老女の夢
寝ている間に見た夢は、起きたときにはたいてい忘れちゃってます。
覚えているのは、ちょっと変な夢。
昨年4月に見た「火事の夢」は、燃えている家の中に同年代の女性が寝ていて、起こしても起こしても起きないので、腋の下に手を入れて引きずり出した・・・というもの。
今のマンションじゃないけれど、自分の家と思っていたので、救出したのもされたのも、どちらも私なんだろうな・・・と妙な感慨がありました
昨日見た夢は、荘子の「胡蝶の夢」ならぬ、まちこの「老女の夢」。
現在の私が何か(何だったか忘れたけど)していると、ふと目が覚めて、ロッキングチェアにもたれています。
一瞬混乱したあと、「ああ、昔の夢を見ていたのね・・・」と、老斑が浮いた手を眺めて思っています。
次の瞬間、夢の中の自分と老いた自分を繋ぐ記憶がないことに気づき、老いた自分が現実なのか、夢の中の自分が現実なのか、老いた自分が現実なら、その空白の時間は何をしていたのか、思い出そうとしていたところで覚醒。
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
(昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。)自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
(自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。)不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
(知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。)周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
(周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。)
ウィキペディアの「胡蝶の夢」にある最後の行の訳文は、
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
「火事の夢」もそうですが、年度末の3月から年度始めの4月には、仕事について考えることも多いし、初発と局所再発の乳がんの手術前だったこともあってか、こんな夢を見ます。
客観的に見れば、片方は「それじゃあ、困る」という自分
でも、否定できないから出てきたのかと思って、「どちらの自分も、やっぱり自分」と一緒に受け止めると、全体として不快な夢じゃなく、「今は、今できることを・・・」という気分に。
パセリの「ンガー」(起きなさーい)で布団から出て、まだ半分寝ぼけた頭でそんなことを考えました。
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