敦賀赤レンガ倉庫~金崎宮
GWも終わりに近づいた7日(土)、昨年10月のオープン後、まだ行ったことがなかった敦賀赤レンガ倉庫に散策相手と出かけました
1905年に外国人技師の設計で建設された石油貯蔵用の赤レンガ倉庫(国登録有形文化財)が観光施設としてリニューアルされ、北棟はレストラン館、南棟はジオラマ館に。
お昼には間があったので、まずはジオラマを見に。
昭和20年(敦賀空襲被災前)の復元地図をもとに、全長約27mのサイズで再現された敦賀のまちなみと港のジオラマ。
背後のスクリーン(空の部分)で上映される幼い姉弟の物語と連動して、鉄道では蒸気機関車やディーゼル機関車などが、道路ではボンネットバスや人々が、港では船が動き、列車の運転体験もできますが、見ているだけでも楽しめました
「本日のパスタ」(3種類)から選んだのは、「ゴルゴンゾーラチーズとタレッジオチーズのパッケリ 春の豆を添えて」。
ゴルゴンゾーラの風味とタレッジオのクリーミーさ、松の実の香ばしさが、もちもちとしたショートパスタとよくあって、残ったソースもパンにつけていただきました
食後は赤レンガを出て、敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)へ。
敦賀港駅は、明治15年に長浜-金ヶ崎に鉄道が開通(明治17年全通)したとき、金ヶ崎駅として開業し、大正2年に鉄道桟橋に新築移転され、大正8年に敦賀港駅と改称。
明治45年からは新橋-金ヶ崎(敦賀港)を欧亜国際連絡列車が運行、敦賀-ウラジオストクの定期航路とシベリア鉄道経由で、ヨーロッパとの間を約半月で結んでいました。
鉄道資料館の傍にあった「杉原千畝夫人・幸子氏来敦記念の植樹」の案内板。
敦賀港開港100周年を記念して整備されたボードウォークを歩きながら、人道の港 敦賀ムゼウムへ。
1階には「東洋の波止場-大陸への玄関・敦賀港」、「大陸横断-欧亜国際連絡列車」、「来館者のメッセージ・交流-交流コーナー」、2階には「博愛精神第一-杉原千畝コーナー」、「自由と平和-ユダヤ人難民」、「感謝-ポーランド孤児」の展示。
1940年、杉原千畝の「命のビザ」を手にユダヤ人難民約6千人が敦賀に上陸したことは、ドキュメンタリー番組等でも見ていますが、多くの展示とともに、ここでも。
これまで知らなかったのは、ロシア革命の動乱と1918年のポーランド独立で、シベリアで家族を失ったポーランド孤児763人が、1920年と22年の2次にわたる日本赤十字社の救助で敦賀に上陸したこと。
ユダヤ人難民にもポーランドから逃れてきた人が多く、彼らの20年前にはポーランド孤児が上陸していて、施設名にポーランド語の「ムゼウム(資料館)」を使った理由も納得。
その後、車に戻って、旧敦賀港駅ランプ小屋(金ヶ崎停車場ランプ小舎)と芭蕉句碑を見に少し移動しました。
金ヶ崎公園駐車場の隣にあるランプ小屋は、小さいので見過ごしそうですが、明治15年建設の旧長浜駅舎(7年ほど前に行った長浜鉄道スクエア)と並ぶ国内最古の鉄道建築物のひとつ。
「写真撮影、SNSへの投稿はご自由に」という展示から、建設当時は横浜、京都のランプ小屋に次ぐ3番目の大きさだったこと、赤と緑のランプの組み合わせで列車の種類を示したことなどを知りました。
ランプ小屋の向かい、金前寺にある芭蕉句碑(右)。
左の碑はその解説で、
芭蕉翁鐘塚
月いつこ鐘は沈(しずめ)るうみのそこ
この句は、元禄二年八月十五日の雨月に 翁 南北朝時代(一三三六)
金ヶ崎落城の悲史にまつわる陣鐘の事を聞き詠んだものである
この塚は翁の歿後六十八年に白崎琴路らが建立し その翌年より
墨直しの行事が行われ 古例となった
芭蕉が気比の浜で十五夜の月を見ようとして、雨に降られたことは、北陸だからね・・・という感じですが、この句でも「月いつこ(いづこ)」。
ここまで来たらと、南北朝の戦いで金ヶ崎に籠城し、非業の死を遂げた後醍醐天皇の尊良親王、恒良親王を祀る金崎宮(かねがさきぐう)に参拝。
金ヶ崎城跡の最高地(86m)・月見御殿跡など古戦場を回る元気は残っていませんでしたが、金崎宮の境内から、この日歩いた範囲を眺めました。
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