「にごりえ」再読
今月に入ってから、今年2月に書いた「まちこ訳『にごりえ 一~八』」へのアクセスが増えてます。
昼間は ac.jp のリモートホストが多いから、レポートを書く学生さんみたい![]()
で、「誤訳御免の・・・」とは言うものの、修正すべきところはしないとなあ・・・と思ってましたが、この週末に今井正監督、水木洋子・井手俊郎脚本の「にごりえ」(「十三夜」「大つごもり」「にごりえ」のオムニバス)を見る予習も兼ねて、今日しました。
原文を横にざっと読み返して、自分で「ここ、ちょっと変」と思った部分に手を入れただけですが、興味がおありの方は、カテゴリー「現代語訳」からご確認ください。
ところで・・・。
一葉が最後に住んだ本郷区丸山福山町の借家の隣が銘酒屋だったことは、明治28年1月執筆の「しのふくさ」(筑摩書房『樋口一葉全集』第3巻下では「感想・聞書」に分類)に、次のように出てきます。
となりに酒うる家あり 女子あまた居て客のとき(ぎ)をする事うたひめのこ(ご)とく遊びめに似たり つねに文かきて給はれとてわか(が)もとにもて来る ぬしハいつもかはりてそのかす(ず)はかりか(が)たし
少し前に古書サイトで買った映画「にごりえ」のシナリオ(『キネマ旬報』増刊、昭和28年8月)を見ると、語り手・一葉の声として、上の「しのふくさ」の「となりに」を「七月二日。新開の町、通りに」と替えて使用。
その後が、「おい木村さん信さん、寄っておいでよ」という原作冒頭の場面で、お高とお照※以外の朋輩に名前がない原作と違って、女主人(お八重)や他の朋輩(お秋、たね、きよ)にも名前とせりふがあり、原作にはない店の主人の藤兵衛も登場します。
※ お照は、「照ちゃん高さん少し頼むよ」というお力のせりふのみ。
そうしなければ映画にならないという面もありそうですが、お高以外の朋輩は後景化され、声の主も区別されない原作に対して、シナリオでは「女子あまた居て」という中のお力の印象が強く、それをねらってもいるよう。
それに、帳場に座って金を勘定し、上客の朝之助にはわざわざ出てきて挨拶する藤兵衛がいることで、この手の商売は、男が女を働かせて他の男から金を取るもの、という視点も加えられているよう(バックにいる入墨の親方や子分も登場するし)。
違う部分はいろいろあって、大きいところでは、原作の「五」の後半、お力が座敷から抜け出した後の場面がカット・変更され、「六」の朝之助と二人の場面では、「三代続いた出来損ない」というお力のせりふはあるのに、祖父の話は出てきません![]()
原作には、横町の闇の中で「仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい」と決意するお力の長い内言語があって、祖父・父・自分と続く「人並みでは無い」生き方を選ぶお力の、人の顔が小さく遠く見え、自分の踏む土だけが3mも盛り上がっている気がするという孤絶感の表現が圧巻。
シナリオでは、座敷を抜け出したお力が、盆の晴れ着の子どもたちに「あ、鬼」「鬼姉さん」と言われ、縁日の雑踏の中で仲良く金魚すくいをする若夫婦を離れたところからぼんやり眺め、ふと我に返ったところで朝之助に出くわします。
お力の子ども時代とは違う恵まれた子どもたちと、酌婦で独り身のお力とは違う幸せそうな若夫婦は、お力が生きることができなかった/できない「人並み」の生き方を体現したもの。
なので、お力が「丸木橋」を渡ることはどういうことか、こういう形で解釈してみせたともいえそうですが、このあたりもDVDで見てみたいところです。
「明治は遠くなりにけり」の戦後映画を「昭和は遠くなりにけり」のいま見ると、どう遠くて近いのか。
早く見たいけど、その前に片づけないといけない仕事が山積みなので、まずはそっちから。
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