出した信彦は、あの日、りえは上根の診察を受けに行ったのではないかと思い、あとでそのことを確かめます。
「とても悩んでおられました。乳房がなくても人間の価値が下がるわけじゃないのに、乳房が欲しい、人間として最低ではないかと」
「乳房がなくても人間の価値が下がるわけじゃないとは、きっと、僕が言ったんです」
なのに、あのとき萎えたのは、りえの乳房が好きだったからだ、乳房がないのがショックだったのだ、人間の価値など関係ない、りえは生きようとしていたのだ・・・と信彦はようやく理解。
信彦には、右肩甲骨の複雑骨折と頬骨の陥没変形のほか、MRアンギオで1.6センチの脳動脈瘤が見つかり、事故の36時間後に開頭手術することに。
朝少し顔を出したあと、ずっと廊下のベンチにいた奏子とは、手術の前夜、病室で二人きりになり、遺伝子診断の結果、予防切除を勧められていることを聞き、信彦はまず乳腺外科医として、ついで恋人として、初めて奏子の乳房に触れます。
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4ヵ月後、車で甲府に向かっている信彦と奏子。
二人は先月入籍し、奏子は、妊娠中の子どもが生まれて授乳が終わったら、乳房の予防切除とインプラント再建を受ける予定。
すでに職場復帰している信彦は、頬骨の陥没変形で、患者が自分の顔を見ないようにしていることがわかり、上根の診察を受けることに。
長野自動車道から中央自動車道に入り、原PAで奏子と運転を代わった信彦は、りえたちが事故死した157キロポストを過ぎ、自分が事故に遭った155キロポストを過ぎ・・・。
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すでに絶版のようですが、古本で入手可能。
乳房温存術も、皮下乳腺全摘術も、インプラント再建術も受けた私としては、手術方法の変遷に伴う医師と患者のドラマとして興味深かったのですが、乳房喪失をテーマとしながら、交通事故や恋愛もからめ、ストーリーで読ませるので、乳がん体験のない方にもおもしろいと思います。
「朝日新聞デジタル:乳房温存、減る傾向に 乳がん手術、再建の技術向上で」 2013年8月10日
http://www.asahi.com/national/update/0809/TKY201308080465.html
によれば、2004年に乳房切除術を抜き、08年には約60%まで増えた乳房温存術も、ついに減少に転じた・・・ということで、また読まれてもいいと思った14年前の小説でした。
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