「母」の回避
先日、壱景さんも取り上げていた下記の記事。
子猫殺し:告白の坂東眞砂子さんを告発の動き-タヒチ管轄政府「虐待にあたる」
(『毎日新聞』2006年9月22日、東京夕刊)
「子猫殺し」抗議への坂東氏の反論も掲載。同種の反論は、『週刊朝日』(8月29日)、『週刊現代』(9月4日)、『週刊女性』(9月19日)、坂東氏の出身地の『高知新聞』(9月17日)にも掲載され、私はこちらのサイトで読みましたが、いま感じてるのは困惑に近いかも・・・。
最近の坂東氏の小説やエッセイは、山姥、イザナミといった伝説・神話を織り込んだり、人間に動物のメタファーを用いたりして、家父長制社会・文化の奇態さを捉えようとしてるけど、同一人物の言動として、「子猫殺し」とも関係あるのか? これまでの寄稿の中心にあって繰り返されている「性」の価値観は、そのフェミニズム的傾向と関係あるのか? ・・・という疑問が、ここ数日、ふつふつと湧いてました。
坂東氏が「ホラー作家」の範疇に収まっていれば、こんな疑問も困惑もなかったと思いますが、前に「自然」な「獣」/「不自然」な「人間」という「二項対立の危険」を書いた後、最新刊『天唄歌い』(朝日新聞社、2006年7月)を読んで、やっぱり関係ありそうな気がします。
まず、『天唄歌い』について。
時代は江戸初期、薩摩にも琉球にも知られていない女首長が統べる南の孤島に、数人の男たち(薩摩藩士、僧侶、商人など)が流れ着きます。彼ら同様に流れ着き、島で長く暮らしている男たちもいますが、島の「人」は漂着者を「犬」と呼び、「犬」の言葉は「人」に通じません。
でも、豊穣な性を持つ「人」の女は、女首長や「天唄歌い」(巫女)も含め、「人」の男とも「犬」とも気が向くままに「貝遊び」(セックス)し、日焼けした「人」には、黒以外の髪や目の者もいます(倭人以外の「犬」もいるので)。
これまで味わったことのない甘美なセックスがあり、果実や魚など食べるものにも困らず、大半の「犬」が帰郷を諦めてましたが・・・という物語(以下省略)。
注目したいのは、侍の亥次郎に「女の真の姿は、この島にあるのだ」と思わせ、女犯の戒めを破った青年僧の賢正に「罪の意識を持つのがおかしい」と思わせ、家父長制社会・文化を知らない太古さながらの島の「人」こそ、「自然」な男女の姿だとしていること。
ちなみに、女首長ヒバのモデルは、琉球に支配される以前の与那国島の女酋長サンアイ・イソバだと思われます。
翻って、「子猫殺し」(『日経新聞』)の問題の箇所。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。(略) もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
「獣の雌」を「人間の女」に、「人間」を「男性」に、「猫」を「女」に置き換えてみると、そのまま、家父長制社会・文化への呪詛のよう。自己のセックスと生を男性によって支配される(父のわからない/認めない子を産むことが罪とされる社会・文化が現出する)以前の、太古の女の言葉のようです。
「『所有』の傲慢」(『週刊朝日』)。
人である、獣の主人である、可愛がってやるから、という理由のもとに、自然から獣を引きはがし、さらに、存在意義の根幹となっている生殖機能を奪いとり、それが正しいのだ、と晴れ晴れした顔でいってもいいものでしょうか。生殖機能とは、ただ身体器官のみのことではないと思います。それは生き物にとって、生きる意欲、活力、発展、成長といった豊饒性に通じる源だと、私は考えています。
「人」を「男」に、「獣」を「女」に置き換えてみると、やはり同じ。太古の性と生の「豊饒性」を奪われた女の立場を「獣」の立場に投影しているかのよう。でも、現実の坂東氏は、現代社会に生きる「人」なので、「獣」に対しては、管理する側に立たざるを得ません。
その責任を果たすのに、家父長制社会・文化が女に対して行ってきたこと、アナロジーとしての避妊手術はしたくないのかもしれませんが、「獣」の性と生の「豊饒性」を主張する坂東氏は、そこから「子育て」を排除しています。その理由は・・・。
「噴きだす殺意のうねり」(『週刊現代』)。
ペットを溺愛する人々にとって、ペットと人は同じ、自己の投影にもなりうる。猫は自分となり、そこに子育てがしたい「母性」などという、人が創造した文化までも押しつけるようになる(猫の母性についての見解は人の想像の域を出ない)。そのために「子猫殺し」の言葉を耳にしたとたん、人が殺された、さらには、自分が殺されたと同様の恐怖と動転に襲われる。
