虫めづる少女
1日の記事で触れた「みたことちょう」。思い出しついでに、クローゼットの中から小1のときの1冊を取り出してみました。最初の文は、
五がつ十一にち
からだのおもち(さ)をはかりました
おもさわ(は)17.8
ときいたらびっくりした
字は間違ってるし、句読点もないしで、びっくり。
五がつ十九にち
みんなれ(で)いそのうら。へいってきました
かいをとりました。
かいお(を)あつめおやま。をつくりました
かえりにあつかったのであいすくりいむをたべました
ゆうがたにどらいぶにいくとたいようが。
あわじしまの。ほうにそろそろ。おりだしていました
たいようは。くものなかにもはいりました
句点があると思ったら、打つ場所がデタラメ。でも、後半のような風景は今も好きかな。
六がつ十一にち
さとうくんからもらったばったがちょっとげんきになっていましたばったのなまえはみやまふろふきばったですそのばったはちっちゃいです六がつ十八にち
わたしのうちにかってるかたつむりがきのうやったきゅうりをぜんぶたべていましたかわだけのこっていました。六がつ二十にち
いりえくんとあそびましたいりえくんがけらをみつけたのでもらいましたけらわ(は)かんさつけえすにいれましたすなをいれてやりました。
この頃の習い事は、幼稚園のときに始めたオルガンだけだったので、放課後は男の子と虫探し。住宅地の隙間の空き地に、幼虫から成虫までいろんな虫がいました。初夏~秋の題材として最も多いのが虫ですが、こんなことも書いてます。
六がつ二十一にち
わたしわ(は)はやくねていました。とけいがかっちんかっちんなっていました。七月二十二日
わたしのいとこにてがみをだしました。わたしわ(は)かくときなみだがでたのでわたしがかいたぶんがよごれました。
ヘタな説明がない分、ちょっといいかも? 句点は文末。一人称の「わたし」は6月から使用。自分を指すのに名前を使うのは、こういう場には相応しくないとやっと気づいたようです。
2学期になると、読点もあり、タイトルがつきます。
十月二十七日
おしごとのこと
おかあさんは、どうしていつもおべんじょをあら(っ)たりするのかなあとおもいました。
どうしてやるのとおかあさんにきいてみるとおかあさんは、しらないといいました。
わたしのおかあさんはいいひみつをもっています。
どうしていつもおしごとをするのかなあと、またきくと、おかあさんは、だまってふきそうじをつず(づ)けました。
核家族で、専業主婦(当時)だった母が、ひとりで家事労働をしていることへの疑問。「家族のため」とか「主婦だから」と言わなかった母は、男の子や父と遊ぶのが好きな娘に「女の子だから」と手伝わせたことがなく、「やりたいことをやりなさい」という感じ。
実家を出てからは、必要に迫られて炊事や洗濯もするようになりましたが、あとは相変わらずやりたいことをやって(したくないことはしないで)、現在のように(^_^;)
母は、私が実家を出た後、やたらと勤労意識の高いパート労働者になりました。
十一月十三日
おんがくのこと
きょうは、おるがんをひきました。フレールジャックというとこを、ひきました。
フレールジャックといううたをりょうてでひくとむずかしいのでよくひけません。よくひくこもいます。そのこは、三年生です。
どうしてかというと。そのこは、三年生で、二年ちがいだからよくひくとおもいます。
わたしは、フレールジャックのきょくをがんばってひいています。
どうしてかというと。十一月二十九日は、おさらいかいなのでそのときフレールジャックというきょくをひくからわたしは、いっしょうけんめいしているのです。十一月十四日
えのこと
きょうは、えをかきました。おにんぎょうをかきました。
かみは、ちゃいろにぬりました。
どうしてかというと、わたしは、かみをそめたくてたまりません。
でも、わたしは、まだこどもだからできないのでちゃいろいいろをぬったのです。
やはりクローゼットの中にある6年生の「生活ノート」に、自分で作った「写真年表」の頁があり、たぶんその頃の発表会の記念写真が貼ってありました。
平安後期の短編物語集『堤中納言物語』には、いろいろな虫を愛し、服装・行動など、当時のジェンダー規範では異端者の「虫めづる姫君」が登場しますが、虫を探しては持ち帰るその写真の少女が、当時愛読していたのは分厚い昆虫図鑑。
いつ頃から虫への興味が薄れたのかは覚えてませんが、当時は学校で購入する絵の具や習字のケースにも、男女で青や赤の色分けがあり、自分で選択できないこと(制度や強制)が嫌だったのは、今も変わらないなあ・・・と思ったりしました。
コメント
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偶然通りかかった自称「赤ペン先生」です。
「みたことちょう」拝見しました。いずれも、変化を捉える目線の確かさ、表現の正確さ、結果として生み出す(内に秘めた)みずみずしい感性に、おもわず立ち止まってしまいました。
5月11日の「みたことちょう」
「からだのおもさをはかりました おもさわ17.8 ときいたらびっくりした」
一行目
普通なら動作を表す「体重計に乗りました。」と書きたくなるところ。目的を示す「からだの重さを計りました」との表現。正確さを感じます。
二行目
作者は母親に計ってもらったのでしょう。「おもさは17.8」とは母の声でしょうね。久しぶりなのか、夕食後だったのか、体重が増えていたのでしょうか。本人はとても驚きます。それが三行目。
三行目
「ときいたらびっくりした」がとてもいい。この文章の流れで言えば「と聞いたら、とてもびっくりしました」としたいところ。でも「とてもびっくりしました」では表せない自分の驚きを「びっくりした」と一言で表した作者の直感に、新鮮な感性を感じます。
5月19日みたことちょう
「・・・・ゆうがたにどらいぶにいくとたいようが。
あわじしまの。ほうにそろそろ。おりだしていました
たいようは。くものなかにもはいりました」
「淡路島の方にそろそろ降りだしていました。」
夕方でかなり日も傾いていたのでしょう。やがて太陽が沈む場所となるはずの「淡路島」を、彼女の正確な目は、「淡路島の方に」と記さずにはいれません。そしてその動きを「そろそろ」と表します。これがまたいい。沈む時刻が迫っている太陽が、まるで「じゃあね、また」とも言っているかともとれる表現に脱帽。
「太陽は雲の中にも入りました」
雲が太陽を隠すのではなく、「太陽が雲の中に入る」ですか。かつて人はみなこう思っていたんでしたね。こどもはよく空を見上げます。太陽が雲の中に入ってゆくゆったりとした時間。また雲から出てきて輝き始める瞬間。
「雲の中にも」
まるで「(太陽は空のうえだけじゃなくて)雲の中にも入りました」と表現したいのか、作者は「雲の中にも」と表しています。目線の正確さが生み出した偶然の妙か・・・。
勝手なこと書いてすみません。また通りかかるときがあったらコメント入れます。
投稿: 赤ペン先生 | 2006年7月 6日 (木) 15:25
懇切・丁寧なご講評、どうもありがとうございますm(__)m
子どもの頃の文を読むと、どうしてこういうふうに捉え、書いたのか、小さい自分には違いけど、自分の中の他人という感じもあって不思議です。
世界と自分との関係でそのときにしか書けないもの、「どうしてかというと」という自分なりのアプローチは、いまも大切にしたいと思ってますが、子どもの頃の疑問や表現の新鮮さにはかないません。
また通りがかりの際には、足跡残していってくださいね。
赤ペン先生(正体ばれてるけど)!
投稿: まちこ | 2006年7月 7日 (金) 13:59