先日、本屋で立ち読みした絲山秋子『海の仙人』を買いました。
←新潮文庫(2007年1月)
主人公・河野勝男は、4年前に宝くじに当たって東京のデパートを辞め、東北、北陸、山陰、九州を車で旅した後、敦賀で古い空家を買ったという人物。
アパート2軒の家賃収入はフォスター・プランに寄付し、釣りをしたり、野菜を作ったりして暮らす彼の前に、「ファンタジー」が現れるところからこの小説は始まります。
「その気配、その存在感はもっと前から感じていた」というファンタジーは、「白いローブを着た、四十がらみの男の姿」で、水晶浜に足跡も付けず、「色の褪せた金髪といい、灰色の目といい、とても日本人には見えなかったがふつうに日本語を操った」というもの。
実は、立ち読みしながら思い出したのは、オバケのQ太郎。Q太郎も白い服を着てるし、姿を消せるし、日本語を喋るし、よく食べるし、他のオバケよりデキが悪いし、正(しょう)ちゃんの一番の友達だったなあ・・・と(^_^;)
ファンタジーが寝るとき、どこからともなく取り出した白いテントの中でタマゴになる部分からも、Q太郎がタマゴから生まれたことを思い出しましたが、オバケの世界から来たQ太郎のように、異世界から来た客人(まれびと)かと思ったファンタジー。読み直してみると、ちょっと違ってました。
「神さん?」
河野が聞き返すとファンタジーは憮然とした面持ちで言った。
「親戚のようなものだ、中でも俺様は一番できが悪い」(略)
「俺様はそんな都合のいい神ではないぞ。奇跡だってあまり上手くない。せいぜいが、孤独な者と語り合うくらいだ。(略)」(9頁)
ファンタジー自身によると、「神」の「親戚のようなもの」で、「孤独な者と語り合う」もの。直後には、「俺様は見えない人間には見えないのだが」、「幻想的だ、俺様が休むにふさわしい」というセリフがあって、名前のとおり現実の存在ではないみたい。
とはいえ、河野の恋人になる中村かりん、東京から遊びに来た元同僚の片桐妙子、金沢の片桐の友達の石原、新潟に転勤している澤田にもファンタジーが見えること、片桐以外は「前から知ってる」「前に会った」気がしていることが、↓の片桐(と読者)の疑問を考えるポイントかなあ?
30代の彼らの「表側」の違いは、住宅メーカー勤務のかりん、デパート勤務の片桐と澤田、エリート官僚を辞めて医学部に入った石原に対して、「海の仙人」みたいな暮らしぶりの河野だけが異質。
でも、「裏側」では、本が好きな河野とかりん、バレエが趣味の石原、「芸術家っぽいとこ」がある澤田に対して、片桐だけが異質。
「(略)大体ファンタジーってどういう意味なのさ」
「うむ。『裏側』だな」とファンタジーは答えた。
「そう……バレエをやってるときに会った気がするんです。多分、芸術とか、ほかのことでも自分を裏側まで突き詰めてたらファンタジーに会えるかもしれない……そんな気がするだけかもしれないけれど」
「そうか私は商売人だし、すれっからしで夢もないから会ったことがないのか」(63~64頁)
金沢での片桐、ファンタジー、石原の会話(↑)では、人の「裏側」(孤独を含む内面世界)や「芸術」との関係に触れてますが、新潟で別れるときの片桐とファンタジーの会話(↓)では、異質だと思われた片桐にも、ファンタジーが無縁でないことを示唆しています。
「だってあたしはもうファンタジーに会うことはないんだろ?」
「わからん、俺様にはそういうことはわからん。ただ、人間が生きていくためには俺様が必要なのだ。お前さんのこれからもそうだ」
「そ?」
「ああ、だから、お前さんが生きている限りファンタジーは終わらない。俺様のことなんか忘れてもいいのだ。それは致し方ないのだ。だが、お前さんの中には残るのだ」(105頁)
人間が生きていくのに必要なもの。生きている限り終わらないもの。忘れてもいいけど残るもの。このあたりで、一人ひとりの中の「物語」よね?・・・と思って読み進みます。
と、手術した乳がんが転移し、知多半島のホスピスで死を迎えようとするかりんの病室で、河野とファンタジーが交わす会話にも、「物語」の語が・・・。
「なんやったっけ、知ってるわ、その話」
「妙なことを言うな。貴様とは会わなかったぞ」
「思い出した。志賀直哉の『城の崎にて』や」
「或いはそうかもしれん。俺様には現実と非現実の区別がない」(略)往生際の悪いファンタジーは、
「そうか、作り話だとしたら、俺様はその物語の中に棲んでいたことになるな」と言った。(135頁)
山手線にはねられて重症を負った志賀は、3年後の「城の崎にて」(1917年)で復帰。ファンタジーがその話に触れたのは、かりんの回復への願望かもしれないし、「小説の神様」を「物語」といってるところに、絲山秋子の「小説」観も感じました。
河野が生きている限り、セックスレスで終わった(申し訳なさを含む)かりんとの物語も残るし、そこには、小6から7歳違いの姉にレイプされた過去の物語だけでなく、雷に打たれて失明し、気比の浜でチェロを弾く現在の物語、8年ぶりに再会する片桐との未来の物語も繋がってきそう。
「でもなあ、僕がする話って、みんな過去のことやねん。会社やめてから、時間がたてばたつ程な、ほんまに自分が生きてるんか、て思うことあるわ」
「経験だけが生きている証拠ではなかろう。お前さんが過去にしか生きていないと言うのなら、それは未来に対する冒瀆というものだ」(19頁)
水晶浜で出会った日、上のように語っていた河野とファンタジーは、8年後、気比の浜でこんな会話をしています。
「僕はあんたの顔を忘れてしまったんや。思い出せへん」
「それが正しいのだ」ファンタジーは言った。(160頁)
「おっと、来客だぞ。俺はこれで失礼する。元気で」
「何言うてんのや、もう僕はいつでもあんたと話ができるんやで」
(162頁)
このときの河野は、「白いローブ」ならぬ白い杖を持ち、四十がらみの男の姿をしてるはず。その顔は、もしかしたら、見ることができないファンタジーの顔に似てるかも。
いずれにせよ、彼の中には生きていくのに必要な新たな物語(ファンタジー)が棲んでいるし、ファンタジーには「顔なんて無意味」らしいけど・・・。
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