「母性」が「人が創造した文化」だとあるのは、家父長制社会・文化によって作られた概念≠本質だという意味。これについては私も同意するし、「猫の母性についての見解は人の想像の域を出ない」とあるのも、「母性」が「人が創造した文化」である以上、当然のことといえます。
でも、それを根拠に、猫は「子育てがしたい」と思っていないと考えるのは、それこそ人(坂東氏)の想像の押しつけ以外の何物でもないのに・・・と、母猫のあっぱれな子育てを見たことも、子猫の里親探しをしたこともある私は思いますが、坂東氏はそうじゃないんですね。
「人とペットを考える3つの話」(『週刊女性』)。
私は、イタチの赤ちゃんをすぐそばの畳の上に置いた。ミィコが見つけて、近寄って、イタチの赤ちゃんを舐めはじめる、という光景を期待したが、猫は一心に自分の毛繕いをするだけで、見向きもしない。業を煮やした私は、イタチの赤ちゃんを掌に載せて、ミィコに差しだした。
「ミィコ、仲良くしてあげてね、イタチの赤ちゃんよ、ほら」
鼻先に突きつけると、ミィコはついと頭を上げて、イタチの赤ちゃんにがぶっと喰いついた。私は口をあんぐり空けて、ミィコが大喜びでイタチの赤ちゃんの頭を喰いちぎるのを見つめていた。(「第3話 猫とイタチの母子愛」)
ここでは、幼少の坂東氏が、父が拾ってきたイタチの赤ちゃんを「よく子供を産んでいる」飼い猫に育てさせようと思い、その期待を裏切られた経験を語って、猫に人が考えるような「母子愛」はないと言おうとしています。
でも、猫とイタチは異種だし、猫は本来肉食獣なので、期待するほうが悪い。その猫が自分の子に対してはどうだったのかは書かれてませんが、「私自身の子供の頃も、生まれたばかりの子猫を川に流したり殺したりすることはまわりでよくなされていた」(「視点」、『高知新聞』)とあるので、そうしてたのでしょうか・・・。
「男」に対しては「女」、「獣」に対しては「人」の立場で、自らの憧憬する「太古の女」の姿を「獣の雌」に投影している坂東氏。だからこそ、「人(男)」が「創造した文化」を「獣(女)」に押しつける権利はないと考え、飼い猫への避妊手術の奨励という現代社会の「文化」を拒むのかもしれません。
でも、その坂東氏が、猫の「母性」の有無を持ち出して、母猫の性と生から「子育て」を奪い、子猫の生と性を奪う根拠にするのは、氏のフェミニズムの乱用では?・・・と困惑を感じるわけです。
で、冒頭の『毎日新聞』の寄稿に目を通すと、書き出しは自己愛的なつらさの表明。
私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。
続いて、なぜ避妊手術を行わないかを再論し、自説を強化するため、「同性愛者」や「ハンセン病患者」に対する断種・不妊手術の例を挙げています。
陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。
コラム「子猫殺し」にも「もし・・・なら」という仮定がありましたが、その坂東氏が決して書かないのが、「もし猫が言葉を話せるならば、子猫殺しなんかされたくない、子を育てたいというだろう」、「もし私が、他人から子どもを殺されたらどうだろう」という「母」の言葉。
「母性」という概念を拒むと同時に、「母」という存在や「子育て」という営為を捨て、「セックスして、子供を産むこと」を「本質的な生」とみなす坂東氏。
その坂東氏に、「子猫殺し」は「つらくてたまらない」と言われても、つらさの内実は伝わってきませんが、「母」を執拗に回避するフェミニズムの行方とタヒチ管轄政府の動向が気になります・・・。
コメント
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造詣ある説明に問題の深さの現実を知らされるカンジでした。わたしは氏がやたら猫の意思的(有無を疑わずに有としたうえで)な部分を擬人化してることに「それおかしいやろ」と率直に思いました次第。赤ペン先生の添削と意見を期待しております。
投稿: 壱景 | 2006年9月28日 (木) 08:14
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昨日はお通夜が入って、壱景さんの期待に添えないって連絡ありました。
投稿: まちこ | 2006年9月29日 (金) 04:59