天秤座の彼女
プルさんのブログに取り上げられてたのを見て読んでみました。
先日読んだ山本文緒『プラナリア』は、私には後味の悪い1冊(特に表題作「プラナリア」が)でしたが、こちらは不思議な明るさがあって、心地よく読めました。
*
収録作5つのうち、1つめは「偶然の旅人」。
「僕=村上」が滞米中に体験した2つの偶然を前置きとして、多摩川の近くに住む知人から聞いた「偶然に導かれた体験」が語られます。
そこに登場する女性は、1人は乳がんの再検査を、もう1人は右乳房切除手術を前にしていて、どちらも右の耳たぶにほくろが・・・。
話は、同じカフェで同じ本を読む女性との偶然の出会いが、自分がゲイであることを明らかにして以来、長く疎遠になっていた姉に電話をかけるきっかけとなり、姉の入院前日の和解へと繋がった・・・というもの。
偶然といえば、私も、甲状腺がんで入院した病院(東京)で、父が若い頃に住んだというアパート(近畿の某市)の、大家さんの娘さんという人と同室になりました。
彼女から「たぶんそうよ。お父さんに聞いてみて」と言われ、本当だったので驚きましたが、今年2月に「乳がんでは?」と思ったとき、やはり2度目のがんが乳がんだったその人を、また思い出しました。
*
4つめは「日々移動する腎臓のかたちをした石」。
上の入院前からIgA腎症の私には、「腎臓」は馴染み深い臓器。
少し遊走腎なので「日々移動」もしてるはずですが、それとは関係なく、とても上質な別れとその受容の物語・・・だと思いました。
主人公の淳平は、16歳のときに父から聞いた「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない」という説に呪縛され、「本当に意味を持つ」1人が親友と結婚した後、「多くの女性たちと付かず離れずの淡い関係」を結んできた31歳の小説家。
彼の書きかけの短編は、30代前半で独身の内科医(40代後半で妻帯者の外科医と関係を持っている)が、休暇をとって一人旅をし、腎臓のかたちをした石を拾ってオフィスに持ち帰り、奇妙な事実に気づくという物語で・・・。
そこで止まっていた物語は、淳平がキリエという女性と出会ったことで動き出しますが、それは、女医が不在の夜間にオフィスの中で石が移動しているというもの。
淳平は、キリエ(の中の何か)が自分の物語を先に推し進めていると感じつつ、女医の中の何かが石を活性化し、石が彼女に何らかの行動をとることを求めていると考え、続きを書きます。
書き終えた物語は、女医が生活の大部分を石に支配された後、外科医と別れて石を海に捨て、人生をやり直す決心をした翌朝、捨てた石がまたオフィスの机に・・・というもの。
なぜまた石が?・・・といえば、「その石は外部からやってきた物体ではないだろう」という淳平の考えに錯誤があって、「その腎臓石は自分の意思を持っているのよ」というキリエの言葉どおり、女医の外部の存在だから(あるいは、女医ではなく、淳平の期待)。
でも、淳平がそれに気づくのは、キリエが姿を消した後。
石が女医を揺さぶったように、キリエの不在に揺さぶられた淳平は、やがてキリエを「本当に意味を持つ」2人目にしようと決心し、同時に「大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ」と理解し、「三人の女」説から脱却します。
淳平が、彼の内部のキリエではなく、彼の外部で「自分の意思を持っている」キリエをそっくり受容したとき、すでに文芸誌に掲載された彼の短編「日々移動する腎臓のかたちをした石」は、その外部で本当の結末を得ています。
だから、淳平ではない村上の「日々移動する腎臓のかたちをした石」の末尾は、
同じころ、女医の机の上からは、腎臓のかたちをした黒い石が姿を消している。彼女はある朝、その石がもうそこに存在していないことに気づく。それは二度と戻ってはこないはずだ。彼女にはそれがわかる。
石の不在を受け入れた女医と重なるキリエの不在を受け入れた淳平に、今もどこかの高層ビルの間にロープを張り、その上を歩きながら、「意思を持つ」風とともにあるキリエ。
天秤座(風の星座の1つ)で、何よりも「バランス」を大事にするキリエには、1つの腎臓石が海に沈んでいくイメージより、机の上にぴたりと収まっているイメージより、風と2つの腎臓(バランスがとれている)のイメージが似つかわしいのだから・・・と思いました。
« 『プラナリア』 | トップページ | 「宙」という名の »
偶然て 実は偶然のようで 目に見えない糸に引かれた必然の
ような気がしてます。
数年前に別の掲示版で まちこさんに接近遭遇していて数年後にこうしてネットを通してだけと お近づきになれたこともしかり、
実は私の病気の発見は ある友達が偶然発した一言でした。
彼女は家が乳がん家系で 私よりずっと若い(30台前半)ですが毎年ちゃんとシンガポールでも検診を受けていたんです。
私はその時までマンモとか受けたことなかったし、こちらは医療費が高いのでちょっと検査を受けるのを躊躇していたのですが、、彼女のアドバイスもあって検査を受けた結果がDCISの発見につながったんです。
そして昨年 その彼女に乳がんでなく肺がんが発見されたんです。実は彼女の肺がんが発見されるまで 私は術後生活を特に改善していませんでした。
彼女は発病後食生活、生活習慣からの改善で病状の進行を抑えるすごい努力をしてるんです。
それを見て、再発をさせない、そして新たながんを発生させないためにはそれなりの改善と努力をしなければならないと教えられました。 彼女に出会えた事が、私の病気を発見させ 健康の大切さを教えられ、、、これって単なる偶然ではないような気がしてなりません。 彼女の病気はもちろん必然とは思ってはいません。 でも彼女と出会っていなければ 彼女の発病がなければ 私はきっと 発見がおくれた そして 再発の危険がもっと高くなるような生活をいまだし続けていたかもしれません。
今は彼女は日本、私はこちらで お互いに情報交換しながら、
病気の再発の可能性を最小限にする努力をしています。
投稿: レオ | 2008年7月 3日 (木) 11:22
レオさん版「偶然に導かれた体験」。
生きること=いろいろな出会いの連続ですが、そこに何か意味を見出したとき、「単なる偶然ではない」ものになるのかもしれませんね。
甲状腺がんで入院したときの偶然は、かつて父と出会っていた彼女のほうが、そのときは生まれてなかった私と同室になったことで、「場所も離れてるのに、こんなことがあるのねー」と驚いてました。
そして、今度は私が、2度目のがんにも冷静だった(不安はあったでしょうけど)彼女を思い出し、それなりに冷静でいられました。
レオさんとの掲示板での接近遭遇、ブログでの出会いもそう。
だから、パセリにも「ミュウちゃん、レオちゃんのように長生きしてね」と言ってます。
投稿: まちこ | 2008年7月 4日 (金) 15:52
なるほどって思いました。
すみません。読み出しっぺがこんな事言って。どうも雑念が多くて、いつも変な方に行ってしまうのがプル流でして── 。
投稿: プル | 2008年7月 4日 (金) 23:44
ちょうど「外部」のことで、私も雑念が多い時期でしたので・・・。
おかげさまで、いい気分転換になりました
投稿: まちこ | 2008年7月 5日 (土) 20:23