昨日見たもの
昨日、仕事帰りに福井市内で見た雲。
地面から上に向かってほぼまっすぐ伸びていて、何かイベントでもあったのかな・・・と思ったけれど、ネット、新聞等のニュースを見ても、それらしいものは見当たらず。
何だったのかな?
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昨日、仕事帰りに福井市内で見た雲。
地面から上に向かってほぼまっすぐ伸びていて、何かイベントでもあったのかな・・・と思ったけれど、ネット、新聞等のニュースを見ても、それらしいものは見当たらず。
何だったのかな?
初発の乳がんから10年、局所再発から7年が過ぎ、乳腺外科の受診・検査が今年8月以降は年1回になりました。
退院後の受診の間隔が、1週間、1ヵ月、3ヵ月、6ヵ月と開いていくときも、不安を伴いましたが、
「次は1年後にしましょう」
と言われ、少しの不安のあとに浮かんだのは、私が入院するたびに気丈に留守番してくれたパセリのこと。
初発のときは14歳、再発のときは17歳のパセリを心配しながら、私のほうが支えられていました。
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8月は甲状腺クリニックにも行きましたが、こちらは薬の処方もあるので、今後も3ヵ月に1回。
「甲状腺がんは、20年、30年経っても再発することがありますからね」
と言われ、6ヵ月に1回はエコー検査も受けますが、今回も著変なし。
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国立がん研究センターの最新推計(15日の新聞に掲載)によれば、「一生のうちにがんになる確率は男性62%、女性47%。がんで死亡するのは男性の4人に1人、女性の6人に1人」。
私の職場でも、昨年は現職のまま食道がんで亡くなった人、今年は肺がんで休職1ヵ月、業務軽減2ヵ月の人がいますが、まもなく業務軽減が明ける人は、休職前に病名を伝えた人から、顔を合わせるたびに「本当に大丈夫?」と聞かれ、
「がんと聞くとすぐ死ぬように思う人もいるし、信用にかかわるから、迷惑してるんですよ」
とのこと。
2013年に「全身がん」を公表したのちも多くの作品に出演し、15日に亡くなった樹木希林さんの姿から、がんのイメージが「一つのもの」から「多様なもの」へと少しは変わるとよいなと思っていますが、がん検診を受けていない方がいらっしゃったら、ぜひ受けに行ってくださいね。
9月4日の台風21号では、実家のほうもこちらも進路にあたり、築35年の家に住む父母は、
「停電が13時間」
「うちは大丈夫だったけど、雨戸が飛んだ家もある」
「車で避難してたけど、戻ったら向かいの家のドアが駐車場に飛んできてた」
とのこと。
4日は母の誕生日だったので、ネットで福井の食の詰め合わせを注文していたけれど、到着は5日に。
その後の電話で、実家の5ニャンのうち動物病院に通うようになった子の療法食が「500gが2袋でお米10kgより高い」と言うので、フードの名前を聞いてまた送りました。
職場のほうは相変わらずで、辞めたい思いと4年前に逝ったマロウへの想いが募るなか、7日の命日には、みほさんが送ってくださったお線香とカード、フードが届き、はりつめていた気持ちがほどけるのを感じました。
お皿を分けても、一緒に食べる
「お腹いっぱいになったにゃ」
そのあと、箱遊びを始めたクロエ、完全にはみ出してます
9日に4歳になったクレア(4.1kg)とクロエ(5.2kg)。
大きくなった「妹たち」をマロウも見守ってくれているかな
昨日、大正時代に建てられた女学校の校舎を改修したイタリアンレストラン「サルトリア ダ 水本」(大野市本町)に行ってきました。
「水本学園高等女学校」の表札が残る門を入ると、左の建物の1階がレストラン。
オープンを知ったのは6月上旬の新聞でしたが、私のほうは6~8月と土日出勤や余力のない日が続き、同行者のほうは7月中旬から2週間入院していたので、ようやく。
水本ランチセット(前菜・パスタ・ドルチェ・ドリンクで2,000円)をおいしくいただきました。
奥越の勝山や大野は、自宅から車で片道50分ほどですが、ちょっとした旅行気分が味わえます。
食後に見学したのは、「武家屋敷旧内山家」(大野市城町)。
天保13年(1842)、大野藩主・土井利忠が行き詰った藩財政を立て直すため「更始の令」という改革令を出した際、殖産興業、人材育成に成果を上げたのが、内山七郎右衛門良休と隆佐良隆の兄弟。
七郎右衛門は藩営商店「大野屋」や銅山経営で藩財政を立て直し、隆佐は蝦夷地開拓の推進や洋式帆船「大野丸」の建造、蘭学振興、軍備刷新などを行ったそう。
武家屋敷旧内山家は、その偉業を偲ぶため、のちの内山家屋敷を解体復元したもの。
七郎右衛門が亡くなったのは明治14年(1881)、上の母屋は明治15年(1882)頃の建築だそうですが、部屋から部屋へ歩きながら、
と話していました。
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