百合子文学館の夢
18日(水)に宮本顕治氏が亡くなりました。
訃報:宮本顕治・日本共産党元議長が死去 98歳
(MSN毎日インタラクティブ)
翌日、電話してきた友人とこんな話をしました。
「そういえば、宮本顕治、亡くなったね」
「これで、百合子の夫は2人とも。百合子が亡くなったのは1951年だから、56年も長生きしたのね。9歳年下の夫だったけど」
「ああ、『宮本百合子と結婚』って載ってたね」
「でも、百合子が死んだ後、大森寿恵子さんと再婚したとは書いてないのね。百合子の秘書をしてた人で、百合子研究の本も出してる」
「宮本顕治についての未公開資料とか証言とか出るかなあ?」
「うーん、どうだろ?」
私が思ったのは、宮本家が所有している百合子の資料(著作権は切れてる)が、相続を機にもっと世に出るといいなあ・・・とか、同じ共産党の松本善明氏の最初の妻だった画家・いわさきちひろの美術館のように、一般市民も抵抗なく行ける文学館を作ってくれたらなあ・・・ということ。
一般市民も抵抗なく・・・というのは、小林多喜二と双璧をなす「共産党員作家」というイメージ、「宮本顕治の妻」というイメージが強いからですが、百合子の1916年~51年の作家活動のうち、「宮本」姓での発表は37年から。
今でいう夫婦別姓論者だった百合子は、荒木茂との結婚(19年~24年、戸籍上は20年~25年)中も、顕治との結婚(32年、戸籍上は34年)後も、37年の秋まではデビュー以来の「中條」姓でした。
百合子が持論を曲げたのは、『全集』所収の「獄中への手紙」によると、以前からの顕治の希望に加えて、この年7月の盧溝橋事件による情勢悪化、腸結核を患った顕治の衰弱があったから。
獄中の夫も、前年までに4回検挙されている自分も、いつ死ぬかわからないという日々のなかで、8月に顕治宛の遺書を書き、10月の顕治の誕生日を前に改名するまでの流れは、弾圧に抵抗する夫婦の間にもある「亭主関白」の記録として印象に残ってます。
「亭主関白」といえば、戦後の『風知草』で、ひろ子(百合子)が、やっと一緒に暮らせるようになった重吉(顕治)から、「なんだか後家のがんばりみたいなところが出来ているじゃないか」と言われて涙ぐむ部分も。頑張ってきた妻にも、世の戦争未亡人にも、配慮に欠けるセリフだと思いました。
戦後の宮本夫妻が、最終的には百合子が譲る形をとりながら、違いもあったらしいことは、編集者時代に百合子と交流があった高杉一郎氏の『往きて還りし兵の記憶』(1996年)にも出てきます。
最初の著書『極光のかげに-シベリア俘虜記』(1950年)の出版後に百合子を訪ね、「やっぱり、こういうことはあるのねえ」と百合子が話しているところに、いきなり顕治が顔を出し、「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」、「こんどだけは見のがしてやるが」と言ったという部分。
高杉氏の妻の妹が大森寿恵子さんで、彼女が百合子の秘書になったのは、高杉氏の紹介によるものだとか。だから、上の部分は、当時の顕治からは、妻の秘書の義兄に対する恫喝で、執筆時点の高杉氏からは、義妹の夫に対する批判ですが、冒頭の友人の話のように、こういう点も検証されるべきなんだろうなあ・・・と思いました。
いろいろあっても、中條/宮本百合子の足跡は、文学的・歴史的に残す価値があるものだし、顕治氏のご遺族には、どこかの図書館への寄贈という形でもいいので、いつか実現してほしい・・・と思います。
« マンゴー三昧 | トップページ | メンテナンスのお知らせ »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント